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俺のFIRE漂流記⑨ 最終章(お仕事小説)


工程9 新世界、きたれり

1、幕開けかあ~

  年が明け、仕事始まりの前日に柔道じゅどうを伴って、onedayの新年会へ参加した。
「わぁー、久しぶりい! 亘さん、柔道君もー!」
 ジム経営志望の由利あけみが、俺たち親子の姿を見るなり歓声を上げて走り寄ってきた。その後ろには、主婦太美ふとみ昌子まさこが菩薩のような笑顔で俺たちを出迎えにきてくれている。なんと、傍らにいるのはダンナか? パスタと唐揚げを盛り付けた小皿を片手に、昌子をガードするかのようにくっついてきた。変わり者だという噂を聞いていたので、物珍しさからつい観察してしまった。
 大層恰幅がいい身体に、ブリティッシュスタイルが好きなのか、ツイードスーツのジャケットはスウェードの肘当て付き、ブルーの格子柄のボタンシャツに首元にはスカーフという演出でゆるさを出し、鼈甲フレームの眼鏡できっちり締めている。ファッション取材みたいになってしまったが、とにかくすごい拘りようだ。俺なんか全身ウ〇クロだというのに。ちなみに柔道はスポーツブランド一択だ。
「なるほど、実に雰囲気がある。なるほど、なるほど。昌子から聞いていたとおりだ。インパクトが強くていい」
 左手に食べ物を載せた皿、右手にフォークを持ちながら、しきりに頷いている。市内の某私立大学で美術を教えている教授だときく。かなり先入観が入っているが、やはり個性的な人が多いのかな? なんて答えらいいのかわからないので、笑顔で返した。
「この人、すぐ自分の世界に入っちゃうのよ。きっと頭の中で亘さん方の構図でもこしらえてるんじゃないかしら」
 昌子が笑いながら口を添えてきて、いとも自然に俺たちを奥の新年会場へ誘うが、ゾッと身の毛がよだったぞ。『構図』ってなんだ? 怖いから、追及することも想像することもやめた。
 新年会場はお馴染みのKINEブックカフェだ。今日一日は、onedayタダビト勉強会の貸し切りにして、心ゆくまで自由に過ごすことになっている。
各自、好きな飲食物を持ち寄ることにしたので幹事もいない。この日は雇われマスターの平内さんも、ただのonedayの一員として楽しんでいる。俺たちのちょっとした心配りだった。
「おっ、亘さん。これが得意料理の野菜あるあるリゾットですか?」
 両手鍋ごと持参した、俺が人様に食べさせられる唯一の手料理だ。カフェのオープンキッチンで温め直していると、元公務員で引退生活を楽しんでいる須藤さんが鼻をクンクンさせながらやってきた。
「少し冷めちゃったけど、まあイケるでしょ。少し硬めに仕上げたし」
「えぇ~、何それ。まさかの亘‘s手料理? すごーい!」
 耳聡い由利ちゃんが、スプーン片手にすっ飛んできた。その後ろに昌子夫まで付いてきている。食いしん坊か。その間に、加勢が大量のピザ箱を抱えてエントリー。杵柄嘉臣も加わって、全員久しぶりに揃って楽しい宴が始まった。
 
