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『人間』

はじめに

noteを始めてから読書をするのがより楽しく感じるようになった気がする。本を読んだ感想を自発的に書くようにもなった。小学生の夏休みの「読書感想文を書くための読書」はあんなに退屈なものだったのに、「読書を楽しむための読書感想文」はこんなにも有意義なのかと思わされる。僕はそんなにたくさんの冊数を読んでいるわけではないが、「この本を読んでよかった」とこんなに思える小説に初めて出会った。

1.感情移入

この本を読み始めた時は何の疑いもなく主人公の「永山」の気持ちで読んでいた。かつて永山が住んでいたシェアハウスの住人の「仲野」への永山の態度だったり公園で一人だけ音楽を聴くところだったりと、すごく自分が重ねられる気がした。だが、永山の書籍に関するいざこざでそれが揺らいだ。永山と仲野の公園でのやりとりを見て、「自分に近いのは仲野の方かも」と思った。それ以降に繰り広げられるシェアハウスのリーダー「飯島」とのやりとりを見ても永山に非があるように感じた。渦中のいざこざだけではなく、仲野が公園で主張した普段の永山の天狗ぎみな態度への憤りのようなものも湧いてきた。「この永山みたいにだけはなりたくない」と心に誓った。
そこから月日が流れ、永山が嫉妬を抱くような人物として「影島」という芸人兼コメンテーターが登場する。その影島と仲野がバチ揉めをするが、僕は完全に影島に感情移入して読み進めた。語り手として永山が介入し、そこで自身も葛藤を始める。それぞれが矛盾やねじれをはらみ、そこからは永山に感情移入して読んだ。
さらに時が流れ、永山と影島がバーで酒を交わす。第三章はほぼそれから構成されている。話している方に逐一感情移入して読んでいたような気がするが、”自意識”という感覚で言うと永山の方が僕には近かった。

永山が繰り広げる会話の中で核心を突かれて斬られる度に、露骨に自分を重ねて読んでいるこちらも同じようにズタズタに斬られた。苦しいし、論破されるし、それでいて永山の反論が僕にはしっくりこなかったりした。影島と永山は思考が似ている。二人に違いがあるとするとそれは世間に揉まれた量。そしてそれに関しては影島が圧倒している。影島のそれ由来の言葉は参考になるものばかりで、読みながら付箋とか貼っておけば良かったなと後悔している。

最近、佐藤千亜妃さんの「カタワレ」という曲を意識的に聞いている自分がいる。普段恋愛の曲を聴かないようにしているので、意識している理由を考えてみた。この本の著者である又吉さんが「山崎怜奈の誰かに話したかったこと。」(Tokyo FM)に出演なさった際、そのゲストコーナーでオンエアされていたというのがまず一つ。又吉さんのYouTubeチャンネルにて、又吉さんと佐藤千亜妃さんで「人間」のテーマソングを作るプロジェクトが始動しているのが二つ。そしてこの本をちゃんと永山に感情移入して読んでいたのが三つ。

良い曲なのでぜひ聴いて見てください。

2.渦

この小説を読み進めていて、著者である又吉さんを強く感じた箇所がいくつかあった。まず一つ目は

誰かを近くに感じると、自分と他者のあいだには必ず距離があるという当然のことに気づかされる。もっと彼女に近づきたいというよりも、自分がこの人になりたいと変なことを思った。
又吉直樹,人間,p60,ℓ7

という永山の思考の部分。

まずは前半の距離の部分について。
人との物理的な距離と心理的な距離の関係で、物理的に距離があるときは"いない”ことが意識されて心理的な距離を近くに感じたりする。逆に物理的に近くにいるときは心理的な距離を意識しなかったり、人との間に必ず距離があるということを意識させられたりする。

