クリスマスはあなたの聖性が復活する象徴である
今回はこのクリスマスの季節をきっかけに、”聖なる日を新たな視点で観ることの大切さ”というテーマに基づいてお伝えしていきたいと思います。
さて、一年の終わりも近づき、何かと忙しい時期にやってくるのが大人も子供も巻き込んだ一大イベントのクリスマスです。
雪も降るような寒い空気の中、街にはイルミネーションが灯り、あちこちでクリスマスソングが流れ「今年もこの時期がやってきた」と誰もが思います。
シャンシャンと鳴るベルの音、枕元のプレゼント、恋人や家族との温かな時間などなど、様々なイメージが浮ぶクリスマスですが、その起源がパッと思い浮かぶ人は、意外と少ないのではないでしょうか?
クリスマスがイエス・キリストの誕生日かと思いきや、実は古代ローマ帝国で生まれたイベントが由来といわれています。
クリスマスの本当の意味を探るヒントは語源にあります。
クリスマスを英語表記にすると「Christmas」
「Chirist」はキリストのことで「mas」はミサ(礼拝)をそれぞれ意味します。
つまり、キリストのミサという意味を持っており、ここでいうミサとは降誕祭のことです。
降誕祭とは「生誕を祝う祭り」のため、よく言われる「イエス・キリストの誕生日」という認識は間違いだということがこれで分かります。
新約聖書にはイエス・キリストの誕生日は明記されておらず、文献によって諸説ありますが、三月や五月と言われています。
これらのことを踏まえれば明らかに、クリスマスは私たちがイエスの誕生を祝ったことから始まりました。
ですから、クリスマスは本来イエスを中心としたものであるはずです。
けれども、もちろん世界の国々ではクリスマスがそのように祝われてはいないことを私たちは知っています。
今やクリスマスは世界的な規模の商業的イベントとなり、宗教的または精神的な祝日ではなくなっているからです。
ですが、クリスマスを別な見方で観ることができます。
それは、「この日をイエスを中心としたものにする」ということに沿った見方で観るということです。
歴史上の人物のごとくに見えていた「イエスという肉体を持った一個人」を中心にするということではなく、これはこの世界を観るときの見方に関するものです。
ですから、クリスマスの時期だけではなく、また「あなたが見たいと思う通りに」でもなく「イエスが観る通りに」世界を観るということです。
それは、目の前で繰り広げられている問題や他者の中に罪を見るのではなく、それを看過し、その先にある神の子としての無罪性や無垢性をイエスとともに観るということを意味しています。
罪という幻想の闇を見ることなく、その中に光り輝く「真の自己」であるキリストの光を観る決断をあなた自らが行うということです。
要するに、裁きの目ではなく平安の眼差しを通して相手を観ることができるように助けて欲しいとイエスに願い求めるということです。
それが、その相手との関わりを「イエスを中心としたものとする」ということの意味です。
イエスに求める助けは、状況や出来事や、経験や対人関係などを「イエスの見方で観る」ための助けになります。
状況や対人関係を裁きの眼差しで眺めるとき、あなたは自分自身の欠乏のレンズを通してそれらを見ています。
「どうすれば、この状況が私や相手にとって最も役に立つものになるか? 」
「どうすれば、この関係が私が必要とするものに最も適したものになるか?」
「この状況がどうなれば、私や相手の気持ちが楽になるか?」
これは換言すれば、
「私が幸せで平安でいられるために、どうすれば私にとって事がうまく運ぶようにできるか?」
と考えているわけです。
その幸せや平安は「神の平安」ではありません。
それは、この世界が定義する「偽りの幸せ」や「偽りの平安」です。
つまり、自分の欠乏の穴がうまく埋まることで必要が満たされたということです。
ですが「神の平安」はすべての人々を、すべての時にすべての場所で例外なく包み込むものです。
それが「このクリスマスの季節に、自分の対人関係のすべてと、毎瞬、毎時間、毎日のすべてをイエスを中心とするものにする」ということです。
そのイエスは、歴史的な人物としてのイエスや、聖書の中に登場するイエスではなく、あなたの中にある正しい心の象徴、そして愛の象徴としてのイエスです。
そしてその愛は、この世のものではない愛です。
それは、自我(エゴ)によって支配された限定的で排他的な愛の外側にある愛です。
助けを求めてイエスのもとに行き、多くのキリスト教信者がするように「イエスだったら何をするか」を尋ねるのではありません。
そうではなく「イエスならこの状況をどのように観るだろうか?」と尋ねるのです。
