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俺のFIRE漂流記①(お仕事小説)

 市内の数ある改築・改装工事会社の中でも、とりわけ小規模少人数なリフォーム工事会社に勤務するわたり吾郎ごろう(バツイチ独身、中学生の息子付き、42歳)
 昭和を代表するような工事部の長『おやっさん』を師匠と仰ぎ、二人三脚で今日まで会社を盛り立ててきたが、敬愛する師匠に失望し、組織の闇を知り、心が折れて、投資の世界へ活路を見出だす。
 が、世の中そんな甘くはない。投資を投機と勘違いして大やけど。別れた妻への未練、息子の反抗、成功者への嫉妬&やっかみ、過去からの亡霊やらが一気に押し寄せ、俺の人生どうなったと天を仰ぐ。
 だが、そこからだ。吾郎の持ち味が生かされるのは。周りの人間を巻き込んでの、吾郎の快進撃が始まった。

漂流のあらすじ

■工程1 義理人情、無間地獄

0、段取り開始

「吾郎、俺に金を貸してくれ」
 5月のある晴れた日。この金の無心から、俺の生き方は変わっていった。
今、目の前には俺が師と仰ぎ、親父のように慕う男が足元にうずくまっている。悪い夢でも見ているようだ。なんでこんなことになった? 
 この人は……いや、俺もだ。どこから間違えた? 義理ってなんだ。組織とはなんのために存在する? そして、恩というのはしがらみと同義語ではないか。
 それを俺は怒りに目がくらみながら、この日思い知った。


1、これが工事会社だ、コノヤロー

 井上陽水の《ゼンマイじかけのカブト虫》。
令和の今、この曲名を聞いて「ああ!」とすぐに通じる人間は少ないだろう。なんせ、昭和も昭和、今から35年前、俺が小1の時に兄貴がクラシックギターを掻き鳴らして歌っていた曲だ。
 兄貴の歌声は独特だった。うっかり聞いてしまうと徐々に息が苦しくなり、サビの部分に差し掛かる頃には過呼吸におちいってしまうという、恐ろしい体験をする。兄貴の緊迫した歌声にはいつも緊張を強いられたが、カセットレコーダーから流れてくる透明な歌声に、小さかった俺はたちまち魅了された。
 歌詞は子供心にも、少しドキリとした怖さを感じたが、その哀切を帯びたメロディと、キラキラとした水面を思わせるような、不思議な高い歌声がとても心地よく、陶然となって、いつまでも聞き惚れていた。

 今朝の出勤ソングはこれだ。3月から(俺の誕生月でもある)、より過酷になった労働で、頭も体も古い油が固まったようにどろりとして、思うように働かない。そんな鈍ったコンディションであえてこれを選曲した。
 なぜだか無性に聞きたくなったのだ。車のオーディオにCDをセットし、会社に到着するまでリピートで聞き続ける。それが毎朝の俺のルーティンだ。
 聞く曲は井上陽水一択。俺ははっきり言って陽水の世代ではないが、12歳離れた兄貴の影響で陽水の曲を聞いて育ち、隠れ陽水ファンとなった。
 周りの連中が、ジュンスカイウォーカーズBOOWYX-JAPANレピッシュなど錚々たるバンドに夢中になって、次々とコピー結成していったが、俺の陽水への一途な愛は変わらなかった。別に他のミュージシャンの曲だって聞きたければ聞けばいいのに、俺は愛好家であるという信念を曲げなかった。
その頑なさが、こうしてかなり今に影響している。
 わかってはいるのさ。

 駐車場に車を停め、社屋へ入る。エントランスのオートロックを解錠してホールに踏み込むと、裏手の非常口から大柄な紳士が現れた。
 社長だ。濃紺の光沢のあるジャケットに細い格子縞のシャツ、アンクルジーンズ、素足に(たぶんどっかの)高級ブランドのローファーが(俺は間違っても真似できない)陽に焼けて締まった足に映えている。
 今日もイカしているな。とても57歳には見えないこのラグジュアリーでファッショナブルなハイセンス。(この横文字表現は最近のこの業界で流行っている)
 0.5秒で大ボスの本日の出で立ちをチェックし、俺は姿勢を正して挨拶をした。

