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スピリチュアルな人生の後半期では自我の凶暴性を理解しておくことが肝心(2/2)

スピリチュアルな人生の後半期では自我の凶暴性を理解しておくことが肝心(1/2)

実際には、この世界という夢の中には文字通り二つの「内なる声」が存在します。

それは「間違った心である自我の声」と「正しい心である聖霊の声」であり、すでに見た通りこのカリキュラムを学ぶ人々が望んだり信じたりしているほど容易に区別できるものではありません。

一なる子である神の子に属する誰もが、その個性と独自性を維持するための自我の声に耳を傾けてきましたし、その自我による計画に従ってもきました。

これまでの地球の歴史や最近の出来事を眺めただけでも、そうした事実が否応なく証明されています。

まったくのところ、神を代弁する声である聖霊の言葉を聞くことができるようになるというのは、それほど容易たやすいことではありません。

なぜなら、

神の声をわずかでも聞くことのできる者はきわめて少数であり、その彼らでさえ、神からのメッセージを自分に与えた霊を通して、直接それらのメッセージを伝達することはできない(M-12.3:3)

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と述べられているからです。

あなたの、ほとんど常に意識されていないこの世界への執着や自分の個性を維持する必要が、あなたが作り出した自己概念の取り消しのために語る聖霊の声を聞くことを、非常に難しくしています。

このカリキュラムを真摯に学ぶ人々が聖霊の声を聞いていると確信しているときに、実は彼らが聞いているのは、自分では「特別な使命」だと信じていたい役割の範囲内で、自分の自我が自分の特別性やユニークさを褒めそやしている誘惑の声だけだということが、非常に頻繁に起こります。

特別性とは、あなたの「真の自己」であるキリストの神聖性と相反するものです。

特別とは他者との違いを暗に示唆し、あなたと私は同じではないという宣言です。

ですから、あなたの特別で在りたい、そしてユニークな存在で在りたいという土台には、兄弟との違いを生み出し、私は他者から秀でた存在でありたいという願望があるのです。

そういった願いは、分離をさらに推し進めることになり、世界にさらなる境界線を増やし、その分断された思考はまた、兄弟の中に罪を見付けて裁きたいという攻撃の想念を強化させます。

そして、攻撃には罪悪感が伴い、私もいつかは攻撃の対象になるという恐れも生じさせることになります。

これらすべての奥に横たわっているのが欠乏の信念であり、神から分離してしまったという罪の意識です。

特別性についての詳しい解説は

特別性と罪悪感の関係(1/5) 〜特別であることの魅力とその危険性〜
特別性と罪悪感の関係(2/5)〜攻撃と防衛のサイクル〜
特別性と罪悪感の関係(3/5) 〜「特別な憎悪」と「特別な愛」〜
特別性と罪悪感の関係(4/5) 〜「特別な関係」から「神聖な関係」へ〜
特別性と罪悪感の関係(5/5) 〜「自我の救済計画」と「神の救済計画」〜

などをご覧ください。

ですから、あなたが私独自の「特別な使命」や「特別な役割」また「特別な能力」を求めたいという裏側には、何かを犠牲にしてそれとは別の何か特別なものを獲得すること、つまり自我との取り引きによる密なる合意がなされているのです。

