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神の平安こそがクリスマスの真の贈り物である

クリスマスは日本でも広く浸透している一大行事です。

家族や恋人、親しい友人らと過ごし、プレゼント交換などを行うなど毎年たくさんの人々が楽しみます。

サンタクロースが空から舞い降り、煙突を抜けてやってきてプレゼントを靴下の中に入れてくれる、それは誰もが知っているクリスマスのイメージです。

ですが、「サンタクロースからのプレゼント」や「プレゼント交換」が真に意味しているものを知ることはあなたにとって非常に大切です。

あなたはこれまでの人生で、自身を含めて周りの人たちに沢山の贈り物をしてきました。

それは、物理的な物に関わらず、あなたが他者である兄弟に対しての心配りや気遣いという目に見えないもの、そしてまた、どのように兄弟を見るかということもここには含まれています。

これを総じて言えば、あなたが自分と他者に、そして世界にどのような価値を与えてきたかということです。

その価値の付与のすべてがあなたが与えてきた贈り物の総和となります。

しかし、あなたが差し出してきた物理的な物や非物理的な物という贈り物が実は、実在していなかったということにはまだ気付いていないかもしれせん。

実在していないだけならまだしも、その与えたものによって、あなたとすべての兄弟は苦しみを受け取っていたに過ぎないとしたらそれは衝撃的なことではないでしょうか。

あなたが自身を他者と切り離された一個人としての肉体と見るなら、あなたが差し出せる贈り物は、今述べたように卑小なものだけになってしまいます。

つまり、あなたが自身の本性をこのように見誤り続ける限り、あなたの贈り物は兄弟とあなた自身を傷付けるだけの欠陥品であり、不良品でしかないということです。

それは、神からあなたに与えられた偉大な贈り物と似ても似つかないものです。

あなたは、自分が今まで信じてきた卑小さに満足してはなりません。

そのためには卑小さとは何なのか、そしてなぜ自分が決してそれに満足できないのかを確かに理解することが必要です。

卑小さとは、あなたが自分自身に供える捧げ物です。

あなたはそれを、偉大さの代わりに差し出し自分に受け入れています。

この世界にあるすべては卑小なものばかりです。

なぜなら、その卑小さがあなたを満足させられるという自我(エゴ)の奇妙な信念によってあなたは欺かれているからです。

卑小なものの特徴は、確固たる土台によって築かれていないがために一時的であり、いずれ変化し崩れ去ってしまう運命にあります。

この世界の中の何かが自分に平安をもたらしてくれると信じて、それを手に入れようと努力するとき、あなたは自分自身を卑小なものにしており、偉大なる栄光に対し目と耳を閉ざしています。

「卑小さ」か「偉大さ」か、そのどちらかがあなたの努力や警戒の対象として選べる唯一の選択肢です。

あなたは常に、一方を犠牲にした上でもう一方を選択しています。

ですが、選択するそのときにあなたが気付いていないことは、あなたの選択は狭量な見識からくる自己評価に他ならないという点です。

卑小さを選択するなら、あなたは平安ではいられなくなります。

なぜなら、あなたは自分を平安にふさわしくない者と判断したことになるからです。

そしてその代替としてあなたが差し出すものはいずれも、あまりに貧弱であなたを満足させることはできません。

肝心なことは、どのような形をした卑小さも決して自分を満足させられないという事実をあなたが受け入れることです。

そして、さらにそれを喜んで受け入れることです。

あなたには気の済むまでいくらでも卑小さの形態を試してみる自由がありますが、それによってあなたがしていることは、自分の帰郷をただ遅らせることだけです。

というのも、あなたは偉大さの中でのみ満足でき、偉大さこそがあなたの生家だからです。

聖性がこの世界に誕生したことを祝うこの季節(クリスマス)に、あなたのために聖性を選ぶ決断をした私につながりなさい。神がご自身のために任命した接待主ホストに、偉大さの自覚を取り戻させることが、私たちが共に取り組むべき任務である。神の贈り物を与えることは、あなたの卑小さが全力をもってしてもできないことだが、あなたにできないことではない。なぜなら、神があなたを通してご自身を与えるからである。神はあなたからすべての者へ、そしてすべての者を超えて、神の子の被造物たちへと到達するが、あなたから離れることはない。あなたの卑小な世界をはるかに超えてはいるが依然としてあなたの中で、神は永遠に延長し続ける。だが、神はご自身の延長のすべてを、神の接待主ホストであるあなたにもたらす。(T-15.3:7)

