見出し画像

[スクリプト]東ドイツのプロパガンダ番組『黒いチャンネル』第1519回[1989年10月30日(月曜日)放送]


1.東ドイツのプロパガンダ番組

 西ドイツへの対抗意識から生まれた偏向

 ドイツ民主共和国(以下、東ドイツ)で放送されていた番組には、自国の社会主義体制を礼讃するプロパガンダが数多く存在した。
 なかでも、帯の報道番組『アクトゥエレ・カメラ  Aktuelle Kamera』に匹敵すると言われたのが、本記事で紹介する番組『黒いチャンネル  Der schwarze Kanal』だ。
 番組『黒いチャンネル』は、東ドイツのテレビ「ドイツテレビジョン放送  Deutscher Fernsehfunk (DFF)」(のち、1972年からは「ドイツ民主共和国テレビ  Fernsehen der DDR」の名称に変更)で、1960年3月21日から1989年10月30日まで、映画放映の前後、毎週月曜の午後9時30分ごろから約20分間にわたって放送された(翌、火曜午前11時30分に再放送を実施)。司会を務めたのはジャーナリストのカール゠エドゥアルト・フォン・シュニッツラー[Karl-Eduard von Schnitzler, 1918-2001]。『黒いチャンネル』は、東ドイツ国内に流れ込んできていた西ドイツをはじめとする西側のテレビや雑誌からシュニッツラーが都合よく報道を抜粋し批判や誹謗中傷を交えながら解説するというプロパガンダだった。

 突然の幕切れ

 ミハイル・ゴルバチョフ[Михаи́л Серге́евич ГОРБАЧЁВ, 1931-2022]がソビエト連邦の最高指導者に就き、「再構築グラスノスチ」や「情報公開ペレストロイカ」が推し進められると、ヨーロッパ東部で民主化運動が再燃。東ドイツにも波及する。
 1989年5月2日、当時民主化が進みつつあったハンガリー人民共和国が、財政圧迫を理由に、オーストリアとの国境に設置していた鉄条網「鉄のカーテン」を撤去。それに伴い、東ドイツの国民が、隣国のチェコスロヴァキアから第三国のハンガリー、そこから永世中立国のオーストリアへと越境、西ドイツへと亡命するという事態が起きた。その大きなものが同年8月19日以降の「汎ヨーロッパ・ピクニック」である。この事態を重くみた東ドイツ政府は、国境封鎖の強化に乗り出す。
 この動きに反発した画家カトリン・ハッテンハウアー[Katrin HATTENHAUER, 1968-]をはじめとする学生や市民たちは、9月4日、西ドイツのテレビ電波が届きにくい「電波の谷間」ライプツィヒで(当局の許可が唯一不要な)ニコライ教会の礼拝に合わせて、「月曜デモ  Montagsdemonstrationen」を展開。大勢の人びとの前で「自由な人びとによる開かれた国  FÜR EIN OFFENES LAND MIT ALLEN MENSCHEN」の横断幕を広げ、旅行の自由化を訴えた。6月4日に起きた中国で天安門事件を教訓に、市民たちはあくまでも平和的なデモに徹した。
 9月11日、東ドイツの強権的な最高指導者エーリッヒ・ホーネッカー[Erich HONECKER, 1912-1994]が率いる中央委員会はチェコスロヴァキアとの国境を封鎖。「ピクニック=第三国経由の西ドイツ亡命」が不可能となった。国民の不満に呼応するように、「月曜デモ」は大規模になっていく。批判の的となったのは、ホーネッカーだけではなかった。デモに参加した市民が「シュニッツラーを辞めさせろ!」と声高に叫ぶ様子が西ドイツのテレビ局によって撮影され、報道番組で放送された。
 10月7日、東ドイツの建国40周年記念式典が開かれる。
 しかし10月16日には、10万人を超える人びとが「月曜デモ」に参加した。
 この出来事を受けて、ホーネッカーは、国家人民軍による武力鎮圧を主張したが、治安担当書記でのち最高指導者となるエゴン・クレンツ[Egon KRENZ,1937-]がホーネッカー失脚を水面下で画策。翌10月17日、東ドイツで事実上の一党独裁を敷いていた「ドイツ社会主義統一党  Sozialistische Einheitspartei Deutschlands (SED)」内の政治局会議でホーネッカーの書記長解任動議が可決。10月18日、ホーネッカーは、すべての職を辞した。クレンツ率いる新政権は、新たな旅券法の制定に動き出す。
 ホーネッカーや、中央委員会の権力を掌握していた政治局のメンバーが一斉に辞任したことで、10月30日、ラジオやテレビが従来の報道方針を転換し、謝罪。番組刷新の動きから、『アクトゥエレ・カメラ』は『AK Zwo』に改称。『黒いチャンネル』は打ち切られた。全1519回。それはまさしく過去との「訣別」だった。
 余談になるが、よく知られていることとして、その翌々週にあたる11月9日夜、全世界に向けた生放送の記者会見で、クレンツの側近でSED中央委員会政治局長ギュンター・シャボフスキー[Günter SCHABOWSKI, 1929-2015]が記者から政令「旅行許可に関する出国規制緩和」の発効期日について尋ねられると、詳細を知らされていなかったシャボフスキーは、内務省作成の関連文書の一部だけを読み取り勘違いして、本来であれば国境警備の準備が整った午前4時に発表する予定だったところ、「直ちに、遅滞なく」と慌てて「フライング発表」してしまう。これを聞きつけた市民たちが西ベルリンとの国境ボルンヘルム検問所やベルリンの壁に殺到。人びとを隔てていた大きな壁は崩壊した。まさに激動、歴史の転換点であった。

