見出し画像

「語りの複数性」東京都渋谷公園通りギャラリー:知覚や伝達を捉え直す展覧会

初めて訪れた、東京都渋谷公園通りギャラリー。展示室1、展示室2、交流スペースを備える。運営は、「公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都現代美術館 文化共生課」。事業について、ウェブサイトで下記のように説明されている。

東京都渋谷公園通りギャラリーは、アートを通してダイバーシティの理解促進や包容力のある共生社会の実現に寄与するために、アール・ブリュット等をはじめとするさまざまな作品の展示等により、一人ひとりの多様な創造性や新たな価値観に人々が触れる機会を創出します。
1. 展示事業
アール・ブリュット等をはじめとするさまざまな作品の紹介を通し、多様な人々の創造性を提示します。
2. 交流事業
さまざまな価値観を尊重する対話的で創造的な交流を促進します。
3. 普及事業
アートを通して共生を考える活動について広く情報収集し、発信します。

展覧会「語りの複数性」の企画担当者は田中みゆきさん。展覧会の紹介文には、「そこにないものを自分の経験として受け取り、表現する試みを描いた作品を扱います」とある。写真、絵画、模型、描譜、映像、音などを展示。

会場に入ってまず気付いたのが、匂い。新しい建物の匂いだ。とはいえ、ギャラリー自体は匂いでわかるほど新しくはないはず。建築家の中山英之さんが会場構成を担当しているが、その際に会場に簡易な壁を設置したりした結果の匂いなのだろうか?普段の会場の様子がわからないのだが、そう推測した。真新しい香りに包まれて作品を鑑賞する。

大森克己《心眼 柳家権太楼》(2019年)

建物の入り口を通ると、真っ白な壁が目に入り、奥へと廊下が続いている。その廊下の右側に展示されているのが、写真家の大森克己による《心眼 柳家権太楼》という連作だ。

これは、落語の古典演目「心眼」を落語家の柳家権太楼に真っ白な空間で演じてもらい、撮影したものだという。

私は生で落語を見たことがないのだが、映像で少し見たことがある。喜怒哀楽を主に上半身で大きく表現し、多彩な声が聞こえてくるという印象を持った。

写真は視覚表現で、音はすべて消されており、プリントの大きさも手のひらくらいで、実際の落語家とは異なる「もの」だ。だが、写真からは声が聞こえてくるようだ。感情がほとばしって写真からはみ出すようだ。

私はこの演目を知らなかったので、それぞれの写真がどの場面を撮影したものかはわからない。しかし、演目を知る人は、「あの場面だな」などと考えながら見るのかもしれない。

そこで展開し得るドラマを手のひらサイズの平たい人間から想像してみること。熱く演じる身体を思い浮かべること。その試みを喚起する力が写真にはあるのだろうか。

小島美羽《ごみ屋敷》《遺品の多い部屋》《終の棲家》(2019年)

白い壁に3つの四角い空間がくり抜かれていて、中にはそれぞれ部屋のミニチュアがある。

遺品整理や特殊清掃の仕事をする小島美羽は、いわゆる孤独死や事件現場の実態を人々に自分事として知ってほしいという思いから、目にした複数の場所を再構成し、独学でミニチュアを作っている。

「ミニチュア」というと、人形が住んでいるかのようなかわいらしい部屋や、歴史や外国などに思いをはせられるよう、遠い時代や場所を再現したものを連想する。

しかし、ここで再現されているのは、例えば遺族が故人をしのんで作ってもらったものですらなく、たまたま整理・清掃の仕事に入った者が、もうそこにはいない、知らない人(たち)の存在を、その人(たち)の「物」を通して表現したミニチュアだ。

例えば、残された手書き文字のメモの切れ端は、亡くなった人と親しくしていた人にとっては遺品で宝物でも、赤の他人にとっては「ごみ」だろう。でも本当にそうだろうか?少しでも「ほかの誰かの大切なもの」かもしれない、と思ってみるとき、その同じ物は別の物に見えてくるのではないだろうか?

