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特別性と罪悪感の関係(2/5)〜攻撃と防衛のサイクル〜

特別性と罪悪感の関係(1/5)〜特別であることの魅力とその危険性〜

攻撃と防衛のサイクル

次に構築されるのが、攻撃と防衛を繰り返す二次的なサイクルです。

あなたが自分に罪があると信じて、自分の罪悪感を他者に投影して他者を攻撃したなら、あなたは自分の有罪性は罰せられて当然と信じることになります。

つまり、あなたは相手を攻撃したのだから、相手から反撃されるに値すると信じるようになります。

ここで、その相手が実際に反撃してくるかどうかは関係ありません。

あなた自身に罪悪感があるというだけで、あなたは相手が反撃してくると信じます。

相手があなたに反撃してくると信じているあなたは、相手の攻撃から自分を守る防衛をしなければならないと信じることになります。

ここであなたは自分が有罪であるという事実に蓋をしようとしているわけですから、あなたに対する相手の攻撃は正当性のないものだと感じることになります。

あなたが相手を攻撃するなら、その瞬間にあなたが無意識に抱く恐れは、

「相手は私に反撃してくるだろう。だから、私はそれに備えておかなければならない」

というものです。

ですから、あなたは相手からの攻撃に備えて防衛を構築しなければならなくなります。

これが何を達成するかといえば、その相手に恐れを抱かせることだけです。

そして、相手とあなたの間にはこのことにまつわるパートナーシップが出来上がり、そこでは、あなたが相手を攻撃すればするほど、ますますその相手はあなたから身を守るために防衛し、あなたに反撃することが必要になります。

そうするとまた、あなたはさらに、相手から身を守るために防衛し、相手に反撃することが必要となります。

世界はただ防衛の姿勢を引き起こすのみである。脅威は怒りをもたらし、怒りは攻撃を当然で正直な反応と見せ、正当防衛の名において正義にかなったものと思わせる。しかし防衛の姿勢は二重の脅威である。それは弱さを証しし、効果のない防衛体系を打ち立てるからである。そうなると、弱きものがさらに弱められる。なぜなら、今や、外にも裏切りがあり、内にはさらに大きな裏切りがあるからである。心は今や混乱し、自らの想像の産物から逃れるために何に頼ればよいのかがわからない。それはまるで、もはや脱出を望むことも達成することもできなくなるまで幾重にも心を取り囲んで、しっかりと封印してしまう円陣のようなものである。攻撃しては防衛し、防衛しては攻撃する。これが日々、刻々と繰り返される。一巡すればまた最初から始まるこの周期が、心を幾層もの鉄と鋼からなる分厚い壁の中に閉じ込める。心を幽閉し、どこまでも締めつけてくるその力には、中断も終わりもないように見える。自我が取り立てる代価の中でも、防衛は最も高くつくものである。防衛の中にはあまりに残酷な形をした狂気があるため、正気を取り戻す望みなど実現不可能で不毛な夢としか思えない。この世界が助長する脅威の感覚はあまりに深く、その狂おしさや強烈さは、あなたの想像を絶している。そのため、それがもたらしてきた惨状の全容は、あなたには見当もつかない。あなたはその奴隷になっている。それを恐れるあまり、自分が何をしているのかわかっていない。あなたはその鉄の爪が自分の胸にくい込むのを感じているが、そうした自分がどれほどの犠牲を払わせられてきたかを理解していない。防衛の姿勢によって、自分が神の神聖な平安をどのように妨害してきたのか、わかっていない。あなたは神の子を、彼自身が作り出した空想や夢や幻想によって攻撃される犠牲者として見ている。しかも彼は、いくら防衛したところで無力な存在なので、自分の安全のように見える幻想の数々に慰めてもらえるように、さらに多くの空想や夢による防衛を必要としている。(W-pL.153.2)

奇跡講座/中央アート出版社

そうして、あなたはこれを繰り返すのです。

これと同じ心理が働いているのが、世界での核兵器の軍備拡張競争という狂気であると説明することができます。

また、あなたが感じている狂気についても同じように説明できます。

自分自身を防衛する必要が大きくなればなるほど、あなたは自分に罪があるという事実そのものを強化することになります。

これはまた、自我に関して理解すべき重要な原則の一つでもあり、おそらくそれを最も明確に述べているのがテキストの中の次の一文です。

防衛は、それが防ごうとしているまさにそのことを行なう (T-17.JV.7:1)