2.[スクリプト]ドイツ民主共和国テレビ放送(東ドイツ国営テレビ)制作『黒いチャンネル』

 以下に掲載するのは、1989年10月30日(月曜日)、ドイツ民主共和国テレビ放送(東ドイツ国営テレビ)から放送されたプロパガンダ番組『黒いチャンネル』第1519回のドイツ語放送原稿と、その日本語訳である。通常20分の放送に対して、事実上の最終回にあたる第1519回は5分。あっけない幕切れだった。
 テレビ局やシュニッツラーが放送の数日後に映像クリップを破棄していたこともあり、現存されていない放送回が数多くあるものの、生放送中に西側の機関で盗聴・録画された約350エピソードがアーカイブ保存されており、このうち33エピソードが後年DVD-BOXで販売された。
 また、「ドイツ公共連盟  Arbeitsgemeinschaft der öffentlich-rechtlichen Rundfunkanstalten der Bundesrepublik Deutschland (ARD)」と「ドイツラジオ  Deutschlandradio」の共同機関「ドイツ放送アーカイブ  Deutsches Rundfunkarchiv (DRA)」には、『黒いチャンネル』の一部映像や放送前草稿ゼンデマヌスクリプテがアーカイブ保存されており、第1519回にかんしては映像と放送前草稿ゼンデマヌスクリプテのその両方が現存している(過去には「DRA」のウェブサイト上で一般公開されていたが、今は現地の申請でしか閲覧できない)。
 今回、本記事に拙訳を掲載するに際して、その「DRA」をはじめとして、「Klaus Taubert」「DDR 1989/90」「DDR-Lexikon」「DDR-Kabinett-Bochum」など複数のウェブサイトからドイツ語原文の放送原稿を取得し、かつ「DRA」や「Die Bundersregierung」「YouTube」で視聴可能な本編映像の自動字幕も参照し、テクストとして確定させた。
 なお、ドイツ語原文の放送原稿の語や文のうち「*」で囲まれた箇所は、「DRA」から取得した放送前草稿ゼンデマヌスクリプテにはなかったことを意味する。つまり、放送を収録するときに付け加えられた言葉である。

