ドイツ民主共和国(以下、東ドイツ)で放送されていた番組には、自国の社会主義体制を礼讃するプロパガンダが数多く存在した。 なかでも、帯の報道番組『アクトゥエレ・カメラ Aktuelle Kamera』に匹敵すると言われたのが、本記事で紹介する番組『黒いチャンネル Der schwarze Kanal』だ。 番組『黒いチャンネル』は、東ドイツのテレビ「ドイツテレビジョン放送 Deutscher Fernsehfunk (DFF)」(のち、1972年からは「ドイツ民主共和国テレビ Fernsehen der DDR」の名称に変更)で、1960年3月21日から1989年10月30日まで、映画放映の前後、毎週月曜の午後9時30分ごろから約20分間にわたって放送された(翌、火曜午前11時30分に再放送を実施)。司会を務めたのはジャーナリストのカール゠エドゥアルト・フォン・シュニッツラー[Karl-Eduard von Schnitzler, 1918-2001]。『黒いチャンネル』は、東ドイツ国内に流れ込んできていた西ドイツをはじめとする西側のテレビや雑誌からシュニッツラーが都合よく報道を抜粋し批判や誹謗中傷を交えながら解説するというプロパガンダだった。
突然の幕切れ
ミハイル・ゴルバチョフ[Михаи́л Серге́евич ГОРБАЧЁВ, 1931-2022]がソビエト連邦の最高指導者に就き、「再構築」や「情報公開」が推し進められると、ヨーロッパ東部で民主化運動が再燃。東ドイツにも波及する。 1989年5月2日、当時民主化が進みつつあったハンガリー人民共和国が、財政圧迫を理由に、オーストリアとの国境に設置していた鉄条網「鉄のカーテン」を撤去。それに伴い、東ドイツの国民が、隣国のチェコスロヴァキアから第三国のハンガリー、そこから永世中立国のオーストリアへと越境、西ドイツへと亡命するという事態が起きた。その大きなものが同年8月19日以降の「汎ヨーロッパ・ピクニック」である。この事態を重くみた東ドイツ政府は、国境封鎖の強化に乗り出す。 この動きに反発した画家カトリン・ハッテンハウアー[Katrin HATTENHAUER, 1968-]をはじめとする学生や市民たちは、9月4日、西ドイツのテレビ電波が届きにくい「電波の谷間」ライプツィヒで(当局の許可が唯一不要な)ニコライ教会の礼拝に合わせて、「月曜デモ Montagsdemonstrationen」を展開。大勢の人びとの前で「自由な人びとによる開かれた国 FÜR EIN OFFENES LAND MIT ALLEN MENSCHEN」の横断幕を広げ、旅行の自由化を訴えた。6月4日に起きた中国で天安門事件を教訓に、市民たちはあくまでも平和的なデモに徹した。 9月11日、東ドイツの強権的な最高指導者エーリッヒ・ホーネッカー[Erich HONECKER, 1912-1994]が率いる中央委員会はチェコスロヴァキアとの国境を封鎖。「ピクニック=第三国経由の西ドイツ亡命」が不可能となった。国民の不満に呼応するように、「月曜デモ」は大規模になっていく。批判の的となったのは、ホーネッカーだけではなかった。デモに参加した市民が「シュニッツラーを辞めさせろ!」と声高に叫ぶ様子が西ドイツのテレビ局によって撮影され、報道番組で放送された。 10月7日、東ドイツの建国40周年記念式典が開かれる。 しかし10月16日には、10万人を超える人びとが「月曜デモ」に参加した。 この出来事を受けて、ホーネッカーは、国家人民軍による武力鎮圧を主張したが、治安担当書記でのち最高指導者となるエゴン・クレンツ[Egon KRENZ,1937-]がホーネッカー失脚を水面下で画策。翌10月17日、東ドイツで事実上の一党独裁を敷いていた「ドイツ社会主義統一党 Sozialistische Einheitspartei Deutschlands (SED)」内の政治局会議でホーネッカーの書記長解任動議が可決。10月18日、ホーネッカーは、すべての職を辞した。クレンツ率いる新政権は、新たな旅券法の制定に動き出す。 ホーネッカーや、中央委員会の権力を掌握していた政治局のメンバーが一斉に辞任したことで、10月30日、ラジオやテレビが従来の報道方針を転換し、謝罪。番組刷新の動きから、『アクトゥエレ・カメラ』は『AK Zwo』に改称。『黒いチャンネル』は打ち切られた。全1519回。それはまさしく過去との「訣別」だった。 余談になるが、よく知られていることとして、その翌々週にあたる11月9日夜、全世界に向けた生放送の記者会見で、クレンツの側近でSED中央委員会政治局長ギュンター・シャボフスキー[Günter SCHABOWSKI, 1929-2015]が記者から政令「旅行許可に関する出国規制緩和」の発効期日について尋ねられると、詳細を知らされていなかったシャボフスキーは、内務省作成の関連文書の一部だけを読み取り勘違いして、本来であれば国境警備の準備が整った午前4時に発表する予定だったところ、「直ちに、遅滞なく」と慌てて「フライング発表」してしまう。これを聞きつけた市民たちが西ベルリンとの国境ボルンヘルム検問所やベルリンの壁に殺到。人びとを隔てていた大きな壁は崩壊した。まさに激動、歴史の転換点であった。