同じ物を目の前にしていても、人はそれぞれ違う物を見ている。物には物語があり、同じ経験はしていなくても、わずかな共通要素や、あり得たかもしれない体験を思うことによって、つながれるのかもしれない。

小林紗織《私の中の音の眺め》(2021年、新作)

空中に、細長い紙が、カセットから引き出されたテープのようにくねくね浮遊している。

小林紗織は、音を聞いて思い浮かぶものを五線譜に描く「スコアドローイング」を制作しており、この作品は、日常で出会った音から作ったのだという。

音が楽譜のように視覚化されるが、音符のように法則があるわけではなく、その時その時に浮かんできたイメージを描いていくのだろうか。

カリグラフィーのように美しい線で、鮮やかな色が楽しい。そこから鑑賞者である私が私なりの音を聞けるかというと、なかなか難しいが、その絵に流れやリズムや感情を感じた。

「語りの複数性」展示風景

「語りの複数性」展示風景。
手前:小林紗織《私の中の音の眺め》。
中央後方:岡﨑莉望《目》《其処無しの浮き》《響動》。
左:小島美羽《終の棲家》ほか。
(撮影:筆者)

岡﨑莉望《目》(2014年)、《其処無しの浮き》(2017年)、《響動 どよみ》(2019年)

「紙にボールペンで描いた」と言われてもにわかには信じがたいほど画面中に細かく張り巡らされた線。気ままにペンを走らせるのではなく、描く前から完成形が頭の中にあり、それに従って描いていくのだそうだ。

岡﨑莉望の中には複数の人格がいて、各自が絵を描くという。

上の写真のように、遠目では淡い水彩画のように見える。しかし近くで見ると、線がびっしり広がっている。コンピューターではなく人の手が成した技とは、と驚嘆する。その集中力はいかほどのものだろうか。

安易に、描かずにはいられない衝動、とは書きたくないが、やはり衝動なのか。発露か?

線の連なりを目で追うと迷子になり、無限の宇宙へ入り込めそうだ。

山本高之《悪夢の続き》(2020年)

30分の映像作品。展示室の薄暗い一角に、6つくらいのクッションと1脚の椅子が置かれていて、鑑賞者は座って視聴できる。スクリーンにはループで映像が流れている。

2人1組の参加者が話す様子が撮影されている。縫いぐるみや絵で顔を隠す人もいるが、顔を出している人もマスクをしている。2020年のコロナ禍以降に撮影されたからだろう。

1人が悪夢や嫌な記憶・体験を話し、もう一人がその内容をポジティブなものに転換すべく、「それは実はこういうことだったんじゃない?」などと提示していく。言われた方は、「そうか。確かにそうかもしれない。それならいい夢だ」というようになんとなく納得し、悪いものをよいものへ再構築しようとする。みんな少しだけ元気になったように見える。

面白いのは、よい方向に転換する方法がなかなか思い付かずにわりと長く悩む人がいながら、対話が即興で行われていると判断するには少々芝居がかり過ぎていること。一般の人が一発撮りをされているというより、演技未経験者が頑張って演技をしているようにも見える。

実際は台本を演じているわけではなく、「撮られている」ことで、お芝居風になってしまっているのかもしれない。参加者が、言いよどんで沈黙が続くさなか、「ストップかからないな」と困ったようにつぶやいたり、「これで話が終わったかな、終わりにしていいかな?」というようにカメラに目を向けたりする。「見られ、聞かれていることを意識した会話」なのだ。

嫌なことを好ましいことに変える発想転換は、自分一人で考え続けていてはなかなかできないことだ。他者の力を借りて、初めて可能になる。そのためにはまず自分が他者に打ち明けなければならないし、その他者は話のつらさや悲しさや暗さにめげずに、明るく、強く、前向きな方向へ持っていかなくてはならない。

その過程は、日常の大変さを他者とともに乗り越えられる可能性を提示しており、元気が出る。

山崎阿弥《長時間露光の鳴る》(2021年、新作)

窓際に長方形に設けられた空間。分厚い幕をめくって中に入ると、物は置いていない。ただ、音が聞こえている。これは、声のアーティストによるサウンドインスタレーションで、渋谷の街にある音をバイノーラル録音した作品だという。