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卑小さを後にして、無駄な放浪をやめることが犠牲になるでしょうか。

偉大なる栄光に目醒めることは犠牲ではありません。

しかし、栄光に満たないものを受け入れることは犠牲です。

神の接待主ホストであるあなたの中で、神を讃えて生まれた平和の君に、あなたはふさわしいはずだということを真摯に学ぶことです。

あなたは愛とは何を意味するのかをまだよく分かっていません。

なぜなら、あなたは愛を卑小な贈り物で購入しようとし、そのようにして愛をあまりに過小評価することで、その偉大さが理解できなくなっているからです。

愛は卑小なものではなく、あなたの中に偉大なる愛として今でもあり続けています。

なぜなら、あなたは神の接待主ホストだからです。

あなたの中に生きる偉大さを前にするとき、自分自身の真価についての貧弱な認識とあなたが差し出す卑小な捧げ物のすべては、無の中へと消えていくしかありません。

神の聖なる子よ、あなたはいつになったら、聖性のみがあなたを満足させ、平安をもたらし得ると、学ぶのだろうか。あなたは私の場合と同じように、自分ひとりのために学ぶのではないということを、思い出しなさい。あなたが私から学べるのは、私があなたのために学んだからである。私は、あなたのものをあなたに教えたいだけである。それにより、私たちは共に、神の接待主ホストを罪悪と弱さに縛り付けるみすぼらしい卑小さを、彼の中にある栄光についての喜ばしい自覚へと取り替えることができる。あなたの中に私が誕生することは、あなたが壮大さに目覚めることである。飼い葉おけの中ではなく、聖性のための祭壇の中へ、私を迎え入れなさい。そこでは、聖性が完璧な平安の中にとどまっている。私の王国がこの世のものでない理由は、それがあなたの中にあるからである。そして、あなたはあなたの父のものである。永遠に卑小さを超えた者であり続けるあなたを、私たちは共に讃えよう。(T-15.3:9)

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クリスマスとは、あなたと兄弟の復活と目覚めの祭典であり、このことは伝統的に百合の花と関連付けられています。

なぜなら、百合の花の白という色は、昔から清らかさと無罪性の象徴とされてきたからです。

赦しは、無罪性についての自覚を私たちの中に復活させるものであり、自我による「死の夢」から目醒めるための必要条件でもあるため、白い百合の花は赦しの象徴としてはまさに最適であると言えます。

百合の花は、神の子が無垢であるという純白にして神聖なしるしである。十字架刑という闇のしるしを、旅そのものと旅の目的との間や、真理の受容と真理の表現との間に、入り込ませてはならない。今週、私たちは死ではなく生命を祝う。そして私たちは、神の子の罪ではなく、その完全な清らかさを讃える。あなたの兄弟に、茨の冠ではなく百合の花の贈り物を、恐れの「贈り物」ではなく愛の贈り物を差し出しなさい。あなたは片手に茨を、片手に百合の花を持ち、どちらを与えればいいのか確信できず、兄弟の傍らに立っている。今、私とつながり、茨を捨てて、代わりに百合の花を差し出しなさい。この復活祭に私が望んでいるのは、あなたから私へと差し出され、私からあなたへと贈り返す赦しの贈り物である。私たちは十字架刑と死の中でひとつになることはできない。また、あなたの赦しが私の赦しと共にキリストのもとにとどまらないうちは、復活は完了しない。(T-20.1:2)