そして「好意的に思っている人自身になりたい」という考え方は、まさしくこの動画。又吉さん曰く、人との”接地面”をなるべく増やしたいという話。

二つ目は「カスミ」という女性が永山との不思議な関係について話している場面。

他の人は自分が正しいって信じ込んでて、全然話が通じないんだよ。何言っても全部お前が間違ってるって、怒ってくるんだから。自分達がいじめっ子だってことにも気づいてないんだよ。みんな自分のこと優しいと思ってるいじめっ子。(p270,ℓ4)

こっちのターンなんてないんだよ。こっちは黙って相手の主張を聞いて、相手が気持ちよくなって終わりだよ(p271,ℓ1)

もう悔しくないよ。怒られなかったらそれでいいんだよ。争いは嫌なんだよ(p271,ℓ4)

私なんて誰でもないよ。(…)自分に意味なんてないから。自分ではない誰かの人生でいい。自分らしくとか、自分としてとか強制されたくないんだよ。音楽をやっててもさ、向上心が足りないとか言われたりするけど、私は誰かに見つかりたいなんて思ってないんだよ。唄うのが好きなだけなんだから。でもそんなこと言ったらさ、自分が売れてないことを正当化してるだけじゃん、とか変なこと言ってくる人がいるから、そこもまた嘘をつかなくちゃいけなくなるんだよ(p271,ℓ6)
又吉直樹,人間

又吉さんはこと繊細さについて、カスミは自身のいる状況について、「理解されないのであればもう嘘をつく」というスタンスを取る。こっちに”ターン”は回ってこないし、いいように使われるだけ。又吉さんの方はもう悟りの域にいるのかもしれませんが、カスミの傷跡の痛々しさの方には思わず自分を重ねてしまった。
立場を画一的に決めなくてはいけないのであれば、嘘をつく。

三つ目は影島が開いた記者会見で言っていたセリフ。

そんな自分のような駄目な存在はね、普通の社会人がたまにするような失敗は全部やってしまうんです。だって阿呆なんですから。でも阿呆でよかったです。自虐じゃないです。受け身です。
又吉直樹,人間,357, ℓ7

一般に"自虐”と言われる言動に対する影島のスタンスが、”受け身”という例えも含めて完全に又吉さんでした。

3.ネガティブの穴

他人の教えを素直に受け入れるのは難しい。それでも何人か「この人の言うことなら」と思える人がいる。僕に取ってそれがオードリーの若林さんだったり、著者の又吉さんだったりする。
若林さんの著書「ナナメの夕暮れ(文庫版)」に掲載されている、作家の朝井リョウさんの解説に

日々の暮らしの中で「あ、これ若林さんのやつだ」と感じることはとても多い。自意識というものは体力を使うから三十歳を超えたらどうでも良くなって楽になると思うよ、とか、ネガティブを潰すのはポジティブではない、没頭だ、とか、ハッと気づいたときには若林さんが遠くで笑っている。
若林正恭,ナナメの夕暮れ(文庫),p264,ℓ3

とある。「今悩んでることの答えをすでに若林さんがエッセイに書いていた」とふと気がつく時がたまにある。前にエッセイを読んだときには気にも求めてなかった文言に救われる夜がある。その度に自分の”人間の拙さ”や学習能力のなさを痛感するのだが、信用できる先人の教訓ですら聞き流してしまったりすぐ鵜呑みにできない自分がいる。
ちょうど一年前、「明日のたりないふたり」という公演を見た。そこで若林さんと南海キャンディーズの山里さんが言っていたことに”感動”なんて陳腐も陳腐な言葉では言い表せないほどの感情を貰った。そこにも、お二人が言っていたことを鵜呑みにできない自分がいた。疑っている訳ではなく、”自分でその結論を導き出したいな”と思った。時間をかけてお二人と同じ答えを導き出したところで「ただの時間の無駄だろ」と言われるのかもしれないけど、"尊敬している人と自分の答えが同じだった"ということに喜びを感じる変態といったところなのかもしれない。
若林さんの著書「社会人大学人見知り学部卒業見込(文庫版)」に書かれているとある言葉をここで引用したい。

