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時間とは何か? 時間の目的とは?(1/4)

以前の記事で、聖霊による赦しのカリキュラムのプロセスは時間をかけてゆっくりと進められなければならないと述べましたが、今回は、この「時間」をテーマにして「時間とは何か?」また「時間の目的とは?」について説明していきたいと思います。

この時間についての疑問が解決されれば、あなたは今以上に赦しのカリキュラムを真摯に取り組めるようになるでしょう。


時間を一つの連続したものと考えるなら、メジャーのイメージがこのプロセスを描写するのに非常に役立ちます。

それも、自動引き込みボタンの付いたスプリングメジャーです。

神の子に小さな狂った考えが忍び込み、それを深刻化することで分離が起こったとき、この巻物のような時間のメジャーがくるくると引き出され、それ以来あなたはこのメジャーの上を神や神が創造した天国から離れる方向へと旅立ちました。

神から遠く離れていくにつれ、あなたはますます深くこの世界、および罪悪感と罪の問題に巻き込まれるようになりました。

聖霊やその顕現であるイエスに助けを求めるとき、あなたはこのプロセスを逆転させ、神に向って歩き始めます。

ア・コース・イン・ミラクルズ(以下コース)の中でも特に興味深いセクションのいくつかが、時間について語っている部分です。

あなたは依然として時間の中に閉じ込められているので、こうした箇所を理解するのは非常に難しく思えます。

その一つは、時間は前進するかに見えるが、実際には時間が始まった時点に向って逆行していると以下に述べられています。

進化とは、ある等級から次の等級へ進むように見えるプロセスである。あなたは前進することによって、それ以前の誤った歩みを訂正する。このプロセスは実際、時間という観点からは理解不可能である。なぜなら、あなたは前進するにつれて戻っていくからである。贖罪とは、あなたが先へ進むにつれて自分自身を過去から解放できる仕組みである。それは過去の誤りを取り消し、それにより、あなたが自らの帰還に向かって前進しないまま後戻りを繰り返すことを不要にする。この意味において、贖罪は時間を省くが、贖罪が仕えている奇跡と同様、時間そのものを廃することはない。贖罪の必要がある限り、時間も必要である。しかし、完了した計画としての贖罪は、時間に対して独特の関係にある。贖罪が完了するまでは、そのさまざまな段階は時間の中で進行するが、完全な贖罪は時間の終了地点に立っている。その地点に、帰還の橋が築かれている。(T-2.2:6)

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「時間が始まった時点」というのが、神の子が神から分離した時点です。

「贖罪」が目的としているのが、聖霊による自我(エゴ)の思考体系の取り消しの計画です。

そして、その計画はこの時間のメジャーを巻き取らせていきます。

自我はあなたに更に長々とメジャーを伸ばしていくように仕向けますが、聖霊はあなたがそれを始まりの時点まで巻き取っていくように導きます。

そしてあなたが、それを巻き戻していくにつれて、つまりそれが赦しの奇跡が行うことですが、あなたは自我の思考体系の要塞そのものに近づいていきます。

この世界という時間と空間のメジャーが広がり始める時点が、自我が誕生した時点であり、そこが罪と罪悪感の拠点です。

そしてこれが、自我の思考体系の最も深いところをなす部分です。

氷山のイメージで例えるなら、氷山の底にあたるのがあなたが感じている最も強固な罪悪感です。

あなたは自分が一生かけて、あるいは数多くの人生をかけて逃がれようとしてきた罪悪感と恐れにだんだんと近づくにつれ、本当にパニック状態に陥ります。

この罪悪感は、この世界において最も衝撃的であなたを震え上がらせるようなものです。

だからこそ、このプロセスは時間をかけてゆっくり取り組むべきものであり、そこを進んで行くときは忍耐強くあることが必要なのです。

ですから、進み方が早すぎれば、つまり時間のメジャーの自動引き戻しボタンをあなたが目一杯に押してしまうなら、あなたは準備が整う前に、いずれあなたを襲うことになる罪悪感からの猛攻撃に一気に晒されてしまうことになるのです。