「亘さん、元気そうでよかった」
 由利ちゃんの、ジムでのあるある体験談を皆で笑い興じながら聞いていた時、加勢が横でぼそっと呟いた。顔を見ると、気まずそうな表情で俺をちらりと覗っている。あ、そうか。あの為替で大負けした時以来、加勢とはろくに連絡を取っていなかったんだ。なんせ、大急ぎで負けの清算をして応急処置を取った後は、もうそれどころの状況ではなかったからな。
「あの時は心配かけちゃったな。ろくに連絡も、状況も説明しなくて。でも何とか始末は付けたよ。せっかくこしらえた金はかなり失くしてしまったけど」
 はははと笑いながら、俺は主婦昌子が作った鶏の唐揚げを頬張った。肉汁と生姜の旨味が半端ない、絶品だ。いくらでも食べられる。柔道なんか、目の色変えてがっつき、数皿ある中のひと皿を一人で平らげてしまった。
「……それなら安心です。俺、ちょっと責任感じちゃってて。この短期間で亘さんをその気にさせて、FXとかに引き込んでしまったし」
 なんだそんなことを気にしてたのか。
「加勢よ。俺、別にひどい目に遭ったとか、これっぽっちも思ってないぜ?」
 え、という意外そうな顔をしているな。
「大負けしたけど、別に借金こしらえたわけでもないし。あの天狗になった経験のお陰で、自分に何が向いているのか分かった気がするよ。要するに、金のこしらえ方ってやつ」
「投資法ですか? やっぱり短トレやデイトレはやめて、働きながら分散投資をするとか……」
「ああ、そう。投資の話な。投資スタイルは、長期インデックスを軸に、あとは中長期トレードでコツコツ増やしていって、高配当株を買い揃えていくのが目標かな。それで65歳くらいまでには三千万は貯まる計算だ。まあ、それはあくまでも今の状態で、という話な」
 加勢は沈黙している。極端に守りに入ったと言いたげな顔だ。俺の選択に不服なのはよくわかる。一度稼げる能力を見せたから、そう思うのも無理はない。
「投資法に関しては、今のところこれが大前提で終わりだ。で、俺にとって金のこしらえ方は投資じゃないってことなんだよ」」
 加勢が眉を跳ね上げる。反感を買ってしまったかな?
「いや、ちょっと違うな。俺にとって錬金の術が投資一択ではないということさ。俺は3月で43になる。もう立派な中年になってきてるし、一般的な定年まで22年あるとはいえ、頭脳と体力を総動員してバリバリ働くのは55までが限界だと個人的に思っている。となると、あとたった12年しかない。その残り12年を、俺は投資に全精力をつぎ込んで、結果、目標の資産をこしらえたとしたら、その時はたして俺は何をしているのかな? と考えちまったんだ」
 いつの間にか、傍らには柔道が戻ってきており、俺に凭れかかるように2人掛けソファへ身を沈めながら、モシャモシャと由利ちゃん特性のキャラメルポップコーンを食っていた。
「なんにも思い浮かばないんだよ。はっきりいって、ガーッと胸も踊らない。で、逆にじゃあなんだったら、ガーッと胸が躍るのかなって考えた。
為替で大金を失って奈落を見たと思ったけど、仕事で信用と信頼を失いかけたほうが恐怖を味わった。心底ぞっとした。そして俺はまた自分に問いかけた。どうやってい生きていきたいんだ? 俺はやりたいと望むことをしていきたい。それが『仕事』だったということだ。今の仕事をもっと広げていったら、その先に稼ぎも必ずついてくる。それを思うと俺はワクワクが止まらねえ」
 ローテーブルを挟んだ反対側の席に、定年退職した須藤さんまで座っており、俺の話に耳を傾けていた。その横には3人掛けのソファの3分の2を一人で占拠している、小山のような昌子夫までいる。知らない間に、聴衆が増えている……。
「それが亘さんの金のこしらえ方、ってやつなんですか」
 長いこと聞いてくれていた加勢が、一言一句確かめるように俺の言葉を繰り返す。その口調が、なんだが淋しそうな響きを伴っていたように聞こえたのは気のせいかな。
「亘さん。面差し、なんだか変わりましたね」
 向かいに座る須藤さんが、目元に皺を寄せながら笑顔でそう指摘してきた。注目されてるから照れくさく、つい顎を撫でてしまった。
「ほーんと! 亘さん、雰囲気が柔らかくなったー。目力は相変わらず凄いけどー」
 由利ちゃんがマスターの平内さんと笑いながら、からかってくる。必ずそこを突いてくるなと苦笑していると、「お父さん……」と柔道が肘で俺の脇腹を小突いてきた。
「あのひと、怖いんだけど……」
 怯えた視線の先には、昌子夫のやたらと光る双眸があった。広げたスケッチブックと俺たち親子を代わる代わる見比べては、何やら一心不乱に書きつけている。つま先立ちした両ひざの上に大きなB4サイズのスケッチブックを乗せて、鉛筆をシャシャシャと動かす姿に、皆静まり返った。そのスケッチブック一体どこから持ってきた!
「茂さん……。亘さん方、お困りだから。……ね?」
「著作権侵害?」
「由利ちゃん、ちょっと使い方違う……」
 全く耳に入っていない。一体俺たち親子のどこがそんなにお気に召したのか、近年最大の謎だった。