奇跡講座/中央アート出版社

すべての防衛の目的は、自分自身の恐れから自分を守ることです。

もしあなたが恐れていなかったなら、防衛など必要ありません。

けれども自分が防衛を必要としているという事実そのものが、自分は怖がらなければならないと告げています。

なぜなら、もしあなたが恐れていないのなら、わざわざ防衛などする必要はないからです。

あなたが自分を防衛しているという事実そのものが、あなたが恐れているという事実と、自分は有罪なのだから怖がるべきだという事実を強化しています。

ですから、自分を恐れから守ってくれるはずの防衛そのものが、恐れを強化しているのです。

したがって、自分自身を防衛しようとすればするほど、あなたは自分が自我であるということ、つまり、罪深く罪悪感と恐れを抱いている存在であるということを自分に教えていることになります。

自我は本当に抜け目がありません。

自我は、あなたに自分を防衛しなければならないと確信させますが、あなたはそれを実行すればするほど、ますます罪悪感に苛まれるようになるのです。

自我はあなたに、自分の罪悪感から身を守るためにはどうすればいいか、数多くの方法を教えますが、自我が差し出す保護そのものが、この罪悪感を強化するものに他なりません。

ですから、あなたはただぐるぐると回り続けているのです。

ワークブックの中に、

防衛しないことの中に、私の安全がある(W-pL153)

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という素晴らしいレッスンがある理由がまさにこれなのです。

もしあなたが、自分は真に安全であり、自分を真に保護するのは神であると本当に知りたいのなら、そのための最良の方法は、自分自身を防衛しないようにすることです。

ですから、あなたはイエスの最期の日々について語る福音書の中に、彼は自分を一切弁護しなかったと伝える文面を見いだすのです。

捕らえられたとき以来、あなどられ、鞭打たれ、迫害され、殺されるまでの間ずっと、イエスは自分を弁護しませんでした。

そして、そのときイエスが言わんとしていたことは、

「私は防衛を必要としていない」

ということでした。

なぜなら、ワークブックの中にあるように

神の子は、彼の実相の真実から身を守る防衛を必要としてはいない (W-pl.135.26:8)

奇跡講座/中央アート出版社

からです。

あなたが自分が誰であるのか知っていて、またあなたの父、つまり天国の父なる神とは誰であるのかを真に知っているとき、あなたは自分自身を守る必要はありません。

真理に防衛など必要ないからです。

けれども、自我の思考体系の中では、あなたは保護されることが必要だと感じ、したがって常に自分を防衛することになります。

ですから、この二つのサイクルは、自我の手口全体を維持するという役目をしっかりと果たしているわけです。

罪悪感を感じれば感じるほど、あなたは攻撃を強めます。

攻撃すればするほど、ますます罪悪感は募っていきます。

そして攻撃を続けると、予測される処罰や反撃から身を守ろうとして自分を防衛する必要をますます感じることになります。

そして、そうした防衛そのものもまた攻撃に他ならないのです。

この自我の構造の原型は、アダムとイブの楽園追放の中に見られます。

創世記の第二章は、アダムとイブが恥じることなく、裸でお互いの前に立っている場面で終わります。

恥とは実際には、罪悪感のもう一つの呼び名に過ぎません。

「恥を知らない状態」とは、分離以前の状態を表現したものです。

換言すれば、罪がなかったので罪悪感もなかった状態です。

創世記の第三章で初めて、原罪の話がでてきます。

そして、それはアダムとイブが禁断の木の実を食べたところから始まります。

その行為が、神に対する不従順ということになり、実際のところ、それが罪というものです。

彼らは自分たちを、神から分離した意志、つまり、神が創造したものとは別な何かを選択することができる意志を持つ存在として見ているということです。

そして、これが自我の誕生です。

つまり、罪を犯すことは可能だという信念です。

そういうわけで、彼らはリンゴを食べるわけですが、食べたあとまず最初に彼らがしたことは、お互いを見て今度は恥を感じて、体を被い隠したということです。

彼らはいちじくの木の葉を腰に巻きつけました。

そしてこれが、罪悪感(恥)の表現となりました。

彼らは何か罪深いことをしたと悟り、自分たちの体が裸であることが、彼らの罪の象徴となったわけです。

ですから、それに対して防衛をしなければならないということになり、そのことが彼らの罪悪感を表現しています。

そのすぐ後に続く場面で、アダムとイブに神の声が聞こえてきて、神が彼らを探しているのが分かります。

そして今や、彼らは神に見つかったらどんな目に合わされるだろうと恐れを抱きます。

ですから、神に見つからないようにと、彼らは灌木の陰に隠れます。

ここに見られるのは、罪を信じる信念、つまり神から自分を分離させることが可能だと信じることと、それをしてしまったという罪悪感との間にある関連性、および、神が私たちを捕まえて罰するときには、自分たちに何が起こるのだろうかという恐れです。

