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特別性と罪悪感の関係(1/5) 〜特別であることの魅力とその危険性〜

特別であることの魅力とその危険性

今回は目醒めへのプロセスにおいて、あなたが最も抵抗感を覚え、また認識しづらく、それ故に最も恐れている「特別性」とそれに密接に関連した罪悪感について解説していきたいと思います。

この特別性の魅力は、分離の階梯を神との一体性へと戻っていく過程において最大の躓きの石となり得ます。

なぜなら、自我(エゴ)にとってみればこの特別性というものの正体こそがあなたに最も気付かせたくないものだからです。

そして、これが見破られることを自我は非常に恐れています。

ですから、そういった理由で自我は特別性の魅力にあなたを誘惑し続けます。

この自我による誘惑の効果の効き目は、あなたがこれまで一度たりともこのことに関して疑問を抱いたことがなかったという理由において完璧に機能しています。

さらに、これから詳細を述べていくにあたって、これまであなたが自我と一体となって生きてきたがために、真理に対して生じる防衛心は様々な態度として現れてくるようになります。

最もあからさまな態度としては、このことに対して怒りを覚えるというものです。

しかし、この記事をそもそも今現在、読んでいるあなたにはきっとそれは起こらないことでしょう。

では、どういったときにその症状が現れるのかというと、あなたがこの内容を理解した上でこのことを誰かに話したときです。

そして、その相手とは高い確率でまだこのことを受け入れる準備の整っていない人に向けて話されたときです。

特別性とはそれぐらいこの世界に浸透していて、誰もが信じ崇拝しているものなので、それを否定されることは命を奪われるような恐ろしさを呼び起こすものなのです。

ですから、怒りで応答し攻撃してくる人々はあなたこそが狂っていると本気で思っているのです。

しかし、そういったあなたへの攻撃は実のところ、兄弟の愛と助けを求める呼び声に過ぎないと観ることができれば、それすらも赦しの機会にすることは可能です。

よってこの特別性の理解は、あなたの内側を正直に観ることで、あなたの心を変えるためだけにあるのです。

ですから、決して世界や他者を正すためのものではありません。

世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。(T-21.In.1:7)

奇跡講座/中央アート出版社

そういうわけで、怒り以外の特別性についてのあなたの反応がどういったものになるかといえば、例えば、このことに対して数々の疑問が生じてきたり、またその反応が大きく出る場合には、疑念や不信といった疑いの心となって現れたりします。

また、それが微妙なレベルで生じるときは、眠気に襲われ内容がまったくといっていいほど頭に入ってこなかったり、まったく関係のない思考によって気を散らされるといった状態も引き起こします。

そのすべてが、自我による真理に対しての防衛であり、神が創造した神の子として目醒めることへのあからさまな遅延行為となります。

あなたは特別なものに極度に反応します。

というのも、あなたは特別な人と親密になりたかったり、特別な日を祝ったり、特別な場所に赴いたり、特別なものを集めたりと、とにかく特別なことを経験したり、特別な存在になることを目指すためにこの世界を日々生きているからです。

そして、他者から特別扱いされることを喜ぶ一方で、差別や見下されるといった逆の特別扱いには酷く悲しみ、ときには怒りで対抗したりもします。

ここで「特別」という言葉が意味していることを今一度おさらいしてみます。

特別とは、広く通用する状態とは異なる状態、即ち例外となる状態のこと。
類義語は「特殊」「特異」「奇異」「殊(こと)」「異(こと)」「特(こと)」など。
「特」という字は「目立つ」「異なる」「抜群」「中でも一つ」という意味を持つ字であり、「特等」「特A級」というように接頭語として「一つだけ別」「例外的」という意味でも使用されている。
「別」という字は「分ける」「分けられた」という意味も持っており、「区別」「判別」「別個」「別格」というように使用される。
「特別」という語は、「目立っていて分けられる状態」「一つだけ分けられる状態」「通例とは異なる状態」「例外的」という意味だが、「重要である」という意味合いも強い。

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つまり、特別とは他とは違っていて区別されたものということ。

それは「異例」で「レア」で「並外れ」ていて「別格」なるもの、つまり特別であることは、この世界では「優秀で目立つ」といった意味合いが含まれているのです。

では、特別の反対語である「普通」という言葉の意味も見ていきたいと思います。

普通とは、広く通用する状態のこと。
普通の「普」は、「あまねく」「広く」を意味する字である。
類義語として、「一般」「通常」「平常」「平凡」「平庸」「凡庸」「平(ひら、なみ、つね)」「並(なみ、つね)」「庸(なみ、つね)」など。

ウィキペディア(Wikipedia)

つまり、普通とは一般的にありふれていて何の変哲もなく月並みであるということ。

それは「退屈」で「珍しくもなく」「ありきたり」で「面白くも何ともない」もの、つまり普通であることは、この世界では「劣っていて目立たない」といった意味合いが含まれているのです。