犠牲や取り引き、また対価や代償、責任といった概念はすべて分離後に自我によって生じた想念です。

特別性とは、常に自分の中に不足したものを残しておきたいという自我の狂った思考体系です。

あなたが他者から称賛されて喜ぶなら、それと同じくらい侮辱されれば怒ったり、悲しまなければなりません。

こういった分離した二元のものしか与えてくれないのが、あなたの作り出したこの世界の姿です。

自我は常にあなたの下に誰か他の者を置いておきたいのです。

あなたより劣った者がいることであなたを安心させておきたいのです。

聖霊はその反対ですべての者を同じとして観ます。

あなたの外見の見かけや能力の違いを一切看過して、その内なる神聖さだけを観ます。

神に創造された一なる神の子として、その完璧で永遠なる無垢性の光のみを観るのです。

ですから、あなたに何の要求も条件も求めることなくすべてをあなたに与えています。

しかし、この世界の自我が作り出した神々はあなたに何かしらの犠牲や対価を必ず求め、ときには罰することさえあるのです。

自我が唯一差し出せるのは「特別性」という「罪悪感の闇」であり、聖霊は「神聖性」という「無罪性の光」をあなたに差し出します。

そして、あなたにはそれが「恐れ」もしくは「平安」として知覚されるのです。

一方は捏造されたもので、もう一方は今でも変わらず実在しているものです。

また、多くの人々にとってもう一つの誤解の源になっているのは、聖霊の声というアイデンティティそのものです。

実際の声の形として内側で聞こえないからといって、あなたがこのカリキュラムに落第するというわけではありません。

さらに言えば、聖霊があなたに到達させようとする方法やルートをあなたが限定しようとすべきではありません。

たとえば、夜間に見る夢や友人との会話、閃いた考え、読んでいる本、目にしたニュースや映画など、聖霊はこうしたもののすべてを、あなたの間違った思考体系の訂正を示すために使用することができます。

結論として、以上の重要な点を言い直すなら、このカリキュラムの「良い生徒」であるための唯一の基準は、赦しを通して自我を取り消す聖霊のレッスンを学ぼうとする「ささやかな意欲」を持っていることだと言えます。

聖霊の助けを求める前に自分の罪悪感を見過ごそうとしてはならない。それは聖霊の機能である。あなたの役割はただ、すべての恐れと憎しみを取り除いてもらいたいし赦されたいというささやかな意欲を、聖霊に差し出すことだけである。(T-18.5:2-3)

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話を戻して再び言うと、あなたが順調に進んでいたところで、あなたを打ちのめすような何かが日常生活で実際に始まったなら、それは確かな良き兆候だと思っていいということです。

自我が怯え始めたということです。

そうなると自我は、あなたがそれまで聞いていた内なる声を、あなたに疑わせようと妨害してきます。

あなたが聖霊の内なる声を疑うように仕向け、あなたに役立っていたそれまでの学びのすべてを疑わせようとします。

それらについては過去記事

自我による誘惑 肉体編(1/2)
自我による誘惑 肉体編(2/2)

自我による誘惑 スピリチュアルな教え編(1/2)
自我による誘惑 スピリチュアルな教え編(2/2)

などをご覧ください。

ですから、それをわざわざ引き起こそうとする必要はないですが、そうしたことが起こる可能性もあるという心構えをしておくことは極めて重要です。

そういう心構えをしていれば、自我の攻撃が実際に起こったときには、あなたはその正体を見破ることができます。

そして、自我をありのままに認識できることは、非常に助けになります。

繰り返しますが、自我の攻撃は、あなたが自我を超えられるようになってきたと思うまさにその時に起こります。

それは、あなたにとって完全に濡れ衣であり、理不尽かつ不条理な出来事かもしれません。

自我はあなたを、ただただ怒らせ失望させるようなこと、すなわち裏切りや失脚などによって危機的状況をあなたに見舞わせ、再び自我の手を取ってこの世界の住人として生きることがすべてであるという選択をしてくれれば、その恐れの内容は何だって構わないのです。