実際、創世記第三章が展開するにつれて、アダムとイブが恐れていた通りだったことが分かります。

神は彼らを罰するからです。

おもしろいことに、神がついにアダムに問いただしたとき、アダムは罪悪感をイブに投影して

「私がしたのではありません。 イブが私にさせたのです」

と言います。

すると、神は今度イブに問いただしますが、イブも全く同じことをして次のように言います。

「私がしたのではありません。私を責めないでください。それはヘビのせいです」と。

というわけで、あなたが自分の恐れと罪悪感から自分自身を守るためにしているのと全く同じことが、ここでも行なわれていることが分かります。

つまり、あなたは非難を誰か別の人へと投影してしまうということです。

すでに述べたとおり「罪悪感は常に処罰を要求する」ということを思い出してください。

自我の考えによれば、アダムとイブは自らの罪ゆえに罰せられなければならないということになります。

ですから、神が彼らを捕まえたときには「生まれた瞬間から死に至るまでずっと、苦痛と苦難に満ちた人生を生きなければならない」という処罰を神は彼らに与えます。

この全プロセスを、イエスがどのように取り消すのかについては後ほど述べます。

いずれにしても、創世記のこの章は、罪と罪悪感と恐れの間の関係という、自我の全構造についての完璧な要約となっているのです。

自我が罪悪感から身を守るための主な防衛方法の一つは、他人を攻撃することです。

そして、あなたの怒りが常に行っているのが、まさにそれであると言えます。

つまり、自分が罪悪感を他人に投影することを、怒りが正当化しています。

ここで認識することが極めて重要なのは、この世界(そして、世界の一部であるあなたと私たち全員)が抱いている

「自分が怒っているという事実をどうしても正当化しなければならない」

という思いがどれほど強いものであるかということ、そしてその理由は、あなたは敵を持つ必要があるからだということです。

この世界に生きる人で、何らかのレベルで、善悪(二元的思考)という性質を世界に付与していない人はいません。

そして、あなたは世界を分割して、ある人々を「善」の枠組みの中に入れ、別の人々を「悪」の枠組みに分類します。

その目的は、あなたが自分の罪を投影できる相手を持たなければならないという、途方もなく大きな必要を満たすことです。

あなたは少なくとも一人、または一つの概念、または一つのグループを「悪」としてしまうこと、つまりスケープゴートにしてしまうことを必要としています。

これが、すべての偏見と差別の根源です。

それは、通常は無意識のものですが、あなたが持っている巨大な欠乏の穴(神から分離したことの罪)を埋める必要性です。

自分自身の罪悪感の重荷から逃れられるように、 スケープゴートにできる誰かを見つけなければならないという必要です。

これが、有史時代の初めからずっと続いてきたことです。

主要な思考体系のどれについても同じことが言えますし、この世界に存在したことのある生存形態のどれについても言えます。

それは常に、善人と悪人がいるという前提の上に立っています。

またこれは、明らかに、キリスト教の歴史の中にも見られます。

その始まりから、善悪から分離するプロセスがありました。

まず、イエスを信じたユダヤ人と、イエスを信じなかったユダヤ人に分かれ、その後は、イエスを信じた者たちは、さらに、聖ペトロ、聖パウロ、 聖ヤコブなどに従った者たちのグループへとそれぞれ分かれていきました。

そして、教会もそれ以来、宗派に分かれ続けてきました。

またそれは、仏教の歴史においてもまったく同じ道を辿っています。

こうしたことが起こるのも、同じように自分とは違った人、自分ほど善人でない誰かとして見ることのできる相手を見付けなければならないという、あなたの無意識の必要に起因するものです。

繰り返しますが、 このプロセスに対するあなたの執着がどれほど強いものかを認識することは、大きな助けになります。

こうした必要があるからこそ、映画の最後の場面で善人が勝ち、悪人が負けるのを見て誰もが喜ぶのです。

あなたは、悪人が処罰されるのを見ることについても、同じ執着を共有しています。

なぜなら、その処罰の時点であなたは自分の罪から逃れられたと信じるからです。


特別性と罪悪感の関係(3/5)〜「特別な憎悪」と「特別な愛」〜へ続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。

〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍


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