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復活祭は、罪の代価の祝日ではなく、罪の終わりの祝日である。あなたが受け取り、自らも贈り物として与えた純白の百合の花びらの間に、もしあなたがベールの背後のキリストの顔を垣間見るなら、あなたは兄弟の顔を見て、彼の顔だとわかるだろう。私は異邦人であったが、あなたは私が誰かも知らずに家の中に入れてくれた。だがあなたの百合の花の贈り物のゆえに、あなたは知るだろう。あなたにとって見知らぬ者であり古き友でもあるこの異邦人をあなたが赦すことの中に、彼の解放と、あなたの救いがある。復活祭は喜びの時であり、哀悼の時ではない。よみがえった友を見て、私と一緒に彼の聖性を祝いなさい。復活祭とは、あなたの救済の時であるとともに、私の救済の時でもあるからである。(T-20.1:4)

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あなたは、これまでの人生で自身と同一化させてきたこの肉体について、それを綺麗に着飾ったり、被ったり、使ったりするために作り出された装飾品の数々を今一度ありのままに眺めて観る必要があります。

これらは肉体の眼で見るために作り出された物ばかりです。

肉体の楽しみのために作り出された数多くの捧げ物についてよく考え、そのすべては、あなたが憎んでいるものを麗しく見せるために作り出されたということを聖霊はあなたに思い出させようとします。

あなたはこれからも、これらのものを用いて兄弟を引き寄せ、肉体の眼を魅了することで兄弟たちを惑わせ続けたいでしょうか。

あなたは兄弟に苦痛という茨の冠を差し出しているだけだということを聖霊やイエスから学ぶ必要があります。

あなたは自分では肉体の正体を認識せず、兄弟がそれを受け入れることによってその価値についての自分の解釈を正当化しようとしています。

ですが、そうした贈り物は依然として兄弟の無価値性をあなたに宣言するだけです。

なぜなら、兄弟がその贈り物を受け入れて喜ぶこと自体が、自分自身に価値を置いていないことを兄弟に確認させるからです。

真に与えられ受け取られる贈り物は、肉体を通して作り出されるものではない。なぜなら、肉体には捧げることも受け入れることも、差し出すことも取り上げることもできないからである。心のみが価値を評価することができ、心のみが、何を受け取り何を与えるかを決定する。そして心が差し出す贈り物はどれもみな、その心自身が何を望んでいるかで決まる。心は自らの選んだ家をきわめて入念に飾りつけ、そこに来る者たちやそこに引き寄せたい者たちに、心自身が望んでいる贈り物を差し出すことで、その家がその贈り物を受け取れるよう準備を整える。そして、彼らはそこで、彼らの心が彼らにふさわしいと判断するものを差し出し、受け取り、贈り物を交換する。(T-20.2:2)

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それぞれの贈り物が、受け取る者と与える者についての評価になります。

それが意味しているのは、あなたが定めた兄弟とあなた自身の価値は、あなたの差し出した贈り物によって決まるということです。

あなたの差し出す贈り物は、神の子をどのような者と見なすかというあなたの判断です。

贈り物を捧げられる相手は、あなたの救済者であることを忘れてはなりません。

あなたが兄弟に茨の冠を差し出すなら、あなた自身が十字架にかけられます。

そして、それとは反対に百合の花を差し出すなら、あなたは自らを自由にするのです。

私は百合の花を大いに必要としている。神の子は私をまだ赦していないからである。そして彼が私に茨を差し出すとき、私が彼に赦しを差し出せるだろうか。誰かに対して茨を差し出す者は、今も私に敵対している。そして彼を除いたままで全一な者はいない。私が赦され、あなたが神の子を全一なものとして見ることができるように、あなたは私のために、彼の友になってほしい。しかしまず最初に、あなたは自分が選んだ家の中の祭壇に目を向け、あなたが私に差し出そうとして、そこに何を置いているかを見なさい。もしそれが、棘が赤い血の色で鋭く光っている茨であれば、あなたが選んだ家は肉体であり、あなたが私に差し出しているのは分離である。だが、茨はもう無くなっている。今、もっと近寄ってそれをよく見なさい。そうすれば、あなたの祭壇はもはや、かつての祭壇ではないことがわかるだろう。(T-20.2:4)

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あなたが平安でいるためには、あなたが平安を学べるようにあなたが平安を教えるしかありません。

