見出し画像

例文倫理について

このエッセイでは、言語学者が、自らの仮説検証の道具として用いる例文について、通常とは違う角度から考えてみたい。例文とは、ある言語の(特定の構文の)特徴を例示するために用いるもので、例えば日本語の他動詞文(主語と目的語をとる文)の例文は「先生が太郎を呼んだ」のようなものである。言語学者にとって、例文はあくまで考察の道具であり、そこで描かれていること(「誰々先生が、太郎くんという生徒を呼んでいるという具体的な場面)よりも、言語構造の方に関心を寄せている。この例文は、他動詞文の特徴を示すという目的に叶う限り、「太郎がガラスを割った」でも良かっただろうし、「太郎が映画を見た」でも良かっただろう。

と、思うのが言語学者である。しかし、言語は実社会で用いられ、いろいろな場面を映しとるわけだから、例文もまた、実生活や経験に即した具体的な場面を想起させることになる。調査される側(母語話者)や、例文を論文の中で読む側、あるいは学会発表で聴衆として聴く側には、それぞれの実生活での経験や記憶があり、その例文を提示された時に、自身の記憶と結びつくことが、当然ある。言語学者として提示するのは抽象的な構造としての例文、受け取る側は具体的なエピソードとしての例文なのである。

詳しくは後で述べるが、皆さんは言語学者が、他動詞文の例として「太郎が花子を殴った」「太郎が花子を殺した」という文を使うことも珍しくない、と聞いたら、びっくりするのではないだろうか(そしてその言語学的な理由もないわけではないことを後に述べる)。そんな例文を、母語話者に対して(あるいは論文の読者に向けて、あるいは学会の聴衆に向けて)わざわざ使う必要はあるのだろうか?以下では、このような、例文の作成と提示、それに絡む倫理的な問題点、すなわち例文倫理について述べてみたい。

なお、このエッセイの内容に直接関連がある人は、言語学者(プロ、学生問わず)、日本語教育や英語教育など、語学教育で例文を使って学習者に教授する立場にある人、(見出し語に例文をつけることが多い)辞書の編纂者、そして、これらの分野に関わる出版編集者など、様々である。以下では主に言語学者の観点に立って話を進めるが、今のべた他の立場の方々も、身近な文脈に置き換えて考えてみてほしい。


例文を作るという言語調査法

言語学では、研究対象言語の母語話者に「これをどう言いますか?」と翻訳をお願いしたり、「これは容認できますか?」のように聞いたりすることで、自らの仮説検証に役立てる調査法がある。これをelicitationという。話者から情報を引き出す(elicit)ことからそう呼ばれる。私が専門にしている琉球宮古語伊良部島方言を例にすると、例えば「「頭が痛い」は何と言いますか?」と母語話者に翻訳をお願いし、

kanamar nu du  jam.
頭            が  ぞ  痛む

と返答をもらうことで、1つデータを得ることになる。ここで、「頭が痛い」は調査者が(翻訳して欲しいものとして日本語で)作成した例である。

なお、ここでいう母語話者は言語学者自身であってもよく、その場合、内省によるelicitationを行っていることになる。例えば日本語母語話者が、自身の内省に従って様々な例文を作成し、自身で容認性を判断することがよくある。例えば、日本語で「水が欲しい」「水を欲しい」のような「が/を」の交替現象に関心がある研究者が「太郎が水が欲しいと言っている」「太郎が水を欲しいと言っている」のような例を作って、それぞれの容認性を吟味しているとき、これら2つの例文は作例ということになる。

さて、elicitationで用いる例文(上の太字の文)は、調べたいことを必要十分に引き出せるようなものでなければならない。そして、そうであればどんな例文であっても良い、と考えられている。もちろん、例文作成に関して、対象言語が用いられる文脈・文化・前提をなるべく反映した「リアルな」ものであるように注意して作例する工夫は、例えば方言研究の界隈では推奨されている。しかし、これは結局、その言語の記述・記録の精度を上げるための工夫である。それは例文作成の技巧面に関する工夫である。