2、変わり始める俺たち

 2月。高来こうらいさんの別邸着工。
 資材、建築・内装材料、設備品、海外品併せてほぼ手配&仕入れ完了。
大工頭の末吉さんとはしつこいくらい打ち合わせを重ね、そのたびに「こりゃ、腕が鳴るわぁー!」と雄叫びをあげられている。思った通り、今まで見せ場があまりなかった腕の見せ所なので、損得抜きで純粋に嬉しいらしい。
 俺たち職人てのはそんなもんだ。いや、俺たち、はちょっとおこがましかったな。俺も造り上げる側の施工人の端くれとしてわかると言いたいんだ。
 で、まず今あるものはすべてひっぺがえして、スケルトンにしなければ何も始まらない。念入りな解体で、ゼロに戻してからのスタートだ。
 解体しながら、これも隈なくいろんな所を点検し、隠れて見えなかった傷みや損壊、問題箇所も拾い上げる。そして修復・交換の手配を素早く進めていくのだ。
 心介は際限なく水を吸い込む真綿のように、どんどん仕事を覚えていく。こいつもどっかスイッチが入ったんだろうな。たぶん、今仕事が楽しいんだろう。
 俺はというと、この現場と部長がらみの現場のおやっさんの補佐、俺の顧客の分譲マンション改修を同時進行で動かしている。そして、来月からはLotus Interiorの戸建てリノベが着工だ。これは増田拓海を副担当に付けている。
 先月1月は、これもLotusの現場で小さな麻雀喫茶の改装を請け負った。
 扇谷との初タッグを組んだこの工事は、思いのほか順調に進み、双方トラブルもなく無事に完工できた。……いや、はっきりいって意外にも仕事がしやすかった。素面しらふの扇谷は相変わらずスカしたヤツだが、無駄がなく要領よく、設計側にしては現場サイドの視点で物事を考える目を持っている。
 まあ、設計と現場で見方も意見も割れるのは致し方ない所もある、大昔からの課題なんだけどね。それが、この扇谷はクリアしているのが驚きだった。……なるほど。だからあんなに何もかも抱え込んで、忙しいんだな。
 ある意味、現場任せにできず、割りきれもせず、不器用だともいえる。


「お父さん。お母さんがさ、明日いったん自分ちに帰ると言ってたよ。夕べ」
 俺が作った朝ご飯をむしゃむしゃ食べながら、柔道が思い出したように言い出した。え? 俺は何も聞いてないぞ。弁当におかずを詰め込む手元が狂った。茹で卵の黄身が白身から飛び出して、敷き詰めた白飯の上に散らばってしまったではないか。
 今日は学校が給食なしの午前中授業で終わるので、午後からの部活のために慣れない弁当作りに励んでいるのだ。話をしたいが、弁当に集中しているので言葉を発せられない。
「大分調子がいいから、来週あたりから働きはじめるかなー、だって。お父さんに言っておいてと頼まれたんだった」
 おまえ、言うのが遅すぎないか。なぜ、今なんだ。朝は戦場だという主婦の気持ちがよくわかるな。
「あ、それと今日部活終わったら、ブックカフェ行ってくるから。町村さんがCGについて続き教えてくれるっていうから。20時までには帰るし。塾ないし」
「まっすぐ行くな。鞄は置いていけ。帰りは迎えに行く」
 必要最低限の言葉しかいえない……。ただ、箱の中に詰め込むだけなのに、なぜこんなに難しいんだ。同じ手作業でも、工事と全然違う。
 町村くんというのは、去年の暮れ辺りにブックカフェで知り合った常連さんで、情報デザイン工学科を専攻している大学生だ。彼と柔道は年齢差があるにも拘らず、妙に意気投合し、この町村くんに影響されて受動はグラフィックというものに興味を持ちだしている。それまで今時の子にしては珍しく本の虫で、デジタルやネット関係にまったく興味を持たなかったのに、今や180度ベクトルが転換している。ほんとに、人の可能性ってわからないものだな。
 家出をしてからも学校を休みがちだった柔道だが、町村くんと仲良くなってからはどういう訳かあまり学校を休まなくなった。この間は出席率がどうのとか言っていた。たぶん、来年の高校受験を視野に入れてるんだろうけど、自主的にそれを考えているとはかなり驚いた。

