歩く速さは、変えられない。-スペイン巡礼で出会った私-
スペインと言えば?と聞かれると以前なら「ガウディの建築」「パエリア」くらいのイメージしか浮かんでこなかった。でも今は迷わず「スペイン巡礼!」と答えるだろう。スペイン巡礼とは、スペインの北部を東から西へと約800km歩き聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指すものだ。いわば、スペイン版お遍路。本来はクリスチャンの為の巡礼路ではあるが、宗教や国籍、年齢や性別は問われることはなく、どんな理由であっても歩くことができるのがこの巡礼路の特徴だ。近年では道の整備が進み、宿の数も増え世界中から多くの人が歩きにやって来る。そんな巡礼にふとしたきっかけで出かけた私は、想像していたよりも多くの景色を見て、肌で感じた。多くの人と触れ合い、たくさんの気持ちが生まれた。ただ歩く、というシンプルな行為がもたらしてくれた新しい世界を、少しだけ紹介したい。
私が巡礼に出るまで
2015年5月。私はふてくされながら京都駅近くのベンチで本を読んでいた。たまたま、何かで知って買った文庫本。私は普段あまり本を読まない方だが、その本に限ってはおもしろいほどにページが進み、結局数時間で読み終えてしまった。タイトルは「傷口から人生。」。著者の小野美由紀さんの半生とスペイン巡礼の記録がミックスされて書かれていた。小野さんは大学生の頃就職活動に失敗したのち、スペイン巡礼に出かける。そこで彼女はたくさんの「歩く人」と出会い、自身が抱える人生の問題と真正面から向き合っていく。彼女の、人生論というか、ひたむきな生き方に衝撃を受けたのを覚えている。同時に「私もいつか巡礼をしたい」と強く思った。
22歳。新卒で入社した会社をほんの一ヶ月で辞めた日のことだった。
大学三回生の12月から始まった就職活動の波に、私はうまく乗る事ができなかった。みんなと同じスーツを着て、髪をぴっちりとまとめ、最大限に丁寧な話し方をして、まっとうな言葉を述べる。そこに無意味なもの、例えば楽しかっただけの思い出は語ってはならず、必ず「そこで得たものは?」と結果を求められる。自分の中に何か「芽生え」があっただけではダメだ。そんなのキャッチーではない。他の就活生に劣ってしまう。誰だって、自分をうまくプロデュースして、よい自分を演出している。でも、そんな「見せかけの自分」を演じ切る心意気が私にはどうしても持てなかった。第一、自分がどんな仕事をしたいのか、全然分からない。何よりも大学に入ってやっと手に入れた自由に羽ばたく翼を、就職活動によってもがれる気分だった。
「やっと飛び始めたのに」「もっと自由に飛んでいたい」
今でも、その時の気持ちをたまに思い出す。
そんな中途半端な気持ちのまま、唯一内定を得たリフォームの会社にわずかな希望をもって、私は入社した。
案の定、はじめから雲行きは怪しかった。新入社員の研修合宿では外壁塗装の営業マニュアルを一言一句間違わずに暗記する。決められたエリア内で一軒ずつインターホンを押し、暗記したマニュアルをべらべらと話す。相手が玄関先まで出てきてくれる事は滅多になかった。営業中はボイスレコーダーをonにし、常に上司の目が光る。成績がふるわないと、ものすごい剣幕の上司に皆の前で叱られる。「ああ、これが会社っていうものなんや・・・合わへんな」そう思っていた矢先、大学時代の友人にその話をすると「もっといい会社あるよ・・・」と冷静に諭されてしまう始末。他にやりたい事がある訳じゃないけど、ここにいる自分はどうやっても好きになれそうにないな。ああ、これから私はどうしよう。迷った挙句、ゴールデンウィーク明けに退職届を上司に提出した。もっとも、連休などなかったのだが。
それからの私は自堕落な生活を送った。朝方まで起きていて、昼過ぎまで眠る。ずっと家にいるのもしんどいし、ちょっとでも運動しないと夜眠れないので、辺りが静まる夜になると家の近所を一時間ほど散歩する。いわゆる徘徊である。部屋で寝ころびながら、小野さんの本を何度も読み返しては「巡礼行きたいけど、お金ないし・・・」といつも同じ結論に至るのだった。
