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アメリカ挑戦記(1) 最初の進路変更


 九州の田舎で生まれ育った私が、なぜロサンゼルスに住んでいるのか、今でも時々ふと不思議に思うことがあります。

 さまざまな人々との出会いや偶然が重なり、大好きな国アメリカをベースに日本やヨーロッパ、アメリカ国内を仕事で行き来するようになりました。この生活にたどり つくまでに学んだこと、17歳の頃の自分が知りたかったことなどを書きたいと思います。


最初の進路変更

 私が生まれ育った鹿児島の田舎にある町は海と山に囲まれた自然が豊かなところです。実家に帰ると小さい頃から慣れ親しんだ風景が愛おしく思えます。近所の人が家で取れた野菜を持ってきてくれる、そんな人とのつながりもいいなぁと思います。

 一度外の世界に出た今でこそ、そんなふうに思えるのですが、実家に住んでいた17才の当時の私には自分の住んでいる環境が狭い社会、狭い選択肢しかない世界に感じられ、いつも外の世界に憧れていました。

 私の通っていた工業高校では、9割以上の生徒が卒業後は就職するのが当たり前という環境でした。就職活動の時期になり、就職先でどんな仕事をするのか、どこで仕事をするのかも分からないまま「担任の先生の知り合い」という理由で就職先を決めていく人たちもいるなか、私は他の人に自分の人生の進路を委ねることが自分の中でどうしてもしっくりきませんでした。そして何よりも、もっと外の世界を見てみたいという気持ちがとても強くありました。そこで私は大学進学の道を選んだのですが、私のいた環境で大学進学組はごく少数派でした。周りのみんなと違う道、そこにある流れから外れることを選ぶのは、当時の私にとってとても不安でエネルギーがいることでした。

 大学進学希望者への説明会に参加しても、先生の第一声が「君たちは普通科の授業を受けていないのだから、一般入試を受けても絶対に受からない。どうしても大学に行きたいのなら推薦入試が唯一のチャンス。でもそんなに甘くないし簡単じゃない」といった具合です。

 工業高校なので専門科目が多く、大学受験に必要な科目も受験勉強はどれもほぼ独学です。普通だと受験勉強くらいは学校が応援してくれそうなものですが、私の場合は授業中に隠れて受験勉強をする必要があり、なんとも理不尽な気分でした。

 高校3年生になろうとする頃に進学することを選んだ私は、最初の1、2カ月は机に向かうと気分が悪くなっていました。体が勉強することに拒否反応を起こしてしまい、勉強すること自体に慣れるのに時間がかかりました。そうこうしているうちに時間が過ぎてしまい、本当に限られた時間で勉強に追いつかないといけなくなってしまいました。でも締め切りまで時間がないというプレッシャーのおかげで、無駄に悩む暇もなく集中して勉強できたのが良かったのかもしれません。

 進路が決まったクラスの友人たちが楽しそうにガヤガヤと騒々しくしている学校の休み時間も上着を頭から被り受験勉強の追い込みをしていました。そして、ようやく受験が終わった12月の寒い日の朝、副担任の先生が教室にやってきて朝礼の後、私に向かってニヤリとしながら言いました。
「おい、聞いたか?おまえ大学に受かったらしいぞ」

 私の人生の最初の列車乗り換えはここから始まったのです。

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