「お父さんが思っているほど、オレそんなに子供じゃないよ」
 先月12月に、凛々子の病気を柔道は知らされた。息子の動揺とダメージをかなり心配して様子を窺ったが、柔道は思ったより落ち着いていた。俺のように取り乱しもせず、挙動不審にもならなかった。まだ中2でママっ子だったから、家族の誰よりもショックがでかいと思っていた。
「ショックで嫌だけど、誰にでも起こりうる病気だし。それにお母さんは克服すると信じてるから」
 毅然とした態度で言い切る姿は14歳とは思えないほど頼もしかった。飄々としたところのある柔道は、俺より精神が強いのではないかと思う時がたびたびある。
「それよりお父さんは大丈夫? ちゃんと仕事とか身が入ってる?」
「お、おう。当たり前だろ。なんだ、大丈夫だって。お父さんだぞ、俺は」
 思わぬ指摘にビビッて、つい父親ぶってしまった。
「お父さん、お母さんがいないとダメそうだから、ちょっと心配だな。しっかりしてよ。肝心なのは、お父さんがどっしり構えてお母さんを安心させることなんだからさ」
逆に息子に気遣われるってどうなんだ……。
「お母さんはすごく繊細なところがあると思うから……。オレ、わかるんだよね」
 俯いて呟く柔道の頭に、思わず手を置いてしまった。
「反抗期はもうやめたのか?」
 全然関係ないことを言ってみた。家出以来、凛々子への当たりの強さが少し影を潜めてきたようにみえたから、心を入れ替えたのかと思った。
「別に反抗なんかしてないよ」
「嘘つけ。どこをどうみても立派な反抗的態度だったぞ。お母さんはああいう人だから、おまえの態度にいちいち反応しないけど、内心穏やかじゃあなかっただろうな」
 そういうと、柔道は口を尖らせ、言い難そうにそっぽを向いた。
「あれは……勘違いしてたんだ」
「なにが?」
「そのう…………扇谷さんと付き合っているのかと思って……」
 そのまま、バツが悪そうにもじもじと俯く。俺は目が点になった。
「……なんでそう思った?」
「たびたび、週末一緒に過ごす約束はキャンセルするし、塾の迎えや晩ご飯も一緒に食べなくなる回数も増えてくるし……。扇谷さんの態度もあれだし。そうだとばかり」
 扇谷の態度もあれ、ってなんだ。あれって。また扇谷に対する不穏な嫉妬が復活しかけ、強制的に鎮圧する。
「なんか、気持ちわりー、って思って」
 そのまま黙る柔道を可愛いと思う。
「嫉妬か。お母さんを取られたと思ったな」
「ちげーよ! ほんっとお父さんって単純!」
 ムキになって怒るところがまだまだガキで可愛いな。わかってるさ。子供は、母親には永遠に『母』でいてもらいたいもんだ。息子ならなおさらだ。女である母なんて、正直見たくもないだろう。年齢関係なく、勝手な男の理屈だけどな。
「お父さんが可哀そうにと思ったんだよ!」
 こいつ、俺をダシに言い訳しやがった! 息子にまで見透かされているとは、俺の方がショックだわ。というわけで、同じ男同士、大切な女を守るという使命を共有して俺たちは一致団結した。
 凛々子が祖父母宅へ療養している間は、柔道も母と同じ時を過ごし始めた。特に会話をすることもなく、ただ同じ空間に身を置き、勉強をしたり、音楽を聴いたり、本を読んだりしているらしい。時々、勉強を見てもらってもいるという。柔道なりの優しさであり、気遣いなのだろう。
 だから、俺は大して柔道に関しては心配していない。学校に行かなかろうが、こいつはたぶん時間はかかっても、ちゃんと自分の道を見つけて歩んでいくだろうから。親の希望的観測かもしれないが、俺はそのフォローを最大限するだけだ。

「行ってきます」
 弁当をリュックの中へ押し込んで、玄関から飛び出して行く後姿を見送る。俺とも凛々子とも違う個性を持ったあいつはこれからどんな人生を送るのだろう。息子の長い人生の行く先を、凛々子と二人で見守り続けていきたい。そう心から切に願う。


