神の平安こそがクリスマスの真の贈り物である
クリスマスは日本でも広く浸透している一大行事です。
家族や恋人、親しい友人らと過ごし、プレゼント交換などを行うなど毎年たくさんの人々が楽しみます。
サンタクロースが空から舞い降り、煙突を抜けてやってきてプレゼントを靴下の中に入れてくれる、それは誰もが知っているクリスマスのイメージです。
ですが、「サンタクロースからのプレゼント」や「プレゼント交換」が真に意味しているものを知ることはあなたにとって非常に大切です。
あなたはこれまでの人生で、自身を含めて周りの人たちに沢山の贈り物をしてきました。
それは、物理的な物に関わらず、あなたが他者である兄弟に対しての心配りや気遣いという目に見えないもの、そしてまた、どのように兄弟を見るかということもここには含まれています。
これを総じて言えば、あなたが自分と他者に、そして世界にどのような価値を与えてきたかということです。
その価値の付与のすべてがあなたが与えてきた贈り物の総和となります。
しかし、あなたが差し出してきた物理的な物や非物理的な物という贈り物が実は、実在していなかったということにはまだ気付いていないかもしれせん。
実在していないだけならまだしも、その与えたものによって、あなたとすべての兄弟は苦しみを受け取っていたに過ぎないとしたらそれは衝撃的なことではないでしょうか。
あなたが自身を他者と切り離された一個人としての肉体と見るなら、あなたが差し出せる贈り物は、今述べたように卑小なものだけになってしまいます。
つまり、あなたが自身の本性をこのように見誤り続ける限り、あなたの贈り物は兄弟とあなた自身を傷付けるだけの欠陥品であり、不良品でしかないということです。
それは、神からあなたに与えられた偉大な贈り物と似ても似つかないものです。
あなたは、自分が今まで信じてきた卑小さに満足してはなりません。
そのためには卑小さとは何なのか、そしてなぜ自分が決してそれに満足できないのかを確かに理解することが必要です。
卑小さとは、あなたが自分自身に供える捧げ物です。
あなたはそれを、偉大さの代わりに差し出し自分に受け入れています。
この世界にあるすべては卑小なものばかりです。
なぜなら、その卑小さがあなたを満足させられるという自我(エゴ)の奇妙な信念によってあなたは欺かれているからです。
卑小なものの特徴は、確固たる土台によって築かれていないがために一時的であり、いずれ変化し崩れ去ってしまう運命にあります。
この世界の中の何かが自分に平安をもたらしてくれると信じて、それを手に入れようと努力するとき、あなたは自分自身を卑小なものにしており、偉大なる栄光に対し目と耳を閉ざしています。
「卑小さ」か「偉大さ」か、そのどちらかがあなたの努力や警戒の対象として選べる唯一の選択肢です。
あなたは常に、一方を犠牲にした上でもう一方を選択しています。
ですが、選択するそのときにあなたが気付いていないことは、あなたの選択は狭量な見識からくる自己評価に他ならないという点です。
卑小さを選択するなら、あなたは平安ではいられなくなります。
なぜなら、あなたは自分を平安にふさわしくない者と判断したことになるからです。
そしてその代替としてあなたが差し出すものはいずれも、あまりに貧弱であなたを満足させることはできません。
肝心なことは、どのような形をした卑小さも決して自分を満足させられないという事実をあなたが受け入れることです。
そして、さらにそれを喜んで受け入れることです。
あなたには気の済むまでいくらでも卑小さの形態を試してみる自由がありますが、それによってあなたがしていることは、自分の帰郷をただ遅らせることだけです。
というのも、あなたは偉大さの中でのみ満足でき、偉大さこそがあなたの生家だからです。
卑小さを後にして、無駄な放浪をやめることが犠牲になるでしょうか。
偉大なる栄光に目醒めることは犠牲ではありません。
しかし、栄光に満たないものを受け入れることは犠牲です。