 „Der schwarze Kanal - Ein Sendung von und mit Karl-Eduard v. Schnitzler“ Nr. 1519 (Montag, 30. Oktober 1989)

[Ansage: „Sehen und hören Sie nun Karl-Eduard von Schnitzler in seiner Sendung "Der Schwarze Kanal".“]

Vorspann

Karl-Eduard von Schnitzler  „Guten Abend, meine Zuschauerinnen und Zuschauer, liebe Genossinnen und Genossen!
 Diese Sendung heute wird - nach fast 30 Jahren - die Kürzeste sein. Nämlich die letzte. Eben hat sich nochmal - im Vorspann - der Bundesadler - wie 1.518 (eintausendfünfhundertachzehn) mal zuvor - auf unsere Fernsehantennen gesetzt. Und statt der - im Arrangement meines Genossen Martin Hartwig verfremdeten Vorspannmelodie "Von der Maas bis an die Memel" wird dieser großdeutsche Anspruch nur noch auf Staatsakten und in Schulen der BRD und bei der Bundeswehrmacht erklingen: So ernst, wie von Männern wie Waigel und Dregger und Damen wie Süßmuth und Wilms gemeint.
 Will heißen: Der Revanchismus bleibt uns erhalten. Der Klassenkampf geht weiter. Also auch die aktuelle streitbare Polemik. Der Sozialismus auf deutschem Boden, die Deutsche Demokratische Republik - sie sollen beseitigt werden.
 Deshalb ist das Vordringliche, Erstrangige, Wichtigste: Der Frieden, die friedliche Koexistenz und die Erneuerung und Kontinuität unseres Vaterlandes, des ersten deutschen Friedensstaates.
 Kontinuität: Das sind Gründung, Existenz, und Leistungen unserer Republik. In wenigen Jahrzehnten - früher sagte man für vierzig (40) Jahre: ein Menschenalter plus zehn (10) Jahre, in einem guten Menschenalter also haben wir soziale und politische Ergebnisse erarbeitet und erkämpft, wie noch kein deutscher Staat zuvor. Auf Neuland *wohlgemerkt*: Also auch mit Irrtümern und Fehlern - die jedoch unsere Erfolge nicht ungeschehen machen, nicht verblassen lassen *dürfen*.
 Erneuerung: Das bedeutet nicht: Zurück, sondern: Vorwärts - zu einem besseren, attraktiveren, noch mehr erlebbaren und letztlich siegreichen Sozialismus.
 Dem muß unsere ganze Kraft gelten. Nichts darf uns dabei behindern, nichts die Politik der Wende beeinträchtigen. Zuviel Gereimtes und Ungereimtes, Geglücktes und Mißglücktes, Richtiges und Falsches müssen in Wort und Tat im freimütigen Dialog und in unverzüglichem gemeinsamen Handeln ausgewogen werden.
 Das erfordert Maß und Geduld, Gründlichkeit und Ehrlichkeit, Eingeständnis und Standhaftigkeit. Und viel Vernunft, die verständliche Emotion unter Kontrolle hält.
 Mein Feld ist die Aussenpolitik im Allgemeinen, die ideologische Klassenauseinandersetzung Sozialismus/Kapitalismus am Beispiel des Fernsehns der BRD im besonderen. Einige mögen jubeln, wenn ich diese fernseharbeit nun auf andere Weise fortsetze. Nicht, daß ich etwas zu bereuen hätte. Der Umgang mit der oft unbequemen Wahrheit ist schwer, aber er befriedigt. In meiner Lebensbeschreibung steht der Satz: "Für oder gegen den Menschen, für seine Freiheit, sein Recht, sein Leben - oder gegen sie: Das ist das Kriterium für mein Freund und Feindbild."
 Aber an anderer Stelle steht auch: "Wenn das Sein das Bewußtsein bestimmt, dürfen wir nicht die Umkehrung zulassen: Das Sein verstimmt das Bewußtsein."
 Es bedarf also der Kunst, das Richtige richtig und schnell und glaubhaft zu machen. In diesem Sinne werde ich meine Arbeit als Kommunist und Journalist für die einzige Alternative zum unmenschlichen Kapitalismus fortsetzen: Als Waffe im Klassenkampf, zur Förderung und Verteidigung meines sozialistischen Vaterlandes.
 Und in diesem Sinne, meine lieben Zuschauerinnen und Zuschauer, liebe Genossinnen und Genossen - auf Wiederschauen!“