「おはようございます」
「おう、おはよう。吾郎君、なんか眠そうだな。どうした? 目が開いてないぞ」
「え? そうすか? これでも頑張って開けてるんですけど」
 俺の軽口に社長は笑った。
 わが社の社長、乃万土のまど敦美あつみは、社屋で社員と会えば、こうやって冗談を言って常に交流を持とうとする人物だ。人柄は豪快にして人情家、懐も深い。先見の明もある、バリバリの経営者だ。
 そしてどんなに気安く話しかけられる雰囲気があっても、時々背筋が寒くなるほどの冷徹な判断を下す。俺は色々な意味で密かに一目置いている。

 俺の名前はわたり吾郎ごろう。3月で42歳になった。
不動産会社母体の小さなリフォーム工事会社に勤務している。役職は係長で、営業兼現場管理が業務内容だ。上に上司が2人おり、下に直属の部下が3人いる。他、後方部隊である業務課2名。計7名の小規模工事会社「株式会社ノマドランド」。これが現在所属する組織だ。

「………ざまーす」
 席に着くと、向かいに座る部下その1、夏川心介が口の中でもごもごと呟いた。ノートパソコンにめりこむように顔をつけ、キーボードを一心不乱に打っている。
 心介よ。今日もスネオのママになってるぞ。挨拶くらいちゃんと言えるようになれ。
 俺が今日も心の中で注意をしていると、今度は左隣りから朗々とした美声を浴びせかけられた。
「亘係長! 昨日の現場なんですが、ヒノマル設備さんと一緒に見に行ってみても、やっぱりどこから水が漏れているのかわかりませんでした。一応この辺の配管は見たんですが…」
 待て待て待て。俺は今鞄を置こうとしているところだし、椅子に腰かけてもいないだろうが。座面に尻が到着していないのが目に見えないのか。
 いや、それよりも部下その2、増田拓海よ。おまえはそもそも挨拶すら端折ってるぞ。せっかちにもほどがあるってもんだ。
 いつものこのルーティンに(と言っていいのか?)俺は内心溜息をつきながら、増田拓海に向き直った。一応、この一角に到着した時、おはようと声はかけたんだけどね。