深夜、部屋の隅で悩んでいる過去の自分に言ってやりたい。そのネガティブの穴の底に答えがあると思ってんだろうけど、二十年調査した結果、それただの穴だよ
若林正恭,社会人大学人見知り学部卒業見込(文庫版),p142,ℓ5

若林さんがそうだったように、今僕がしていることに意味はないし突き詰めても答えはないのかもしれない。でも、その若林さんの教えを受け止められず、今もネガティブの穴を掘るのをやめられていない。掘れば何かあるのでは、と心の中では思ってしまっている。
「人間」を読みながら、「もし登場人物の誰かと友達になれるなら、誰にそばに居てほしいか」を考えてみた。第三章で永山と影島がバーで酒を飲みながら話している場面を見て、「影島と友達になりたい」と思った。永山と影島のこんな会話があった。

(影島)「こんな話はつまらんのかな?」
(永山)「どうやろな」
(影島)「この話を続けた先に、面白いことなんてないかもしれへんし、過去にもこの小道に迷い込んだ人なんて、いっぱいいてるんやろな」
(永山)「この先行っても、行き止まりに誰かの落書きがあるだけかもしれへんし、誰かが小便撒き散らしてるだけかもしれんしな」
(影島)「でも、一応行ってみようか?」
又吉直樹,人間,p296

若林さんの言う通りネガティブの穴の底も巻糞があるだけなのかもしれないけど、僕は一応行ってみたい。そして、そんなことを言ってくれて、バーで自意識を垂れ流しながら話をしてくれる影島が友達にほしい。一緒に喋ってみたい。

4.攻守交代

第三章の後半、影島が記者会見を開きマスメディアの煽り方とそれによって被害者を出してしまったことに対して抗議する。

「これは誹謗中傷じゃなくて批判だから」というようなことをSNSで言っている人がいる。これに対して「批判をしてはいけない」と言いたいのではなく「過剰な批判は攻撃だぞ」と言いたい。影島も主張していたが、「罵倒は仕事を削るのではなく、命を削る行為」(p336,ℓ13あたり)でしかない。一発のスキャンダルや不祥事に認められるのは一発の批判であり、それを超過した分は攻撃に他ならない。そこで攻守交代していることに気が付かず、攻撃を続ける人はただの加害者である。
今からでも遅くないから、全ての人に影島の会見での言葉を読んでほしい。

5.チャーシュー

シェアハウスの住人で同い年の「めぐみ」、仲野、永山でラーメン屋に行く場面がある。そこでめぐみが永山のチャーシューを取ろうとしそれを永山が拒否する。それを絶対に拒否しなくてはいない理由が永山にはあり、その理由に該当する“小学生なる前くらいの時期に出会った同じく「めぐみ」という名前の一つ学年の上の女の子とのエピソード”を想起する。永山は幼くして人間の”不平等”を悟ることになったが、自分にもそんなようなことがあった気がした。ただでさえ薄れた自分が幼稚園生だった頃を思い返してテンションは下がった。その延長で小学生の頃も思い出されたがもうさらにテンションが下がった。防衛規制の"抑圧"というのは本当にすごいんだな、と感心した。言われてパッと浮かぶのは親しかった友人との話で時間の経過と共に美化されていってるものばかりだが、細かく思い返してみると本当に嫌なことばかりを思い出す。僕は記憶の切り取り方が下手なのかもしれない。

6.記憶の切り取り方

カスミと永山が初めて会った日のお互いの記憶。姉から送られてきた古い写真で、誰かにみられたら赤面しそうなほど平凡に笑っていた永山。同じコンセプトと記憶なのに、3年という期間が空いたことで別のものになった永山の作品。永山の両親が出会った日の、お互いの記憶。
このように、“場面をどのように切り取って記憶しているか”というテーマが度々出てくる。

その上でこれらを前向きに捉えらせてくれる永山のセリフがあった。

自分が把握している自身の記憶なんてものは、やはりほんの一部でしかなく、おなじ人生であったとしても、どの点と点を結ぶかによって、それぞれ喜びに充ちた物語にも暗澹あんたんたる物語にもなるのかもしれないと思った。
p327, ℓ12