すでに述べたような恐れと畏怖の混同は頻繁に起こることであるため、堅固な土台が必要である。あなたは自分と対等なものの面前で畏怖の念を抱くべきではないので、畏怖の念は神の子との関連では不適切だと、私は述べた。しかし、創造主の臨在の前では、畏怖の念がふさわしいという点も同時に強調した。私は贖罪における私の役割を、誇張することも控えめに述べることもせずに、明確にしようと注意を払ってきた。私はあなたの役割についても同じことをしようとしている。私が強調したのは、私たちの生来の対等性のゆえに、畏怖の念は私に対する反応としては適切ではないということであった。しかし、このコースの後半のいくつかのステップは、神ご自身への直接的なアプローチを伴う。こうした後半のステップを周到な準備なしで始めることは賢明ではない。そのようなことをすれば、畏怖の念が恐れと混同されて、その経験は至福よりも精神的外傷をもたらすようなものとなってしまう。癒しとは、最終的には神からのものである。その手段は丁寧にあなたに説明されていく。ときには啓示が到達地点を明かしてくれることもあるが、そこに到達するには手段が必要である。(T-1.7:5)

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そのようにしない限り、後に続くものに対してあなたは準備ができません。

そして、あなたはそれを恐れることになり、このカリキュラム自体を投げ出してしまうのです。

あなたは自分自身の中でこのカリキュラムを実践していくときには、ゆっくり行なわなければなりません。

なぜなら、そうでなければあなたの恐れが、あなたの手に負えないところまで掻き立てられてしまうからです。

そうして、自我の思考体系の要塞に近づくにつれ、あなたはそこに埋められている罪悪感をますます恐れるようになります。

あなたは自分と共に歩み、手を取ってくれる存在、自分以外の誰かで自分を愛してくれている存在がいると知っていなければ、そのステップを踏みだすことはできません。

聖霊は、自分の罪悪感を取り消すというこのプロセスの目標は、この世界という夢から完全に目醒めることではなく「実相世界」、換言すれば「幸せな夢」の中で生きることだと教えています。

したがって、時間のメジャーが巻き戻されていくにつれて、あなたはいつか、もはや投影できる罪悪感がなくなり、したがって、外界で何が起こっていようともいつも心安らかでいられるという状態に到達します。

この心の状態が「実相世界」であり、それは聖霊のカリキュラムが穏やかな道であることを反映する一つの概念です。

コースの中でイエスはこのように言っています。

神は、彼が穏やかに、喜びをもって目覚めることを意志した。 そして恐れをもたずに目覚める手段を彼に与えた。 (T-27.VII.13-5)

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また、赦しは聖霊のはたらきによって数千年もの時間を省きます。

奇跡は時間の必要性を最小限にする。経時的すなわち水平的な存在領域においては、一なる子に属する者たちの対等性の認識には、ほとんど果てしない時間がかかるように見える。けれども、奇跡には水平の知覚から垂直の知覚への突然の移行が伴う。これが一つの時間枠を挿入し、与える者も受ける者もこの枠から出るときには、それなしではそこまでは進めなかったほど先の時間にまで進むことになる。それゆえに奇跡は、それが及ぶ範囲の時間枠を不要にし、それに相応する長さの時間を廃するという独特な性質をもつ。一つの奇跡が起こるのにかかる時間と、奇跡が影響をおよぼす時間との間には、何の相関関係もない。奇跡は何千年もかかったかもしれない学びに代わるものとなる。与える者と受ける者の完全な対等性という、奇跡の根底を成す認識によって、それが為される。奇跡は時間を崩壊させ、その中の特定の時間枠を取り除くことによって時間を短縮する。ただし、より大きな時間の流れの中でそれを行うのである。(T-1.2:6)

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しかしこれは、時間というこの世界の幻想の枠の中でも、依然として非常に長い時間のことについて語っています。

この点を強調している理由は、あなたが聖霊やイエスから学び続けているのに、相変わらずいろいろな問題を抱えているというようなときに、罪悪感を感じてほしくないからです。

そして、イエスは「経時的」と「水平的」という言葉を、この形態の世界におけるあなたの直線的な時間の経験を指して使用しています。

彼がこれらの言葉を選んだ理由は、これらが一定の間隔に及んでいて一つの地点から別の地点へと進むものを示唆しているからです。

あなたは、自分がこの物理的な世界の中に生まれたと信じており、この世界は自分が来る前から存在していたし、自分が死んだ後も続いていくと信じています。

その世界の中では、次から次へといろいろな出来事が起こります。

また、時間は未来から現在へ、そして過去へと過ぎ去ります。

あなたにとってみれば、過去の経験が現在を作り出していて、その現在の行動の延長線上にあなたの未来があるかに見えます。

さらに、あなたは一つの肉体であり、それ故に互いの間に距離を保ちながら相互に分離して生きているかのようにも見えます。

ですから、「経時的すなわち水平的な存在領域」とは、あなたの日常的な現実と見えているもののことであり、差異と分離を特徴とする直線的、そして連続的で物理的な経験のことなのです。