あなたが、自分の怒りや自分の境遇に絶望するのは当然という思いを正当化したくなったりするたびに「イエスなら私をどのように観るだろうか?」と尋ねるということです。
そうした結果、あなたの思考体系のすべてが上下逆転することになります。
実際、あなたは正しい方向を向くことになります。
なぜなら、そのときあなたは、ここにおけるすべてのものごとが、内側に戻って選び直すための機会であると認識することになるからです。
ですから、このクリスマスを「イエスを中心としたものにする」ということが意味しているのは自我の裁きや咎めではなくイエスの心眼という眼差しを通して観るということなのです。
それは、イエスの眼差しを通してあらゆる人々を眺めて、自分がいかに他の人々とまったく同じであるかを理解するということです。
裁きは他者との間に境界線を引くことで差別し攻撃しますが、心眼はそれらを取り去って一つに結びつけるものであり、あらゆる人々を同じと観ます。
それが、イエスが私たち全員を観ている見方です。
イエスは、あなたが自分の欠乏のレンズを通して世界を見て、自分の必要を満たすためだけに他の人々が存在するよう要求するのではなく、すべての状況と対人関係を神聖な出会いと観て、あなたがすべての人々と同じであると思い出せるように助けます。
その結果として、私たちはいずれこの差異と分離と欠乏の夢から目醒め、天国において創造されたままの神の子の一体性へと戻ることになります。
けれども、そのためにはあなたはまず、あらゆる人を同じと観なければなりません。
そして、あらゆる人を同じと観ることができるようになるためには、あなたは「同一性を観る心眼を持った教師」に頼らなくてはならないのです。
ここでのあなたの質問は「どうすれば兄弟を肉体なしで観ることができるだろうか」ということではありません。
そうではなく「私は本当に兄弟を罪なき者と観たいだろうか」と問うことだけが必要とされています。
そして、それを問うときに忘れてはならないことは、兄弟の無罪性があなた自身の恐れからの脱出だということです。
救済が聖霊のゴールであり、その手段は心眼です。
なぜなら、観ることのできる者が眺めるのは、まさしく罪なき者だからです。
愛する者は裁くことができません。
そして、兄弟が観るものは咎めからの自由です。
彼が観るものは、彼が自分で作り出したものではありません。
彼が観ることを可能にした心眼と同様に、それは彼が観るようにと与えられたものだからです。
あなたは自分自身の真のアイデンティティを知りたくはないでしょうか。
喜んで自分の疑いを確かさへと交換したくはないでしょうか。
自ら進んで不幸から自由になり、再び喜びを学ぼうとは思わないでしょうか。
あなたの神聖な関係はこれらすべてをあなたに差し出します。
それがあなたに与えられたように、その結果も当然あなたに与えられます。
そしてその聖なる目的があなたの作り出したものではないように、その幸せな結末をあなたのものにするための手段も同様にあなたからのものではありません。
求めさえすれば自分のものとなるものをあなたは喜ぶべきです。
そして、手段にしても目的にしても自分で作り出す必要があると思ってはいけません。
ただ兄弟を罪なき者と観ようとするあなたにこれらすべてが与えられます。
それを受け取りたいとだけあなたが欲するのを待って、これらすべてがあなたに与えられます。
観ることを求める者たちに、心眼は自由に与えられるのです。
新たな見方で観られたクリスマスは犠牲の終わりをあなたに告げます。
犠牲という考えのすべては、あなたが作り上げたものでしかないと認識することを恐れてはいけません。
そして、安全のない場所から自分を守ろうとする試みによって安全を追求してもいけません。
あなたの兄弟たちも、あなたの父も、今ではあなたにとってひどく恐ろしい存在となっています。
そして、あなたはいくらかの安全のかけらが見つかると思える特別な関係を求めて、兄弟や父と駆け引きをしようとします。
これ以上、あなたに授けられている想念とあなた自身の想念を離しておこうとするのはやめることです。
それらが一つのところに運ばれて、それらの存在しているところで知覚されたなら、そのどちらを取るかという選択は、穏やかな目醒め以上のものではなく、もはや夢の中で眠る必要もなくなり、日の光の中で目を開けるのと同じように簡単なことと思えるでしょう。
「キリストの時節」とは「聖なる瞬間」のことで、犠牲が存在しない瞬間のことです。
その瞬間において、あなたは自我を手放す選択をし、イエスをあなたにとって正しい心へと導く教師として選び直します。
その選択における特に重要な要素は「自分の外にあるもので、自分に影響を与えられるものは何もない」という認識です。