再スタートを切りたいけど、自信がない。
会社を辞めたことを後悔はしていなかった。けれども私は自分自身に「新卒で入った会社を一ヶ月で辞めた落ちこぼれ」というレッテルを毎日貼り付けていた。貼りつけるたびに、自信をなくしていた。こんな私を選んでくれる会社がこの先見つからなかったら、どうしよう。ネットで検索をすれば「新卒 すぐ辞める 人生終わる」という言葉が当たり前のように並んでいた。今ならそんな言葉は嘘っぱちだと分かるが、当時は深刻にそれを真実かもしれないと思っていた。この頃、友達からの誘いもほとんど断っていた。だって、誰かが頑張って働いている話を聞くのがつらかったから。
夏ごろに私の憂鬱はピークになり、深夜徘徊をすることでギリギリ精神を保っていた。涼しい夜風に吹かれながら歩いていると、頭が「ふっ」とからっぽになる瞬間がある。日中、うんうん悩んでいることから少しだけ、離れることができた。当時の私にとって、歩くことが唯一の気分転換だった。
とうとう無一文になりかけた秋頃、仕方なくアルバイトを始め、さらに年明けにはハローワークの紹介で運よく再就職の目途が立った。面接官は私の短い職歴を聞くなりあっけらかんと「(前の会社を)辞めてよかったんじゃない?」と言ってくれた。私は、安心した。よかった、こんな私でも受け入れてくれる場所はまだあった。今度は合わなかった営業ではなく、事務だ。多分、いける。
まだ寒さの残る2016年3月、私は新たなスタートを迎えた。
入社したのは電気部品の販売を行う中小企業だった。部署には15人ほどの社員がいて、その内私と同じ事務員は4名。同世代の人はおらず、平均年齢は40代。「事務だから大丈夫」と思っていた私を待ち受けていたのは、膨大な仕事量だった。なかなかにアナログな会社だった為、顧客との主な通信手段はファックスだったのだ。日々、溜まってゆく書類との格闘。残業代は出ないけど、残らないと絶対に終わらない仕事。みんな、自分の仕事に精いっぱいで誰も私の状況を気にかけることは無かった。「忙殺」という二文字が常に頭に浮かんでいた。オフィスにいる間じゅう、なんだか空気が薄く感じ、いつも息苦しかった。体中が常に緊張していて、頻繁に頭痛を引き起こし、会社を休んでは寝込んでいた。毎日パソコンとにらめっこしながら残業して頭がぼーっとしていたので、帰りに3駅ほど歩いて帰り、気持ちを切り換えていた。
この時も、歩くことで少し、仕事の悩みを忘れることができた。でも、そんな仕事の悩みをなぜか、近くの人には誰にも相談できなかった。
半年ほど経つと「事務もダメなのか・・・」と考え始めていた。ここでも私は、自分の事を好きになれなかった。むしろ、いつまで経っても社会のスピードについていけない自分が大嫌いになっていた。余裕の無さにいらだち、自己嫌悪に陥る。無理をしてスピードを合わせることはできるけれど、しんどい。自分自身へのコンプレックスは日々たまる垢のように、日に日に重くのしかかっていった。
入社して二年目の秋、上司から「仕事量を増やす」という恐ろしい提案があった。仕事を上手く処理できないことへのプレッシャーに押し潰されそうになっていたのに、上司から見た私は余裕があるようにでも見えたのだろうか。私はとても、悲しかった。
「もう限界や・・・」
翌日、上司に「来年の春に退職しようと思っています」と告げ、私はまた、自分に合わない場所から逃げ出すことを決めた。
2018年、5月。
会社を辞めたばかりの私は、フランス行きのチケットを握りしめ、飛行機に飛び乗った。仕事を辞めると決めてから「巡礼に行くなら今がチャンスかもしれない」とうっすら考えていた。働いて少しだけお金も貯まったし、次の仕事も決めていなかったので、時間はある。この機会に、自分とじっくりと向き合ってみたかった。巡礼に行けば、これから「本当にやりたいこと」が見つかるかもしれない。迷ったが、真夜中に「ええい!」と勢いで飛行機のチケットを予約してしまった。元々一人でぶらっと旅行することは好きだったが、海外へ一人で行くのもヨーロッパへ行くのも初めてだった。わくわくしつつも、大きな不安を抱えながら出発した。
本当に、大丈夫だろうか?