僕は積極的に暗澹たる物語になるように自分の人生を繋いでしまっている気がする。何も考えずに生きていれば嫌な記憶はハイライトから抜け落ちて、僕の人生だって良い物語になっていたはずだ。でも怒られたこととか失敗したことみたいなのがすごく鮮明に記憶として残っていて、次はどうしたら怒られないか・失敗しないかを気にしすぎてそっちばかり記憶してしまっているのかもしれない。返事に失敗した会話は鮮明に覚えているけど、それとなくやり過ごせた会話はあまり思い出せないような気もする。やり過ごした安堵が全てを上書きしてしまっているのかもしれない。「会話がうまくいった理由」を考えてもわからないのはそういうことなのかもしれない。だから次に生かすことができず、対照実験みたいにして失敗を積み重ねまくって地道にやっていくことしかできないのかもしれない。

7.自意識

この本の裏表紙に記載されてたあらすじに「自意識にもがき苦しみながらそれでも生きていく『人間』を描いた」とあった。この本を読み進めるにあたって”自意識”というものを特に意識してみたが、序盤を読んでいる時は“自意識”の存在がなかなか掴めなかった。「何者かになる」と夢を描き、才能があるとどこかで信じる永山は自分と逆の人間に見えたが、一方で微塵の誇張もなくそのまま自分のような気もした。【はじめに】にも書いたが、永山が他の登場人物に芯を突かれて論破されズタズタに斬られたり自己嫌悪に陥ったりすると、読んでるこっちも斬られている気がして苦しくなったりもした。

活躍する影島の姿を見てどこか怖気付いていた永山は、

影島の活動に動揺させられるということは、自分に期待しているということに他ならない。自虐を尽くして傷だらけの状態なら、もうどこも傷をつけられなる心配などないはずなのに、しっかりと嫉妬で身をえぐられた。(…)所詮はは自虐のふりをしているだけで、自分の周りに防壁を拵えていたのではないか。破れたように見せ掛けることで、誰にも破かれない壁を。
p234,ℓ9

と自分で自分を斬った。

影島が永山とバーでお酒を飲んでいる場面で、影島が永山のことを

「他者からすれば小さな傷でしかないことも、永山は事実を捻じ曲げてでも、その傷を致命傷になるくらい大きくしようとする。(…)自分のことを悪く言うと、冷静に俯瞰で見ているという単純な理屈やろ。それはそれで、かなりバイアスが掛かってる。それって、結局は自分のことを特別視しすぎてるんやとおもう。自ら手を上げて汚名を背負うと宣言する。周囲から、あいつは罰を受けていると知られている状態の方が楽やねん。ただし、どこでも刺してくれというわけではなくて、刺していいとこと、あかんところがあるやろ。他人には識別が難しいけど自分では明確な基準がある」
「俺自身がそうやというだけの、推測でしかないけど」
p310,ℓ4

と分析した。

会見の終わり側、影島が

「俺人間じゃないです。みなさんみたいな人間様とは違うんですよ。なんにもできないんです。失敗ばかりするんです。でもそれを言い訳にするとまた怒られてしまうから。だからたまに努力をしてみたりして。自分が苦手なことを苦手と言っても怒られるから平気なふりしてました。(…)
(補足:賞を受賞した際、同時受賞の作家陣に職業差別のようなものを受ける)
(…)しばらく書店にも怖くて行けなくなりましたから。なんで言わへんかったかですか?だって言うと怒るじゃないですか?お前が弱いだけやって言われるのが眼に見えますもん。さっきも言いましたよね?平気なふりをしてしまう癖がついてるんです。」
「そんな自分のような駄目な存在はね、普通の社会人がするような失敗は全部やってしまうんです。だって阿呆なんですから。でも、阿呆でよかったです。自虐じゃないです。受け身です。」
p355,ℓ3