あなたがなぜこんなにも特別なものを好み、反対に普通であることを毛嫌いするのかと言えば、そもそも自我自体が特別な存在(異例で異様で異常な存在)だからであり、それと無自覚で一体となっているあなたは自我の支配下の元、こうした自我の要求を無条件で受け入れてしまっているためなのです。

自我はとにかくこの世界で分離の信念を強化させるために「特別性」の魅力にあなたを引き付けておくことに必死です。

そして、そのことに対して無頓着なあなたは、この世界でとにかく違いを生み出すことに専念しています。

その結果として、今のあなたを作り上げているアイデンティティの全てがそれを証明しています。

自我が自己証明として利用する典型的なものには性別、年齢、職業、肩書き、他人からの評価、学歴、ルックス、特殊技能、交友関係、家柄、所有物、信念体系などがあります。

ときには政治や国家、人種、宗教などの集合的なアイデンティティも利用されます。

あなたはこれまでの人生で経験し獲得してきた様々なラベルを自身に貼り付け「私はこういう者です」と世界に宣言しています。

あなたがそうする理由は、これまでに何度も繰り返して述べてきたように、神の子が神から離れる決断をしたときに、神から継承した永遠で不変なる生命いのちといった完全に自由で安全で無垢なるもののすべてを失ったためです。

あなたは、分離から生まれた欠乏の信念を抱いて、この世界で絶対に満たされることのない穴を埋めるべく必死に生きています。

なぜなら、その穴は神から分離したという最大の過ちによって生じた罪の意識だからです。

あなたは、真理から離れてしまったことによる罪の意識から、神があなたに報復してくると信じて非常に恐れています。

しかし、そのことは意識下には登ってこないため、これにあなたが気付くことはまずありません。

ですが、この世界はあなたの心の投影であるために、その影であり象徴ならあなたは今までに何度も経験してきたはずです。

その影であり象徴とは、あなたが何か失敗や間違いを犯して誰かを傷付けたり、何かを奪ってしまったときに生じる後ろめたい感情です。

その罪悪感はあなたの心が感じているために、あなたがどこにいようとあなたに付き纏います。

一時的な快楽や幸せで蓋をしたとしても、ふとした瞬間にその罪の意識は顔をのぞかせあなたを憂鬱にさせます。

あなたは、あなたがしてしまった罪によって被害者に顔向けができずに、その対象者に会うことを恐れます。

なぜなら、罪の意識という原因は、罰(被害者からの報復)という結果をあなたの世界に召喚するからです。

それが、友達同士や家族間でのたわいもないレベルの過ちであれば、一時の間、距離を置き顔を見ないことで収束するかもしれませんが、例えばそれが重大な事件となってしまえば、人によってはその罪から逃れるために被害者からも、またあなたを捕まえに来る警察からも必死に抵抗してしまうことは、これまでの人類史を見てみても明らかです。

このように、罪悪感の真の原因というものが神との一体性から分離したという、あなたの心に今でもある罪の意識によるものですが、自我はこれをあなたの無意識の奥深くにひた隠し、あなたの外側の世界で巻き起こる事象に注意を向けさせ、決してその原因がある場所(心の内奥)を観ることがないように仕向けます。

自我は、神の属性を反映した普通なるもの(同一性の故に分離した他のものがなく、永遠で変わることがない愛と平安)から少しでも早く手を引くように、特別さの魅力へとあなたを惹きつけます。

こうしてあなたは、分離が象徴する欠乏の信念によって、他者と切り離された孤独で脆弱なる肉体を持った一個人として、その身体を安全に保つために特別さを求めなければならなくなります。

なぜなら、この世界で普通なるものを求めることは肉体の死を意味するからです。

自我はあなたに、肉体の目によって物事や他者を比較、判別し、また価値判断することを推奨します。

比較とは自我による仕組みに違いない。愛はいかなる比較もしないからである。特別性は常に比較する。それは他者の中に見られる欠乏によって確立され、知覚可能なあらゆる欠乏を捜し出して、それをはっきりと見えるところに保持することで維持される。特別性が探し求めるのはこれであり、目を向けるのもこれである。そしてそれがそのようにして貶めるその人は、もしあなたが自分の特別性を測る小さな物差しにするという選択をしていなかったなら、必ずあなたの救済者となったはずの人である。あなたが彼の中に見ている卑小さを背景にすれば、そこに見えているものとの比較において、あなたは気高く堂々としており、清廉にして正直、純粋にして汚れなきものということになる。またあなたは、このようにして貶めている相手は自分自身だということも理解していない。(T-24.2:1)

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聖霊はあなたが肉体ではないことを知っていますので、心の目、つまり心眼ヴィジョンで観ることをあなたに教えます。