歩くことは好きだったが、体育の成績はいつも散々だった。いわゆる運動音痴だ。本当に私でも歩けるのかなぁ?「なんとかなる」という1ミリの自信と「失敗したらどうしよう」という10メートルくらいの不安が混在していた。そんな私が一カ月間もスペインの乾いた大地を力強く踏みしめたことは、今でも少し、信じられない。
この旅に、成功も失敗も、あるいは正解も不正解もないことは、当時の私は知る由もなかったのだ。
巡礼の始まり ピレネー山脈にて霧雨の洗礼
初夏らしからぬ暑さに汗ばむ午後、関西空港から飛び立った飛行機は韓国を経由し、フランスのパリに着陸した。空港からリヨンまでバスで向かう。暗い雨の中、そのまま狭い夜行バスへ乗り込み、バイヨンヌへ向かった。(12時間のフライトの直後に12時間のバス移動という馬鹿げた選択をしたことは、今でも深く後悔している。おすすめはしない)
バイヨンヌからはバスが出ており、一時間ほどで巡礼の出発地点であるサン・ジャン・ピエド・ポーに辿り着く。巡礼事務所でクレデンシャルという巡礼手帳をもらい、一晩休んでから巡礼を始めることにした。ここはまだフランスであり、ピレネー山脈を越えるとスペインに入る。つまり、自らの足で国境を超えるのだ。登山など全く未経験の私にとって、このピレネー越えは一番の不安の種であった。途中で遭難して命を落とした人もいると聞くし、本当に登り切れるだろうかとひどく心配していた。
巡礼のシンボル・ホタテ貝と巡礼手帳
朝、アルベルゲ(巡礼者用の安宿のこと)を出る時に隣のベッドで寝ていた、歳の近い、おとなしそうなカールヘアの女の子と目があった。彼女も一人で巡礼に来ており、前日に軽く挨拶をしていた。お互い、初めての巡礼を前にして、どこか緊張しているのが話さなくてもなんとなく伝わっていた。私たちは特に誘い合う訳ではなく、一緒に出発することになった。カナダから来た、カトリーヌ。フレンチカナディアンで、家族とはフランス語で話すそうだ。私には英語で話してくれた。彼女は理系の大学院を出てすぐ、仕事に就く前にこの道に来たという。
「何か自分ひとりきりでやってみたかったの。」歳は私の一つ上だった。
歩き始めたものの、いきなりの急な坂に驚いた。本当に「登山」だったのだ。巡礼の最難関振出しにあり、と聞いてはいたが、なるほどその通りである。この時ほど、自分の体力の無さを嘆いたことはない。ちょっと登ると、すぐに息があがり、肩が激しく上下する。休んでは歩く、の繰り返し。その日は前もって調べておいた山中のアルベルゲで一泊し、翌朝また歩き始めた。濃霧で前がよく見えない。初めは一緒だったカトリーヌとは歩くスピードが違い、離れ離れになった。巡礼は自分のペースを守ることが鉄則。と本にも書いてあったので、私は無理をせず彼女の背中を見送った。
しばらくするとパラパラと霧雨が降り出した。何とか7㎏に抑えたバックパックが肩に食い込んで痛い。山の中にはトイレもない。私はだんだん元気をなくした。途中、簡素な山小屋を見つけ、濡れた寒さに震えながら宿で買ったびっくりするほど硬いパンのサンドイッチをかじると
「なんでこんなことしてるんやろ・・・」
という冷静な感情が襲い掛かってきた。でも。選択肢は無くて、歩くのみ。山を越えて次の町へ向かって、また歩いて。その繰り返しで私は800km歩いて聖地を目指すのだ。そして、何かしらの答えを見つけるのだ。泥を踏んで重い足と濡れて冷えた手のひらに力を込めて、再び歩き出した。
夕方ごろ、ずぶ濡れになりながらも無事ピレネーを越える事ができた。私はこの時点でもう、何でもできる気がしていた。
巡礼路には黄色の矢印が必ずあるので、地図はいらない
巡礼に馴染んでいく心・胃袋の悪夢
