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山下清、天衣無縫の大将 その2

※これは2022年に書いたもので、記事中の情報も当時のものです。

●「民藝(みんげい)」という美の提案

前章の「あるがままの美しさ」という考えを、柳宗悦(1889-1961)らが体系化して提唱したものが「民藝(みんげい)」である。民藝とは何か、日本民藝協会の説明を見てみると、

民藝運動は、1926(大正15)年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動です。当時の工芸界は華美な装飾を施した観賞用の作品が主流でした。そんな中、柳たちは、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にあると語りました。そして、各地の風土から生まれ、生活に根ざした民藝には、用に則した「健全な美」が宿っていると、新しい「美の見方」や「美の価値観」を提示したのです。工業化が進み、大量生産の製品が少しずつ生活に浸透してきた時代の流れも関係しています。失われて行く日本各地の「手仕事」の文化を案じ、近代化=西洋化といった安易な流れに警鐘を鳴らしました。物質的な豊かさだけでなく、より良い生活とは何かを民藝運動を通して追求したのです。

とある。すなわち柳は、これまで顧みられることのなかった、日本津々浦々の名もなき工匠の、名もなき実用作品の中に潜む美にスポットライトを当てたのだった。

我々に身近な例でいうと「垂水人形」である。垂水人形が展示されている、垂水田神の旧有馬邸には、垂水人形について紹介されている南日本新聞の切り抜きを読むことが出来る。その新聞のコーナータイトルは、「用と美」。記者の方は民藝的発想をご存じで、この垂水人形を取り上げられたのだろう。

●無有好醜(みよき みにくき あるもなし)

では、柳はこのような民藝の着想をどこで得たのだろうか。
それは弥陀の48誓願の第4願、「設我得佛 國中人天 形色不同 有好醜者 不取正覺」から。柳はこの精神に則り、「美の法門」なる思想を唱えた。

阿弥陀仏は修行時代、仏と成るために48の誓願を建てたが、その4番目が「無有好醜(むうこうしゅう)の願」という誓願で、「もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく、好き者と醜き者とがあるなら、私は仏にはなりません」というものである。

さて私は、掲示板の書なんかを書く時でも、「いい出来」「わるい出来」と、作品を美醜の天秤にかけ、右か左か比べて片方を選び取り、片方は見捨ててしまっている。

綺麗な筆字を書こうとか、上手い文章を書こうとか、「醜」を忌み、「好」だけ歓(よろこ)ぶ、そういった「美」への執着心がある。もちろん、美を求めての努力や創意工夫は大事であるが、その根底には、「いいものを作る自分だけが価値のある自分だ」という、強烈な、私の心の澱(おり)がある。

仏教ではこのような二項的考えを「分別(ふんべつ)」と言って戒める。分別するから我々は迷妄(めいもう)するのだと説かれる。我々は本来一如(いちにょ)でよろしいものを、わざわざ2つに引き裂いて、あれこれ思案しているのだ。

一方、仏の心は「えらばず・きらわず・みすてず」がモットーであり、どんなものであっても一様に救い摂(と)られていく。何かの条件で、右か左か是か非かというような限外(げんがい)はない。

人生もそうだ。「善い人生」「悪い人生」なんて、そんなものはこちらの勝手な評価に過ぎない。人生には元来、善し悪しはない。経(たていと)と緯(よこいと)を糾(あざな)って1枚の布が織り出されるように、善い悪いも、美も醜も、慶びも哀しみも、幸福も苦渋もある中で、転(うたた)の機縁が織りなした人生を我々は今生きているのだ。

自分で自分の人生の善悪美醜をどう判じようとも、そのまるまるが人生であり、善悪美醜を超えて、その唯一無二のあなたの人生は、まったく掛け替えのない、「尊い」ものだ。
二元的な価値判断を超えて、「尊い」という価値観にシフトしていくこと。尊さには序列がない。どんなものも尊いと言って迎えていく、そういう法門(思考法)があるのだ。

そして、この観点で説かれる、柳宗悦の美学が「美の法門」である。その内実は「不二の美」とか「無対辞」とも言われる。

先ほどの人生の布の喩(たと)えでいうなら、その布の出来ではなく、その布がただ在ること自体に、「美しい」と感じていくことだ。

しかもその布、あなたの人生は、三千世界どこを探しても、後にも先にも二(ふつ)とない、一点ものなのだ。

柳は著作の中で、「美醜を超えた真実の美に帰れ」と呼びかけている。真実の美とは言わずもがな第4願に基づく美である。

仏教の伝統的な表現でいえば、「無上(むじょう)」である。無上とは「この上なく優れている」こと。比較することを離れた素晴らしさのことである。似た言葉では「天上天下唯我独尊」というものもある。

比較の中で一番素晴らしいものは「最上」と言う。この最上の美を追求した御仁は、柳と対立していた北大路魯山人(ろさんじん)(1883-1959)。
喩えて言うと、魯山人が山の頂(いただき)の美を求め、より高尚に気高く、上昇志向を掲げた一流の偉人であるならば、柳はただ今暮らしておる人里の中に、既にそこにあった、万象(ものみな)に宿る美を掘り起こした凡徹の巨人とでも言えるであろう。
自力的感覚と他力的感覚の差異と言ってもいい。
「ナンバーワン」と「オンリーワン」の違いと言ってもいい。

また、仏教には「無価(むか)の価(か)」という言葉がある。
一般に「無価(むげ)」といえば、「値のつけられないほどの高い価値がある」か「値がいらない。タダ」という意味であるが、本来の「無価(むか)」の語の意味は、「価(あたい)するものが無い」ということである。
当合(あてあう/宛あてがう)ものがない。代価をつけられないと言ってもいい。

つまり、物でも人でもそうなのだが、本当の宝とは値踏みなんてできないのである。

高価とか低価とかは時価(ときによるあたい)の中の話で、こういう高低の判ぜられる価は「相対的価値」でしかない。
しかし、宝を宝として見る眼を賜れば、その物でも人でもそのものの、時処(ときところ)に左右されない唯一性に於いて、比べる必要のない「絶対的価値」を見出すことが出来る。

仏の世界に透徹する「無有好醜」という誓願は、「好醜」に代表されるような、様々な二項対立や二律背反、撞着や競争を生まず、真の平和・真の平等を叶えることのできる理(ロジック)であるのだ。


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