ですから、クリスマスの光とは外的なものではないということです。
この世界へのイエスの降誕は、形態のレベルとは何の関係もなく、またそれを肉体の誕生と見るべきではありません。
天国の愛を表わすこの偉大な象徴の現れとして観るべきもので、それは心の中にあるということです。
それは、現れたり消えたりするような儚く頼りにならないものではなく、常にそこに在ります。
ですが、季節としてのクリスマスは「キリストの時節とは常に今である」と思い出させてくれます。
あなたが実在するものと見なして、世界とその中の人間関係に投影した罪悪感の影の中でさえこの光は依然として輝いています。
心の中の聖霊の臨在は決して消え去ったことはありません。
ですから、クリスマスはこの「闇の中に輝く光」を記念する季節なのです。
クリスマスが今では商業主義的なものに姿を変え、大騒ぎする人々にあなたがうんざりするとしても、あなたはこのクリスマスの象徴を次のことを思い出すために使うことができます。
それは、個人としての生活の中でも、世界全体の中でも、何が起ころうともこの光はいつもあなたの内側で輝いているということ。
この世界の中の何ものも、その光をあなたから奪い去ることはできません。
それを取り去るのは、いつでもあなたによる決断だけです。
その決断とは、天国よりも偉大な力があるということを見ようとすることであり、愛よりも偉大な力があると見ようとすることでもあり、さらに自分がその力の源であると信じることでもあります。
それが、分離を信じる信念であり、罪悪感を信じる信念です。
ですが、そのすべてが自我の策略の一部に過ぎません。
真実を言えば、この光は常に在り、間違った決断によって消えることはありません。
聖霊のカリキュラムの中では、ここでの人生は夢であると繰り返し述べられています。
そして、夢はその源が無であるが故に実在していません。
ですから、心の中で輝いているこの「クリスマスの光」というのは夢を超えたところに実在する光のことです。
その光は、この世界に特徴的な罪悪感や憎しみや痛みや苦しみや死といったものすべてを超えた愛です。
この季節を次のことを思い出す機会として観てください。
あなたの生活で今どんな問題が起こっていようとも、神からの愛と平安、そしてクリスマスの希望の光を見付けることができるということを。
それは、確信へと変わっていく希望です。
何が起ころうと、暗いトンネルの向こうには常に光があるという希望です。
闇の中で輝くその光は確かにあるという希望、その光こそがクリスマスの真の意味なのです。
大切なことは、あなたがこの世界で恐れを体験するとき、それがどんな形で現実に表れようと、また夢の中で見るものであろうと、その恐れの対象はあなたの外側にはないということです。
あなたが真に恐れを抱いている対象は「内なる真理」だけです。
それは「天国」であり、「神」をあなたは今でも恐れています。
そして、神の声を代弁する「聖霊」も恐れ、また聖霊の顕現である「イエス」も当然あなたは恐れているのです。
つまり、あなたは愛に抗い、愛を疑い、愛を恐れていたということです。
あなたが作り出した世界と自己概念のすべてが「神の愛の光」によって消え去ってしまうことをあなたは恐れていたのです。
あなたが抱く不安や不満、そして悲しみや憎しみといったあらゆる憎悪の感情は常に内なる神に向けられた怒りなのです。
聖霊やイエスは、あなたを怒らせ悲しませる出来事や対人関係は、あなたの中にそういった感情が隠されていることを投影のはたらきを使って自覚させるための手段とします。
神や聖霊、またイエスがそういった苦しみの出来事を作り出したわけではありません。
あなたの神から分離してしまったという罪の意識が、自我によってこの世界にあなたを苦しめ罰しようとする様々な罪悪の証人たちをあなた自らが召喚し続けていたのです。
このことをあなたが自覚し、真に受け入れる意欲を持つなら、あなたがこれまで必死にせき止めてきた「大いなる神の愛」はあなたを満たし、またあなたを通して世界に、そしてあなたのすべての兄弟姉妹たちに流れ延長されていくでしょう。
ですから、あなたがイエスを受け入れ、イエスを頼りにしたとき、赦しの愛の眼差しによって世界は全く違ったものに観えてくるはずです。
今年のクリスマスが、あなたにとって新たな見方で世界を観るきっかけになることを祈っています。
そして、あなたの聖性の復活をここに祝福します。
あなたはもう一人ではありません。
なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
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