歩き始めて二週間ほど経つと、だんだんと自分のことが分かってくる。大きな街よりも、小さな村が好きなこと。出来たばかりの近代的な宿より、こぢんまりとした素朴な宿が落ち着くこと。そして何より、私は何をするにも時間がかかること。まず、出かける準備。寝袋を畳んだり(宿のベッドの上に寝袋を敷いてその中で寝るのがマナー)靴紐を結んだり(登山靴なのでしっかりと結ぶ事が大切)するのにいちいち時間がかかる。そして歩く速度も遅い。しかも、体力がない。巡礼者のほとんどは一日平均20~30kmは歩く。体の大きい男性は40~50km歩く人もいた。私はというと、朝8頃からのろのろと歩き出し、16時頃に目的地の町へ着く。それで大体15~20kmぐらいだ。歩くこと自体は好きだったがなにせ持久力に欠けるので、昼過ぎから降り注ぐスペインの日光にへばってばかりいて、毎日宿に着いたらへとへとであった。
でも、せっかく自分と速さが合わない仕事をやめて、こんな日本から遠く離れた場所にいるのだ。誰に文句も言われないし、休んでいても怒られはしない。なにより、歩くことは義務じゃない。嫌になったらいつでも帰ろうとさえ思っていた。それなら、自分のペースで歩こうと思った。こうして、私は歩き始めてすぐに「自分らしく歩く」というスローガンを掲げることにした。それからは他人のペースに無理に合わせることや、話したくない時に誰かと話すのをやめた。
そんな私にも巡礼仲間が何人かできていた。本には「歩くペースが似た者同士、仲良くなる」とあったが、その通りだった。カトリーヌとはほぼ毎日、道の途中で会って別れては、また再会していた。日本語で表現すると「縁がある」ということなのかもしれない。色白の彼女が会うたびに日焼けして、ショートパンツから覗く脚がどんどん小麦色になっていくのが可笑しかった。どうやら日焼けを過剰に避けるのは日本人だけなのかもしれない。(カトリーヌ曰く、日焼け=旅人の証 でイケているらしい。私にはマネできない)
ある日道で再会した彼女は「私たち、絶対にはじめより強くなってるはずよ」と朗らかな笑顔で言っていて、何だか嬉しかった。彼女は自分自身のことをシャイだと言っていたが、もう、そんな風には見えない。ただ、足を一歩ずつ踏み出すことで、強くなれる。自信がついてくる。日本にいた時には生まれもしなかった考えが、私をやさしく包み込んでいた。
会社で事務をしていた頃から少しずつ人付き合いが苦手になり、他人と関わることがストレスになっていた。だから巡礼もできるだけ一人で歩こうとしていた。でも、一人で歩くのももちろん良いのだが、誰かと一緒に歩くとよりたくさん歩けるという事にも気づいた。その感覚はとても不思議で、同時に私を安心させた。まだちゃんと、人と関われるんだな、と思えた。
「なんか痛いな・・・」
ある日、一人で歩いていたら一軒のアルベルゲを見つけた。巡礼者は一日中歩いている訳ではなく、宿に併設されているカフェや町のバルで昼食をとったり、お茶をしたりして休憩をきちんと取る。そうしなければ足が前に進まないのだ。スペインの日差しは容赦しない。その日も猛暑で、私はランチをとることにした。宿の主人は気さくで、巡礼者にとってはお馴染みの硬いサンドイッチ(ボカティージョ)を作ってくれた。食べてしばらくすると私の身体に異変があった。胃がきゅーっと痛むのだ。こちらに来てから足の筋肉痛で苦しむことはあったが、それ以外は至って健康だった。その日は朝ごはんをパスしてしまったから、胃が驚いたのかもしれない。しばらく休んでいこう、と思いベンチに腰掛けてみたが痛みは治まらない。参った、まだ目的地の町ではないけど今日はここに泊まろう・・・。