ですから、困難な状況が生じてきたときには、このことを覚えておいてください。

この教えのすべてがインチキだということにはなりません。

ただ、あなたが恐れを抱いたというだけのことです。

ということはつまり、自我が恐れを抱いたということです。

その時点で、あなたは一歩退いて聖霊もしくはイエスの手を取り、自分の恐れを直視するのを助けて欲しいと求めることが肝心です。

あなたが聖霊やイエスの手を取っているという事実が、あなたは自我そのものではないということを表明しています。

そうして、あなたは自我の攻撃を直視し、それが見かけ通りのものではないことに気が付きます。

聖霊は、あなたが戦場を超えた高みにまで自分を引き上げて、下の戦場で起こっていることを眺めるようにとあなたに促しています。

聖霊は、どのようにすればあなたの関わる関係が戦場を超えた高みにまで引き上げられて、もはやその中にとどまらなくなるかを理解している。そしてあなたの役割は、いかなる形の殺害も自分の意志ではないと認識することである。戦場を上から眺めることが、今ではあなたの目的である。高みへと引き上げてもらい、そこから、戦場を見下ろしなさい。そこからあなたが展望するものはきわめて違ったものとなるだろう。戦場の直中であるここにおいては、戦場は実在するように見える。ここでは、あなたはその一部となることを選択している。ここでは、殺害があなたの選択である。だが、高みからの選択は、殺害ではなく、奇跡である。そしてこの選択から生まれる視座は、戦闘は実在せず、容易にそこから逃れられるということを、あなたに見せてくれる。肉体同士は交戦するだろう。しかし、形態同士の衝突は無意味である。そして、戦闘は始まったことさえなかったとあなたが気づくとき、それは終わりとなる。あなたが戦闘に参加しているのなら、その最中にどうして戦闘を虚無と知覚できるだろう。あなたが殺害を選択しているのなら、どうして奇跡が真理だと認識できるだろう。(T-23.4:5)

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この視点からなら、あなたはものごとを異なった見方で観るようになります。

けれども、もしあなたが戦場の只中にとどまるなら、あなたが見るものは、たくさんの苦痛と殺戮と罪悪感だけです。

もしあなたが自分の観点を高みに引き上げて、自我の戦場を見下ろすことができるなら、その時にはそれを異なった見方で観るようになります。

あなたにはそれが、単に自我が飛んだり跳ねたりして騒いでいるだけだと分かります。

そして、そうしたことは何の影響力も生み出さないということが分かります。

しかしこのプロセスには時間がかかります。

一晩で済んでしまうと思ってはなりません。

けれども以上のことを知っていれば、それが実際に起こったときには少なくともあなたは、ただ自我があなたを困らせようとしているだけだということを認識できます。

これは実在することではありません。

実在するのは、あなたを愛している神がいるということだけです。

そして、その神は自らの声を代弁する存在、つまり「聖霊」や「イエス」を遣わして、その存在たちの手を取り、あなたが困難な時期を優しく通り抜けることができるように導いてくれているということです。

ですから、深刻にならないことです。

それと格闘してはいけません。

そのようなことをすれば、あなたはその問題を実在するものと見なしていることになります。

聖霊は、あなたに自我を笑い飛ばすべきだと言っています。

夢を見ている者が手放してしまった夢を、彼自身に返そう。彼はその夢を、自分から分離したもので、自分の身に降りかかってくるものとして知覚している。すべてが一なるものである永遠の中に、一つの小さな狂った考えが忍び込み、その時点で神の子は笑うことを忘れてしまった。彼が忘れたとき、その考えは深刻なものとなり、達成することも、実在性ある結果を生むことも、どちらも可能なものとなった。私たちが一緒に居れば、そのどちらをも笑って退けられる。そして、時間が永遠の中に割り込むことなどできないことが理解できる。時間が永遠を妨げることができるなどと考えるのは、戯言にすぎない。そもそも永遠とは、時間が存在していないという意味である。(T-27.13:6)

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もしあなたがこの世界と自我を笑い飛ばすことができるなら、問題としての自我は消え去ります。

あなたがしてしまう最悪のことは、問題と格闘することです。

というのも、格闘することで、その問題は実在するように思えてくるからです。

けれども、この笑い声はもちろん、嘲笑的な笑い声ではありません。

また、分離という根本的な問題が人々の具体的な問題として表れている状況において、それらに対し無関心になることを奨励していると考えるべきではありません。

平安への道の途中で恐れが侵入してくるときはいつでも、その理由は自我があなたと一緒にその旅に加わろうとしてそれができないからです。

敗北を感知して怒り狂った自我は、自分が拒絶されたと見なし報復しようとしているだけです。

そういった自我の働きを理解しておけば、あなたに困難が生じたときに、すぐさま聖霊を頼ることができます。


また、赦しの実践をしていくプロセスにおいてもう一つ大切なことがあります。

それは、あからさまな形での困難はないけれども、まるでその進歩が見受けられない時期があるということも知っておくということです。

まるで、前進ではなく後退しているかのように心が騒々しくなってくる時期があります。

ですが、このことに関しても聖霊からの役立つ見解があります。

あなたには進歩と後退の区別もつかないのだから、自分でその計画の責任者になろうとしてはならない。あなたは自分の最も大きな進歩のいくつかを失敗だと判断したことがあるし、最も深刻な後退のいくつかを、成功だと評価したこともある。(T-18.1:5-6)