それが意味しているのは、すべての物事や他者を見かけ上のもので判断することなく、その奥にある神聖さという神から受け継いだ、たった一つの大いなる愛の光を見て欲しいということです。

つまり、自我はあなたが違いを見ることによって分離の想念を強化させることへとあなたを導き、聖霊は反対にあなたに見かけの形を超えた先の、兄弟と共有している同じ光を観ることを教えることで分離の想念を取り消し(罪を取り消し)、神との一体性を思い出して欲しいのです。

分離は換言すれば「殺意の想念」でしかありません。

なぜなら、神の子を罪深き人の子として見ることだからです。

他者や自分を人の子として見るなら、あなたは必ず他者も自分もいずれ死ぬ運命にあることを無自覚に宣告していることになります。

特別性を求めるということは、そういうことなのです。

特別性の追求は、常に平安を犠牲にして為される。自分の救済者を攻撃して貶めておきながら、彼からの強い支援を認識できる者などいるだろうか。彼の全能性を減じておきながら、彼の力を共有できる者などいるだろうか。そして、彼を卑小さの尺度として用いておきながら、限界から自由になれる者などいるだろうか。あなたには救済における機能がある。それを追求することはあなたに喜びをもたらすだろう。しかし、特別性の追求は、あなたに苦痛をもたらさずにはいない。そこにあるのは、救済を挫折させるゴールであり、したがって、神の意志に対抗しようとするものである。特別性に価値を置くことは、あなた自身についての幻想のほうを真理よりも大切にする異質な意志を尊重することである。(T-24.2:2)

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この世界の人々が普通というものを忌み嫌う一つの事象としてこんなものがあります。

2021年、食品・日用品の国際企業であるユニリーバは、ヘアケア製品などのビューティー商品から「ノーマル」(ここでは標準的、普通という意)とする表記を排除することを表明した。これは同社が世界各国で行った調査で、過半数の人が髪や肌に関して「ノーマル」という言葉が使われることに抵抗感を抱くことが判明した結果としている。

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普通(ノーマル)という言葉には何の特別性もないという理由から、大手企業もこれに従わざるを得ないのです。

この、抵抗感のすべてが神に対する防衛になっています。

ですから、この世界と無自覚で積極的に関わるということは特別な関係を受け入れることになるのです。

その結果は当然ながら、真の原因である罪悪感を観ないことによってそれが温存され、この世界で罪悪感を抱く様々な現象をあなたは永遠に経験することになるということです。

特別性の真意を明らかにすることは、それを受け取れない人にとっては怒りとして表現されることもあると冒頭で述べました。

この怒りは、神に対する恐れがその源となっており、それを防衛する手段として現れた一表現に過ぎません。

また、それは罪悪感を強化することにも貢献しています。

自我はこの罪悪感を餌にして生きているのです。

あなたが自我に向って助けを求め、

「私の罪悪感を取り除くのを助けて欲しい」

と言うとき、自我はすぐさま答えます。

「了解しました。あなたの罪悪感を取り除く方法は、まず最初にそれに蓋をする(抑圧する)ことです。その後、それを他の誰かに投影することです。そうすれば、あなたは自分の罪悪感を取り除くことができます」と。

しかし、ここで自我があなたに秘密にしているのは、投影された罪悪感というのは攻撃であって、攻撃とは罪悪感を手放さずにおくための最も効果的な方法だという点です。

自我は非常にずる賢く、こういったことに抜け目がありません。

あなたを人の子として有罪のままにしておきたいのです。

ここで、特別性の詳解を少し横に置いて、この罪悪感を強化させる考え方についてもう少し解説したいと思います。

というのも、これが自我があなたにどのように忠告するのかを理解するための鍵となる概念の一つでもあるからです。

ア・コース・イン・ミラクルズ(以下コース)は「罪悪の魅力」ということを言います。

罪悪の魅力は、愛に対する恐れを生み出す。なぜなら、愛はまったく罪悪に目を向けることがないからである。真理のみを見ることが、愛の本質である。愛はそこに愛自身を見て、神聖なる融合と完成の中で、愛自身と結びつこうとする。愛は恐れを見過ごすことしかできず、恐れは愛を見ずにいることしかできない。なぜなら、愛の中では罪悪は終わっており、それと同じく確実に、恐れは罪悪に依存しているからである。愛は愛だけに引き寄せられる。罪悪をすっかり見過ごしている愛には、恐れが見えない。まったく攻撃性をもたないので、愛は恐れることがない。恐れは、愛が見ていないものへと引き寄せられ、愛も恐れも、他方が見ているものは存在しないと信じている。愛が愛を見るときと同じような熱意をもって、恐れも罪悪を見る。そして、それぞれが外に送り出す使者たちをもっており、その使者たちは、自分に出立を命じたその言語で書かれたメッセージをもち帰る。(T-19.IV-A.10)

