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語らなくなったアイデンティティ

先日会社で新しいプロジェクトに選ばれ、他支店の人に向けて久しぶりに自己紹介をした。そこで私は気づいてしまった。「私、アイデンティティ、どこやったっけ」

10代の頃、私を語るワードは豊富にあった。

苗字が珍しい話、年齢、血液型、星座、学校名や大学名、バイト先、部活、居住地、家族構成、ペットのこと、好きな食べ物、好きな映画、バンド、アイドル、縄跳びや鉄棒のような一人競技が得意だけれどスポーツ全般苦手なこと、将来の夢…

それに対して、あの日私が発したことと言えば、「札幌支店の〇〇です。ポジションは~~で、主に~~の業務をしています。よろしくお願いします。」

これが自己紹介と言うのだろうか。一歩この会社を出れば、他者にとって何の意味も持たない単語の羅列。"自己"を紹介しているのか。いや、この会社の1つの”駒”を説明したに過ぎない。いつの間にか、自分を自分の言葉でないもので説明するようになってしまった。

先に述べた、私を語るいくつものキーワードやエピソードは、無くなってしまったわけでも、ある日突然語られることを禁じられたわけでもない。大人になっていく過程で、自ら敢えて語らなくなっただけだ。


子どもの頃、ユニークな人生を送りたいと思っていた。でも結局、普通の社会人をしている。しかし、普通の社会人をしていて思うのは、みんなとてもユニークだということ。OLもサラリーマンも、一見同じように見えて、それぞれを形成しているのは多種多様な個性だ。

好きなものはそれぞれ違って、触れてきた文化も違う、言葉選びも、物事の捉え方も違うし、価値観や熱量、得意不得意、全部違う。たまに「好きなものない」みたいな人に出会うけれど、それさえスーパーユニークだと思う。


”私があなたと違うところ”について、10代の頃の私は、もっと他人に伝えて、自分を知ってもらいたかったんだと思う。違うことが気持ちよかったし、「変わり者」と呼ばれることさえ快感だった。しかし、今日まで”大人”を生きてきて、他人からキツイことも言われて、めんどくさいことも経験して、違うこと、目立つことはできるだけ避けるようになってきた。だから先日の自己紹介でも、隣の人に倣って、主語を「私」に変えだたけの色のないストーリーで安全策をとった。


そう言ってはみたものの、結局、人と関わることで、その人のアイデンティティなるものは、しっかり他者へ伝わっていく。そもそも、人間は他人を理解しようと努力する生き物だと思う。私の場合、支店の皆が私についてなんらかのイメージを持ってくれていると思うし(好き嫌い、得意不得意、性格…)むしろ、私という人間について、私より理解してくれている部分もあると思う。それらは、1~2年の付き合いの中で、些細な会話や業務の中で気づいてくれたことだし、私も他のメンバーについて、私なりに説明ができる。きっと、先日のプロジェクトメンバーについても、数か月後には”他己紹介”(就活の時にやったやつ)ができるようになっていると思う。

語らなくなったことは悪ではない。語らなくてもいいんだと、これまでの経験で学習した。他人に多くは求めないけれど、一定の信頼はおけるようになった。10代の頃より、自分を理解してもらうために必死ではなくなっただけ。「ありのままの私」というと聞こえがいいけれど、大人になってからの今まで通り、肩の力抜いて、そのまんまの自分で生きていていいと思う。

アイデンティティとは、同一性、すなわち「《他ならぬ》それそのものであって他のものではない」という状態や性質のこと、あるいは、そのような同一性の確立の拠り所となる要素のことである。(Weblio辞書より)


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