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自我による誘惑 肉体編(2/2)

自我による誘惑 肉体編(1/2)はこちらから

神の子による小さな狂った願望が今では罪の意識によって完全に隠蔽されています。

自我(エゴ)という概念は自分が作り出したものですが、今では自我の支配下の元、その原初の願望は罪悪感による厚い忘却のベールによって防衛され続けています。

ですから、あなたの目の前の現実にあらゆる問題が発生するのは、あなたが今でもその願望を持ち続けているにもかかわらず、それが無意識の彼方に追いやられた結果、原初の願望(神からの分離)が間違ったものであったと正直に認めることを自我が拒否していることに、あなたが未だ気付いていないことが原因となっているのです。

こうしてあなたを苦しめるように見える問題の一つひとつが外の世界からやってくるように見えますが、それらは一度として原因になったことはなく、あなたの隠し持った神からの分離という願望が今でも真の原因となって外の世界に投影されあなたはそれをただ永遠と知覚しているのです。

自我は原因と結果を反転させ、世界の方にまるで原因があるかのように私たちを誘惑します。

それは詰まるところ、真理を失いかつて神の子であった私たちが今では神の方が私を天国から追放したのであり、神が私を罰しにくるという逆さまな信念になってしまったことを意味します。

あなたが動揺し苦しむ原因が世界で巻き起こる様々なものの方にあると信じているとき、真理は顛倒てんどうしているため、あなたは平安ではいられなくなります。

外の世界に苦しみの責任を押し付け、他者を罰し攻撃しようとするとき、あなたがそれをしている真の対象は常に神(真理)であることを忘れてはなりません。

あなたが今でも神を排除し真理を攻撃していることは自我にとってあなたを欺くための最大の機密事項であるため、あらゆる誘惑を用いてそれが正しくまた正当防衛であることをあなたに納得させようとします。

あなた自身が招き入れたこの小さな狂った願望が認識されるまで、この葛藤による苦しみは続きます。

自我は常に真理に対して警戒を怠らず、神による救いは死を意味することをあなたに忠告することで疑いの念を持ち続けさせることに成功します。

この疑いという真理に対する防衛が自我が生き延びる唯一の道なのです。

そのため私たちが真理の声を聞くことができないように、自我は大きな声でいつも外の幻想世界に目を向けさせるために、ありとあらゆる誘惑を用いて、真の原因が存在する内側へとは絶対に注目させないように愛の上に闇のベールを掛けることによって恐れを抱かせ、あなたを近づかせないように防衛し続けます。

疑いが忍び寄ってくることを私は知っています。私も疑っていました…信じてください…私もあらゆる疑いを味わったのです。疑いはとても抵抗し難く、あなたに訓練を投げ出すように説得します。疑いは言います。何も起こらない。なぜ訓練するのか? どこに原因と結果があるのか─訓練の報酬は何なのか? その誘惑は強烈です。疑いの声はどこにでもあります。それは才能のある一人の歌手の声をかき消す下手な歌手たちのコーラスのようです。

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あなたが疲れを感じるとき、その理由は自分自身を、疲れることが可能な存在として願望・決断したからです。

あなたが疲れるということは実際には不可能ですが、あなたが自分の願望から生み出された信念によって自分を疲れさせることはきわめて可能なのです。

誰もが最終的に何に価値があり、何に価値がないかを理解するようになります。

つまり、神が創造した天国(実相)のみが価値あるもので、眠りに堕ちた神の子が夢の中で作り出したこの世界には一切の価値がないことが理解されるようになるということです。

しかしそれまでは、自我は様々な誘惑によって常に一つのことを私たちに選択させようとします。

それは、

「私は罪深いが故に神に罰せられる恐怖を味わうくらいなら、その罪滅ぼしとして、自分で自分を痛めつけることによって私は死を選択します」

というものです。

ですからこの信念による、この世界のすべての死は自らが選択し望んだ自殺ということになります。

私たちは自らが望んだ死を体験し続けることでこの世界に生まれ続け(六道輪廻・輪廻転生)神による愛や救済から逃げ続けようとします。

この世界は神から身を隠す逃避先であり、罰(神の救い)からの避難所となってしまったのです。

自我と一体化してしまった神の子、つまり他者と切り離されて別々の身体と心を持っているように感じる私たちにとって、この夢の中だけが自分が王となれる世界であるというのに、その夢から目醒めるようにと叩き起こしに来る神は甚だ迷惑で忌々しく、まるでこの世界を破壊しようとする恐ろしい存在でしかありません。