(kein Abspann!)

[Absage: „Liebe Zuschauer. Das war *also* die 1.519. Sendung "Der Schwarze Kanal" von und mit Karl-Eduard von Schnitzler. *Doch nun wollen wir, wie angekündigt, noch einmal auf unseren 20.00 Uhr Film "Der blaue Engel" zurückkommen.*“]

Ⓒ Fernsehen der DDR, Deutsches Rundfunkarchiv (DRA).

 [拙訳]『黒いチャンネル:カール゠エドゥアルト・フォン・シュニッツラーとの共同制作番組』第1519回[1989年10月30日(月曜日)放送]

番組放送開始のアナウンス「これよりカール゠エドゥアルト・フォン・シュニッツラーの番組『黒いチャンネル』をご視聴ください。」]

   タイトルバック(オープニング・クレジット)

シュニッツラー
「こんばんは、視聴者の皆さん、親愛なる同志の皆さん!
 今日の放送は、約三十年で、最も短い放送となります。つまり、最終回です。つい先ほど連邦鷲が、タイトルバック(オープニングクレジット)で姿を再び現し、過去1518回と同じように、我々のテレビアンテナに君臨しました。そして私の同志マルティン・ハートヴィヒによって編曲アレンジされ直したオープニングのクレジットメロディー「マース川からメーメル川まで」*⁴の代わりに、この大(汎)ドイツの主張はドイツ連邦共和国*⁵やその連邦軍における国家式典や学校でのみ聞かれることになるでしょう。ヴァイゲル*⁶やドレッガー*⁷のような男性議員たちやジュスムート*⁸やヴィルムス*⁹のような女性議員たちの主張と同じくらい深刻です。
 言い換えれば、あの時代の報復主義はまだ我々に根付いているのです。階級闘争は続いていて、それゆえにまた現在物議を醸している論争ポレミークも続いています。ドイツの地における社会主義、ドイツ民主共和国、それらは排除されることになります。
 したがって最も緊急で、最も優先的で、最も重要なことは、平和や平和的共存、そして我が祖国の再生と存続、つまりドイツの地で初の平和国家の継続です。
 「継続」――それは我が共和国の基礎であり、存在であり、成果であります。わずか数十年の間に――かつて我々は40年と言いました、あるひとりの「人間年齢メンションアルター*¹⁰に10年を加えた年月、つまりある良き人間の一生涯にあたる年月で我々はそれまでのゲルマン諸国家にはなかった社会的かつ政治的成果をあげ、闘ってきたのであります。新天地では、いいですか、それゆえにまた間違いや失敗もあるでしょうが、しかしそのせいで成功がなかったことにはなりませんし、それらが風化することもありません。
 「刷新」――それは「後退」を意味しません――「前進」です――むしろより良く、より魅力的な、さらには経験として感じられて、そして最終的には勝利する社会主義を意味します。
 そのために我々は精魂を傾けなければなりません。なにものも我々の邪魔をしてはいけませんし、なにものも変革の政治を妨害してはいけないのです。あまりにも多くの律動と不規則、成功と失敗、正と誤は、言動、率直な対話、そして即時の共同行為でバランスを保たなければなりません。
 そのためには節度と忍耐、徹底性と正直さ、過失を認め受け入れる姿勢と毅然とした態度が必要です。そしてまた、多くの理性が、把握可能な感情を制御するために必要不可欠なのです。
 私の専門は外交政策全般でありまして、とりわけドイツ連邦共和国のテレビを例に社会主義/資本主義のイデオロギー的な階級闘争を専門に扱っています。数人の方は喜んでくれるかもしれません、私がこのテレビの仕事を別の形で続けていると。いや、なにか後悔すべきことがあるというわけではありません。不愉快な真実としばしば向き合うことは難しいことですが、一方で満足もしています。私の自叙伝にはこんな文章があります。《人間存在に対する賛否や、人間の自由や権利、生命、それらに対する賛否――これこそが私の敵/味方の判断基準である》。
 しかし別の箇所にはこうも書いてあります。《もしその存在が意識を決定づけることがあれば、我々はそのような逆転を許してはならない――存在は意識を混乱させる》。
 したがって正しいことを正しく、迅速かつ信頼性の高いものにするための技術が必要不可欠なのです。このように、私は共産主義者として、またジャーナリストとして、仕事を続けていくことでしょう――非人間的な資本主義に代わる唯一の手段で、我が社会主義の祖国を前進させ防衛する階級闘争のための武器として。
 そしてそういうわけで、視聴者の皆さん、親愛なる同志の皆さん――ではまた!*¹¹