3、ザ・親父

 6月。再び、凛々子がガン治療のため入院した。
去年の春、11月、そして今回で3回目だが、体質的に前回まで使用した薬剤がやはり合わなく、最近登場したばかりの新薬へ変えて投与となる。
 今のところ、さらなる多臓器やリンパへの転移は食い止められ、病巣が少し小さくなっているようだが、少なくも、消えてなくなっているわけでもない。この入院で、新薬投与後の経過次第では、従来治療と併用可能な免疫療法を取り入れるという検討も必要だと説明を受けた。
 
 2月に仕事復帰して、体調を見ながら凛々子はいつもの仕事のペースを取り戻していった。高来こうらいさんの工事は、断った手前、表立って動くことも介入することもできなかったが、時折夜にコッソリ俺と現場へ足を運び、アドバイスをしてくれた。
 自分のアイディアがどんどん形になって、こうして体裁を整えていく様を眺めている時の凛々子の顔。毎回毎回、ほんといい顔するんだよな。
 そう。この顔、工事に携わる人間のほとんどが、似たり寄ったりの表情を浮かべる。大工、設備屋、クロス職人、床屋、そして俺たち施工業者。末吉さんやおやっさんたちがふと浮かべる顔つきに憧れ、かっこいいとも思った。俺がこの仕事が好きだなーと思える瞬間のひとつでもある。
 その中でも飛びきりイカした顔をする、俺よりずっと先を走っている凛々子。もっとこの顔を見ていたい。もっとたくさん傍で、何度も何度も。そのためには俺もレベルの底上げが必要で、だからLotusから仕事をもらいながら扇谷を通して学んでいる。

「この間、高来さんからお礼のメールが届いてね。設計デザイン通りの、しかも期待以上の住まいが出来上がりましたって、写真付きで送ってきたんだよ。実はもう確認して知ってまーす、とは言えないよね」
 入院先の談話室でくすくす笑いながら、凛々子が報告してくれた。
高来さんの現場は4月末に完成した。3か月にもおよぶ長丁場の工事で、途中躯体の修繕箇所が見つかったり、大工工事が難航したり、予想通り多くの壁にぶち当たったが、どうにかこうにか乗り切った。
「施工会社の人たちがとても頑張ってくれたお陰で実現しました、だって。心介くんだっけ。彼の頑張りのお陰かな? あと登藤ちゃんも。あの二人、かなりの有望株だよね」
「ああ。俺もちょっと見直したんだよな。あいつにあんな踏ん張り力があったとはな。途中、きつくて音を上げるかと思ってたんだけど、そういや一度も泣き言を言わなかったな。俺の前では」
 俺が工事中に逐一凛々子へ状況報告を画像付きでしていたので、直接会ったことがないのに心介や登藤蕾に詳しくなっている。心介は細かいことに気づく上に、コミュ力があるから業者との連携や指示出しに専念させたらどうかとか、登藤蕾は工事全体のバランスをよく見る力があるみたいだから、なるべく現場には同行させて、俺が現場でしている動きを傍で見させたほういいなど、アドバイスをしてくれたのも凛々子だ。お陰でこの二人は、今急速に仕事力が伸びていっている。
「退院して体調が戻ったら、また一緒に仕事やろうな。おまえの中継ぎとして、とりあえずLotusでも踏ん張ってるし」
「さあ? どうしようかなー。あたしはあたしで、専属の施工会社もちゃんといるからね。浮気はよくないよね」
「そんなこと言ったら、扇谷はどうなんだよ。思いっきり、俺といけないことしてるぞ」
「人のことは知らない。扇谷くん流のやり方があるんでしょ」
 うーん。さすが二人とも国外労働経験者。このいまだ封建的な日本の建築業界にどっぷり足が沼っている俺たちとは方針が違う。
「共同経営といっても、一人親方だよな。おまえたちって。一緒にやった方が廻らないか? 変なところで効率悪いことしてるぜ」
「最初にこの形で始めちゃったからね。それぞれ一人でやった方が楽だったし。今の反省点なのはわかってるんだけど。そろそろ体制の変え時だから、おいおい扇谷くんと考えるよ」
 扇谷くんと、ね。口をへの字に曲げた俺を見て、凛々子は心底嫌そうな顔をした。
「ほんと、その顔やめて。重いし、うざいから」
 思いきり傷ついた。そんな言い方があるだろうか。
「だから、やめてって。言っとくけど、ゴロちゃんは自分で思ってるほどポーカーフェイスできてないからね」
 え、そうなの? 周りからは、ニヒルだのクールだの言われるんだけどな。
 面会時間が終了して、あっという間に談話室から追い出された。ついでにもう来なくてもいいと言い渡されてしまった。ひどい女だ。
 ただ、戸口へ俺を追い立てる際、凛々子は少し空気を柔らかくして話しかけてきた。
「ゴロちゃん、そろそろ行ってもいいんじゃない? ジュドーみたいに、自分のルーツ再確認」
 ハッとした。忘れかけてるところで、凛々子はいつも急所を打ち込んでくる。俺はへらっと笑って退散したが、『逃げるように』ではなかったのはたいした進歩だと思う。
 帯広へ行くこと。凛々子からの課題が提示された。
 