中で歩いたり壁を触ったりすると音の変化があるとのことだが、その情報を鑑賞時に把握しておらず、すぐに出てきてしまった。

関連イベント「アーティスト在廊、時々パフォーマンス」山崎阿弥

声のアーティスト、山崎阿弥さんが展示室内に時々現れて、ゆっくり移動しながら声(音)を出すイベント

遠くから声が聞こえてきたときには、野生動物でも迷い込んだか?!と思った。鳥、猛獣、風などを思わせる、人間が発しているとは信じがたい音が発せられていく。

この動画で聞けるような声だった。

百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(2013年)

25分間の映像作品。1回の観客6人の入れ替え制。

英語タイトルは「An Interview with Mr. Kinoshita: Detaching the Voice」。この「声を剥がす(Detaching the Voice)」という話が映像の中で出てくる。

「木下さん」は、木下知威(ともたけ)さん。生まれつき耳が聞こえず、最初に口話を身に付け、その後手話を身に付けた。建築などの研究者で工学博士。伊藤亜紗さんと話したり、北村紗衣編『共感覚の地平――共感覚は共有できるか?』(表象文化論学会第4回大会パネル記録集)に「[特別論考]声を剥がす――聾の想像力」を書いていたりする。ご自身の著作物もある(『知のスイッチ』所収「ひとりのサバイブ 群立的思考の方法」など読んでみたい)。

「[特別論考]声を剥がす――聾の想像力」は、PDFで無料ダウンロードができたらしいが、現在はGoogleブックスで読むことができた。木下さんが育った1980年代は、手話は日本語能力を妨げるという考え方が強くて、口話教育を受けたこと、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』の「音」にまつわる一節から、視覚的なイメージを想起し、また聞こえないにもかかわらず「耳を澄ます」ことをしてしまうという話などが書かれている。

▼筆談で行われた木下さんと伊藤亜紗さんとの対話
《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》では「字幕は不可欠」と百瀬さんが述べたこと、また、この作品後半の中で行われていたことは木下さんには知らされていなかったことがわかる。

木下さん自身が大変興味深い方なのだが、《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》に話を戻す。

撮影は本棚に囲まれた木下さんの部屋で行われ、向かって右に百瀬さん、左に木下さんが座っている。2人の様子が(カメラから)見えやすいようにするためか、机を挟んで真向かいではなく、机の角を挟んで座っている。2人の前にそれぞれカップが置かれている。

会話は筆談や手話ではなく、発話・口話で行われる。幼少期に口話教育を受けた木下さんが百瀬さんの口唇を読み取り、発話する。百瀬さんは、聴者の発音よりも聞き取りづらい木下さんの言葉を聞き取って、会話を進める。映像には日本語と英語の字幕が付いている。(展覧会全体において、会場でのキャプションや説明、チラシなどが日英バイリンガル)

最初に気付いたのは、木下さんの視線だ。話すときは自分の手元やあちこちに目を動かすが、百瀬さんの話を読み取るときは、じっと百瀬さんの顔を見ている。

考えてみると、私は聴者の知人がいないのだが、ろう者が手話をする場面はある程度の時間見たことがある。しかし、口話の場面はおそらくほとんど見たことがない。

手話は顔の表情も含まれるものだが、手・腕の動きと顔をいっぺんに見つめて読み取るのだろうけど、口話だと口の形(や舌の位置も?)がほぼ唯一の手掛かりになるから、真っすぐに見つめるのだろう。百瀬さんは意識的に(だと思う、わざとらしかったので)手ぶりも交えていたが。

話すときに相手の目を直視すると威圧感があるから鼻のあたりを見ましょう、などと言われることがあるが、映像の中の木下さんは目よりも唇を見ているのかと思うと、見られているのが自分だったらと想像するとちょっとどぎまぎする。でもそれは、聴者である私が、口を、話し相手が見て言葉を読み取るためのものと捉えてこなかったゆえの感情だろう。(外国語を学ぶときは、発音できるようになるために、口や舌の形や動きに注目するが)