   (エンドクレジットなし!)

番組放送終了のアナウンス「親愛なる視聴者の皆さん。ただいまの放送はカール゠エドゥアルト・フォン・シュニッツラーによる番組『黒いチャンネル』第1519回でした。それでは、予告しました通り、午後8時からの映画『嘆きの天使』*¹²に戻ります。」]

日本語訳:とこ

 *註釈

*¹  連邦鷲  Bundesadler・・・・・・鷲をモチーフにした紋章はドイツの地で古くから用いられてきたが、ここでは1950年からドイツ連邦共和国(「西ドイツ」)で使われている新しい国章のことを指す。ドイツ民主共和国(東ドイツ)は1990年に西ドイツに「再統一」されたため、現在は旧東ドイツ領でも西ドイツの国名や国旗が共に用いられている。
  我々のテレビアンテナに君臨しました・・・・・・(初回放送からではないものの)『黒いチャンネル』のオープニングのクレジットで、テレビアンテナの上を「西ドイツ公共放送連盟→ドイツ公共放送連盟  Arbeitsgemeinschaft der öffentlich-rechtlichen Rundfunkanstalten der Bundesrepublik Deutschland」と「西ドイツ第2公共テレビ→第2ドイツテレビ  Zweites Deutsches Fernsehen」の略称「ARD」と「ZDF」が旋回する。その後、帝政ドイツの国旗を胴体に掛けた連邦鷲が、アンテナの上に君臨する。この演出は、西ドイツの「反動」的性格を象徴していて、西ドイツからもたらされた大(汎)ドイツ主義的な情報で東ドイツが覆われていること、そして、『黒いチャンネル』の番組内で西ドイツの情報を批判・風刺することを示唆している(番組名自体も西ドイツを揶揄している)。
 聞き伝えられるところに拠ると、シュニッツラーは番組の開始にあたり、初回放送で次のように述べたという。
**********************************
Karl-Eduard von Schnitzler  „Der schwarze Kanal, den wir meinen, meine lieben Damen und Herren, führt Unflat und Abwässer. Aber statt auf Rieselfelder zu fließen, wie es eigentlich sein müsste, ergießt er sich Tag für Tag in hunderttausende westdeutsche und Westberliner Haushalte. Es ist der Kanal, auf welchem das westdeutsche Fernsehen sein Programm ausstrahlt: der schwarze Kanal. Und ihm werden wir uns von heute an jeden Montag zu dieser Stunde widmen, als Kläranlage gewissermaßen.“
シュニッツラー「『黒いチャンネル』――我々が指している暗渠カナルは、(いいですか)親愛なる紳士淑女の皆さん、(それは)汚物や下水を流し運んでいます。しかし下水場に流れ込む代わりに、本来はそうあるべき(=下水場に流れ込むべき)なのですが、毎日西ドイツと西ベルリンの何十万もの家庭に流れ込んできています。それは西ドイツのテレビ局が番組を放送するチャンネル、つまり『黒い暗渠カナル=チャンネル』です。そして我々は今日から今週月曜日この時間にそれ(=下水場に流れ込む誤った情報)に取り組むことになります。いわば下水処理場として。」