と自己分析をした。

永山の自己分析は僕の心をゴリゴリにえぐった。自分が2年弱書き倒してきたnoteなんか、まんま自虐そのものな気がした。影島がした永山の分析にはぐうの音も出なかった。noteを書くことで自分で自分を斬って、自虐して、そんな自分を正当化できそうな理由をそれっぽくつけた。「誰にも言えないけど、noteなら」みたいな薄っぺらい理由もつけた。“自分のことを悪く言って冷静で俯瞰している自分”に酔っていた気もする。永山が「この痛みの正体に自分で気づいているからセーフですよね?って誰かに確認しているようにも、媚びてるようにも見える」(p256)と言っていたが、その通りだなと思う。言われなくても分かってますからね、と自虐の壁を作っていた。誰かに一般常識みたいなものを振りかざされるのが怖いし、容易に言い負かされることも分かる。会話になったらボロが出てめんどくさいから、ちょっとした腫れ物として見られるくらいが一番都合が良かった。会話を避けることの理由づけに「自意識過剰に陥った結果、言葉が出なくなって、考えることが多くて頭がオーバーヒートする」みたいにさらに重ねていった気もする。


話は少し跳躍するが、カスミと一緒にいる時間のことを永山が自己分析する場面がある。仕事に生かされるわけでもない二人での時間に対して永山が自問する。

なんでもない時間を気ままに過ごすなんてことは、自分にとっては難しいことだった。脱力を装っていても、なにかから養分を吸収し、自分の人生に役立てようとする神経が無意識に活動を続けてしまう。
p167,ℓ2

そして「映画を観ている時」と「カスミの話を聞いている時」だけはこの”浅ましい時間”から脱せたらしい。

noteを始めた頃、他人のことを意識的に観察するようにしてみた。一年位前にスーパーのレジ打ちのアルバイトを始めて、それがさらに加速し常態化してしまったのかもしれない。誰かと会話をする時、相手がもつ「自分にはないこと」に意識がいってしまう。「こんなこと言えるんだ」「こんなことできるんだ」みたいなものがすごく見える。人として「他人に迷惑をかけないくらいの円滑なコミュニケーション」くらいは難なくできるようになりたい。自分が持ち合わせていない感覚を、相手から学ぼうとしてしまう。
あくまで人としてであって「会話をしたい」とはあまり思わない。しなきゃならない状況からは逃れられないから、「学ぶ」という理由をつけているに過ぎない。「コミュニケーション能力があってこの先の人生で困ることはないだろうから、それを向上させるために会話する」ということにしている。意味がないとやってられないから、無理やり意味を見出して自分の役に立てようとしている。

映画を見ていると抜け出せるのは、若林さんが言う「没頭」にあたると思う。ネガティブを潰すためのツール。ネガティブの穴の底にはなく、地上にあるもの。
カスミと永山の関係は少し特殊であるが、一般化すると”恋仲”の人との時間になる。これでも抜け出せるらしい。価値観を捻じ曲げてもそう思えるのか些か疑問ではあるが、したことがないので僕にはわからない。こちらは人への興味がないと始まらなそうだな、と思う。

誰かと会話する時のテンプレートとして、大学生であれば最初は年齢とかどこの大学かとか学年とか一人暮らしかどうかとかがあるのかもしれないが、個人情報を詮索しているみたいでキモがられたら嫌なので自分からはしない。「聞いてくるならこっちが聞き返しても文句ないよな?」の精神でオウム返しをする。もう少しキャッチーで個人情報感のない質問を手札に持っておくべきなんだろうけど、考えても何も浮かばない。そこまで他人に興味がない。だから、オードリーの春日さんが「最近人に興味が湧いてきた」と言った時は驚いた。素直にすごい。

「ただただ俺が他人にそこまで興味がなくてコミュニケーション能力もない」というだけだけど、会話を自分からしないことに「他人の人生の時間を奪うのが申し訳ない」とかさらに理由をつけ加えている。黙って”人間”をしておけばいいものを。