なぜなら「与えることと受け取ることは同一である」ということが天国の、そして神の法則だからです。

しかし、自我はこれを真っ向から否定します。

というのも、自我の思考体系によれば「与えたものは必ず失われる」という混沌の法則に従っているからです。

「与えること」についての自我の理解は、「私があなたに何かを与えると、私はもはやそれを所有していないことになる」ということであり、また「私があなたに何かを与えれば、あなたはそれをもっと多く持ち、私はそれをもっと少なく持つことになる」というものです。

自我は与えることを常に定量的な視点でしか見ることができません。

自我にとっては、何かを与えるということは、それなしですまさねばならなくなるということを暗示している。与えることを犠牲と結びつけているとき、あなたが何かを与える場合の唯一の理由は、自分はそれよりもっとよいものを得られるのだから、それがなくてもかまわないと信じているからである。「得るために与える」とは、常に自分を他の自我との関連において評価する自我にとっては、逃れようのない法則である。したがって、自我は自分を生じさせた欠乏の信念に絶えずとらわれている。(T-4.2:6-3)

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このことは、あなたが物質的なことについて話している場合でも、心理的なことや想念について話している場合でも、同じことです。

投影についての重要な側面の一つは、

「私の罪悪感をあなたにあげてしまうことによって、私はその罪悪感から自由になる」

というものです。

あなたは、想念を与えてしまったなら、誰か別の人がそれを持つことになり、自分はもはやそれを持たないと常に信じています。

聖霊による奇跡はそれを訂正し、

「私たちは、与えるものを受け取ることになる」

ということを教えてくれます。

というのも、あなたはすべての兄弟姉妹たちと一つだからです。

あなたは本当に、この世界の中にある何かを与えているわけではないのです。

ここには何もないからです。

一切はあなたの心の中にあります。

ということであれば、与えることは実際それを強化することになります。

もし、あなたが誰かに投影して、その誰かを攻撃することによって自分の罪悪感をその人にあげてしまおうとするなら、あなたが実際にやっていることは、自分自身の罪悪感を強化しているということです。

もし、あなたが愛を与えるのなら、そのときにあなたがしていることは、私の中に愛の臨在があるという事実を強化し、さらにその存在である聖霊がその愛を与えているという事実を強化していることになります。

だからこそ、あなたが与えるものは実際にはあなたが受け取るものになるということなのです。

与えることと受け取ることは同じことです。

それが、この聖霊によるカリキュラムの中にある鍵となる原則の一つです。

聖霊はあなたにすべてを与えているために、この世界で探求し獲得しようとすることをやめるようあなたに教えます。

あなたが獲得に必死になる理由は、あなたの欠乏の信念を埋めたいがためです。

欠乏の信念とは、罪の意識の信念です。

この罪の意識、すなわち神から分離してしまったというあなたのたった一つの罪悪感が、この世界での罪滅ぼしとして多大な努力や責任といった重荷という犠牲や代償を永遠にあなたに要求するのです。

逆転のプロセス、すなわち取り消しのプロセスにおける最初のステップは、「獲得する」という概念を取り消すことである。それゆえに、聖霊の最初のレッスンは、「所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい」であった。これは一時的に葛藤を増大させがちであると私は述べたが、今この点をさらに明確にできる。この時点では、「所有すること」と「在ること」との同一性はまだ知覚されていない。そう知覚されるまでは、「所有すること」は「与えること」の反対であるかに見える。したがって、最初のレッスンは矛盾を孕んでいるように見えるが、それは葛藤のある心によって学ばれているからである。これは相反する動機があることを意味する。このため、そのレッスンはまだ一貫して学ばれることがない。さらに、学ぶ者の心は自らの葛藤を投影するので、他者の心の中に一貫性を知覚せず、それにより、学ぶ者は他者の動機について疑り深くなる。これが、最初のレッスンの習得が多くの意味で最も難しいことの真の理由である。あなたは依然として自分自身の中の自我を強く自覚し、他者においても主として自我に応答しているというのに、そのあなたが、どちらの自我に対してもあなた自身が信じていることが真実でないかのように対応せよと、教わっているのである。(T-6.5:3)