**********************************
 ドイツ語で„Kanal“は、「チャンネル」を意味すると同時に、汚物を運ぶ「溝」や「暗渠あんきょ」「運河」「下水道」「排水溝」などを意味する言葉である。つまり、番組名„Der schwarze Kanal“は、ある種の言葉遊びで、「チャンネル」と「暗渠」が掛けられている。本来であれば「暗渠」に運ばれるべき「汚物や下水=誤った情報」を西ドイツの報道機関は家庭の「チャンネル」を通して垂れ流し続けている。その影響は、西ドイツ国内に留まらず、東ドイツにも及んでいた。どうやら『黒いチャンネル』には、その西側からもたらされた情報を最終的に精査●●する「下水処理場」としての役割があったようだ(言わずもがな、番組は「プロパガンダ」だ)。
 その当時、東ドイツの国民は西ドイツのテレビ局の電波を受信し、そこで放送される番組を観ていた。テレビの規格が東西で異なったため、東ドイツで観る西ドイツの番組はすべてが白黒だったのだが、むしろそれこそが単調で灰色の東ドイツを如実に反映しているようにも思われた。ニナ・ハーゲン[Nina HAGEN, 1955-]が1974年に発表した楽曲「カラーフィルムを忘れたのね  Du hast den Farbfilm vergessen」には、そんな白黒世界への批判が込められている。そして、その歌はのちに、東ドイツ出身の元首相アンゲラ・メルケル[Angela Dorothea MERKEL, 1954-]の「青春時代のハイライト」となり、2021年12月の「退任式典  Großer Zapfenstreich」で演奏された。
  マルティン・ハートヴィヒ[Martin HARTWIG]・・・・・・東ドイツの作曲家。今回、この人物に関する詳しい情報を得ることはできなかった。ちなみに、ドイツからベネズエラに移住し、アメリカで亡くなった同姓同名の俳優[Martin HARTWIG, 1877-1966]とは異なる。
*⁴  「マース川からメーメル川まで  Von der Maas bis an die Memel」・・・・・・マルティン・ハートヴィヒが『黒いチャンネル』のオープニング・クレジットのために編曲アレンジされ直したとされるが、その元曲の詳細は不明。
 ちなみに「マース川からメーメル川まで」という言葉は、「ドイツの歌  Das Lied der Deutschen/Deutschlandlied」の1番の歌詞にもある。西ドイツ時代から現在に至るまで、この部分を含む1番や2番は歌われておらず、3番のみ採用されている。というのも、マース川もメーメル(ネマン)川も第二次世界大戦後以降はドイツ領ではなく、また歌詞の一部には差別的で民族主義的な表現があり、1番や2番の歌詞は現在では不適切とされるからである。
 もしかすると「マース川からメーメル川まで」という題は、大(汎)ドイツ主義の象徴で、それを揶揄する意味で名が付けられたのかもしれない。またそれは東ドイツによる西ドイツの「思想改造(矯正)」を意味するのかもしれない。
*⁵  ドイツ連邦共和国・・・・・・1989年の放送当時、まだ西ドイツだった地域を指す。
*⁶  ヴァイゲル・・・・・・テオドール・ヴァイゲル[Theodor WAIGEL, 1939-]のこと。1989年当時、西ドイツで与党「ドイツキリスト教民主同盟  Christlich-Demokratische Union Deutschlands (CDU)」の党首[在任期間:1988-1999]を務めた人物で、ヘルムート・コール[Helmut Josef Michael KOHL, 1930-2017]内閣では連邦財務大臣を務めた[在任期間:1989-1998]。