「床は剥いで見たのか? あそこは浮き床にして管を通してるだろうから、目星つけて剥いで見れるだろ?」
 平面図を広げて、改めて聞き取りをした。
「もし特定できなかったら、その場で俺に連絡しろと言わなかったか?」
「そうなんですが、現調に手間取られた上に時間も遅かったんで…」
 こいつには今その時の手間を惜しむことと、その後に続く再度の労力と時間の損失の考え方について指摘をしてやった。
「係長、小出さん今日休みなんすか?」
 向かいの部下その1、夏川心介がもったりした口調で尋ねてきた。休みとは聞いていない。
「電話してみろ」
 心介はまだ口の中でもごもごと返事をし、携帯を操作した。増田拓海と再び図面を見ながら打ち合わせに戻る。
「係長、小出さん現場にいるそうです。直行すると言ってます」
「……代われ」
 俺は心介の携帯をスピーカーにした。他人の携帯を借りた以上、画面を耳に直接つけない配慮は大切らしい。最近、息子からそう注意されて、さっそく実行している。
「小出。直行するなら事前に連絡しろと言っているだろう。個人商店じゃないんだから、組織の手順はちゃんと踏めよ」
 すみません、という声がドリルの音と共に電話口から流れてきた。俺は携帯を夏川心介に返しながら、今こいつが何をやっているのか、ちらりと覗いてみた。印刷された書類の日付が3日前になったままだった。
 こいつもか…。
「何か困っているのなら聞けよ」
 声をかけた途端、ガタンと夏川は見違えるような動きを見せて立ち上がる。そして芋虫のような指で掴んだ書類を、今、俺と増田が覗きこんでいる図面の上に、滑り込ませるように重ねおきやがった。目にも止まらぬ速さで。そんなに早く動けるとは知らなかったぞ。
「え、係長。まだ僕への説明終わってないですよね」
 増田の非難が俺に向けられる。同時に、作業着の胸ポケットに入れていた携帯が鳴る。指で摘まんでちらりと見やると、『おやっさん』からだ。さらに背後から名を呼ばれた。
「亘くーん! 今週の土曜日までに床まで仕上げてくれる職人さんいないかなー? 斉木さん電話繋がらなくて」
 部長…。そんなことはこの三羽烏へ命じてくれ。こいつらで充分対処できる仕事内容だ。だからこいつらは、いつまでたっても独り立ちしようとしないんだよ。
 二人の部下の方へ振り向くと、こいつら、はぐらかし行動に出やがった。
「お世話になっております、増田です。ヒノマルさん、昨日の件なんですが…」
 美声を響かせながら増田は颯爽とフロアから去っていき、夏川はいつの間にか自分の席に戻って、その小山のような巨体を小さなノートパソコンの陰に隠そうと頑張っている。心介よ。そうまでしておまえは仕事から逃れたいのか。こいつら、何のためにこの会社で働いているんだと思う瞬間だ。
「亘くーん! グループLINEに送っておいたからお願いねー」
 俺は返事をして、鞄を手に持った。ついでに、机に広げた図面を写真に撮り、写メにマーカーと説明文をつけて増田へ転送した。さらに夏川が置いて・・・いった・・・見積書を鞄にしまう。これは赤ペンを入れて後で送ってやろう。
 席に着いてまだ20分。山のようにある事務仕事を1時間半で片付けてから外勤する。その予定が崩れた。今頼まれた工事の段取りをしに、現場へ足を運ばなければならない。LINEに送られてきた依頼内容をチラッと見る限りでは、今週の土曜日に作業完了させるには、今動かなければ間に合わないのだ。
 まあ、いつものことだ。これも想定内。許容範囲内。俺の心の水面はこんなことくらいでさざ波が立つどころか、小揺るぎもしないのだ。
 時間は9時ジャスト。ちょうど始業開始の時刻に、俺は再び車へ戻った。さっき出そびれた着信へ掛け直す。発信先は俺の直属上司である斉木課長だ。現場へ直行するから、と俺の個人LINEに早朝連絡が入っていた。課長のスケジュールは常に把握している。これもいつものことだった。

「あ、おやっさん。吾郎です。おはようございます。さっきは電話出られなくてすみません。何かありましたか?」
 俺は二人だけの時は斉木課長を『おやっさん』と呼ぶ。斉木課長と俺は普通の上司と部下という関係以上の付き合いがあった。
「吾郎……。急ぎの要件がなければ、ちょっとこっちに来てくれないか?」
「はい。ちょうどおやっさんのいる所の近くの現場に用があるので、終わったらすぐ向かいます。そんなに時間かからないと思いますよ」
 そう告げて、車を発信した。いつもの会話だ。取り立てておかしなところは何もない。ただ、声がおかしい。おやっさんのいつものどっしりとした声音が、干からびた空気のように虚ろだった。長い付き合いだから、他の人間は気づかなくても俺にはわかる。何だか嫌な予感がした。


2、うちの会社も闇だね

 宣言した通り、1時間半後におやっさんのいる現場に到着した。
 街中の11階建て、フツーの分譲マンションだ。築30年、間仕切り壁の多い4LDKの古臭い間取りで、おやっさんと一緒に現調に来た時は、これは工事のし甲斐がある部屋だとイキったものだ。だが、仕事をくれた元請けがおやっさんの客ではなく、部長の伝手つてだと聞いて、俺はみるみる興味を無くした。仕事に好悪をつけるのはプロとしてあるまじき心根だが、これに関しては理由がある。
 