2.[スクリプト]ドイツ民主共和国テレビ放送(東ドイツ国営テレビ)制作『黒いチャンネル』
以下に掲載するのは、1989年10月30日(月曜日)、ドイツ民主共和国テレビ放送(東ドイツ国営テレビ)から放送されたプロパガンダ番組『黒いチャンネル』第1519回のドイツ語放送原稿と、その日本語訳である。通常20分の放送に対して、事実上の最終回にあたる第1519回は5分。あっけない幕切れだった。 テレビ局やシュニッツラーが放送の数日後に映像クリップを破棄していたこともあり、現存されていない放送回が数多くあるものの、生放送中に西側の機関で盗聴・録画された約350エピソードがアーカイブ保存されており、このうち33エピソードが後年DVD-BOXで販売された。 また、「ドイツ公共連盟 Arbeitsgemeinschaft der öffentlich-rechtlichen Rundfunkanstalten der Bundesrepublik Deutschland (ARD)」と「ドイツラジオ Deutschlandradio」の共同機関「ドイツ放送アーカイブ Deutsches Rundfunkarchiv (DRA)」には、『黒いチャンネル』の一部映像や放送前草稿がアーカイブ保存されており、第1519回にかんしては映像と放送前草稿のその両方が現存している(過去には「DRA」のウェブサイト上で一般公開されていたが、今は現地の申請でしか閲覧できない)。 今回、本記事に拙訳を掲載するに際して、その「DRA」をはじめとして、「Klaus Taubert」「DDR 1989/90」「DDR-Lexikon」「DDR-Kabinett-Bochum」など複数のウェブサイトからドイツ語原文の放送原稿を取得し、かつ「DRA」や「Die Bundersregierung」「YouTube」で視聴可能な本編映像の自動字幕も参照し、テクストとして確定させた。 なお、ドイツ語原文の放送原稿の語や文のうち「*」で囲まれた箇所は、「DRA」から取得した放送前草稿にはなかったことを意味する。つまり、放送を収録するときに付け加えられた言葉である。
„Der schwarze Kanal - Ein Sendung von und mit Karl-Eduard v. Schnitzler“ Nr. 1519 (Montag, 30. Oktober 1989)
昔のドキュメンタリー番組で『黒いチャンネル』を知ったとき、「メディア」に潜む恐ろしさは、東ドイツほどわかりやすい形ではないものの、今の日本にもあるような気がした。 たとえば、この記事を読んで、「社会主義」や「共産主義」をよく理解せずに「独裁」や「全体主義」と混同して<怖いな>と思うとする。そこにあるのは、敵/味方の二項対立に基づいた自動的な反応で、自省の欠如である。私有財産を管理しようとする社会主義、そしてその先にある共産主義が権力を一元化し中央に集中させることで全体化に陥りやすいのは確かだ。しかし、その政治体制や経済体制がすぐに独裁や全体主義結び付くのかと言われればそうとは限らないし、資本主義や商業主義だって人びとの暮らしを無視して開発や発展のみを優先させれば独裁や全体主義になる(事実、この島国で起きていることを振り返ってみてほしい)。 皮肉にも、東ドイツのプロパガンダ『黒いチャンネル』が身をもって教えてくれた「教訓」がある。それはまさしく情報の一部を都合よく切り取って物事を一義的に見ない、物事の一側面だけを捉えないということである。 あらゆる情報には、発信者による編集がなされていて、それは時に広告と強く結び付いている。万能な政治体制や経済体制は存在しない。「いま」「ここ」を見極めること、そして齎された情報の真贋を複数の方向から確かめること、シュニッツラーにならないこと――かつて西ドイツの大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー[Richard Karl Freiherr von WEIZSÄCKER, 1920-2015]が演説で述べた≪過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすい≫の言葉は、昨年(2023年)から続くイスラエルのパレスチナへの侵攻を目の当たりにしている今だからこそ、重く響く。