*⁷  ドレッガー・・・・・・アルフレッド・ドレッガー[Alfred DREGGER, 1920-2002]のこと。1972年から1998年までドイツ連邦議会  Bundestagの代表を務め、1982年から1991年までは連邦議会におけるCDU/CSUグループの(党首とは異なる)リーダーでもあった。CDUの強硬な保守派  Stahlhelm-Fraktionとして知られる。
*⁸  ジュスムート・・・・・・リタ・ジュスムート[Rita SÜSSMUTH, 1937-]のこと。当時、西ドイツで第10代連邦議会議長を務めていた[在任期間:1988-1998]。またコール内閣では家庭問題・高齢者・女性・青年担当大臣を務めたこともある[在任期間:1985-1988]。CDUの女性議員組織フラオエン・ユニオン(Frauen-Union)の会長を務めていたため、CDU内でも強い影響力があったとされる[在任期間:1986-2001]。
*⁹  ヴィルムス・・・・・・ドロシー・ヴィルムス[Dorothee WILMS, 1929-]のこと。当時、最後の西ドイツ内務大臣を務めていた[在任期間:1987-1991]。コール内閣では教育研究大臣を務めた[在任期間:1982-1987]。ここで槍玉に挙げられている4人の国会議員は全員、その当時、西ドイツで政権与党だったCDUの所属である。
*¹⁰  人間年齢メンションアルター  Menschenalter」・・・・・・ドイツ語特有のことば。人間の「一生涯」や「一世代」という意味があり、期間にして約30年。
*¹¹  ではまた!  auf Wiederschauen!・・・・・・とりわけドイツ南部やオーストリアで使われる別れの挨拶。一般的に訳せば「さようなら!」、直訳すると「また会うときまで!」となるが、ここでは「ではまた!」と訳した。というのも、シュニッツラーにしてみれば、この回をもって番組を事実上打ち切られた恰好であり、氏の話す内容からもどことなく「まだ終わってない」というような闘争意識や「またここに戻って来る」というような執念深さを感じられる。このことから、本記事ではそのように訳した。
 なお、1991年末に、「ブランデンブルク東部ドイツ放送  Ostdeutscher Rundfunk Brandenburg (ORB)」が、『黒いチャンネル』のドキュメンタリー映画『黒いチャンネルあるいは貧弱なドイツ:カール゠エドゥアルト・フォン・シュニッツラーとの出会い  Der Schwarze Kanal oder Armes Deutschland: Eine Begegnung mit Karl-Eduard von Schnitzler』を制作(翌1992年公開)。そのなかで『黒いチャンネル』と同じ構成で『最新そして最後の黒いチャンネル  allerletzten Schwarzen Kanal』を作り、シュニッツラーがその当時のドイツ世相を批判している。一時的だったとはいえ、シュニッツラーは実際に番組へのカムバックを果たした。
*¹²  『嘆きの天使  Der blaue Engel』・・・・・・トーマス・マン[Paul Thomas MANN, 1875-1955]の兄ルイス・ハインリヒ・マン[Luiz Henrich MANN, 1871-1950]が1905年に発表した長編小説『ウンラート教授  Professor Unrat』を原作とした1930年製作・公開のドイツ映画。監督は、ジョセフ・フォン・スタンバーグ[Josef von STERNBERG, 1984-1969]。1931年には日本でも公開されている。