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自我は罪悪感を感じることに、強く惹かれています。

そのわけは、自我とは何かを思い出せば自明のことです。

自我が、否認して投影せよとアドバイスするのは、次のような理由があるからです。

すなわち、自我とは一つの信念以上のものではなく、あなたが神から分離したときに生じたかに見えた偽りの自己です。

ですから、あなたが分離が本当に起こったと信じている限りは自我は安泰です。

けれども、ひとたびあなたが分離は存在していないと信じるなら、自我はひとたまりもありません。

コースが言っている通り、自我はそれが作り出した世界と一緒に、それが生まれたところである無の中に消滅していきます。

自我は、本当に無なのです。

原罪が起こったと信じ、分離という罪が実在していると信じている限り、あなたは自我は実在すると言っていることになります。

罪が実在するということをあなたに教えるものは罪悪感です。

やましい気持ちは、常に「私は罪を犯した」という言明です。

そして罪というものが究極に意味しているのは、先にも述べたように

「私は自分自身を神から分離してしまった」

という信念です。

ですから、あなたが自分の罪は実在すると信じている限り、あなたは有罪だということになります。

そしてあなたが罪悪感を自分の中に見ようと他者の中に見ようと、あなたは

「罪は実在するし、自我も実在する」

と言っていることになります。

ですから自我は、あなたを有罪のままにしておくことが死活問題だと思っているのです。

自我は、罪悪感のない状態に直面したときにはいつでも、それを攻撃します。

なぜなら、自我の思考体系に対する最大の罪は、罪悪感を持たないことだからです。

あなたに罪悪感がなければ、罪もないことになり、さらにあなたに罪がなければ、自我は存在しないことになります。

テキストの中に、こういったフレーズがあります。

自我にとっては、罪悪感の無い者が有罪である(T-13 .II.4:2)

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というのも、罪悪感を持たないということは、「汝、有罪であるべし」という自我の戒律を破って罪を犯すことだからです。

あなたに罪悪感がないとしたら、あなたは「罪悪感がないという罪」を犯していることになります。

イエスは、あなたに罪はないと教えていました。

だから、自我はイエスを殺さなければならなかったのです。

イエスは自我に対する冒涜行為をしていたことになるからです。

自我が常に根本目的としているのは、あなたを有罪にしておくことです。

けれども自我は、あなたに面と向ってそれを言うことはできません。

というのも、それを言ってしまえば、あなたは自我に耳を傾けなくなるからです。

ですから、自我はあなたに、もし自我の言う通りにするなら、あなたは罪悪感から自由になれると言います。

そして、そのための方法は、すでに述べた通り罪悪感が自分の中にあることに蓋をして(否認し)、他者の中にそれを見て、その後その人を攻撃するということです。

そうすることで、あなたは罪悪感から自由になれるというわけです。

しかし、自我があなたに教えてくれないことは、攻撃とは有罪であり続けるために最も効果的な方法であるということです。

というのも、心理学のまた別の原則が述べている通り、自分の心の中であろうと、実生活の中であろうと、あなたが誰かを攻撃するときはいつでも あなたは必ず罪悪感を抱くことになるからです。

考えにおいてでも行動においてでも、誰かを傷つけておきながら、罪悪感を抱かないということは不可能です。

そうした罪悪感を日常生活の中で経験しないということはあるでしょう。

たとえば、精神病患者は罪悪感を感じません。

だからといって、深いレベルにも罪悪感がないという意味にはなりません。

というわけで、自我は実に巧みに罪悪感と攻撃のサイクルを構築します。

それによって、あなたが感じる罪悪感が大きくなればなるほど、それが自分の中にあることに蓋をして(否認して)他人を攻撃しなければならないというあなたの必要も増大していきます。

けれども、あなたが誰かを攻撃すればするほど、自分がしたことにまつわる罪悪感は大きくなります。

なぜなら、あなたは自分がその人を誤まって攻撃したということを、深いレベルでは認識しているからです。

そうした認識は、あなたに罪悪感を抱かせるだけであり、これがこのサイクルの全過程を何度でも繰り返させることになります。

この世界を動かしているのは、この罪悪感と攻撃のサイクルであって愛ではありません。

もし誰かがこの世界は愛によって動いていると言うなら、その人は自我についてよく知らない人になります。

愛とは神の世界のものであり、その愛をこの世界で反映することは可能ですが、この世界に愛の居場所はありません。

あるのは罪悪感と攻撃の居場所だけです。

そして、この力が個人としてであれ、集合的にであれ、あなた自身の人生の中に頑として存在しているのです。


特別性と罪悪感の関係(2/5)〜攻撃と防衛のサイクル〜へ続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。

〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍


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