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いつものごとく上下が転倒した自我は、最初のレッスンを狂っていると知覚します。

実際、それが自我にとっての唯一の選択肢だからです。

自我にとっては、それよりもさらに受け入れがたいもう一方の可能性は、明らかに自我の方が狂っているというものです。

ここでも自我の判断は、いつものごとく自我というものの本質により最初のレッスンを否定します。

それでも、思考する者の心の変化に伴い、根本的変化は依然として起こります。

それまでの間、学ぶあなたは次第に明確になっていく聖霊の声を聞かずにはいられなくなります。

ということはしばらくの間は、あなたは相反するメッセージを受け取り、その両方を受け入れてしまうことになります。

二つの相反する思考体系の間の葛藤から抜け出す道は、明らかに、一方を選び、他方を放棄することである。もしあなたが自分の思考体系と同一化しており|そしてそれは避けられないことだが|さらに、もし互いに完全に食い違う二つの思考体系を受け入れているなら、心の平安は不可能である。あなたがその両方を教えるなら|そしてその両方を受け入れる限り必ずそのように教えることになるが|そのとき、あなたは葛藤を教えており、それを学んでいることになる。だが、あなたは確かに平安を望んでいる。さもなければ、あなたは平安を代弁する声に助けを求めて呼びかけることはしなかっただろう。その声がもたらすレッスンは狂気ではない。葛藤が狂気なのである。(T-6.5B:5)

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あなたの世界の中では、あなたは確かにいろいろな物を必要とします。

なぜなら、ここは欠乏の信念によって作り出された世界であり、あなたに不足があるからこそ、あなたはこの世界であらゆるものを手に入れようとするのです。

ですが、このような世界の中であなたは本当の自分自身を見出せるでしょうか。

聖霊やイエスが居なければ、あなたはこれを決して見出すことはできません。

二つの世界の間の仲介者として、聖霊はあなたが必要なものは何か、そしてあなたを傷付けないものは何かを知っています。

所有権というものは、あなたに任せられるなら危険な概念となります。

所有することが自我の法則であるから、自我は身の安全(救済)のために物を所有したがります。

所有のための所有が、自我の根本的信条であり、自我自身のために建てる強固な土台となる隅石です。

そしてその祭壇で、自我はあなたに獲得を命じたすべての物を供えるようにと要求し、それでいてあなたにはそれらについての喜びを自我は何も残してくれません。

自我があなたに必要だと告げるすべてのものは、あなたを傷つける。なぜなら、自我はあなたに幾度となく獲得を促すにもかかわらず、あなたが獲得したものは自我があなたから取り上げようとし、あなたの手もとには何も残されないからである。それをやっと掴んだ両手から、それはもぎ取られ、塵の中へと投げ捨てられる。なぜなら、自我は自分が救済を見るその場所に分離を見ているので、あなたは自我の名において獲得した物はどれもみな失うことになるからである。だから、何が必要かを自分自身に尋ねるのはやめなさい。というのも、あなたは知らないので、自分自身への忠告はあなたを傷つけるからである。あなたが自分に必要だと思うものは、単に光に対抗してあなたの世界を守り固めるのに役立つだけであり、この世界があなたにとって真にもち得る価値について疑問視しようとする意欲を、あなたから失わせるだけのものだからである。(T-13.7:11)

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聖霊のみが、あなたに何が必要かを知っています。

光への道を阻むことのないすべてのものを、聖霊はあなたに与えます。

そしてそれ以外に何が、あなたに必要でしょうか。

時間の中では、聖霊はあなたが持つ必要のある一切をあなたに与え、あなたがそれらを必要としている間は、それらを補給し続けます。

あなたが何かを少しでも必要としている限り、聖霊はあなたからそれを取り上げることはしません。

それでも聖霊は、あなたが必要とするものはみな一時的なものだと知っており、あなたがすべての必要から一歩退いて、そのすべてが満たされていたと自覚するまでの間存続するだけだと知っています。