一方、このエッセイで書く内容は、例文作成の倫理面に関する工夫である。例えば、その例文を使って調査「される」側、つまり母語話者が、その例文を訳したり吟味したりする際に不快に思ったりすることがないか、というよな観点からの工夫である。これを私は例文倫理と呼ぶ。

例文倫理がなぜ大事か

ある学会で、ある発表の聴衆として参加していたある(一般に権威あるとされる)研究者が、質疑応答において以下のような「例文」を口頭で示した場面に遭遇したことがある。

「妻は新しいのがいい」

(権威ある学者としての自負をまとった、権威的な)男性の口から、「妻をもののように品定めする」場面を想起させる例文が発せられたのである。私はそのセンスの悪さに仰天したが、さらに仰天したのは、その例文が提示された瞬間、(大多数を男性が占める)会場に笑いが起きたことである。その質疑応答における発表者は女性であったと記憶している。私の学生を含め、その場にいた人の中には、大いなる違和感を感じた人が少なくとも数人はいた。

ところで、このやりとりにおいて、「XはYなのがいい」というフレームを使った例文として、(言語学的な理由で)この文でなければならないわけでは決してなかった。倫理的に無頓着な例文の作り方、すなわち例文倫理が意識できなかったために、他にいくらでも代替できた候補の中から、侮蔑的で不快なものが選ばれたのである。

例文倫理という意識が聴衆の中にも明確に共有されていなかったから、その場で注意が生じなかった可能性もある。例文倫理という概念がないために、「このモヤモヤはなんだろう」と、その場で居心地の悪さを感じる人は確実にいただろう。

私自身もかつて、無神経な例文作成によって、私に協力してくれる方言話者に不快な思いをさせてしまったことがある。伊良部島で調査をしていた時、vc「打つ(=殴る、叩く)」という単語の活用を調べていて、受け身形を取るために、「父親に叩かれた」という例を(何気なく)使って、翻訳してもらったことがあった。その話者は、それを訳した後、「今の話で思い出したんだけど」と、自らが父親にされた過去の嫌な思いを私に打ち明けたのだった。その表情は今でも忘れられないものとなっており、「これを訳してください」とお願いする、という行為の、ある種の暴力性に気づいたのだった。

上記の学会での経験と、今述べた調査での経験により、私は例文倫理という概念を胸に刻むことになったと言っても良い。そして、私が勤務する九大の言語学科の学生たちには、この概念をことあるごとに紹介し、注意を促している。

例文倫理の実践

このように、言語学の営みにおいて、例文を挙げる際、それが論文の中であれ、学会発表における口頭での伝達であれ、そして調査時のelicitationにおいてであれ、我々はそれが倫理的に耐えうるものであるかを自問しなければならない。

そう言うと、「こんなことをいちいち気にしていては言語調査などできない」「こんなことを過剰に気にしても無駄だ」「相手がどう思うか、こちらが先回りして気にするのは不可能だ」という人も出てくるだろう。しかし、例えば、単に日本語の他動詞文(ガとヲを使う2項文)の例を提示するという目的で、「太郎が花子を殺した」という例を作るよりも、「太郎が花子を呼んだ」の方が、おそらく誰も不快にさせずに済むだろう、という程度の配慮は、誰でもできるし、やらない理由もないだろう。あるいは、後述する「典型的な他動詞文(=対象を状態変化させてしまうほどの強い働きかけを伴う文)」を例にしたくて「太郎が花子を殺した」をあえて例文にしたのだ、という言語語学的理由を挙げる人は、では「太郎がその窓ガラスを割った」ではダメだろうか?と自問する余裕はあった方がいい。理由もなく、あえて誰かを不快にさせる可能性がある例文を使うことを慎みませんか?ということである。

私自身の調査経験と学術的な経験から間違いなく言えることとして、例文倫理に無頓着であったがために誰かが傷つき、不快な思いをした、ということは実際にあったし、これからもあるに違いない、ということである。そして、それらは例文倫理という概念を、幅広い学術的な倫理観の1つとして胸に刻むことで、ある程度、防ぐことが可能だという点である。