 俺たちの評価・給料の仕組みは、年1回評価査定の固定給だ。営業成績に応じた歩合制ではない。俺が所属する営業工事課は、営業一人で工事現場を担当し、着工・完了させ、元請けへ引き渡す。工事現場も基本は自分で各社や個人宅へ営業をかけて貰ってくるのが基本スタイルだ。だが、歩合制ではない。繰り返すが、歩合制ではないのだ。営業能力が高かろうが、どんなに工事を受注出来て件数をこなそうが、でかい規模で旨味が大きかろうが、給料にはビタ一文反映されないのだ。かなりおかしな評価形態だが、この会社ではそれが雇用方針だ。
 この仕事自体が好きでなければとてもやっていられないだろう。現に、仕事内容があまりにもきつく、それが給料に反映されないとあって、これまでに若手2人が辞めていった。入って一年足らずで。
 話は戻るが、つまりどれだけ仕事をしても給料アップには繋がらない。なのに、各営業の毎月の売り上げ目標というものはしっかり設定されている。要するにノルマだ。この矛盾が、この会社の最大の闇だ。まあ、この矛盾は俺自身も抱えている。大事に大事に闇の卵をな。

 リフォームの工事現場というものは、びっくり箱のようなものだ。毎回毎回、蓋を開けてみないとどんな状況になっているか、どんなイレギュラーが飛び出してくるかわからない不確定要素に満ち溢れている。そのために事前に現地調査をするわけだが、工事前に全て完璧に把握できるものではない。だから、改装・改築工事を完了させるのは、千差万別だが結構骨が折れることなのだ。
 そこに、売り上げ達成をするノルマも加わる。はっきりいって自分の毎月の仕事をこなすだけで精一杯だ。他人の仕事まで引き受ける余裕はない。それはヒラ社員の三羽烏であろうが、係長の俺だろうが、おやっさんこと斉木課長だろうが、等しく与えられた会社の規範だ。
 しかし、その規範を無視する存在が一人いる。それがノマドランド統括部長、我聞がもん哲雄てつおだ。この人間は、母体不動産会社NOMADOの役員の一人でもある上、リフォーム会社ノマドランドの組織のトップということもあり(7人しかいないが)、ほとんどすべてにおいて彼の自由な采配で経営が進められていた。
 組織のトップにして、部長でもあるが、営業マンとして自ら仕事を取ってくる。そして、あくまで『営業のみ』に徹する。実際の工事担当は、主に斉木課長だ。そして営業売り上げはというと、もちろん部長自身にポイント加算される。工事担当者には星ひとつの記録もコメントも残らない。もちろん、一切報酬として還ってくることもない。売り上げの評価は部長にしかつかない。実に徹底しているね。
 工事を完成させるのにどれだけの労力と采配技術、知恵知識を必要としたかは重要ではない。このノマドランドでは、売り上げた数字がすべてだ。
 シンプル・イズ・ザ・ベスト。使い方を間違っているが、俺の脳は最近この言葉が張り付いたまま思考停止している。考えすぎると不平不満の渦にあっという間に飲み込まれてしまう。そうなったら、手足はもう言う事を聞かないだろうな。毎朝出勤時にハンドルを握った途端、会社とは見当違いの所へ走り出すだろう。わかっているから、防御装置が働いている。

 エレベーターも共用廊下も、まるで内装後かのように、シートやパネルで綺麗に養生がされている。たとえ部屋番号がわからなくても、チルチルミチルのごとく工事部屋まで目印となって連れて行ってくれる。
 見よ。一切のたわみもよれも、隙間も見当たらぬ、非の打ち所がない、。これがおやっさんの仕事だ(俺も手伝ったが)。
 705号室に到着し、養生シートが張られたままの玄関ドアを開けた。
 作業音が何も聞こえてこない。随分静かだな、と少し不思議に思いながら、上履きに履き替えて中へ入った。
 部屋は、ほぼ完成しかけている。工期は確かまだ半分きたかどうかという段階のはずで、これからやっと設備系取り付けが始まり、内装張り込みはその後と記憶していた。
 異例の速さだな。かなり驚きながら、綺麗に張られた壁紙や床材を見渡しながら廊下を進んだ。

 フルリノベーションなので、間取りが以前の面影もないほどガラリと変更されている。おやっさんは奥のリビングにいた。対面式のお洒落なアイランド型キッチンに寄りかかって、窓の向こうに広がる景色をぼんやりと眺めている。リビングからベランダへと見通せる大きな掃き出し窓がフレームとなって、壮大なパノラマの一部となったおやっさん。一幅の絵みたいだ。その余生を送るご隠居みたいな姿に、胸がざわつきだした。いつ何時駆けつけても、何かしら作業をしている人なのに、何もしていない姿は初めて見る……。

