『ヨハネの黙示録』現時点での私の訴求ポイント:構成と内容(1)2-3章と全体(特に4-5章)

黙示録がどんな書物かということについては、前回、黙示録の最初と最後、1章と22章からざっと挙げた。今回は、2章以下でのポイントをざっくりと。

  • 2-3章には、黙示録の宛先である7つの教会それぞれの現状、展望が記されている。7つの教会の状況は様々で、概ね称賛と批判が混在しているけれど、どちらかだけというところもあり。いずれにしても、締め括りはすべて同じ。「勝利を得る者」への約束(様々な側面が記されているけれど、いずれも、神様とその国にまつわる特典)、そして「耳ある者は、御霊が諸教会に告げることを聞くように」という奨励/命令。(約束と奨励/命令の順番は異なることもあるが、きっと気にするところではないだろう。)私たちは、耳があるからこそ、聞くという感覚が分かる。けれども、耳があっても耳に入らないことは、ままある! 御霊が告げることは、必ずしも耳ではないのだろうが、心して聞くことが求められる。

  • そして、黙示録の宛てられたすべての教会は(というか、教会はすべて!)、勝利を得るべく戦いの中にあって、その勝利を得て約束をいただくためには、聞くべき御霊の告げることがある。抱えている問題が違っていても、状況が違っても、いずれの教会も聞くようにと告げられている。 そして、続く4-22章で描写される一連の幻――著者ヨハネが御霊を受けて聞いた、見た諸々の幻――こそ、”今(当時)”まさに聞くべきことになる。(いつか先に起こりますよ~ なんて悠長なお話ではない。)

  • 一連の流れの土台、基盤、大前提となる幻、後に何があっても(何を耳にし、目にしても)しっかり留めておくべき幻は、初めに描かれる4-5章の天の現実。つまり、全地全能なる方、万物の創造主なる神様への恒常的な礼拝(4章)と、終末の幕明けから永遠にわたり全被造世界/被造物へと増幅、拡散している神様とキリスト・イエス(屠られた小羊)への礼拝(5章)6章以降には、天から見た地の現実、展望が描かれる訳だが、それらを超えて、いや、それらを通して、地にある人々(教会)は、この4-5章の礼拝へ招かれ、また参与していくよう召されている。(なかなか見えない、感じられないものではあっても、今なお私たち教会はその招き、召しを受けている! 今、世界中で捧げられている礼拝は、その天での礼拝に呼応し、まさにその一部を担うもの!

  • 5章の神と小羊への礼拝は、7つの封印で閉じられた巻物を、小羊が神様から受け取ったことによる。その巻物は、神様の右の手(執行力の象徴)にあり、誰もその封印を解いて、開くことができないままであった。終末に関する書物の封印については、(旧約)聖書の預言者が記していた(イザヤ、ダニエル等)。そして、紀元前後にはこういった書物に関連した様々な黙示文書が出回っていて、終末に関する様々な憶測があった。しかし、すべてが明らかにされるはずの神様の前、礼拝の場で、終末の展望が分からない!?――何てこと!! 自分たちの存在、働きの目的は? 何のために労苦してきた(また、他者にもさせてしまった)のか? ひょっとして無駄???――悲嘆に沈むヨハネに、聖書で約束されていた「ユダヤの獅子」「ダビデの子孫」が、遂に勝利を治めたことによって、巻物を開くことができると告げられる。ところが、実際にヨハネが見たのは、勝利を治めた獅子ではなく、屠られたように見える(勝利ではなく敗北を帯びたようにしか見えない)小羊!(この小羊がイエス・キリストを示唆する。)そして、他の何ものでもない、この小羊のみが封印を開くことができるという。そして、ついに巻物が小羊の手に渡ると、神様と並んで小羊に礼拝が捧げられるようになる! さぁ、この巻物はいったいどんなもの!? については、6章以下の展開へ!!

≪修正メモ≫
*2022/6/2 「てにをは」等の微修正、一部太字に変更 
*2022/6/10 タイトル微修正
*2022/6/20 文章修正(要旨変更なし)


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