神の接待主であるあなたの中で、神を讃えて生まれた平和の君に、あなたはふさわしいはずだということを真摯に学ぶことです。
あなたは愛とは何を意味するのかをまだよく分かっていません。
なぜなら、あなたは愛を卑小な贈り物で購入しようとし、そのようにして愛をあまりに過小評価することで、その偉大さが理解できなくなっているからです。
愛は卑小なものではなく、あなたの中に偉大なる愛として今でもあり続けています。
なぜなら、あなたは神の接待主だからです。
あなたの中に生きる偉大さを前にするとき、自分自身の真価についての貧弱な認識とあなたが差し出す卑小な捧げ物のすべては、無の中へと消えていくしかありません。
クリスマスとは、あなたと兄弟の復活と目覚めの祭典であり、このことは伝統的に百合の花と関連付けられています。
なぜなら、百合の花の白という色は、昔から清らかさと無罪性の象徴とされてきたからです。
赦しは、無罪性についての自覚を私たちの中に復活させるものであり、自我による「死の夢」から目醒めるための必要条件でもあるため、白い百合の花は赦しの象徴としてはまさに最適であると言えます。
あなたは、これまでの人生で自身と同一化させてきたこの肉体について、それを綺麗に着飾ったり、被ったり、使ったりするために作り出された装飾品の数々を今一度ありのままに眺めて観る必要があります。
これらは肉体の眼で見るために作り出された物ばかりです。
肉体の楽しみのために作り出された数多くの捧げ物についてよく考え、そのすべては、あなたが憎んでいるものを麗しく見せるために作り出されたということを聖霊はあなたに思い出させようとします。
あなたはこれからも、これらのものを用いて兄弟を引き寄せ、肉体の眼を魅了することで兄弟たちを惑わせ続けたいでしょうか。
あなたは兄弟に苦痛という茨の冠を差し出しているだけだということを聖霊やイエスから学ぶ必要があります。
あなたは自分では肉体の正体を認識せず、兄弟がそれを受け入れることによってその価値についての自分の解釈を正当化しようとしています。
ですが、そうした贈り物は依然として兄弟の無価値性をあなたに宣言するだけです。
なぜなら、兄弟がその贈り物を受け入れて喜ぶこと自体が、自分自身に価値を置いていないことを兄弟に確認させるからです。
それぞれの贈り物が、受け取る者と与える者についての評価になります。
それが意味しているのは、あなたが定めた兄弟とあなた自身の価値は、あなたの差し出した贈り物によって決まるということです。
あなたの差し出す贈り物は、神の子をどのような者と見なすかというあなたの判断です。
贈り物を捧げられる相手は、あなたの救済者であることを忘れてはなりません。
あなたが兄弟に茨の冠を差し出すなら、あなた自身が十字架にかけられます。
そして、それとは反対に百合の花を差し出すなら、あなたは自らを自由にするのです。
あなたが平安でいるためには、あなたが平安を学べるようにあなたが平安を教えるしかありません。
なぜなら「与えることと受け取ることは同一である」ということが天国の、そして神の法則だからです。
しかし、自我はこれを真っ向から否定します。
というのも、自我の思考体系によれば「与えたものは必ず失われる」という混沌の法則に従っているからです。
「与えること」についての自我の理解は、「私があなたに何かを与えると、私はもはやそれを所有していないことになる」ということであり、また「私があなたに何かを与えれば、あなたはそれをもっと多く持ち、私はそれをもっと少なく持つことになる」というものです。
自我は与えることを常に定量的な視点でしか見ることができません。
このことは、あなたが物質的なことについて話している場合でも、心理的なことや想念について話している場合でも、同じことです。
投影についての重要な側面の一つは、
「私の罪悪感をあなたにあげてしまうことによって、私はその罪悪感から自由になる」
というものです。
あなたは、想念を与えてしまったなら、誰か別の人がそれを持つことになり、自分はもはやそれを持たないと常に信じています。