しかし、そのように見えるのは神の子が自我によって誘惑された結果、私は真理を失ってしまった人の子であるという視点からのものであり、実際に神自身が無理やりあなたを叩き起こし目醒めさせることは絶対にありません。

なぜなら、神は今でも神の子が完全に私と一つであり、神の膝下で平安の中で休まれていることを知っているからです。

神の子が願望し夢見た世界は時間と空間に縛られた悪夢であり、その中に投獄された私たち囚人は、被害者と加害者の役割を交互に演じながらこの牢獄を唯一の世界として暮らしています。

しかし、神によってすぐさまこの願望は取り消され、祝福とともに神の子は救済され神の元へと呼び戻されました。

神の子はその死体置き場に一瞬だけ足を踏み入れ、瞬時に父の完全なる愛へと呼び戻された。そして、とうの昔に取りはずされ、永久に消え去っている鎖に、彼がつながれているということがあり得るだろうか。(T-26.5:10-7)

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時間はあなたの心の中にほんの一瞬現れただけであり、永遠に対しては何の影響も与えていない。それゆえに、すべての時間は過ぎ去っており、一切は、虚無への道が作り出される前とまったく同じである。そのわずか一刻の間に最初の間違いが犯され、その一つの間違いの中ですべての間違いが犯されたとき、そこには、最初の一つと、その中で派生したすべての間違いに対する訂正も含まれていた。そしてそのわずかな瞬間に、時間は過ぎ去った。時間とは、それだけのものだったからである。神から答えを与えられたものは、答えを得て、消え去っている。(T-26.5:3-3)

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それにもかかわらず、眠りに堕ちた神の子は夢の中で今でもそれを疑い続け、救済に対して果てしない抵抗をしながら眠り続けることを選択しているのです。

つまり、あなたを導いているのは神自身ではなく、神の子が天国にいた頃の自身の記憶である「真の自己」(キリスト)が、もっと言えばその顕現である聖霊があなたの夢の中にイエスや釈迦といった目醒めた者の肉体を用いて、私たち自らがその手を取り助けを乞うまで優しく見守っているのです。

禅の教えの中にある言葉をお借りすれば「啐啄同時そったくどうじ」であるということです。

そつ」とは、卵の中の雛が「もうすぐ生まれるよ」と内側から殻をつつく音を意味します。

たく」とは、そんな卵の変化に気づいた親鳥が、「ここから出てきなさい」と外側から殻をつつく音を意味しています。

殻を破る者と、それを導く者、そんな両者の「啐」と「啄」が、少しもずれることなくピタリと同時に行われるというのが師弟の理想であると禅では教えられているのです。

ここで言われている「師」とはまさに聖霊であり「弟子」とは私たちを表しています。

つまり、未だに眠り続け神の子である幼い雛が、世界という卵の中に価値を見出し求めながら遊び続け、また彷徨い続けるなら師である聖霊は、当の本人がこの世界に飽きるまで、そして絶望するまでは手出しすることはせずに見守り続けるということです。

もし聖霊が、罪を犯してはいないにもかかわらず自分では犯したと思っている者を罪人として咎めるとしたら、聖霊が公正であり得るだろうか。もし聖霊が、懲罰の概念に取り憑かれた者たちに対し、助けも借りずにその概念を脇に置き、それが真実でないことを知覚せよと要求したなら、いったいどこに正義があると言えるだろう。 依然として罪に意味があると信じている者たちにとって、聖霊の正義を理解することはきわめて難しい。彼らは聖霊もまた自分たちの混乱を共有していると信じずにはいられないし、正義に対する彼ら自身の信念が必ずもたらす復讐を回避することはできないと信じることになる。したがって、彼らは聖霊を恐れ、聖霊の中に神の「怒り」を知覚する。また、神ご自身の怒りの御手が天国の「炎」から作り出した雷光をもって、聖霊が自分たちを打ちのめしに来ることはないと、信じることもできない。彼らは天国が地獄であると信じており、愛を恐れている。(T-25.8:5-9)

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法華経に説かれる七つの例え話、法華七喩ほっけしちゆの一つ「三車火宅さんしゃかたく譬えたとえ」からもこの聖霊による導きとはどんなものかが窺い知れるはずです。

ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得するも外に出ようとしなかった。そこで長者は子供たちが欲しがっていた「羊の車(ようしゃ)と鹿の車(ろくしゃ)と牛車(ごしゃ)の三車が門の外にあるぞ」といって、子供たちを導き出した。その後にさらに立派な大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えた。この物語の長者は仏で、火宅は苦しみの多い三界、子供たちは三界にいる一切の衆生、羊車・鹿車・牛車の三車とは声聞・縁覚・菩薩(三乗)のために説いた方便の教えで、それら人々の機根(仏の教えを理解する素養や能力)を三乗の方便教で調整し、その後に大白牛車である一乗の教えを与えることを表している。