「吾郎、来てくれたか」
 俺の姿を認めるなり、おやっさんは停止した世界から急に息を吹き返したかのように身じろぎした。角刈りした頭髪は白いものがそこかしこに目立ち始め、日に焼けた浅黒い肌には深いのも細かいのも皺がたくさん刻まれている。少し彫りの深い目元を和らげて、俺を出迎えてくれた。いつものあったかい笑顔だ。
「まだ洗面所とトイレは張ってないんすね。でも、随分早くないっすか? 来週いっぱいまで設備系設置のはずでしたよね、たしか」
 挨拶をしてから、俺は工程状況を聞いた。玄関ドアを開けて視界に広がるべき光景は、剥き出しのボードや床板、作業途中に発生するゴミや工具がそこかしこに整然と置いてあるはずだった。
「田中さんは午後から張りに来るよ。ちょっと色々あってそうしてもらったんだ」
「どうしたんすか? なにかトラブルでも?」
「……うん」
 おやっさんはのそりとキッチンから離れ、あろうことか、いきなり俺の足下に這いつくばった。一体なにをしだすんだ、この人は。いささか俺は慌てた。
「な、なんなんすか、おやっさん」
「吾郎、すまない!」
 おやっさんは、敷きこんだばかりの上等なフローリングに額を擦りつけている。俺の不安はいよいよ大きくなった。
「俺に金を貸してくれ」
 腹の底から絞り出された声が、がらんとした何もない15帖のリビングに広がり、吸い込まれていく。
 ああ、やっぱりな。嫌な予感はこれだったか。完全な不意打ちは食らわなかったが、これから展開されるであろう事柄に俺は警戒した。
「どうしたんすか? 一体」
 俺は努めて穏やかに尋ねた。内心の緊張とは裏腹に。俺が知る斉木さいき橋蔵はしぞうという人は、むやみに金を無心するような人間ではないはずだ。
 おやっさんは意を決したように顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめてきた。四角い角張った顎が食いしばられて、ぴいんと張りつめていた。
「業者に払う金が足りないんだ。あちこち工面しようとしたんだが、うまくいかなかった」
「予算内で収まらなかったということっすか? でもおやっさんと俺で、何があっても大丈夫なように、かなり慎重に原価出ししましたよね?」
 工事途中で、当初予定していた内容ではすまない事態が発生して、変更なり、追加されるなんてことはよくある。そのための追加工事請求であり、元請けと取り交わした契約書にはその項目は記載されているのだ。その上での徹底した予算組みがあるのだ。わかりきったことではあるが、念押しをした。
 なのに、おやっさんは黙っている。

「ひょっとして、そのどっちでもないということっすか?」
「業者が変更になって、工程が全部崩れちまったんだよ」
「え……」
「最初の解体屋と大工を早めて、入れ替えた。工期を間に合わせるためには仕方なかった」
「間に合わせるためって……今月末までっすよね、完了は。十分余裕ある段取りなのに、なんでこんなに急ぐ必要があったんですか」
 話しながら俺は全容が目まぐるしいスピードでわかってきた。急に工期を変更されたのだ。そのせいで、当初予定していた各工程の業者が入れず、予算組みの時点で内定していた業者とは別の業者を探して、無理矢理ねじ込んだのだ。
 初期の工事であればあるほど、大掛かりな工事内容になるので金額もでかい。普段懇意にしていない業者で突発的にともなると、価格交渉もままならず、あちこちから人工にんくを掻き集めてとなれば、経費はより嵩む。三重苦だ。
 只事ではないと思った。