(撮影当時の)木下さんは、人の印象として口を思い浮かべるそうだ。ぼんやりとしか思い出せない人の場合、口が最も明瞭に浮かぶそうだ(例えば百瀬さんの八重歯とか)。

百瀬さんを直視する木下さんに対して、百瀬さんは本人から見て右斜め前方にちらちらと目をやっているのが目立つ。そこにカンペでも置いてあるのか?と思ってしまった。後半の「仕掛け」を実行するに当たって、本当にそこに言う・やるべきことがメモしてあるのかなと思ったが、書いてあったら木下さんにもばれてしまいそうだし、違うのかな?

百瀬さんは木下さんの話を聞き取るときに全神経を集中しているような様子を見せる。その様子から、私自身が障害のある方の特徴がある発音を聞き取るときに集中力を要すること、日本語の方言やアクセント(なまり)の強い英語を聞き取るときにも神経を使うことを思い起こした。私が日本語なまりの英語を話すときに、それを聞き取るために努力を要する相手の立場なども思い浮かぶ。だが、耳の聞こえない人が口話を「聞き取る」ことの方がもっと神経とエネルギーを使うだろうという気がする。

百瀬さんは、「口の形がまったく同じで、別の言葉もたくさんありますが(「卵」と「煙草」など)、どうやって区別するのですか?」と、聴者としての素朴な疑問を木下さんに向ける。それは文脈や話し手の性格などから判断するとのこと。でもそうした空白、「穴」のようなものを埋める作業が、木下さんにとっては面白いらしい。

その素朴な疑問が後半の仕掛けに効いてくる。徐々に百瀬さんは「おかしな」発音をし出す。方言のようになまったアクセントにしてみたり、母音に余分な子音をくっつけてみたり。しかし、木下さんはそのことにまったく気付いていないようだ。なぜなら、口話での「読み取り」には支障がないから。木下さんが認識しているのは、聴者が聞く「音」ではなく(冒頭で木下さんは、自分が発話しているとき、声帯の震えは感じるが音は聞こえない、と述べている)、「唇の動き」だから。

次第に、百瀬さんは発声をやめる。口を動かすだけで、無音となる。それでも会話は成立する。日本語の字幕が明瞭に2人の会話の内容を言葉で伝えてくる。しかし、2人の口の動きと字幕を同時に追うことは困難で、結局字幕を見てしまい、字幕に書かれている言葉は本当に本当なのだろうかという疑念が湧いてくる。この不安は、もしかしたら、耳の聞こえない人が口話で話を読み取るときの感覚、不安にほんの少しだけ似ているのだろうかと考える。

百瀬さんが木下さんには気付き得ない(まったく気付いていないように見えた)状況をつくっていることに、最初は気持ち悪さを感じた。これは、木下さんをだましていることにならないか?

しかし、だますとは、それは聴者としての見方ではないのか?そもそも、木下さんが認識しているのは口の動きであり、音は聴者が自分の都合で(習慣で)出しているにすぎないのでは?もしその場にもう一人聴者がいて3人で会話していたら、百瀬さんは発声し続ける必要があるが、聞こえない木下さんと一対一なのだから、声は消してもいいのでは?むしろ、聴者としての普段の自分から少し遠ざかって、「声を剥がして」、木下さんにより近づこうとする行為なのだろうか?(映像の中で話されている「声を剥がす」という概念は、このような直接的な解釈とは違うかもしれないが)

音が出ていようといなかろうと、百瀬さんが口を動かす行為は、木下さんにとって(聴者の捉え方とは異なるが)「声」であり、「言葉」を発していることになるのではないか。

完全に話がずれるかもしれないが、聴者同士でも、例えば日本語話者と中国語話者が、漢字を筆記して伝達できる場合がある。その場にその2人しかいなければ黙って筆記するだろうし、2人が英語も話せて、その場にもし英語話者もいたら、筆記した内容を英語で発話して説明しようとするだろう。そんなふうに、コミュニケーションは、相手や状況に応じて方法を選び取ったり探り合ったり探し当てたりするものなのではないか。