しかし、コースの中でイエスは、

時間とは、手品のように巧妙なからくりであり、広大無辺なる幻想である(W-pI.158.4:1)

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とも、

空間も時間と同じように無意味である(T-1.VI.3:5)

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とも述べています。

そして、あなたが内なる教師である聖霊に耳を傾けることができるということを、思い出せるように助けてくれます。

内なる教師とは、あなたが自分の居場所と考えているこの時間と空間から成る「夢の世界」の外側から訪れる教師です。

自我に背を向け、自分の導き手として聖霊やイエスを頼みとするとき、あなたの心は天国、そして神の一体性と超時性を反映するものとなります。

その奇跡の瞬間が「水平の知覚から垂直の知覚への突然の移行」という言葉が意味しているものです。

「垂直の」という言葉はまっすぐに昇っていくことを意味しています。

ですから「垂直の知覚」は、あなたが自分の居場所だと思っている世界を超えて昇っていくことを象徴しています。

聖霊は、どのようにすればあなたの関わる関係が戦場を超えた高みにまで引き上げられて、もはやその中にとどまらなくなるかを理解している。そしてあなたの役割は、いかなる形の殺害も自分の意志ではないと認識することである。戦場を上から眺めることが、今ではあなたの目的である。高みへと引き上げてもらい、そこから、戦場を見下ろしなさい。そこからあなたが展望するものはきわめて違ったものとなるだろう。戦場の直中であるここにおいては、戦場は実在するように見える。ここでは、あなたはその一部となることを選択している。ここでは、殺害があなたの選択である。だが、高みからの選択は、殺害ではなく、奇跡である。そしてこの選択から生まれる視座は、戦闘は実在せず、容易にそこから逃れられるということを、あなたに見せてくれる。(T-23.4:4-5)

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これは、非直線的な心への回帰を伴います。

時間の中以外では、イエスはあなたと何の違いもないという考えは、自分の意識とイエスの意識の間の大きな隔たりが克服不可能なものに見えるあなたの観点からするとほとんど励ましにはなりません。

あなたには、自分が今居るところから彼が居るところまで進むには、何百万年もの学びが必要であるかに見えます。

しかし実際には、あなたが必要としているのは、自我から聖霊への内的な移行だけなのです。

自我は、あなたに時間のメジャーの中で後ろに戻るように(過去を掘り起こすように)とか、前に進むように(未来を計画するように)と執拗に告げてきますが、どちらにしてもあなたをこの時間と空間に支配された世界の中にしっかりと根付かせ幽閉しようとます。

あなたの心は過去の考えにとらわれています。

しかし、イエスはそれを見越してこのように述べています。

言うまでもなく、この概念が、あなたが過去だけを見ている理由である。誰も、本当は何も見ていない。人は自分の想念が外に投影されたものを見ているだけである。心が過去にとらわれていることにより、時間についての思い違いが生じ、そのせいで、あなたの見方が損なわれている。あなたの心は、存在する唯一の時間である現在を把握することができない。したがって、あなたの心は時間を理解できず、実は、何も理解できていない。人が過去について抱くことのできる唯一の完全に真実な考えは、過去はここには存在しないということだけである。したがって、そもそも過去について考えること自体が、幻想について考えることである。過去を思い描いたり、将来に期待したりすることが、実際に何をもたらしているかをはっきり理解している者はごく少数である。心がそうしているときは、何も真に思考していないので、心は実際には空白になっている。(W-pI.8)

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時間は、未来に重点が置かれたものとなり、過去の出来事や以前に信じたことから得られる学びや経験によって制御されるべきものとなる。そうした心は、未来の方向性を決めるのに必要なことを過去がすでに充分に教えてくれたという考えに基づいているため、現在を見落としてしまう。(W-pI.135:3)

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聖霊は、この幻想の世界を超えたところに存在する光へとあなたが至れるように優しく助けてくれます。

そして、もう一つ。

イエスがコースの中で、あなたの居るところや天国の真の我が家へと戻るプロセスを描写するために用いるどんな言葉も、それらは象徴に過ぎないということです。

真理においては、世界が存在しないのと同じく、経時的で水平的な存在領域といったものは存在しません。

しかし事実上、あなたがこの夢の世界の中に置いたすべての象徴が、あなたを眠ったままにしておくために働いているので、イエスは、あなたが目醒めるための助けとなるよう、方便としてあなたにも分かりやすい象徴を使用しているのです。


時間とは何か? 時間の目的とは?(2/4)へ続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。

〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍


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