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生き辛さを感じるのは、自分がオカシイのではなく・・・

昨日、大学時代からの親友とズームで話していて、
「生きづらさ(のようなもの)を感じるとしたら、それは、自分がおかしいのではなく、居る場所が違うだけの可能性が往々にしてある」
ということを、強く実感した。

わかりやすく言うと、『みにくいアヒルの子』である。

みにくいアヒルの子は、自分がマイノリティである環境にいたから、「お前は醜い!」と言われた。
言われ続けるうち、自分でも「自分は醜いんだ。ダメなんだ・・・」と、自尊心、自己肯定感が下がり、自己否定してゆく。
しかし、みにくいアヒルの子は、単に違う種類の鳥の中にいただけで、醜かったのではない。
つまり、自分がダメなのではなく、居る場所が違っただけである。

このお話は、多くの人が知っている。けれど、現実社会において、自分が ”みにくいアヒル” としてその渦中にいる時、そのことを自覚するのは、結構難しい。

特に、素直で真面目な人ほど、自分が他と違うことで、「自分はオカシイんだ。ダメなんだ。みんなと同じようにならなきゃ」と、自己否定及び、自分ではないものになろうとして苦しくなる事が、少なくない気がする。(特に、相変わらず同調圧力強めの日本社会にいると。)

冒頭に書いたように、大学時代からの親友の話を聞いていて、そう実感した。

彼女は、「子ども=一人の人間を育てること」の重さを十二分に理解し、真剣に向き合っている人だ。
にも関わらず彼女は、
「私は良い母親じゃないから、もっと頑張って良い母親にならなきゃ、と感じて、時々辛くなる」
と話した。

なぜ自分が良い母親ではないと感じるのか?と質問したところ、彼女は、
「他の母親と自分は違っている。他の母親がちゃんとやれていることを、自分はできていない時があるから」
と答えた。

しかし、彼女が「できていない」と感じることを細かく訊いてみると、私から見たら「それは、そんなに重要なことではないと思うよ」という事ばかりだった。

私は子育てをしたことがないから、実際のところは分からない。
けれどもし、他のお母さんたちと同じように出来ないことで、自分をダメな母親だ、と感じる空気があるとしたら。
それは、ダメなのは自分ではなく、居る環境が違う(あるいはちょっとオカシイ)のだと思う。

そんなことを彼女に伝えながら、気づいた。
私自身、日本にいた時は、常にそのように感じ、落ち込んでいたことを。

「どうして私は、他の人が当たり前に普通にできることが、スムーズに出来ないんだろう?」
「どうして私は、他の人が疑問に思わないようなことを疑問に感じてしまい、そこでスタックしてしまうんだろう?」
「私はちょっとオカシイのかもしれない。社会不適合者なのかもしれない」

ある程度の年齢になってから、特に、最近オランダに移住してからは、まったくそのように感じないので、すっかり忘れていた。しかし、私は子どもの頃からずっと、息苦しさというか、生き辛さのようなものを感じてきた。
今にして思うと、その原因は、「いま居る場所のマジョリティと、自分が違うから(つまり自分がマイノリティーだから)」だったのだと思う。

すごく卑近な例をひとつ挙げると。
私は大学時代、男子学生から
「女のくせに酒飲みすぎ」
「喋りすぎ」
「デカイ声で笑いすぎ」
「自分の意見をハッキリ言いすぎて、可愛くない」
と言われることが時々あった。
(ちなみに、”女のくせに”というところ、時代を感じる。今だったらセクハラになるだろう。でも当時の日本社会は、そういう感覚はまだ薄かった)

10代〜20代前半の私は、男子学生の心ない言葉がグサリと突き刺さり、「自分は女子としてダメなんだ」と自己否定のラベルを自分に貼っていた。

しかし、その約10年後。スペインを旅した時、そこで出会った世界各国(主に欧米)の人たちから、
「日本人の女性がこんなにお酒を飲めるとは知らなかった」
「日本人とこんなに喋ったのは初めてだ。日本人は、あまり喋らないのだと思っていた」
「こんなに大声で笑う日本人と初めて出会った」
と言われた。
それでとっさに、
「あ、ごめんなさい。わたし、議論に夢中になると、つい声が大きくなってしまって・・・」
と謝った。

すると彼らは、
「何言ってるの?だから、良いんじゃん。そこが、いいんじゃん。」
「そうじゃなかったら、話してても面白くない」
と言ったのである。
生まれて初めて、
「自分自身でいてもいいんだ。自分自身でいても、受け入れてくれる場所が、この世界にあるんだ」
と感じた。

これは当然、日本がダメでヨーロッパが良い、という話では全くない。
日本がどうとかヨーロッパがどう、ということが言いたいのではなく、「いま、生き辛さを感じているとしたら、それは、自分がオカシイとか、ダメなのではない。居る場所が、違うだけなのかもしれないよ」ということ。

いま居る場所。
それは、学校かもしれないし、会社かもしれないし、その地域かもしれない。あるいは、友達グループかもしれないし、もしかしたら、家族かもしれない。とにかく。
そのコミュニティにおいて、自分は”みにくいアヒル”(=種類が違うマイノリティ)なだけだ。”醜い”のではない。
だから、自分を否定し、自分ではないもの、”周りと同じ鳥”になろうとする必要は、全くない。
自分を”醜い”と感じずに済む場所を探せばいい。

…と。
ここまで書いて気づいたが、「自分が”醜い”と感じずに済む居場所」を探し出すよりもっと良いのは、社会全体が、スターウォーズの酒場のように、”違うものたち” で溢れていて、それが当たり前の世界になることだ。
(いわゆる、ダイバーシティ(多様性)というやつだ)

ただ、残念ながら、それにはまだまだ時間がかかるだろう。

だからやはり、いま現在、生き辛さを感じている人がいるとしたら、
「それは、あなたがオカシイのではないし、ダメなのでもない。単に今いる場所でマイノリティなだけだ。だから、自己否定をする必要は全く無いし、自分を曲げて、自分では無いモノになろうと頑張る必要はない」
「もし可能だったら、自分を”醜い”と感じずに済む場所を探し、そこに移動したらいいよ」
と伝えたい。

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