なお、特に私が属する方言研究の分野や言語類型論の分野では、様々な言語の対照を意図して、誰かが作成した共通の調査例文リストが広く使われることがある。そのようなリストを公開する人は、それを公開する前に、例文倫理について少しでも思いを馳せてほしいと願っている。

では、特にどのような点に注意しなければならないか、重要なものを2つだけ挙げておく。これは完璧なリストではないし、時代の変遷によって新たに付け加わっていくものもあるだろう。

注意点1:トラウマを呼び起こす可能性がないか

これは上記の方言調査のエピソードにあたるものである。他にも、例えば以下のような例文は、実際にそれを経験した(ことがすでにわかっている)人に対しては用いるのを控えるべきだし、そうでなくても、「この例文を使う以外に例文倫理的な意味でリスクのないものはないか?」を考えた方がいいだろう。

(1)「津波が村を飲み込んだ」(地域的経験の喚起)
(2)「その兵士だけが逃げ遅れて死んだ」(個人的経験の喚起)
(3)「去年、妻を亡くした」(個人的経験の喚起)
(4)「太郎が花子を殴った」(無意味な暴力性、個人的経験の喚起)
(5)「太郎が花子を殺した」(無意味な暴力性)

上記の(4)(5)で、太郎、花子、という固有名詞は、日本語の場合はまだ、架空の誰かであることをあえて示す記号だという共通理解があるが、例えば宮古語の調査で、そこでよくある名前(例:女性名のカニメガ)を使ってしまうと、不快な思いをさせる可能性が高くなる。

上記のうち、特に「無意味な暴力性」に関しては、いろいろな論文や書籍、口頭発表、レポートなどで今でもよく見かける(試しに、google scholarで「太郎が花子を殺した」を検索してみるといい)。しかも、多くの場合、特に言語学的に正当な理由がない。

「言語学的に正当な理由」について、少し解説してみたい。今、(4)(5)をあえて使いたいと思った人の立場に立ってみたい。言語学では、例えば(4)(5)の「太郎」のように、動作を引き起こす担い手を動作主(agent)と呼び、「花子」のように動作を被る者を対象(patient)と呼ぶが、agentがpatientに対して状態変化を引き起こす程度が変わると、構文の様々な外形特徴(例えば主語と目的語の格)が変わることがある。この「状態変化を与える度合い」を他動性と呼ぶ。日本語でも、他動詞文には、「太郎が花子を殺した」のように主語と目的語がそれぞれガ-ヲをとるものもあれば、「太郎が音楽が好きだ(なんて意外だ)」のようにガ-ガを取るもの、「鈴木先生が生徒のいたずらに怒った(のは当然だ)」のようにガ-二を取るものなど、多様であり、これらは概して他動性に応じて変動することで知られる(角田1991の「二項述語階層」)。

角田太作(1991)『世界の言語と日本語』くろしお出版

(4)(5)を用いた研究者は、他動性の調査をしている中で、状態変化の有無(「殴る」は相手の状態を変化させないが、「殺す」は生命の状態を変化させる)でペアを作ろうと思っていたとする。その研究者は、これらを使って話者に提示し、違った反応(例えば主語や目的語の格の取り方)が引き出せれば、他動性に応じた反応だということになる、と想定している。

しかし、状態変化の有無に焦点を当てているなら、「太郎が花瓶を動かした」(状態変化なし)vs.「太郎が花瓶を割った」(状態変化あり)でも良いし、主語・目的語を人間名詞(固有名詞)に固定したいなら、文脈を柔道の試合にして、「山田(選手)が鈴木(選手)を掴んだ」(状態変化なし)vs.「山田(選手)が鈴木(選手)を倒した」(状態変化あり)のようなものであっても良い。

それでもやはり、「倒す」と「殺す」の状態変化の度合いの違いを知りたい、と考えたら、そこではじめて(5)のような例を使うことを考えれば良い。なお、その場合、私なら「遠い昔の決闘の場面」など、デフォルメされた状況をあえて設定し、「太郎が次郎を倒した」「太郎が次郎を殺した」のようにするかもしれない。