「解体屋に126万、大工に88万、設備に58万、左官11万、電気に25万、合計308万だ」
「……おさえてた原価の2倍じゃないすか……」
 耳を疑った。魂消すぎて、次の言葉がすぐに出てこない。こんな大損失はまれにみる。見事なほどの大赤字だ。スーパーゼネコンからしてみればこの程度は可愛らしい失態かもしれないが、うちのような、地方のちっさい会社にはダイレクトに響く。
「150万原価割れしてしまった。何とか50万は工面したが、あと100万足りない」
 ? ん? 意味がわからないぞ?
「それはおやっさんが払うという意味すか?」
 最初に感じた不安に出戻った。
「そうだ」
「工程を早めることになったのは、おやっさんの失態ということすか?」
 一拍置いて、おやっさんは小さく、だかはっきりと答えた。
「違う」
「じゃあ、なんでおやっさんが損失を自腹で被るなんてことになるんすか? いや、そもそも仕事で起きた損失で、悪質な過失でもないのに個人に補填させるなんておかしいでしょ」
「仕方がないんだ」
 何か変だ。俺の知らない所で、理解を超える得体のしれない出来事が起こっているような感覚だ。
 おやっさんは、虚ろな目で俺に事の顛末をぽつりぽつりと語りだした。

 このスケルトン工事は、我聞部長が個人的な知り合いから取ってきた仕事だった。ではあるが、実際現地調査に行き、各施工業者と打ち合わせをしながら見積りをし、段取りをしたのはおやっさんであった。本来なら、そこで元請けへの工程説明と納期相談は、現場監督兼施工管理技士でもあるおやっさんも同席するのが順当だ。我聞部長1人では、荷が勝ちすぎる。なぜなら、部長は建築工事に関しては素人だから。施工も現場監督の経験もない、あくまでも不動産畑の出身だ。本人もそれがわかっているから、営業マンに徹している。
 だが、今回の現場に関しては、元請けとの打ち合わせや契約締結の場に、おやっさんの同行は拒まれた。理由はわからない。不安を覚えたおやっさんは、必要なことをリスト化した資料も添えて、念入りに本人に説明した。
 そして最終的に納期と工事請負価格が決定され、着工となった。工事期間は2か月のはずだった。その期間内にできる請負工事だった。それが覆されたのだ。さあ着工、というぎりぎりになって、3週間早まった納期を伝えられたのだという。
「これが最終決定した納期だよ。橋蔵さん、俺ちゃんと伝えたよね?」
 元請けから送られてきたLINE通知をちらりと見せて、部長はそう言い放ったのだ。取り交わした請負契約書は俺も見ているので、納期も確認している。契約締結後に、元請けと部長の話し合いで変更したのかもしれない。その経緯をおやっさんは知らされていないということだろう。
 そして、最も恐れていたことを部長はやらかしてしまったのだ。工事を早めることにより、費用が嵩むという原理を無視した。工事費を安く抑えるための徹底した計画の上に成り立った、工事見積内容なのだということを。
 あれほど、交渉役である部長に説明したにも関わらず、全てが徒労に終わり、あろうことか赤字までこさえてしまった。受渡日変更の契約書を見せてくれるよう要求したが、断られたという。
「先方にはできると言っちゃってるし、やるしかないでしょ。橋蔵さんなら、なんとかできるよね?」
 あくまで、自分はやるべきことはやったので後は任せた! という態度を貫き、その後は一切この工事について触れてこなかったそうだ。

