誰もが光に気付けるように
「節分」という分かりやすい日に生まれた私にとって、今年、誕生日の代名詞である節分が誕生日の前日になったのは思わぬことでした。
半身がもがれるような、なんて大層なものではないけれど、入学式の次の日に初登校するような言いようのなさを感じました。
言いようのなさと言えば、節分に生まれた私は、世界に到来した福なのか、母の胎内から追い出された鬼なのか、というどう考えても仕方のない「究極の問い」を思っては、そのつど胸の下あたりがムズムズする子どもでした。
幼い私に「お前は取り替え子かもしれないよ」と、いかにも真面目ぶって言った両親のからかいも、少しは関係ありそうです。がそれ以上に、元来、誕生日とは多少なりと人を不安にさせるものでしょう。第一、祝福に満ちた誕生日も、終わってしまえばまた一年、祝福されない平凡な日々が続くのです。
そこでかつての私は、「誕生時」「誕生分」「誕生秒」という、それぞれ一日ごと、一時間ごと、一分ごとに祝福されるべき瞬間が訪れるという、楽しい(!)趣向を考えました(未だほとんど共感を得られていませんが)。
けれど考えてみれば、本当は誕生秒でも足りないくらいです。
人ひとりの存在は、いつまで続くか知れない宵闇にあって、それだけで「朝が来た」と確信させる圧倒的な光をまとっているのですから。慣れれば目を眩まさなくなるとして、それは絶えざる光源なのです。点滅しない光源こそ、つねに褒むべきものでしょう。
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昨年、映画化もされた小説『朝が来る』(辻村深月著)は、佐都子とひかりという二人の女性が、ともに朝斗という子の親として、光を受け止めて生きる物語です。
背景には特別養子縁組(※)という制度があります。「特別」と銘打たれつつ、いかに特別でないものとできるかが今後問われる制度です。
※さまざま事情により親元で育つことのできない子どもが、家庭で育つための公的な制度。育ての親と子どもは、家庭裁判所の審判を経て実の親子となる
しかし『朝が来る』の場合、その設定の特殊さがかえって、子を授かり、ともに生きていくことの普遍をあらわにし、いっそう強く読者に迫るのです。
願わくは、何の日ではない日にこそ、自らが周囲を照らす光に私たちの誰もが気付けるのであれと、思わずにいられません。
そう言えば、今年はおそらく生涯で唯一、私の誕生日は立春に当たるのでした。つい、「春が来た」と言ってみたくなります。
執筆:中里晋三(Living in Peace共同代表)
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