それから宿のベッドで少し休んでみたが、夕食の時間になっても私の胃は元には戻らなかった。仕方なく食堂へ行き、主人に「お腹が痛いから脂っこいものは食べられないんだけど、何か他にある?」と聞いてみた。スペインの料理は割と脂っこいものが多い。主人はニヤリと微笑み「ご飯を炊いてあげようか?」と言った。彼は私が日本人で今何を望んでいるのかを即座に読み取ったのだ。私は嬉々として待った。でも、ほんとにちゃんとした「ごはん」が出てくるだろうか?不安気に待っていると主人は平たいお皿にこんもりと山型に盛られた、ほかほかの白米を持ってきてくれた。炊き立ての、懐かしいご飯の味は私の疲れた胃袋を優しく包み、米粒が全身に染み渡り、翌日私は元気になったのだ。主人の機転と優しさが嬉しくて涙がこぼれ落ちそうだった。
異国の地で体調を崩すと、とても不安になる。一人ならなおさら。でも、こうやってそばにいる誰かが助けてくれる。巡礼は孤独かもしれない。でも、いつも周りには手を差し伸べてくれる「誰か」がいるのだ。
おかずがないので塩をかけて食べた
私の中のハイライト、魔法の町・モリナセカにて
巡礼27日目。長かった旅も後半に差し掛かっていた。私は帰りの飛行機を予約していたので、途中で巡礼仲間と別れバスを使ったりして一人歩いていた。巡礼の日々はシンプルだ。朝起きて、身支度をして荷物をまとめる。朝食をとり、足の指の間にワセリンを塗りこむ。(こうすることでマメ予防になる、巡礼者のマストアイテム) 靴紐を結んで出発する。早いときには午前6時前の暗闇の中を歩く。道中のバルで昼食をとる。再び歩き出す。目的の町に着いたら宿を選んで、シャワーを浴び、Tシャツや下着を手洗いして、干す。近くの教会を見に行ったり昼寝をしたりしてのんびりし、夕食をとり、翌日のだいたいのプランを練る。21時か22時には眠る。その繰り返しだ。「人生でこれ以上歩くことはもうないやろなぁ」と寝袋の中でぼんやり思っていた。
その日は巡礼者にとって特別な意味を持つ場所を通る予定だった。その場所は巡礼路で最も標高が高く、てっぺんに鉄でできた十字架が掲げられた、高い木の棒がある。巡礼者は皆ここで、自分の心の中の「捨てたいもの」を自国から持ってきた石と共に手放す、という風習がある。これまでの巡礼者たちが置いていった石が積まれ、山のようになっている。私は現地でその風習を知り、途中で石を拾って「なにを捨てようかな」と考えながら歩いていた。
その日の目的地であるモリナセカという町に着いた。モリナセカはこぢんまりとした町で、どこかレトロで、あたたかな雰囲気だ。橋を渡る途中、川で地元の人が気持ちよさそうに泳いでいるのが見えた。老若男女、性別関係なく皆楽しんでいる。私は水着を持っていかなかったことを少しだけ後悔した。(巡礼者は持っている人が多かった)
宿で少し休み、夕食は川のそばのレストランでとった。時刻は20時、空はまだ明るい。私は巡礼中にずっと日記をつけていたので、その日は川のそばのベンチで日記を書こうと思った。すると優しい川の流れと町の穏やかな雰囲気が相俟って、いつの間にか私はこれまでの巡礼の日々を振り返っていた。
毎日しんどい思いをして歩いてきた道のこと。生まれて初めて見た教会がとても美しかったこと。巡礼仲間が誕生日を手料理でもてなしてくれて嬉しかったこと。暑さでバテていたら、お遍路経験のある日本人の方が熱中症予防のアドバイスをたくさんしてくれて助かったこと、登山用のストックを失くし、落ち込んでいたら巡礼を終えた人がストックを譲ってくれて大泣きしたこと。全部が私の脳に残った「リアルな記憶」として蘇ってきた。