「だから、どうしておやっさんが損失の穴埋めをするということになるんすか? おかしいでしょ。だって、おやっさんは変更を知らされてなかったんだし、そもそも丸2か月かかる工事内容で算出した費用だときちんと説明するように、と部長にレクチャーしましたよね? 非があるのは部長であって、おやっさんはすべきことは全部やった上での失態じゃないですか」
「そういう理屈は通らないんだ。所詮、言った言わないの水掛け論になるんだよ」
「なんですか、それ………」
 俺は絶句した。もはや理解の範疇を越えている。これは人としての道理を外れていないか? ただの仕事上の過失・失態うんぬんの問題ではなく、責任逃れという罪のなすりつけではないか。それとも、組織人としての自分の感覚がおかしいのか?
「……部長に何か弱みでも握られてるんすか?」
 思わず聞いてしまった。このおかしな関係の説明はそれしか考えつかない。
「いや。そういうわけではない」
「だったら、なんで庇うんすか? いい大人が、自分の失態は自分で後始末すべきでしょう」
 おやっさんは小さくかぶりを振った。
「俺にも責任がある。あの人をちゃんと面倒見切れなかったという俺の甘さだ」
 そして俺が口を開くより先に、再びおやっさんは改めて頭を下げた。
「各業者には、俺からすでに話はしてある。足りない分は俺から個人的に支払うと。すまん、吾郎。俺に免じて100万貸してくれ」
「なんだよ、それ…」
 思わず口をついて出てしまった。もう冷静な態度を取れなくなってきつつあった。
「なんで部長のヘマのために俺が金を出さなきゃならねえんだ。なんでおやっさんが責任取らなきゃなんねえんだ。まったく筋が通らねえし、意味がわからねえ。こんなバカな話があっていいのか? 組織として駄目だろう、こんなの。今までどうして……」
 俺はハッとして口を閉ざした。俺の前でらしくもなく、首を項垂うなだれているおやっさんを穴が空くほど凝視した。
「もしかして、今までにも度々こういうことやってたんすか?」
 問いかけた直後のおやっさんの表情に、俺はそら恐ろしい闇を感じた。それは上司と部下という関係以上の、目には見えない病んだ人間関係という、からみついて容易にはけないしがらみだった。
 おやっさんが言うには、部長とはノマドランドに引き抜かれる以前からの付き合いで、当時並々ならぬ世話になった間柄なのだという。長年にわたる部長との付き合いで恩恵も受けたが、一方でその恩人の厄介事を、おやっさんが大なり小なり肩代わりし、解決してきた。俺が知らなかっただけで、すでに過去3現場同じように損失を出し、おやっさんの落ち度という事でこっそり穴埋めしてきたと告白された。
 だから、おやっさんは常に金に困っていたのか。いつも昼食を抜き、かなりのヘビースモーカーだった煙草をきっぱりと絶ち、ある日突然愛車だったハイエースバンGLを手放し、軽のワゴン車でコトコトやってきたおやっさんに目を丸くした俺に、「ミニマム化したんだ」と軽口を言っていた。
 家族や家庭に何かあったのかと心配になって、それとなく様子を尋ねる俺に、「もうそろ定年間近だから節約しないとな」と笑っていた。
 全部こういうことだったのか。

「部長のヘマを、俺たちが後始末ってか。おやっさんは部長の親なのかよ? てめえの尻拭いを他人にやらせるなんて、まともな奴のすることじゃねえ。あんたができないんなら、俺が部長のケツを自分で拭かせてやるよ!」
「吾郎! 駄目だ、よせ!」
 すっかり頭に血が上って部屋から出て行こうとする俺を、おやっさんは後ろからがっちり羽交い締めして止めてきた。
「こんなのおかしいだろ! あんたがなんで背負い込まなきゃなんねえんだよ! なんの義理なんだよ! あんたがこんな事してるのを部長が知らないわけがねえ! わかってて見て見ぬふりしてんだろ? 社長に自分の失策)や無能ぶりを知られたくなくて、あんたをいいように利用してるんだろうが!」
「それでも恩があるんだ、あの人には」
 興奮して手を振り払う俺を、おやっさんは必死に縋りついて止めてくる。
「目を覚ましてくれよ!」
 逆におやっさんの肩を掴んで激しく揺さぶってしまった。恩なら、俺だってあまりあるほど受けている。この人から。それこそ、実の親以上に、俺はこの人の世話になって今日まで生きてきた。大袈裟でもなんでもない。この斉木橋蔵という男は、職業を間違えたのではないかと思うくらい人を助け、受け入れる度量の広い人間だ。こんな善良な人間を俺は他に知らない。
42年間生きてきて、会ったためしがない。こんな人を利用する人間を俺は許せなかった。わかっていながら、利用されることを自ら許してしまうおやっさんも、俺は許せなかった。
「吾郎、すまない。すまない」
 揺さぶられながら、おやっさんは謝り続ける。おやっさんの小さな眼がカクカク揺れていた。 
  朝聴いた陽水の透明な歌声が、怒髪天を突いた俺の頭の片隅で流れている。その歌声を聴きながら、冷静なもう一人の俺は呟いているのだ。
 そう、俺も同じ。所詮、断れやしないんだよ。どうして、おやっさんを責められるというんだ。俺だって同じムジナだというのに


~次作、「工程2 仕事の意義と生きる意味は同義語か?」 へつづく




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