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【The Evangelist of Contemporary Art】ヨコハマトリエンナーレ2020とは何だったのか?(その2-1)

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 今回のトリエンナーレは、一つの線に沿って辿ることのできる構成だった。二つのメイン会場のうち横浜美術館がより中心の展示場であり、さらに横浜美術館のスペースは、あたかも一方向の順路があるかのように作品が配置されていたからだ。またプロット48も、入口に近い南棟から奥の北棟へと観覧者の動線を引くことができる。

 だが、残念ながらテーマに沿って仮定された順路を辿ることはできなかった。テーマとどのように結びつけるにせよ、「残光」に導かれて作品が配置されているように見えないからである。ならば難解なテーマ(不可視な残光)を無理やり暴くのではなく、それから漏れ出るだろう展覧会が醸す雰囲気(これも残光の比喩か?)に着目すると、展覧会の全容を解きほぐしやすくなるかもしれない。実際、今トリエンナーレのアーティスティック・ディレクターであるラクス・メディア・コレクティヴが企画を担当した2016~2017年の上海ビエンナーレと比べると、展覧会の雰囲気の違いは明瞭である。上海は会場の元火力発電所も相まって非情な雰囲気だったが、ヨコハマトリエンナーレは(すべてではないが)密やかな雰囲気に包まれていたからだ。

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10《回転する森》ニック・ケイヴ

 具体的に、横浜美術館の入口から冒頭に飾られた展示作品で確かめてみよう。まず、エントランスをくぐると巨大なホールに設置されたニック・ケイヴの《回転する森》(10)が出迎えてくれる。アメリカの家庭にあるガーデンの装飾品が森となったものだが、ここにも密やかと形容される要素が紛れている。その華やかな雰囲気とかけ離れた小さいながら拳銃の図柄(11)を発見するのだ。

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11《回転する森》ニック・ケイヴ

 次に遭遇するのが、階段状のスペースに置かれた青野文昭が制作した一連の作品(12、13)である。これらも、接合されて復元された使い古された家具類が東日本大震災の残留物であることを知るとき、その奇妙な形態に潜むカタストロフィの記憶が密やかに息づいていることに気がつく。

(撮影・文:市原研太郎)

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