聖霊による奇跡はそれを訂正し、
「私たちは、与えるものを受け取ることになる」
ということを教えてくれます。
というのも、あなたはすべての兄弟姉妹たちと一つだからです。
あなたは本当に、この世界の中にある何かを与えているわけではないのです。
ここには何もないからです。
一切はあなたの心の中にあります。
ということであれば、与えることは実際それを強化することになります。
もし、あなたが誰かに投影して、その誰かを攻撃することによって自分の罪悪感をその人にあげてしまおうとするなら、あなたが実際にやっていることは、自分自身の罪悪感を強化しているということです。
もし、あなたが愛を与えるのなら、そのときにあなたがしていることは、私の中に愛の臨在があるという事実を強化し、さらにその存在である聖霊がその愛を与えているという事実を強化していることになります。
だからこそ、あなたが与えるものは実際にはあなたが受け取るものになるということなのです。
与えることと受け取ることは同じことです。
それが、この聖霊によるカリキュラムの中にある鍵となる原則の一つです。
聖霊はあなたにすべてを与えているために、この世界で探求し獲得しようとすることをやめるようあなたに教えます。
あなたが獲得に必死になる理由は、あなたの欠乏の信念を埋めたいがためです。
欠乏の信念とは、罪の意識の信念です。
この罪の意識、すなわち神から分離してしまったというあなたのたった一つの罪悪感が、この世界での罪滅ぼしとして多大な努力や責任といった重荷という犠牲や代償を永遠にあなたに要求するのです。
いつものごとく上下が転倒した自我は、最初のレッスンを狂っていると知覚します。
実際、それが自我にとっての唯一の選択肢だからです。
自我にとっては、それよりもさらに受け入れがたいもう一方の可能性は、明らかに自我の方が狂っているというものです。
ここでも自我の判断は、いつものごとく自我というものの本質により最初のレッスンを否定します。
それでも、思考する者の心の変化に伴い、根本的変化は依然として起こります。
それまでの間、学ぶあなたは次第に明確になっていく聖霊の声を聞かずにはいられなくなります。
ということはしばらくの間は、あなたは相反するメッセージを受け取り、その両方を受け入れてしまうことになります。
あなたの世界の中では、あなたは確かにいろいろな物を必要とします。
なぜなら、ここは欠乏の信念によって作り出された世界であり、あなたに不足があるからこそ、あなたはこの世界であらゆるものを手に入れようとするのです。
ですが、このような世界の中であなたは本当の自分自身を見出せるでしょうか。
聖霊やイエスが居なければ、あなたはこれを決して見出すことはできません。
二つの世界の間の仲介者として、聖霊はあなたが必要なものは何か、そしてあなたを傷付けないものは何かを知っています。
所有権というものは、あなたに任せられるなら危険な概念となります。
所有することが自我の法則であるから、自我は身の安全(救済)のために物を所有したがります。
所有のための所有が、自我の根本的信条であり、自我自身のために建てる強固な土台となる隅石です。
そしてその祭壇で、自我はあなたに獲得を命じたすべての物を供えるようにと要求し、それでいてあなたにはそれらについての喜びを自我は何も残してくれません。
聖霊のみが、あなたに何が必要かを知っています。
光への道を阻むことのないすべてのものを、聖霊はあなたに与えます。
そしてそれ以外に何が、あなたに必要でしょうか。
時間の中では、聖霊はあなたが持つ必要のある一切をあなたに与え、あなたがそれらを必要としている間は、それらを補給し続けます。
あなたが何かを少しでも必要としている限り、聖霊はあなたからそれを取り上げることはしません。
それでも聖霊は、あなたが必要とするものはみな一時的なものだと知っており、あなたがすべての必要から一歩退いて、そのすべてが満たされていたと自覚するまでの間存続するだけだと知っています。