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実は、本当にあなた(私たち)は、自分が進歩の道程のどの辺りにいるのか分かっていないのです。

自分が前進しているのか後退しているのかということすら分からないのです。

このことを覚えておくこともまた非常に重要です。

そうすれば、自分自身を裁いたり評価したりすることに多くの時間や努力を浪費しなくて済みます。

あなたが自分の進歩や、今どんな状況に自分が置かれているかを評価する必要はありません。

正しい評価をするのは聖霊の機能です。

あなたが世界の出来事を評価、分析したり、ジャッジするときにあなたが手を取っているのは自我という狂った教師です。

自我は、あなたには世界を正しく見る見識があるとそそのかします。

しかし、自我には分断された狭量きょうりょうな見識しかなく、その見解はことごとく真理からかけ離れています。

この自我による断片化された卑小な世界の見方はあなたと兄弟を肉体の中に閉じ込めることによって分離の概念を維持し続けさせます。

こうした、あなたの価値判断は常に当てにならないことを示してくれる逸話を二つ紹介しておきたいと思います。

一つ目は古事成語こじせいごからです。

中国の国境のとりでの近くに、翁(老人)が住んでいました。

あるとき老人が飼っていた馬が隣の国に逃げてしまい、村の人々は同情しましたが、老人は「このことが幸運を呼ぶかもしれない」と言いました。

そしてその通りに、数ヶ月後、逃げた馬が立派な馬を連れて帰ってきたのです。

村の人々は祝福しましたが、老人は「このことが不幸を引き起こす原因になるかもしれない」と言いました。

今度はその通りに老人の息子がその馬に乗り、足の骨を折る怪我をしたのです。

村の人々は見舞いましたが、老人はまた「このことが幸運を呼ぶかもしれない」と言いました。

一年して隣の国が大軍で攻め入ってきました。

若者は戦争に駆り出され、十人のうち九人が戦死しましたが、老人の息子は足の怪我のおかげで戦争に駆り出されず命を落とさずに済みました。

淮南子えなんじ 人間じんかん訓より

このエピソードから「人間万事塞翁が馬にんげんばんじさいおうがうま」ということわざが生まれました。

「人間」を「じんかん」と読むこともありますが「にんげん」と読むのが一般的で、短く「塞翁が馬」とも言ったりします。

起こった出来事に対して、老人のように価値判断をさしはさまずに観ることの大切さがこのエピソードで伺えます。

そして、二つ目は臨済宗中興の祖と讃えられている白隠禅師はくいんぜんしの逸話から紹介します。

白隠禅師の松蔭寺の村で、一人の娘がお腹に子どもを胎んでしまいました。

そこでその娘の父親は、男は誰だと聞くが娘は答えようとしません。

執拗に訊ねるので、娘は父親が尊敬している白隠禅師だと答えると、許してくれると思い白隠禅師と言ってしまいます。

それを聞いて怒った父親は、白隠禅師のところに行き、おまえはなんて生臭な破戒僧なのかといって、赤子を白隠に押しつけ渡してしまいます。

白隠禅師は何も言わずに、ただ「そうか」とだけ言って、赤子を引き取りました。

次の日から、白隠禅師は托鉢の乞食をするとともに赤子のために貰い乳をして周りました。

村の人は今まで、立派なお坊さんと思っていたが、とんでもない生臭坊主だとして、村人から冷遇されてしまいます。

それを見た娘は、親に本当のことを話しました。

娘の父親は白隠禅師のところにいき、今までの無礼を謝り赤子を返してくれるように頼みました。

すると白隠禅師は、「おっ、そうか」と言って、赤子を何もなかったように返したのです。

このように、身に覚えのない濡れ衣を着せられても、それを甘んじて受け、周囲から冷遇されても、それを受け入れる。