日本語訳:とこ

3.あとがき

 昔のドキュメンタリー番組で『黒いチャンネル』を知ったとき、「メディア」に潜む恐ろしさは、東ドイツほどわかりやすい形ではないものの、今の日本にもあるような気がした。
 たとえば、この記事を読んで、「社会主義」や「共産主義」をよく理解せずに「独裁」や「全体主義」と混同して<怖いな>と思うとする。そこにあるのは、敵/味方の二項対立に基づいた自動的な反応オートマティズムで、自省の欠如である。私有財産を管理しようとする社会主義、そしてその先にある共産主義が権力を一元化し中央に集中させることで全体化に陥りやすいのは確かだ。しかし、その政治体制や経済体制がすぐに独裁や全体主義結び付くのかと言われればそうとは限らないし、資本主義や商業主義だって人びとの暮らしを無視して開発や発展のみを優先させれば独裁や全体主義になる(事実、この島国で起きていることを振り返ってみてほしい)。
 皮肉にも、東ドイツのプロパガンダ『黒いチャンネル』が身をもって●●●●●教えてくれた「教訓」がある。それはまさしく情報の一部を都合よく切り取ってチェリーピッキングして物事を一義的に見ない、物事の一側面だけを捉えないということである。
 あらゆる情報には、発信者による編集がなされていて、それは時に広告と強く結び付いている。万能な政治体制や経済体制は存在しない。「いま」「ここ」を見極めること、そしてもたらされた情報の真贋を複数の方向から確かめること、シュニッツラーにならないこと――かつて西ドイツの大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー[Richard Karl Freiherr von WEIZSÄCKER, 1920-2015]が演説で述べた≪過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすい≫の言葉は、昨年(2023年)から続くイスラエルのパレスチナへの侵攻を目の当たりにしている今だからこそ、重く響く。

 今回の翻訳作業には、実に骨が折れた。
 というのも、わたしはフランス語以上にドイツ語が弱々よわよわで、初級文法を齧った程度の語学力しかないため、ドイツ語特有の言葉や慣用句、東ドイツならではの表現などに苦戦した。しばらくのあいだ、独和辞典や独英辞典と睨めっこになった。そのため、本記事に掲載した拙訳●●には、もしかしたら誤訳や不適訳があるかもしれない。その際は、読者の皆様からご教示、ご叱責をいただけたら幸いである。
 最後に、この拙訳が貴重な史料とまでは言えなくとも東ドイツの側面を新たに考える際の一材料になることを願って、そして掲載に込めたねらい●●●が読者の皆様に届くことを願って、本記事を閉じたい。

 *本記事は、2022年秋に作成した拙訳に、解説やあとがきをあらたに書き下ろし加えたものです。今回の掲載にあたり、拙訳の全面的な見直しは都合おこないませんでした。


【出典】

●Deutsches Rundfunkarchiv - Die digitalisierten Sendemanuskripte „Der schwarze Kanal“[2021年1月13日のアーカイブ;最終閲覧確認日:2024年9月18日]

●Die Bundersregierung - Aus für den "Schwarzen Kanal" - Montag, 30. Oktober 1989[最終閲覧確認日:2024年9月18日]

●DDR 1989/90 - Karl Eduard von Schnitzler "Der Schwarze Kanal“[最終閲覧確認日:2024年9月18日]

●DDR-Kabinett-Bochum - Karl-Eduard von Schnitzler - THE BLACK CHANNEL from 10/30/1989[最終閲覧確認日:2024年9月18日]

●DDR-Lexikon - Der schwarze Kanal - die letzte Sendung[最終閲覧確認日:2024年9月18日]

●Klaus Taubert - Sudel-Edes letzte Worte - Eine Erinnerung zum 100![最終閲覧確認日:2024年9月18日]

●NHK総合テレビジョン『映像の世紀バタフライエフェクト』第3回「ベルリンの壁崩壊  宰相メルケルの誕生」語り:山根基世(初回放送日:2022年4月18日  午後10時)

●TAGESSPIEGEL - Karl-Eduard von Schnitzler: Das Ende vom schwarzen Kanal[最終閲覧確認日:2024年9月18日]

●永井清彦  編訳『言葉の力:ヴァイツゼッカー演説集』岩波現代文庫(2009年)



[2024.9.18]