見出し画像

自我による誘惑 肉体編(1/2)

スピリチュアルな人生の後半期では、あなたがこれまでの人生において価値を置いてきた様々なものが足を引っ張り誘惑してきます。

その結果は当然ながらあなたをこの世界へと引き留める強い抵抗の力となります。

釈迦やイエスでさえも悟りや復活のプロセスにおいてこの自我(エゴ・煩悩)による誘惑に晒されたことは有名です。

釈迦は苦行生活をしている6〜7年の間に、悪魔(マーラ)がさまざまな方法で妨げをなそうとしたことが、経典などに描かれています。

マーラとは「殺すもの」という意味のサンスクリット語で、釈迦が悟りを開く禅定に入ったときに、瞑想を妨げるために現れたとされている悪魔の名です。

煩悩の化身であるマーラにとって、釈迦が悟りを開くことは自身の破滅につながる。そこで手始めに釈迦のもとに美しく技に長けた娘たち3人を送り込むが、釈迦は数々の誘惑に屈せず、続いてマーラは恐ろしい形相の怪物たちに釈迦を襲わせるが、なぜか釈迦に近づくことはできなかった。岩石やありとあらゆる武器を降らせ、周囲を暗闇に覆っても釈迦は動じず、最後はマーラが巨大な円盤を振りかざして向かっていくが、円盤は花輪となった。こうしてマーラは敗北を認め、釈迦は悟りを開いた。

ウィキペディア(Wikipedia)

また最古の経典といわれる「スッタニパータ」(経集)には、ナムチという名の悪魔が登場します。

ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめ励み専心し、努力して瞑想していたわたくしに、(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて言った。

「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供え物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。つとめはげむ道は、行きがたく、達しがたい。」

この詩を唱えて、悪魔は目覚めた人(ブッダ)の側に立っていた。

ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳

悪魔というのは、恐ろしい姿形をしているのではなく、一見優しげな姿で人間に近づいてくるものです。

最初から恐ろしい姿形をしていたら、私たちは警戒して寄せつけまいとします。

この場合も、「いたわりのことばを発しつつ」という表現で、悪魔が釈迦の身を案じて近づいてきます。

悪魔とは自身の罪悪感の投影であり、自分の外部にある恐ろしい存在ではなく、自分の内部に巣くう迷いや煩悩の象徴なのです。

またイエスにも同じように「荒野の誘惑」という有名な話が残っています。

イエスはヨハネから洗礼を受けた後、聖霊によって荒れ野に送り出され、そこに四十日間留まり、悪魔(サタン)の誘惑を受けたというのです。

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を〝霊〟によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

イエスはお答えになった。 「『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」

そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。 『神はあなたのために天使たちに命じて、 あなたをしっかり守らせる。』 また、 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える。』」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

マタイによる福音書 新約聖書 新共同訳

釈迦もイエスも、この世界における価値観の善や幸福ではなく、真理を求めたという点で共通しています。

なおかつ、釈迦もイエスも、肉体的に衰弱した状態にあり、悪魔は釈迦に対しては「生きよ」と呼び掛け、イエスに対しては石をパンに変えて「食べる」ことを勧めたのです。

しかし、二人とも肉体を健康に保つことよりも絶対的な幸福という真理を求めることに関心があったのです。

後に真理についての教えを広めていく過程において、弟子達に苦行(断食)を修行方法として勧めることはなく、自らの真理への追及として命を懸けてでもそれに達するという覚悟があったことを私たちは忘れてはなりません。

さて、私たちにとっての誘惑の最たるものといえば「私は肉体である」という信念です。

この誘惑は私たちの信念においてかなりの執着や思い入れによる価値観によって引き起こされます。

私たちは毎瞬毎瞬、この信念に莫大な時間とエネルギーの投資をすることでその価値を高めてきました。

「私は他者から切り離された個別の肉体である」という信念は私たちにとって今や確信を得た概念であり疑う余地はほとんど残っていません。

そのためスピリチュアルな人生の後半期において、この信念があなたが導かれる道に対しての障壁となり重い足枷となってきます。

この足枷となる信念は、あなたが願望したものですが、今ではその原初の願望は巧妙に隠蔽されることで忘れ去られた結果、あなたをこの迷いと苦しみの世界の住人として幽閉し離れ出ないように誘惑し続けるのです。

私たちはスピリチュアルな人生の前半期において自分自身を肉体であると信じて生きてきました。

ですが、スピリチュアルな人生の後半期においてはこの信念をそっと優しく置いていく必要があります。

古今東西の偉人や聖者、教典は肉体をどのように見ていたのでしょうか?