内心ではこう思っているけど、「僕の考えが少数派だって分かっています」感を出して自虐の壁を作っている。こんなことを言うと奥に怒られるような気がするが、自分の意見と痛みに責任を持てないから”反対意見を否定しないスタンス”を取る。実際、ひとつ前の「#268 価値基準」に「価値基準を捻じ曲げるに足る熱量や好意があるのも分かる」みたいなことを書いた。他者の意見を許容している感を出して、ただ未来の自分ために逃げ道を作っているだけだし、後々「僕が間違ってました」と言いやすくしているだけでしかない。


これまで僕が書いてきたnoteの記事を全部消したら、何か変わるものがあるのだろうか。

8.人間味

第三章で繰り広げられた永山と影島の一連の会話を読んで、人間味を楽しめるようになりたいなと思った。僕は他人の人生のモブキャラであればあるほど嬉しく感じる。でも、素直に人間味を楽しみたいという願望が出てきた。

相手がどんな返事してくるかを自分のスペックの低い頭で必死に考えるのをやめたい。予想外の返事にテンパるのをやめたい。なんか言葉を返さなきゃ、と思って焦るのをやめたい。その返事ひとつひとつに純粋にリアクションしてリラックスして生きたい。

9.親

第四章にて、これまで何度も聞いてきた母親の話を、話をしやすいような相槌を打ちながら永山が聞く。

僕の父親は祖母からの電話を露骨にめんどくさい雰囲気を出してあしらう。「同じ話を何回もしてくる」「同じことを何回も聞いてくる」とよく父親が愚痴ってくるが僕からしてみれば父親も同じである。「この前帰省した時も全く同じこと聞かれた」「このままいくと、この前と全く同じ会話することになるな」とよく思う。
先日のゴールデンウィークで実家に帰省した時、父親とサシで居酒屋に行った。その時「おばあに”同じ話何回もしてくるな”とか思ってたけど、自分も同じことしてるな」と言っていた。「先人の教訓から学べないのは親子だなぁ」と思った。僕にできることがあれば、何度も聞いた話に対して不快な態度を出さないことくらいかもしれない。大学一年の時に第二外国語として履修したフランス語の評価がSだったことを「フランス語得意なんだっけ?」といつも聞いてくるけど、それを何度でも初見の感じで返事をすることにする。

祖父母と会うと毎回「大学への行き方」「大学までの所要時間」を聞かれるけど、毎回初見の感じで答える。社会人になれば、「会社への行き方」「会社までの所要時間」を聞かれるであろうことが予想される。それでも答える。

一人暮らしを始めたくらいの時期、急に「両親と一緒にいる時間の8割くらいはもう終わったんだな」と感じる時があった。物理的な距離と心理的な距離の話じゃないけど、家族と近くにいないからこそ存在をなぜか近くに感じる。

又吉さんが上記の動画で言っていた「大人になると親の身体に直接触れる機会ってもうないんかなと思って寂しくなる。子供の頃は触ってたけど大人になると会っても触らない。握手の文化もないし」という言葉が頭をよぎる。自分も、実家に帰省するたびに握手したりするのは正直小っ恥ずかしい。家の前で一緒に写真を撮ったりするのもちょっと恥ずかしいくらいだ。

こんなビジョンは今の所微塵も見える気配はないが、将来自分に子供ができた時は何かしらを生かせたらいいな、とぼんやりと思った。

10.加筆部分

この本の文庫化にあたって加筆された部分がある。加筆された方から読んだため、加筆前の単行本を読む意味はあまりないのかもしれない。「加筆された部分によって感じ方がどう変わるのか」を体感してみたかったな、とちょっとだけ思った。

終わりに

「人間」を読み終わった今、俺は誰の眼を借りた景色が見えてるんだろうか。この世のどんな部分をビビットに捉えられるようになっているのだろうか。”人間”を営む努力をすればいずれ分かるのかもしれない。


又吉直樹、「人間」。
是非読んでみてください。


#269  人間

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