自分らしく生きるとは

 私は自分の時間を自分のしたいことのために使っていることを「自分らしく生きている」と呼ぶ。「自分らしく生きる」ことの経験がない人は、親や教育者の立場になったとしても、生きる方法は示せても、生きる喜びを示すことができないだろう。

 もし君が、今自分らしさを見失っているならば、「手に残るものを見つめる」という項が君にとっての助けになると私は思っている。そこから読み始めるか、そこだけ読むかは君自身に決めてほしい。


課せられる社会的な役割

 私が思うに、年齢を重ねれば重ねるほど、通念上の物事や経済的な物事によって、自分のしたいことをすることができなくなるだろう。大人になって大学に通いなおす人が少ないことが極端な例で、この極端な例のほかに、「今の仕事は満足していないが、家庭のためにこの仕事を続けるほかない」、「親の介護をする必要があるので、常勤が難しい」、「子どもが小さいからその面倒を見なくてはならない」という状態も例として挙げられるだろう。これらの例は、生きる上で必要なことが原因で自分のやりたいことが出来ていない例である。もっと言ってしまえば、「人間という種における必要な物事」に自分の行動を縛られていることである。「人間という種における必要な物事」とは言い換えると「その人でなくてもやっていること」であり「社会的な役割」という表現に落ちつく。これはやむを得ず課せられるもので、社会的存在である人間である限り、逃れることはできない。しかし、私はこのような時間を極力減らし、「その人でなくてはできないこと」に時間を使うことが重要であると考える。

社会的な役割と個人は同一ではない

 「人間という種における必要な物事」をゼロにすることはできないので、そのような時間は極力、パートナーや同居人と分担すること、もしくは機械に任せてしまうことが望ましいだろう。家庭内や職場で、「人間という種における必要な物事」が偏って分配されていると不満がつのる。ここで不満を言い、話し合うことができると改善が見込めるが、言えない、話し合えないという状況だと「人間という種における必要な物事」を負担している側は変容を起こす。それは「今自分がやっていることが私のやりたかったことだ」と、理想が実現されない葛藤に耐えれず、現実が自分の理想であると言い聞かせるのだ。 

 私の母がそうだった。不満を父に言わないので、子供に対して尽くすことが母にとっての幸せになっている。しかし、それでは私がいなかった時の母の幸せはなかったことになる。もしくは私という存在が母の幸せを捨てさせたとも考えうる。母は「母」という役割が持っている幸せを自分の幸せにしているが、私の母は「母」の必要十分条件ではない。私の母は私にとって素晴らしい「母」であったが、私の母が持つ要素のすべてが「母」ではなく、「母」になる前にも私の母は個人として存在していた。

社会的な役割の終焉

 今の現実が自分の幸せと言い聞かせることの弊害は、現実の変容を過度に恐れるということである。「子どもに尽くす」ということを例にとると、子の自律は「母」という社会的役割の終焉である。容赦なく言えば、子が自分のコントロールから離れ、自律しだすと、コントローラーの存在意義が希薄になる。その時、コントローラーであることが自分の幸せと認識していた場合、強烈な存在価値の否定を受けることになる。社会的な役割の終焉を受け止められない場合、新しい他の役割を求めるか、終焉を迎えてもなおその役割に固着するかである。いつになれば、「社会的な役割をこなすことによる幸せ」ではなく、「自分にとっての幸せ」に目を向けることができるのか。
 
 ここで注意しておきたいのは、「社会的な役割をこなすことによる幸せ」を全否定するつもりは毛頭ないという点である。その幸せを甘受するにも多くの能力を必要としていて、尊いものである。しかし、「自分にとっての幸せ」を追求できるのにも関わらず、「社会的な役割をこなすことによる幸せ」に固着することはないだろう。

社会的な役割を手離す

 「自分にとっての幸せ」を知るには、一度今持っている社会的な役割を自覚し、それが存在しなければ何をしているかを考えてみるといい。それを考えること自体が自己否定につながり、恐れを抱く可能性があるが、それこそが、「社会的な役割をこなすことによる幸せ」に依存していることの証左である。そのような人は「社会的な役割をこなすことによる幸せ」が失われると、自分の手元には何もないという事実が残る。
 ずっとあったものが無くなると、強い喪失感を得るが同時に、何か残ってはいないかを探す。そこで見つけてものこそ「自分の幸せ」なのである。

手に残るものを見つめる

 私たちは「社会的な役割」無しでは生きることができない。しかし、「自分の幸せ」無くしては、生きる幸せは感じることはできないだろう。「社会的な役割」を全うしつつも「自分の幸せ」を常に求め続け、時には覚悟をもって「自分の幸せ」のために果断になることも時には必要だろう。

 「自分の幸せ」を偽ると、気づかぬうちに取り返しのつかないことになっていることが多々ある。私が尊敬するエーリッヒ・フロムの例をアレンジしてみよう。まず、実力が拮抗しているもの同士の将棋をイメージしてほしい。最初はどちらも同じくらい勝つ見込みがある。しかし、どちらかが最善の手を打つことができなければ、少しずつ、一方の勝つ可能性が低くなっていく。この回数が増えれば増えるほど取り返しがつかなくなっていく。この事実にいち早く気づき、善戦できるのは常に勝ち筋を考える棋士である。気づきが遅れ、いつの間にか敗戦濃厚になって、その原因がわからないような棋士に手向ける言葉を私は持たない。

 これと同じように、人には「社会的な役割」と「自分の幸せ」が共存している。共存がうまくいかなくなり、「社会的な役割」が優勢になりつつある事実に気づかないと、いつの間にか「社会的な役割」の使者でしかなくなる。「社会的な役割」が優勢になったことを気付くには「自分の幸せ」を常に求める人だろう。そして、その差を直視する勇気を持っている人だろう。その人の中では、時に「社会的な役割」に主役の座を譲りつつも、「自分の幸せ」は虎視眈々としているだろう。

 これからの、いつの自分も、自分の中で「社会的な役割」を指す棋士と「自分の幸せ」を指す棋士が見ごたえのある勝負をしていることを願って

2024/03/16

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