人間が宇宙的存在としての自らの尊厳を肉体的自我以上に自覚すれば、この世界は平和になることだろう。

アインシュタイン、神を語る ウィリアム・ヘルマンス(著)

自分を皮膚で、他と隔てられた存在だと感じている限り、つまり自分はこの肉体なのだと感じている限り、その人は神を見ることはできない。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ インスパイアード・トーク

子どもたちよおまえたちは自分が体だと思っている。それゆえに、長い間、呪縛の中にいるのだ。自分が純粋な気づきであることを知りなさい。叡智の剣でおまえたちを縛る鎖を切り、幸福でありなさい。

アシュターヴァクラ・ギータ

皆さん、この肉体は無常であって強くはなく力はなく堅固ではありません。速やかに朽ちるきまりになっていて頼りにならないものです。苦しみであり悩みであり、もろもろの病の集まるところです。 皆さん、このような肉体を賢い人はたよりにしないものです。この肉体は泡のようなもので、長く存在することができません。かげろうのようなもので、渇愛から生じます。夢のようなもので、虚妄が見えたものです。影のようなもので、業の縁から現ずるのです。木霊のようなもので、もろもろの因縁に依存しています。浮雲のようなもので、暫時に変滅します。稲光のようなもので、一瞬にして壊れます。 この肉体は実態のないもので、ただ元素によって成り立っているのです。空であり、我と我がものから離れています。この肉体は精神的ならざるものであって、草木瓦礫のようなものです。無作にして風車のように回転しているだけです。身は災いです。丘の上の涸れ井戸のようで、老いのためにゆきづまり死ぬべきものです。肉体は毒蛇のごとく、賊のごとく、人の住まない集落のごとくです。

維摩経

私たちは自分が価値を置く対象を信じます。

そして信じたものは実在化されることでますます現実味を帯び、もはやそれらを手放すことに抵抗と痛みが伴うようになります。

あなたにとって価値があると思っているものを手放すことはそれが幻想であるにも関わらず喪失の苦しみと知覚されるのです。

私たちは通常この肉体が私自身であると信じているため、この身体を安全に保護することがこの人生の最大の目的であるように感じ日々行動します。

この心の最奥に横たわっているものは

「私は小さくて弱く傷付きやすい不完全な存在である」

という信念です。

この信念が最後に導きだす結果は当然ながら

「私は死すべき存在である」

という確信です。

この私たちを捕らえ苦しめる信念はどのようにしたら取り消されるのでしょうか?

ちなみに信念を新たな信念で書き換えることは一見効果がありそうですが、実は新しい信念によってその苦しみが晴れることは決してありません。

ですから例えば「私は偉大で完璧なスピリットである」とか「私は純粋無垢ですべてと一体である」といった「真の自己」(神の子、キリスト、真我、アートマン)の属性に値する信念を繰り返し用いたり唱えても完全に信念が取り消され癒されることはないということです。

なぜなら、ワンネス(実相)の状態に必要性という不足したものは存在しえないからです。

つまりワンネスという「永遠なる安らぎ」や「永続的な愛」は喪失や不足のあらゆる思いからは完全に自由であり、信念も含め何かに支えられることによってその平安や安全が築かれ維持しているわけではないからです。

この無条件さがワンネスや愛の本質であり、そこに条件付きの何か(信念など)が必要だとすればそれは完全に矛盾することになってしまいます。

真に意味のあることは信念より以前に、私たちがある願望を持ったことを直視した上で赦すということです。

直視するとは、それを咎めずありのままに観て認めるということです。

そして信念の前には必ず願望(選択・決断)があるのです。

その願望が私たちの苦しみの原因になっていたことを正直に認めることが真に意味のある結果をもたらします。

その原初の願望とは何だったのでしょうか?

それはワンネスから離れてみたいという神からの分離の願望です。

創造主である神は神の子を創造し、その一体性の中で完全な平安とともにあります。

ここに違いや不足、必要性といった分離の思考は存在しません。

神はすべてを等しく愛することで完全性や全体性が保たれているからです。

つまり、神の子は神の愛の延長上に創造され、完全無欠、純粋無垢、全知全能、不生不滅といった神の属性のすべてを継承しているのです。

ですがあるとき神の子に、ふとある思いがよぎります。

私だけを特別に愛して欲しいと。

ですがこの願いは神が神であるが故に全体から切り離された部分というものだけを愛することはできません。

あなたは特別な好意を求めるようになるまでは、平安の中に居た。その要求は神にとって異質のものであったから、神はそれを与えなかった。(T-13.3:10-2)