巡礼前は何となく、今の自分が気に入らなくて、いつまで経っても育たない自信の芽をじいっと睨んでいた。どうすれば自分に合う仕事が見つけられるだろう。どうしたらもっと自分を好きになれるのだろう。歩いている間もたくさん考えたが、答えは浮かんでこなかった。ところが、モリナセカという町の空気は私の肌に不思議と馴染み、まるで魔法にかかったように気持ちが穏やかになった。すると、少しずつ自分の内側を覗くことができた。その日は一日中、歩きながら「捨てたいもの」を考え続けたが、どうしても見つからなかった。結局、石の山にそっと自分の石を置き、「どうか最後まで自分らしく歩けますように」とだけ祈った。
私は変化していた。
今までは自分の欠点を捨てたい、とばかり思っていたが、捨てなくてもいい、むしろ捨ててはいけないのでは、と思うようになっていた。自分に自信がもてないこと、他人を過剰に羨むこと、うまく社会に馴染めないこと。今の私の輪郭を形づくるものは、紛れもなく今までの私の感情や経験、そしてこれらの欠点だと気がついた。そしてそれらを捨てることは不可能で、捨てる必要が無いということにも。
今のままの自分でも傍にいてくれたり、助けたりしてくれる人がいる。“変われない”ことは“変わらなくていいこと”だったのかもしれない。きっと、日本に帰っても、相変わらず小心者で自信のない今までの自分だと思う。でも、“捨てなくていいもの”“捨ててはいけないもの”の存在に気がつけただけでも、大きな収穫だ。歩くことはいつの間にか、心のなかのコリを少しずつ解きほぐしてくれていたのかもしれない。何が人の心の闇を照らすかは人それぞれだが、それが私の場合は“歩く”という行為だったのだ。
よし、明日も元気に歩こう。
私はそれまでとは少し違う、軽い足取りで宿へと歩き出した。
先人たちが置いていった石が高く積み上がっている
巡礼の終わり、仲間との再会
「宿ないやん・・・」炎天下、私は暑さで朦朧としながら彷徨っていた。巡礼34日目、その日は聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの到着を前に、聖地から5km手前の町で泊まる予定だった。時刻は14時。太陽にじりじりと地面が焼かれ、汗が流れる。事前にチェックしていた宿が見つからない。マップスミーというネット環境が無くても使用できる地図アプリで探すも、見当たらない。少しの間迷ったが、巡礼の終わり、いわゆるゴールにこだわっている訳ではなかったので、私は引き続き歩くことにした。とある休憩所で出会ったイタリア人から「サンティアゴはただの通過点に過ぎないよ。大事なのはそこからだ。そこから君の芽を育てるんだ」と教えてもらったばかりだった。目指すのは聖地だが、私はその時点で自分の中で巡礼を終えていたように思う。なぜなら既に、巡礼の日々そのものがあたたかく、優しい光のように私の中で輝いていたからだ。
聖地への道はそれまでの砂地や草原を歩いていたのとは違い、だんだんと町の風景になってくる。石畳の硬さが足の裏から伝わり、背筋が伸びる気がした。バグパイプの音が高らかに響くアーチをくぐり広場に出ると、想像していたよりもずっと大きな大聖堂がどっしりとそこに在った。「荘厳」という言葉がここまでぴったりはまる建物を初めて見た気がした。聖地に辿り着いた人たちは皆、涙を流したり、大勢の仲間と記念写真を撮っていたり、座り込んで薄ぼんやりとした顔で大聖堂を眺めたりしている。それぞれが、それぞれのやり方で巡礼の終わりを迎えていた。
私は、歓喜しハグをし合う人々を横目に、首を上げて広大な青空をバックに佇む大聖堂を仰いでみた。
「やっと終わった・・・」
率直な感想だった。私は涙を流すことも無く、その場にへたりこむこともなかった。写真を撮るのもそこそこにしてその日の宿を探しに出た。暑かったので、道中、アイスクリームを買って食べた。火照った身体に染みて、とても美味しかった。
こんな形で、私は思いがけず、あっさりと巡礼の終わりを迎えた。ただ、ここまで怪我もなく無事に辿り着けたことに、深く安堵していた。