したがって、聖霊は自らが供給するものには何の思い入れもないが、あなたが時間の中でぐずぐずと留まるためにそれらを使わないようにすることだけは配慮します。

聖霊は、あなたがそこではくつろげないことを知っており、あなたの喜ばしい帰郷を遅らせ、待ち続けることは意志してません。

それならば、あなたの必要は聖霊に任せておきなさい。聖霊は、それらに重きを置くことなく、供給してくれるだろう。聖霊からあなたのもとに訪れるものは、安全に訪れる。なぜなら、聖霊は、それがあなたの心の中に隠されて、あなたを傷つけるために保たれる黒い染みには決してならないようにするからである。聖霊の導きのもとでは、あなたは身軽に旅をし、気軽に旅路を進むだろう。聖霊の目は常に自らのゴールである旅路の終わりに向けられているからである。神の子は外の世界を旅する旅人ではない。彼の知覚がどんなに神聖になろうとも、彼の外側の世界には彼が受け継いでいる賜物はない。彼自身の内側には、いかなる必要もない。光は平安の中で輝き、静かに自らの光線を無限に延長させる以外に、何も必要としないからである。(T-13.7:13)

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あなたが光から遠ざかるような無益な旅に出かけたい誘惑にかられるときはいつでも、自分が何を本当に望んでいるかを思い出し、次のように言ってみることです。

「聖霊は私をキリストへと導く」

「そして私はそれ以外のどこへ行きたいだろうか 」

「キリストの中で目醒めることの他に、私にどんな必要があるだろうか」

それから、喜びを抱いて聖霊についていくことです。

世界があなたの前に心の平安を脅かす様々なものを置いても、聖霊があなたを安全に導き、一切のものを通り抜けさせてくれるという信を抱いておくことです。

自我の犠牲の祭壇の前に跪いてはなりません。

また、あなたが確実に失うことになるものを探し求めることにも常に警戒しておかなければなりません。

あなたが今でも確かに持ち続けているもので、あなたが満足できるように聖霊にお願いすることです。

そして焦らずにいることです。

なぜなら、あなたは神の平安へと向かう静かな旅に出るのであり、そこに至れば神はあなたを静謐の中に保つからです。

私の中であなたは、あなたを引きとめようとする誘惑の一つひとつをすでに克服している。私たちは共に、神の贈り物である静謐へと向かう道を歩む。私を大切にしなさい。あなたに兄弟たち以外に何が必要だろう。私たちが一緒に見出すべき心の平安を、私たちはあなたに取り戻す。聖霊は、あなたが私たちとあなた自身に目覚めることをあなたに教えるだろう。これだけが、時間の中で満たされるべき唯一の真の必要である。この世界からの救済は、ここだけにある。私の平安を私はあなたに与えよう。それを私から受け取り、この世界が、ただ取り去るためだけにあなたに与えたすべてのものと喜んで交換しなさい。(T-13.7:16)

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クリスマスに空から舞い降りてくるサンタクロースは聖霊やイエスの象徴であり、そのサンタクロースからのプレゼントはあなたの聖性への復活を意味しています。

またプレゼント交換とは、あなたが兄弟に平安を与えることで、その兄弟から平安を受け取ることを表しているのです。

あなたが神の平安以外の卑小なプレゼントを兄弟に差し出すなら、あなたが兄弟から受け取るのは同じく卑小な苦痛という犠牲だけです。

このクリスマスには、あなたを傷つける一切を聖霊に渡しなさい。あなたも聖霊と一緒に癒すことができるように、あなた自身を完全に癒してもらいなさい。そして、私たちが共にすべての者を解放することにより、私たちの解放を一緒に祝おう。何も後に残してはならない。なぜなら、解放は全的なものであり、あなたはそれを、私と共に受け入れたときに私と共に与えるからである。私たちの関わりの中で、すべての苦痛と犠牲と卑小さは消え去る。その関係は、私たちと父との関係と同じく無垢であり、強力である。苦痛は私たちのもとに運ばれて私たちの前で消滅し、苦痛がなくなれば犠牲もあり得ない。そして犠牲がなければ、そこには必ず愛がある。(T-15.11:3)