奇跡講座/中央アート出版社

そこで神の子は自分が神と同じ力を継承しているなら、自分は神が唯一叶えることができない神聖さの象徴である「完全性や一体性」の真逆である、「特別性」という部分的であり制限的な分離の概念が土台となった「特別な愛」というものが叶えられる世界を創造主である神を排除した上で自分が神になり代わって作り上げられるはずだと願望します。

神からの特別な愛を望むという密かな願望から生まれた特別な関係の中で、自我の憎悪が勝利をおさめる。なぜなら、特別な関係とは神の愛の拒絶であり、神からは拒まれた特別性を、自己のために自ら確保しようとする試みだからである。(T-16.5:4)

奇跡講座/中央アート出版社

これはまさしく神の権威を横領し自分が神の座に付くということを意味します。

その一瞬の狂った思考に対して深刻化してしまった神の子は次の瞬間、深い眠りに陥り、夢の中で神の子の思いは現実化し神の子は一瞬にして神から分離してしまいます。

真理という天の国の記憶が完全に失われ、無知なる闇の中へと堕ちていき一人になってしまった神の子はこの夢の中で思います。

愛によって命を授けてくれた神を捨てた(真理の放棄)ということは、神への裏切り(真理への冒涜)に違いない、自分は神に対して大きな罪を犯してしまった。

神は私の裏切りに対して、きっと罰をもって報復してくるだろう。

これが、神の子の罪と罰の原型(原罪)であり、キリスト教では放蕩息子ほうとうむすこの話として、仏教では法華七喩ほっけしちゆ長者窮子ちょうじゃぐうじ喩えたとえとして伝えられています。

神の子は罪の意識と罰への恐れに耐えきれなくなり自己を乖離します。

自我という別人格を作り出し、罪と罰を自我に託して身の安全を図ったのです。

そして、神の子は自我を神(偶像)として祭り上げ、自身の力の全てを明け渡した結果、自我の支配の下でこの世界を作り出します。

それが今では自我という偽りの神による天地創造の話として古今東西の神話によって語り継がれているものです。

神が実相世界を創造したように、眠りについた神の子は夢の中でこの幻想世界を偽創造したのです。

神からの分離、そして乖離という自己分裂が更なる分断、分離を起こし心はますます細分化されていった結果それを象徴する分離の世界と肉体という概念が作り出されます。

実相世界は純粋な一元論世界であったが、自我の偽創造した幻想世界は、あらゆるものが二つの対立構造によって分裂した二元論世界となります。

真実と幻想、愛と憎悪、光と闇、美と醜、善と悪、喜びと悲しみ・・・

神の子は失ったものへの罪悪感と今では懲罰の象徴となってしまった神からの報復を一つの心で受け止めることの恐怖により自己を分裂させ、数多くの肉体の中に分離した心を閉じ込めることで、その罰をもなんとか分散させたいと願います。

そうして肉体に閉じ込められた心の一つ一つが自我に支配され、今では完全に自我と一体化し、自己中心的で利己的な存在となってしまいました。

ですから、一なるものが罪悪感によって多が生み出され、純粋で単純なものは今では複雑多岐にわたり世界は混沌と化しました。

その結果は世界を見渡せば分かる通り、原初の願望は個人的であらゆる物理的な願望達成へと様変わりしてしまいました。

つまり、この世界で得られるものを通して私の不足は満たされ、私の罪は私の死という罰によって神による処罰を軽減できると思い込んだのです。

すでに述べたように、望み通りになるという思考が、自我が自分の望むものを実現させるために用いるやり方である。自我のゴールを実在する実現可能なものと見せかけるための、願望の力、すなわち信の力を、この思考以上にはっきりと実証するものは他にない。実在しないものへの信は、狂気のゴールに適合させるために実相を調整することへとつながる。罪というゴールは、その目的を正当化するために、恐ろしい世界という知覚を誘発させる。(T-21.2:9)

奇跡講座/中央アート出版社

この世界の価値の序列が恐れの知覚を可能とさせ、またワンネスから離れてしまったことにより手に入るものが神の愛の代替物に成り下がってしまいました。

この世界のすべては自我が作り出したものであるため、永遠なるものは一つとしてありません。

無常で変化の著しいこの世界は儚くて脆いハリボテの城のようものです。

神の愛の模造品で欠陥品でしかない偽りの幸せを頼りにして人生を生きるということは最後の最後で完全に裏切られる結果となります。

あなたには、自分で自分を創造しなかったと認識する必要があるのと同じくらい、自分の見ている世界を自分で作り出したと認識することが必要である。それらは同じ間違いである。(T-21.2:11)

奇跡講座/中央アート出版社


自我による誘惑 肉体編(2/2)へ続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。


〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍

記事内容を気に入っていただけましたら、サポートしていただけると嬉しいです!