そして濡れ衣が晴れても、今まで受けた仕打ちや非礼に対して何も言わない。

なぜなら、自我がそこに実在すると言ってそそのかす罪は実在していないからです。

目の前の罪を看過して、その先にある無罪性の光だけを観る。

つまり、あなたの正しさを頼りにするのではなく、正しさの象徴である聖霊を頼りにするということです。

この世界には人の数だけ正しさがありますが、そのどれもが真実ではありません。

あなたの正しさとは、その源が自我に由来しているために必ず他者という兄弟を攻撃するために用いられます。

しかし、聖霊の正しさはその反対です。

なぜなら、攻撃することで分離を図ることはなく、ただそれが実在していないという理由によってただありのままに観て罪を取り消すからです。

ですから、あなたの価値判断のすべてが間違いであり、苦しみの道へとあなたをいざないます。

つまり、あなたや他者からの評価、そして価値判断をもとに自分の学びの進展を図るならあなたは必ず自我に欺かれてしまうということです。

正しい評価はあなたの機能ではなく聖霊の機能であることを忘れてはなりません。

聖霊はあなたから世界を裁く正しさという物差しを、ただ優しく取り去ってあげたいのです。

私たちは以前、聖霊は評価をするものであり、そうでなければならないと述べた。聖霊はあなたの心の中で、誤ったものから真実のものを選り分け、あなたが心の中に入らせる考えの一つひとつを、神がそこに置いたものの光に照らして判断するように教える。聖霊はこの光に適合するものは何でも保持しておく。それはあなたの中の神の国を強化するためである。部分的に適合しているものは受け入れて、浄化する。しかし、まったく適合していないものは、それを不適と判断し、拒絶する。このようにして、聖霊は神の国を、非の打ちどころない一貫性のある完全に統一されたものに保つ。けれども、聖霊が拒絶するものを自我は受け入れる、ということを思い出しなさい。この理由は、両者はあらゆることについて根本的に見解が異なり、あなたが何であるかについても根本的に見解が異なっているからである。この決定的に重要な問題に関する自我の信念はさまざまに変化し、それが、自我の心境が次々と変わる理由である。この点に関して聖霊は決して変化しないので、聖霊が生じさせる唯一の心境は喜びである。聖霊は喜びを育まないすべてのものを拒絶することによって、それを守る。ゆえに、聖霊だけが、あなたを心底から喜びにあふれた状態に保つことができる。(T-6.5:c1)

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聖霊によるあなたの評価は、あなたが何であるかについての聖霊の智識に基づいており、したがって、聖霊はあなたを真に評価する。そして、この評価はあなたの心の中にあるはずである。なぜなら、聖霊はそこに居るからである。自我もまたあなたの心の中に居る。なぜなら、あなたが自我をそこに受け入れたからである。けれども、あなたについての自我による評価は、聖霊によるそれとは正反対である。なぜなら、自我はあなたを愛していないからである。自我はあなたが何であるかに気づいていない。自我の知覚は実に変わりやすいため、自分が知覚するもの一切をまったく信用していない。したがって自我は、よくしても疑ぐり深く、悪くすれば凶暴となり得る。これが自我の占める範囲である。自我はその不確かさのゆえに、この範囲を超えることはできない。そして、自我は決して確かになれないので、決してこれを超えることはない。(T-9.7:3-2)

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であるとすれば、あなたの心の中にはあなた自身についての二つの相容れない評価があることになります。