ウィキペディア(Wikipedia)

私たちはこの世界が火に包まれていて最終的には死という苦しみしか生み出さないことを忘れて、未だに遊び呆けながらそのことに対して目を背けているのです。


さて、話がだいぶ逸れてしまいましたが、目の前の問題やトラブルによる苦しみの全てはあなたが「真の自己」である聖霊の助けを押し除けて、痛みや悲しみを未だに自ら望んでいるということを長々とお伝えしてきました。

世界で巻き起こっている災難や身の回りで繰り広げられている対立、そして人間関係の中に罪や間違い、欠点、問題点、不足、不調和といった罰すべきもの、正すべきもの、指摘すべきもの、改善すべきもの、補うべきものがあると信じているならその原因が巧妙に隠されているという何よりの証です。

私は肉体でありたいという願望とそれを叶える誘惑は、幻想を実在のものにしたいという望み以外の何ものでもありません。

誘惑とは、非実在性を曖昧にしたまま、代わりにそれらに実在性を与えてほしいという虚しい祈り以上のものではないのです。

そして、それが幻想であるが故に天はこの祈りに対して沈黙で答えるしかありません。

いかなる形をとるように見えても、誘惑とは常に自分自身ではない自己でありたいという願望を反映しているに過ぎません。

そして、その願望から一つの概念が生起し、その概念があなたは自分で願う通りのものであると教えるのです。

それは、それを生み出した願望に価値がなくなるまで、あなた自身についての概念であり続けます。

あなたがその願望を大切にしている間は、あなたの目に映る他者もまた、あなたから生まれた願望を抱く自己の似姿としてあなたに映し出され続けます。

この誘惑に対する警戒を日頃から怠らず、誘惑とは自分自身を本来の自分ではないものにしようとする狂った無意味な願望に他ならないということを覚えておくことが何よりも大切です。

そしてまた、私たちは「真の自己」の代わりにどんなものになりたいと思っているのか、それについてもよく考えてみることが必要です

なぜならそれは狂気と苦痛と死からなるものであり、裏切りと絶望や、死んで恐れの夢を終わらせる以外に何の望みもない空虚な挫折の夢からなるものでしかないからです。

これこそがあなたを真理から遠ざけさせる自我の誘惑であり、それ以上でもそれ以下でもありません。

これを知った今、これを選択しないことは難しいことでしょうか。

誘惑とは何であるかをよく考え、それから私たちが二者択一すべき真の選択肢しかないことが自覚されたなら、数多くの選択肢のように見えるものに騙されず、存在するのは天国か地獄か、真実か偽りかのいずれかであり、そこから私たちは一つだけを選択することができるようになります。

誘惑は、どこでそれが起ころうと、そのあらゆる形において一つのレッスンだけを教えようとする。それは、聖なる神の子に対し、彼は一個の肉体であり、死すべきものの中に生まれ、その脆弱さを免れることはできず、肉体から命じられるままの感情に縛られている存在だと説得しようとする。肉体は彼のできることに限界を設定し、肉体の力だけが彼のもつ唯一の強さであり、彼は肉体が到達できる微小な範囲を超えたものは把握できない、というわけである。あなたはこのようなものでありたいのだろうか。もし栄光に輝くキリストがあなたの前に現れて、ただ次のようにあなたに求めるとしても、そのようでありたいだろうか。 世界の救済者たちのひとりとして自分の持ち場につくのか、それとも、地獄にとどまり、兄弟たちもそこにつなぎとめておくのか、自分がどちらにしたいのかを、もう一度、選び直しなさい。(T-31.8:1)

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あなたは肉体を何の目的のために磨き保護し救おうとするのでしょうか。

その選択の中に、肉体の健康と病い、安全と危害の両方が内在しています。

見栄えを整え称賛を得るために肉体を磨くなら、また老いを防ぐために肉体を保護するなら、そして自分の憎悪の周りを麗しい額縁という偽の愛で囲むために肉体を救うなら、あなたは肉体に腐朽の烙印を押し、死に至る運命を宣告することになります。