ところで、目の見えない鑑賞者にとっては、もし何も説明されなければ、この作品はとても負荷のかかる作品だろう。ろう者の鑑賞者にとっては、おそらく後半の「仕掛け」には気付けないだろう。いろいろな人たちと、この作品について語りたいと思った。

川内倫子《はじまりのひ》(2018年)

写真家の川内倫子が出版した写真絵本『はじまりのひ』が展示されている。自然や虫を撮影したカラー写真と、短い言葉が載っている本だ。写真に文字が載せてあるページもあるし、見開きに写真だけ、見開きに文字だけのページもある。

ヘッドホンがあり、その絵本の朗読を聞くことができる。見ることも聞くこともできる私は、朗読を聞きながら本のページをめくる。でも朗読が速過ぎて、ページを繰る手が忙しくなってしまう。じっくりと写真を見て言葉を読む余裕がない。

そのもどかしさ、焦りから、もし何も見ずに朗読だけ聞いたら、どんな情景が思い浮かぶだろうか(晴眼者でもヘッドホンを着けて目を閉じれば試せる)、とか、もし朗読を聞かずに絵本だけを見て・読んだら、どんな印象だろうか、とか、もし絵本の文字が知らない言語で書かれていて言葉が理解できず、写真だけ見たらどうだろうか、とか、想像した。

もしかしたら、写真なしで言葉を聞く・読むだけの方が、(写真を撮影した川内さんには悪いが?!)素晴らしい情景が浮かぶかもしれない。言葉なしで写真を見るだけの方が、言葉に限定されないイメージが広がることもあるかもしれない。もしかしたら、常に視覚と聴覚の両方を知覚できることが必ずしも「いいこと」とは限らないのかもしれない。

展示室の壁には、絵本の写真や言葉が大きく展示されている。だから、写真だけを見て、言葉から離れたりすることもできる。

この展示に先立って、「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」の協力を得て、『はじまりのひ』の読書会が行われたという。そこから生まれた、目の見えない人が『はじまりのひ』の印象を表現した言葉なども展示されている。言葉は、文字が印刷された紙と、朗読音声で用意されていた。

『はじまりのひ』の印象を物質で表現した「触図」という触る作品も展示されている。晴眼者でもまずは見ないで触れるよう、作品の前に薄い布が掛けられていた。

30センチ×20センチくらい(?)の横長の長方形の物で、板が壁に掛けられていて、その板にごつごつしたでっぱりがあったり、もふもふした綿のようなものが一面に付着していたりする。目を閉じて触った後、布を上げて「答え合わせ」をしたが、意外と想像していたとおりの見た目だった。

しかし、その答え合わせは、晴眼者の私が、見ないで触っているときでも、見てきた経験から知っているものを触覚からイメージとして頭の中に再現していたせいなのだろうか。記憶のある年齢で中途失明した人なら私と似た触り方、触覚からの知覚をしたかもしれないが、生まれつき全盲の人が同じ作品を触ったとき、何を感じるのだろうか。

感覚が研ぎ澄まされ、拡張するかのような体験ができる気がした展覧会だった。感性と思考を刺激され、脳と心臓と身体全体をもみもみとマッサージされたような感じだ。もっともっともみもみされたい。したい。そのためにいろいろなことや人に触れて感じ考えようと思った。

展覧会情報

【タイトル】語りの複数性
【会期】2021年10月9日(土)~ 12月26日(日)
【開館時間】11時~19時
【閉館日】月曜日
【会場】東京都渋谷公園通りギャラリー 展示室 1、2及び交流スペース
【入場料】無料
【出展作家】大森克己、岡﨑莉望、川内倫子、小島美羽、小林紗織、百瀬 文、山崎阿弥、山本高之
【会場構成】中山英之建築設計事務所
【主催】(公財)東京都歴史文化財団 東京都現代美術館 東京都渋谷公園通りギャラリー

▼「語りの複数性」関連イベント:プレトーク ー複数性を展示することー
出演:中山英之(建築家)、田中みゆき(本展企画担当)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?