 
 で、俺はさっそく帯広にいる。貴重な数少ない安息の日曜日を、丸一日潰して。なんて、かなりなネガティブ発言をしているが、凛々子の助言に俺は乗っかっただけと認められるほど素直になった。いずれまた来ると去年決めたにも拘わらず、自主的に決断することを渋って、また放置していたのだから。その俺の怠惰を見抜いてか(恐ろしいことに)、耳に痛いことを言ってくれた凛々子に、渡りに船と飛びついただけだ。俺は本当に腰抜けだよな。

 あーやだやだ。ほんとにやだ。再び訪れた施設を前にして、往生際悪く、俺は足に根が生えたように三十分は立ち尽くしている。
 覚悟なんてとうに決めたはずなのにな。やっぱり帰ろうかな。兄貴にも言っていないし、柔道にも言ってないから、このまま帰っても俺が帯広に来たことは誰も知らない。
 魔がさしかけて、足が後退すべくピクリと動き出す。ふと顔を上げると、目の前のエントランスの自動ドアがウィーンと開いた。中から、車椅子に乗った爺さんと車椅子を押す介添え人らしき職員がでてきた。
……違った。職員じゃない、うちの兄貴だ! 正面からバッチリ目が合った。こ、こんな至近距離で——。もう逃げようもねえじゃねえかよ。
兄貴の口が驚きのOの字を形作る。埴輪みたいな顔だな、とパニクってるのにそんな感想を抱く。俺は恐る恐る、兄貴の下を見下ろす。車椅子に乗った小さな身体。萎びたレーズンみたいな顔が俺に向けられている。……こんな顔だったっけ? いつの間にか、口から飛び出そうな動機が静かになっていた。
 兄貴は俺に話しかけるのをグッと堪えてくれているようだ。さすが高校教師。その気遣い、察する能力、感謝する。俺は一歩ずつ、ゆっくりと距離を詰めていった。前親父、現親父。とても同じ人間とは思えねえ。人間、こんなに面差しが変わるものか? それとも、30年間一度も会っていなかったから、俺の記憶が退化したのだろうか。ひょっとしたら、このまま回れ右して立ち去っても、コイツには俺が誰だかわからないまま終わるかもしれないな。
 そんなことを考えて、俺とそっくりだったはずの表情のない顔を眺めた。長年の不摂生が祟って崩れた線、垂れて塞がりかけた瞼からかろうじて覗く目を覗きこんでも、光が射すどころかこゆるぎもしない。長年会っていなかったとはいえ、自分の子供だぞ? わかるよな、普通。俺なら、この先50年柔道に会わなかったとしても、ひと目で見破る自信がある。
 ああ、そうか。認知だから仕方がないのか。俺は失望した。心のどこかで、俺を見るなり現れる劇的な反応を期待していたんだな。まあ、こんなもんだろうな。勇気を出して直に顔を見ても、何の言葉も浮かんでこない。
俺は一体コイツと何を話すつもりで来たのだろうか。
「元気そうでなにより。達者でな」
 もういいや。顔を見た。これでけじめはついただろう。兄貴にアイコンタクトを取って、そのまま踵を返す。
「————吾郎ぅー」
 思わず足が止まる。……今、なんていった? 恐る恐る肩越しにそっと後ろを見てみた。萎びた親父が俺をじっと見つめている。
「吾郎ぅー……」
 空耳じゃない。また呟いている。それほど小さな声だった。まさか、俺がわかるのか? 固まっている俺に、兄貴は車椅子を押して近寄ってきた。親父が俺の足下にまで迫る。無表情な顔で、目だけは俺にじっと吸い付いたまま見上げてくる。棒立ちになった俺の手に、何か硬いものが触れた。見ると、蝋人形のようななまっちろい手が俺の手に微かに触れていた。カサカサした枝が当たったような感触だった。こんな手は知らねえぞ。分厚いグローブのような手で俺を散々殴ってたじゃねえか、てめえはよ。
