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授業の設計図

先生方は経験で語る。自分の受けた授業、恩師の授業、自分の経験で授業をする。若手の教員も、乏しい経験で語って授業をする。そして言われる。まだ若くて経験が少ないから、いい授業ができない。

語られる経験は自分の満足が中心だから、聞いている側、生徒にはつまらない。先生と生徒は時代や世代が異なる。自分の経験を語っても、時代が違うから生徒にはわからないことが多分に含まれている。時代の違いをわかってもらおうと、時代背景を詳しく説明すると、案外時間がかかる。時代背景の説明は、本題ではない。本題に入る前に長い説明があるなら、生徒は疲れる。授業は必ずしも受けたいから受けているのではない。時代背景の説明を省くと、結論まで話した後に、生徒はこう思う。そういう時代もあったんだね、今とは違う。今を生きる生徒向けに自分の経験を伝えようとしても、「時代が違う」と聞き流される。先生は、現代の話題や自分に置き換えて、理解してくれると期待して話すが、大抵はそうならない。テストに出ない話とわかっているからリラックスして聞いてくれる。笑える話なら記憶に留めてくれる。

自分の経験談に頼って授業を展開するのは、不親切で自己中心的である。経験を語らなくても、若手でもおもしろい授業はできる。授業をおもしろくするのに、経験は必須ではない。高度な専門性や授業技術は、人生経験とは別である。豊かな人生経験を語れても、学習の定着や深化、理解力の向上に役立つとは限らない。

授業づくりに必要なのは、授業の進め方や構成を設計する力である。生徒や単元についての分析をもとに、ねらいを定めて授業を設計することが何よりも重要だ。敢えて設計図と言いたい。授業の設計図を学習指導案というが、教員や大学生がつくる学習指導案や授業計画は、設計図になっていないことが多い。

手元に学習指導案がある方は、以下の点が載っているかをチェックしてほしい。

授業に必要なものがわかる。
他校の教員や他の教員が読めば同じ授業を再現できる。
教員が教室ですることがわかる。

以上の3点がわからない学習指導案は、設計図ではない。義務的に書かれた書類に過ぎない。実用性はない。研究協議の資料として用いられるが、表面的で目次のような役割しか果たさない。拙い指導案がまかり通るのは、授業が設計図ではなく、経験に基づいて行われているからである。経験は当事者の主観の塊で、経験者の経験の受け止め方の癖というフィルターやカバーがかかっている。たいていは未検証な情報で構成されている。

設計図は成り立つかを検証しながらつくる。
誰でもできる授業が、誰でもわかる授業である。
授業に必要な情報は明確で、当事者にしかわからないようなものではない。

目の前にいる人の経験でなくても、豊かな学習は可能である。
経験した人が経験を語らなくても、豊かな学習は可能である。

優れた設計図は、
誤った組み立て方をしないように書かれている。
生じるかもしれない混同や誤解をあらかじめ防ごうとしている。
なぜこの手順なのか、逆順や入れ替えが可能なのかがわかる。
要点がいくつあるのかを数えられる。
読者は教師であるということを意識して書いている。

教育活動は、成果や効果の検証が困難な側面がある。検証しながら書かれた設計図がないなら、一層困難さを増す。おもしろい落語やコントは緻密に設計されている。抑揚や間といった設計図に示されない要素の割合が大きいが、ストーリーや展開は、ねらいに向かって設計されている。通販番組でも情報番組でも設計がある。自分にしかできない授業をしたいという願望を叶えるために、自分の経験を混ぜた授業をしたくなる。生徒と自分の経験を共有することで、教員の自己肯定感が高まったり、自己開示によって生徒との距離を縮めることにはつながる。しかし、追究すべきは授業の本質、わかりやすさやおもしろさである。自分の経験を有意義なものであると言いたいが、単元の学習には劣る。授業には設計図が必要だ。

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