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あなたが、この世界で与えられる唯一価値あるものは愛と平安の反映である赦しだけです。

赦しは、愛と助けを求めてやってきた兄弟に差し出せる唯一の贈り物であり、それは愛による応答です。

あなたの与えた赦しという愛は、兄弟を癒やし「真の自己」であるキリストへと復活させ、それと同時にあなたも復活することになります。

ですから、あなたの解放は、兄弟姉妹たちのあなたによる解放にかかっているのです。

これが天国への道であり、復活祭の平安へと至る道である。その道において、私たちは、神の子は過去からよみがえり、現在に目覚めたという喜ばしい自覚を共にする。今や彼は自由であり、彼の中にあるすべてのものと共にあずかる聖餐において、限界はない。今や、彼の無垢性の百合の花は罪悪に触れられることはなく、恐れの冷気や、枯死をもたらす罪からも、完璧に保護されている。あなたの贈り物が茨と釘から彼を救い出した。そして彼の逞しい腕は自由となり、それらを通り抜けて、あなたをその向こうまで安全に導いていく。今、彼と共に喜んで歩いていきなさい。なぜなら、幻想からの救済者は、あなたを出迎え、彼と共にあなたを家に連れ帰るためにやってきたからである。(T-20.2:10)

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ここに、あなたの救済者にして友である兄弟がいます。

兄弟はあなたの心眼ヴィジョンを通して十字架刑から解放され、今や自ら望む場所へと自由にあなたを導いていくことができます。

兄弟はあなたを去ることはなく、苦痛の中にいる救済者を見捨てることもありません。

そして、あなたが天国の開かれた扉を眺め、自分に呼びかけてきた我が家を認識するとき、あなたと兄弟は喜びの歌を歌いながら無垢性の道を共に歩いていくのです。

兄弟があなたをそこへ導いていくための自由と強さを喜んで与えてください。

そして、強さと自由が待つ兄弟の聖なる祭壇の前に来て、あなたを我が家へと導くことになる明るい自覚を差し出し、そしてそれを受け取ってください。

兄弟のために、あなたの中に明かりが今灯されています。

その光を兄弟に与えた手により、あなたは恐れを越えて確実に愛へと導かれるでしょう。

今日、私はキリストの贈り物だけを求める。天国にそっくりな世界が見えて往古の記憶がよみがえるような一日を、キリストの心眼ヴィジョンがもたらしてくれるというのに、今日、私はそれ以外の視覚を使いたいだろうか。今日、私は自分が作り出した世界を忘れることができる。今日、私はすべての恐れを通り越し、愛と聖性と平安を取り戻せる。今日、私は贖われ、慈悲と庇護の世界、愛に満ちた優しさと神の平安の世界へと、新たに生まれる。そのようにして、父よ、私たちはあなたのもとに帰ります。自分が一度もそこを離れなかったことを思い出し、あなたから与えられた神聖な贈り物を思い出します。ありがたく感謝しつつ、私たちは両手を空にし、心を開いて、あなたが与えてくださるものだけを求めてみもとに参ります。私たちはあなたの子に対し充分な捧げものをすることはできません。しかし、あなたの愛の中で、彼にはキリストの贈り物が与えられています。(W-pI.306)

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最後に、世界的に有名な曲であるクリスマスキャロル「英語訳のSilent Night(サイレントナイト)」の和訳を紹介しながら、この聖なる次節であるクリスマスを祝福し、この記事を締めくくりたいと思います。


静かな夜 聖なる夜
すべてが穏やかで輝き
純潔なる聖母と御子を包む
聖なる幼な子 優しく穏やか
天上の静けさの中で眠る

静かな夜 聖なる夜
羊飼いらは その光景に震える
神の栄光が天界から降り注ぎ
天の使いがハレルヤと賛歌を捧げる
救い主キリストは降誕せり

静かな夜 聖なる夜
神の子 純粋なる愛の光
聖なる尊顔は光あふれ
救いの恵みの兆しなり
わが主イエス 降誕せり


時間とは何か? 時間の目的とは?(1/4)に続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。

〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍


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