したがって、聖霊は自らが供給するものには何の思い入れもないが、あなたが時間の中でぐずぐずと留まるためにそれらを使わないようにすることだけは配慮します。
聖霊は、あなたがそこではくつろげないことを知っており、あなたの喜ばしい帰郷を遅らせ、待ち続けることは意志してません。
あなたが光から遠ざかるような無益な旅に出かけたい誘惑にかられるときはいつでも、自分が何を本当に望んでいるかを思い出し、次のように言ってみることです。
「聖霊は私をキリストへと導く」
「そして私はそれ以外のどこへ行きたいだろうか 」
「キリストの中で目醒めることの他に、私にどんな必要があるだろうか」
それから、喜びを抱いて聖霊についていくことです。
世界があなたの前に心の平安を脅かす様々なものを置いても、聖霊があなたを安全に導き、一切のものを通り抜けさせてくれるという信を抱いておくことです。
自我の犠牲の祭壇の前に跪いてはなりません。
また、あなたが確実に失うことになるものを探し求めることにも常に警戒しておかなければなりません。
あなたが今でも確かに持ち続けているもので、あなたが満足できるように聖霊にお願いすることです。
そして焦らずにいることです。
なぜなら、あなたは神の平安へと向かう静かな旅に出るのであり、そこに至れば神はあなたを静謐の中に保つからです。
クリスマスに空から舞い降りてくるサンタクロースは聖霊やイエスの象徴であり、そのサンタクロースからのプレゼントはあなたの聖性への復活を意味しています。
またプレゼント交換とは、あなたが兄弟に平安を与えることで、その兄弟から平安を受け取ることを表しているのです。
あなたが神の平安以外の卑小なプレゼントを兄弟に差し出すなら、あなたが兄弟から受け取るのは同じく卑小な苦痛という犠牲だけです。
あなたが、この世界で与えられる唯一価値あるものは愛と平安の反映である赦しだけです。
赦しは、愛と助けを求めてやってきた兄弟に差し出せる唯一の贈り物であり、それは愛による応答です。
あなたの与えた赦しという愛は、兄弟を癒やし「真の自己」であるキリストへと復活させ、それと同時にあなたも復活することになります。
ですから、あなたの解放は、兄弟姉妹たちのあなたによる解放にかかっているのです。
ここに、あなたの救済者にして友である兄弟がいます。
兄弟はあなたの心眼を通して十字架刑から解放され、今や自ら望む場所へと自由にあなたを導いていくことができます。
兄弟はあなたを去ることはなく、苦痛の中にいる救済者を見捨てることもありません。
そして、あなたが天国の開かれた扉を眺め、自分に呼びかけてきた我が家を認識するとき、あなたと兄弟は喜びの歌を歌いながら無垢性の道を共に歩いていくのです。
兄弟があなたをそこへ導いていくための自由と強さを喜んで与えてください。
そして、強さと自由が待つ兄弟の聖なる祭壇の前に来て、あなたを我が家へと導くことになる明るい自覚を差し出し、そしてそれを受け取ってください。
兄弟のために、あなたの中に明かりが今灯されています。
その光を兄弟に与えた手により、あなたは恐れを越えて確実に愛へと導かれるでしょう。
最後に、世界的に有名な曲であるクリスマスキャロル「英語訳のSilent Night(サイレントナイト)」の和訳を紹介しながら、この聖なる次節であるクリスマスを祝福し、この記事を締めくくりたいと思います。
静かな夜 聖なる夜
すべてが穏やかで輝き
純潔なる聖母と御子を包む
聖なる幼な子 優しく穏やか
天上の静けさの中で眠る
静かな夜 聖なる夜
羊飼いらは その光景に震える
神の栄光が天界から降り注ぎ
天の使いがハレルヤと賛歌を捧げる
救い主キリストは降誕せり
静かな夜 聖なる夜
神の子 純粋なる愛の光
聖なる尊顔は光あふれ
救いの恵みの兆しなり
わが主イエス 降誕せり
あなたはもう一人ではありません。
なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
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