そして、あなたがこの目的を切り離された他者という兄弟の肉体の中に見るなら、あなたはそれと同じ運命をあなた自身と兄弟の肉体にも宣告することになります。

そうしてあなたは、自分で自分の肉体を磨き、保護し、救おうと思う同じ分だけ自分と兄弟を傷つけます。

肉体の改善が主要な利益とされているようなゴールを目指しているときはいつでも、あなたは自分の死をもたらそうとしているのである。なぜなら、あなたは自分から何かが欠如することがあり得ると信じており、欠如とはすなわち死だからである。犠牲にするとは放棄することであり、したがって、それなしでいることであり、損失を被ったということである。そして、この放棄によって、生命が拒絶される。自分の外を探すのはやめなさい。 そうした探索が示唆しているのは、あなたは内側において全一ではなく、自らの悲惨な状態を見ることを恐れていて、自分の本性を自分自身の外側に探すほうがよいと思っている、ということである。(T-29.7:4)

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自我の誘惑に従い続ける限りあなたの人生はまったく無駄にされています。

そうした人生は、分離、力の喪失、自我による不毛な賠償の試みの数々、そしてついには肉体が十字架刑による「死」を迎えるという一連のドラマをこの世界に繰り返し繰り返し再演し続けるだけの虚しい舞台となってしまいます。

肉体が傷つき、病に犯されるという間違いの訂正はすべて、間違いが起こっているレベルで為されなければなりません。

心のみが誤りを犯すことができるのです。

肉体はその誤った信念に応答しているときにのみ、誤った行動をとることが可能となります。

肉体は真に創造することはできません。

それができるという信念が根本的な誤りであり、それがすべての肉体レベルの症状を生み出すのです。

病気の肉体というものは意味をなさない。それが意味をなし得ない理由は、肉体とは、病気のためにあるものではないからである。病気が意味をなすのは、肉体についての自我の解釈の土台となる二つの基本的な前提が真実である場合のみである。その前提とは、肉体は攻撃のためにあるということと、あなたは肉体だということである。これらの前提がなければ、病気は思いつくことさえできないものである。病気とは、あなたが傷つくことが可能だということを実証する一つの方法である。それは、あなたの脆弱さや傷つきやすさを証し、あなたが外的な導きに頼ることを極度に必要としていることを証言するものである。自我はこのことを、あなたが自我の導きを必要としていることの最高の論拠として用いる。(T-8.8:5-5)

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愛を有限なるものに見せるのは、肉体の自覚だけである。なぜなら、肉体とはすなわち愛に課せられた制限だからである。有限の愛を信じる信念が肉体の起源であり、無限なるものを限定するために肉体は作り出された。これを単なる喩え話と思ってはならない。肉体はあなたを限定するために作り出されたのである。肉体の内側に自分を見ているあなたが、自分自身を想念であると知ることができるだろうか。あなたは自分が認識する一切を、その外貌と、すなわちそれ自体の外側にあるものと、同一視する。あなたは神についてすら、肉体や、自分が認識できると考える何らかの形から離れて考えることはできない。肉体には知るということができない。そして自分の自覚を肉体のもつわずかな感覚へと限定している間は、あなたは自分を囲んでいる壮大さを見ない。神は肉体の中に入ることはできず、あなたが肉体の中で神とつながることもできない。愛を限定するものは常に、神を締め出して、あなたを神から隔離するように見える。肉体とは、栄光ある完全な想念の小さなかけらを囲い込む微小な垣根である。それは全体からちぎり取られた非常に小さな天国の切片の周りに、限りなく小さな円を描き、その中に神が入ってこられないあなたの王国があると宣言する。(T-18.8:1)

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肉体を通して楽しみを求めるなら、苦痛を見出さずには済まない。この相関関係を理解することは非常に重要である。なぜなら、これが、自我が罪の証拠と見なしているものだからである。それは実際には、まったく懲罰的なものではない。それはあなたが自分自身を肉体と同一視することの必然的な結果にすぎない。そして肉体とは苦痛への招待である。なぜなら、それは恐れに向かって、中に入ってきて自分の目的になってほしいと招待することだからである。罪悪の魅力も必ず恐れと一緒に入ってくることになり、それゆえに、恐れが肉体に命じる行為はすべて苦痛を伴う。肉体はすべての幻想がもつ苦痛を共有し、楽しみの幻想はいずれ苦痛と同じものとなる。 これは必然の成り行きではないだろうか。恐れから命じられて、肉体は罪悪を追求する。そしてその主人が罪悪に惹かれていることにより、肉体の存在についての幻想全体が維持されている。ということは、これは苦痛の魅力だということになる。この知覚に支配されて、肉体は苦痛の召し使いとなり、忠実に苦痛を追求し、苦痛は楽しみであるという考えに従うことになる。自我が肉体につぎ込んでいるすべての多大な思い入れの根底にあるのが、この考えである。そして、自我が隠し続け、それでいながら、自分の糧としているのが、この狂った相関関係である。自我はあなたに対しては肉体の楽しみは幸せであると教える。だが、自分自身には、「それは死だ」と囁く。(T-19.4b:12)