これらの評価がどれほど完全に異なったものであるか、あなたはまだ気が付いていません。

なぜなら、聖霊が本当のあなたをどれほど高貴なものとして知覚しているか、あなたは理解していないからです。

聖霊はあなたの本性を決して忘れないので、あなたが行ういかなることによっても欺かれることはありません。

自我はあなたが行うすべてのことによって欺かれます。

とりわけ、あなたが聖霊の手を取って応答するときにはそうなります。

なぜなら、そのようなとき、自我の土台が脅かされ混乱が深まるからです。

したがって、あなたが愛をもって他者である兄弟に応答するとき、自我があなたを攻撃する可能性は高まります。

自我はあなたを愛のない存在だと評価しているのに、あなたはその判断に真っ向から逆らっているからです。

あなたの動機が、自我が知覚しているあなたとは明らかにそぐわないものになるやいなや、自我はあなたに攻撃を開始します。

あなたの心の中で前よりも大きくなったように思えるという騒音は、おそらくこのカリキュラムを学び始める以前からすでに存在していたはずです。

その時と今との違いは、今ではあなたはそれを自覚しているという点です。

今では、あなたは自分には心があるということ、そしてそれは自我の騒々しい心であるということを知っています。

そして、それこそがまさに、聖霊があなたに学ばせようとしていることなのです。

あなたが練習を始めるにあたり、まず学ぶことになるのは、あなたが自分の中の騒音を、聖霊の静かな声をかき消すために用いているという事実を自分で否認しないようになることです。

否認とは、自我としてのあなたが用いる防衛戦略の一部ですから、自分の心の騒音が聞こえ始めるということは、否認を取り消すことの始まりです。

あなたがこの聖霊のカリキュラムである赦しの実践に真剣に取り組むようになるにつれ、あなた自身の抵抗の故に、あなたの中の騒音は実際のところ前よりも大きくなるように思えることがあるのはすでに述べました。

あなたの中で自我と同一化している部分は、自分が学んでいる事柄によって脅かされると感じるので、様々な形で戦いをしかけてくることになります。

その一つが、騒々しい心です。

それは、自分は「前よりも酷くなっている」とあなたに耳打ちするわけですから、これもまた真理を探求することをやめるようあなたを誘惑しようとする自我の企みの一つです。

あなたの課題は、自分の心の中のそうしたつぶやきに注意を払い始めることです。

というのも、それらは自分が何を信じているかを教えてくれているからです。

そもそも、聖霊が心の訓練を重視する理由は、すでに述べた通りあなたの心の中に潜み、つまり暗い部屋の中に隠された様々なゴミというものを象徴する罪悪感や恐れを抱かせている想念、価値判断、信念、虚偽といったものを明るみに出すためです。

ですから、ここで喜ぶべきことは、

神を代弁する静かなる細き声は、それを聞きたい者たちにとっては、自我の金切り声や無意味なわめき声のすべてによっても、かき消されることのないものである(T-21.5.1:6)

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ということです。

あなたが自分が抱いているすべての反論に耳を傾け、その上でそれらを赦したとき、あなたは聖霊からの励ましを聞くようになるでしょう。

自我の凶暴性によってあなたへの攻撃が知覚されたとき、それが何であるかを知っているなら、その心構えによってあなたはすぐさま聖霊を頼りにすることができます。

そして、聖霊の正しい心で観られたならそれが実在していないが故に、あなたにとってそれが何の影響力も持たないことが示されるでしょう。

ですから、スピリチュアルな人生の後半期では聖霊による助けが必要不可欠です。

あなたには、心強い聖霊が今でもあなたの内にいることを思い出してください。

そして、困難な状況のときにこそ、その聖霊の正しい思考体系を選択する力があなたの内にあることを思い出してください。

先にも述べた通り、聖霊はあなたの内に宿る正しい心を選択したいという、ほんの僅かな意欲を差し出して欲しいとあなたに求めています。

聖霊は、次のような小さな助けだけをあなたに求める。すなわち、あなたを今も惹きつけている特別な関係へとあなたの想いが迷い込むときは、聖霊と共に聖なる瞬間に入り、その中で聖霊があなたを解放するに任せる、ということだけである。聖霊の視座をあなたに完全に与えるために聖霊が必要としているのは、ただ聖霊の視座を共有しようとするあなたの意欲だけである。そして聖霊の意欲は完璧なのだから、あなたの意欲は完璧でなくてもかまわない。聖霊の完璧な信によってあなたの意欲の無さを贖うことが聖霊の任務であり、そこであなたが聖霊と共有するのは聖霊の信である。解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識することで、聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる。聖霊に頼りなさい。天国は、聖霊の呼びかけにいつでも応じるからである。そして、聖霊から、あなたのために天国に呼びかけてもらいなさい。(T-16.6:12)

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クリスマスはあなたの聖性が復活する象徴であるに続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。

〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
リンプ


参考書籍


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