私は巡礼の日々を心から愛し、ここまで導いてくれた遠い昔からの先人たちに感謝した。
さらに思いがけないのは巡礼仲間との再会だった。仲良くなったカトリーヌ、ブラジル人のフランチェスカ、韓国人のチョイとは道中連絡を取り合っていた。私だけバスで遥か先に行ってしまっていたので、もう会えないと思っていた。ところが彼女たちは毎日30km以上を歩き、なんと私に追いついてきてくれたのだ。驚きと共にまた会える嬉しさに飛び上がった。私が聖地に到着して4日後に、無事彼女たちと再会できた。同じ宿に泊まり、食事をして、最後の夜を一緒に過ごした。私たちはお互いに、それぞれの巡礼話をして、熱いハグを交わして、お別れをした。
ほんの一か月ほどの間でできた友達だったが、カトリーヌとは「なんだか長い間友達だった気がするね」と話していた。
足にひどいマメができても、転んでも歩き続けたカトリーヌ
自分らしい旅 自分らしい人生
一か月間の巡礼中、私が歩いた距離は600kmと少しだったが、その間いくつかの発見があった。まず、自分の歩く速さは変えられないこと。どんなに速く歩きたくても、自分のペースは変えられない。でもそれは悲しいことではなく、不幸でもない。人間には、生まれ持った「速度」のようなものがあると気がついた。
そして、縁のある人とは再会すること。これは日本にいても同じことかもしれないが、スペインのど田舎を歩いていて、知っている人と再会するのは結構すごいことだと思う。カトリーヌ以外にも、ある日本人の男性とは道中7回ほど出くわしたこともあった。(お互いにびっくりしていた)現代社会で連絡先を交換しなくても再び会えるのは、ある意味奇跡に近いのではないだろうか。改めて、「縁」というものを大切にしようと思えた。
最後に、当初唱えていた「自分らしい旅にしよう」という言葉は、私の心の中で発酵し、「自分らしい人生にしよう」というひらめきに変わっていた。この旅は、誰にも強制されず、自由にしていいものだ。でも、それは旅だけではなく、人生にも当てはまるのではないだろうか?旅に出るまでは何となく「こうしなきゃ」「こういう人生を歩まなきゃ」「自分に合った仕事を早く見つけなきゃ」そう思い込んでいた。でも、そんなのは自分が作り出したただの幻想だった。もう、自分の生き方を変えなくてもいいし、自分だけの生き方を選べばいい。そんな風に考えると、とっても楽になった。
この旅には、正解・不正解が無い。どの道を通っても、どこを歩いても、どこに泊まっても、誰と過ごしても、そこここに出会いがあるのだ。その一つ一つに意味があり、もし間違いを選んだ(とその時は思った)としても、そこにはまた新たに道が拡がってゆく。人生もきっと、同じだ。
ネットで検索すれば、いくらでも「自分らしく生きよう」というような言葉は溢れている。けれども、こうして長い道のりを自分の足で歩き、地面を踏みしめ、汗をかいて時には笑って悩んで泣いて浮かんできた言葉は、誰にも盗まれることのない、輝く自分だけの宝物になった。
わたしは初めて「自分らしく生きる」という言葉の意味を理解できた気がした。
自分の好きな道を歩く。自分の好きな場所へ行く。自分の好きなものを食べる。自分の好きな人たちと一緒にいる。そんな単純だけど大切な事を、これからはできる限り守っていきたいと思った。
今度は「自分らしい人生にしよう」というスローガンを掲げて、自分の速さで歩いていこう。そのアイデアは今も心のどこかでやんわりと灯りをともし、私の背中を押してくれている。
あの日、勇気を出して歩き出した自分自身を、私は少しだけ好きになれた気がした。
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