(5)をあえて使うもう1つの言語学的な理由として以下のようなものがある。いろいろな言語で、他動詞文は他動性に応じて構文特徴が変わるのは今述べたとおりである。これらのうち、「agentがpatientに状態変化を与える」という出来事の特徴は、そのさまざまな他動詞文の中でも、「典型的な他動詞文」を収集する時に便利な基準であり、そのような理由から、ある言語の典型的な他動詞文の特徴を知りたくて(5)を使おうとするかもしれない。しかし、やはり、そのような例として「太郎が花瓶を割った」ではダメなのか、再考してもいいだろう。

大事な点は、「「殺す」を含む文は物騒だから使うな」と言っているのではなく、例文倫理の点でどうしても使わざるを得ないのかどうかを常に自問自答する、という点である。何の注意もなく、そして言語学的な必然性もないのに、単に他動詞文を取ろうと思って「太郎が花子を殺した」を提示するのは、例文倫理に反する。

注意点2:ステレオタイプ・差別に無頓着になっていないか

これは上記の学会エピソードにおける「妻は新しいのがいい」が該当する。現代では全く支持されない家父長制を想起させ、また「もののように扱うのは男性が女性に対してである」という誤った価値観を(例文として発することによって)助長・肯定することにつながる。さらに、女性は「若い方が価値がある」という、これまた誤った価値観を、例文を通して広く発することで、聞き手を不快にさせることにつながるであろう。

他にも、「ドイツ人は真面目で、イタリア人は陽気だ」「ここの島の住民は貧しい」「料理がうまい女性はいい妻になる」のような、ステレオタイプ・差別感情を助長する例文が考えられ、実際に見かけることがある。

話者自身が提供する例

特に少数言語(日本の方言も含む)の調査をする文脈では、話者自身が提供してくれた例文に関して、逆に調査する側からすると「これは例文倫理に反するのでは?」というものもあるかもしれないが、当然、それは勝手にこちらで「編集」「検閲」してはならない。例えば、「いうことを聞かない息子をぶん殴った」という例文を提供してもらったら、それはそのまま記録すべきだし、それを例文として使っても良い。「できれば他の言い方にしてもらえませんか?」とこちらから提案する必要もない。あなた自身が積極的に、あなた自身の属する言語文化的な背景において例文倫理に反するような例文を、あえて作るべきではない、ということなのである。

最後に

言語調査は、対象が人であり、広く人類学的調査、社会学的調査と同様、(社会的存在としての)人を扱うという意味で、様々な倫理的な問題が生じうる。実際、人類学・社会学の調査分野には調査倫理という概念が広く共有されている。例えば一般社団法人社会調査協会のウェブサイトを見ると、様々な調査者の注意点が書いてある。私自身、今回ウェブサイトをチェックしてみたことで、社会調査法の調査倫理の条項の中に、このエッセイで提案する例文倫理に直接関わる文言があることに気づいた(太字は筆者)。

第6条
会員は、調査対象者をその性別・年齢・出自・人種・エスニシティ・障害の有無などによって差別的に取り扱ってはならない。調査票や報告書などに差別的な表現が含まれないよう注意しなければならない。会員は、調査の過程において、調査対象者および調査員を不快にするような発言や行動がなされないよう十分配慮しなければならない。

一般社団法人社会調査協会倫理規程より

例文倫理は調査倫理の1つである。このエッセイを書いたのは、この意識が言語学者(卒論やレポートで例文作成を行う学生も含む)に浸透することを願ってのことである。言語学の授業でこの話題を取り上げ、学生と考える時間をとった方が良いと思う。

追記(2024年7月17日)

このエッセイに関するX(旧Twitter)における反応で、まさにここで述べたことに関する雑感を示しているブログがあることを知った(熊本大学の茂木俊伸さんのご教示による)。そこでは、言語学者であるIvan Sag氏が、(このエッセイでも取り上げた)他動詞文の作り方に関する倫理的な問題にかなり敏感な人であったとの思い出が語られている。ぜひ、そちらの方も読んでいただきたい。以下の田川拓海さん(筑波大学)の「誰がログ」内で紹介されています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?