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あなたには別に献身するものがあり、それにより肉体はあなたの神聖な目的に役立つ限り、腐敗することなく完璧に保たれる。肉体は感じることができないのと同じように、死ぬこともない。それは何もしない。それ自体では、腐敗するものでもしないものでもない。それは無である。肉体は、腐敗という小さな狂った想念の結果であり、その想念は訂正可能である。なぜなら、神はこの狂った想念に対して、ご自身の想念をもって答えたからである。それは神から離れたことのない答えであり、したがって、その答えを聞いて受け入れたすべての心に、創造主を自覚させる。(T-19.4c:5)

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あなたは一個の肉体だろうか。そうであれば、全世界は裏切りと殺意に満ちたものと知覚される。あなたは、朽ちる兆しも罪の穢れもない不死なる霊だろうか。そうであれば、世界はあなたの信頼に充分に応える安定した場所であると見られる。それは、恐れるべきものがなく、愛すべきものだけがある場所であり、しばし休息するための幸せな場所である。(T-31.6:6-5)

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あなたが幻想に置いていた価値を取下げ、不朽なるもの、そして永遠なるものという真なるものに献身するとき、それを受け入れたことを通して苦しみから解放する力が与えられます。

肉体とはあなたの目的に仕えることができるだけです。

それはあなたが見る通りのもの望む通りのものとして見えます。

死というものがもし真実だったとすると、兄弟との親交の完全かつ決定的な途絶ということになってしまい、それが自我の最も為し得たいゴールとするところなのです。

死を恐れている者たちは、自分がどれほど頻繁に、どれほど大声で死に呼びかけて、親交から自分を救いに来てほしいと死を招いているかがわかっていない。なぜなら、死がすなわち安全と見なされ、真理の光からあなたを救う大いなる闇の救い主であり、神の答えに対する答えであり、神を代弁して語る声を黙らせるものと見なされているからである。だが、死へと逃げ込むことは、葛藤の終わりではない。神の答えのみが、葛藤の終わりである。死に対するあなたの愛のごとく見えるものは、平安の流れが越えていかねばならない非常に大きな障害のように見える。なぜなら、その中に、自我のすべての秘密と、欺瞞のための奇妙な仕組みのすべてと、その病んだ想念や荒唐無稽な想像の一切が隠されているからである。ここに融合を決定的に終わらせるものがあり、ここで自我の作り出したものが被造物を征服し、生命なきものが生命そのものに勝利する。(T-19.4c:7)

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誘惑とは、自分が学びたいものについて間違った決断を下して自分の望んでいない結果を得たいという願望以外の何ものでもないことをもう一度思い出してください。

それは私の望まない心の状態だと認識することこそが、その選択が評価し直されて、別な結果の方が好まれるようになるための手段となります。

もし自分が災厄や不調和や苦痛を体験していると信じるなら、あなたは欺かれています。

困窮し助けを必要としているときに、あなたは無力な者に頼ろうとするでしょうか。

哀れなまでに卑小なものが、強さを求めて頼るべき相手とするのに完璧な選択肢になるでしょうか。

肉体とは、弱さと傷つきやすさと力の喪失の象徴であるのに、そのような救済者があなたを真に助けられるはずがありません。

肉体は自我によって神からの分離を証するために捏造されたものです。

ですから誘惑への呼びかけに警戒していてください。

あなたは自我の誘惑ではなく、その彼方にある平安と喜びと力強さを求めて訴えている深い呼びかけである聖霊の声にただ耳を傾けてください。

そうすれば、この世界全体があなたに喜びと平安を与えてくれるでしょう。

なぜなら、あなたは自らが聞く通りに答えるからです。

そして、あなたのその答えが、あなたが何を学んだかの証拠となります。

学びの結果が、あなたが見ている世界となるのです。

誤った声に誘惑されたときには、私に呼びかけなさい。そして、私の決断を共有し強化することで癒すことができるということを、思い出させてほしいと求めなさい。私たちがこのゴールを共有するとき、一なる子の全体を引き寄せて一体性に連れ戻せるこのゴールの力を、増大させることになる。(T-5.2:11)

奇跡講座/中央アート出版社

あなたにとってすべての誘惑が、聖霊により与えられた赦しのレッスンとして自分に喜びをもたらすもう一つの機会へと再解釈されるよう祈っています。

自我による誘惑 スピリチュアルな教え編(1/2)に続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。


〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
リンプ


参考書籍

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