「吾郎ぅー」
 本当に俺だとわかっているのか? 表情が消し飛びすぎてて全然わからねえ。
「ちゃんとおまえだって、わかってるみたいだぞ」
 そっと兄貴が口を添えてきた。そのせいで俺のタガが外れてしまった。
「なんだ馬鹿の一つ覚えみたいにごろうーごろうーって。他にもっと言う事あるだろうがあ!」
 四十三歳の男が口走る言葉ではないな。だが、押し寄せる記憶と感情に圧倒されて、理性がどこかへ吹き飛んでしまった。
「吾郎ぅー」
 まだ言うか! この野郎!
「俺はてめえを何一つ許しちゃいねえからな。まだ五つの俺に一升瓶の酒を買いに行かせたあげく、帰り道に割ってしまった俺を鼻血が出るまで殴ったこと! 俺の小学校の給食費を毎度毎度ちょろまかして競馬ですったこと! てめえが家に帰ってこないから、俺はひもじくて近所の家を渡り歩いてなんとか餓死を免れたこと! 金がなさすぎて、小学校の卒業旅行どころか中学校にさえ危うく通えなくなりそうだったこと! 俺の親はてめえじゃなく、兄貴だからな! だから今更、そんな弱っちい姿見せて父親みたいなフリすんな!」
 12歳離れた歳の兄貴が途中から俺を育てた。高校卒業と同時に逃げるように兄貴は札幌の大学へ入り、ずっと帯広へ帰ってこなかった。一時期、兄貴にも見捨てられた俺にとって、6年間の小学校生活は暗黒時代で、今でも思い出すと身震いがするほどおぞましい記憶ばかりだった。
 小5でおふくろが死に、いよいよ俺は生き延びるのが精一杯の日々を送っていた。金を家に一切入れないこのろくでなしは、当時の俺からすれば疫病神でしかなかった。楽しみにしていた修学旅行は諦め、制服を買う金がないので中学校にすら通えないのかと絶望した。
 その地獄から俺を掬い上げたのが兄貴だった。よく決心したものだと今は思うが、鬼畜な親父から俺を引き離し、札幌に俺を呼び寄せてくれた。
すでに教員免許も取っていた兄貴は、色々役所や学校と連携を取って、札幌の中学校へ指定校変更手続きも済ませ、中学へ通えるようにもしてくれた。
 制服もなにもかも、まだ薄給だったはずなのに、何不自由なく全部用意してくれた。
 あの時、兄貴に救い出されなかったら、俺は死んでるか、親殺しで刑務所にでも入っているか、それとも完全なアウトローとして今頃どこかで日の目を浴びない暮らしをしていたかもしれない。
 ああー。全部きれいに思い出しちまったな。長い年月をかけて、闇に全部葬り去ったとせいせいしてたのに。息が切れて、ぜいぜいと肩を揺らす。俺を呆けて見つめ続ける顔には、やはり一ミリも変化の兆しはない。
「……チッ。どうせ誰にでもごろーって呼んでるんだろうが」
 もういいや。意思疎通も果たせなかったけど、コイツのツラを見ながら、昔の小さい俺の恨みをぶつけてやれたからな。もう充分だ。二度と会うことはねえだろう。
「父さん、普段言葉を忘れたかのようで、ひと言も喋らないんだよ」
 俺が車椅子から身を引こうとしたとき、不意に兄貴が口を開いた。とても穏やかな、事実だけを淡々と述べる声音だった。
「他の誰にも、吾郎とは言わない。俺も聞いたことがない。父さんは、俺を名前で呼んだこともない。施設に入ってからずっと」
「……なに言ってんだ。柔道を、ごろーって呼んでたぞ」
 兄貴は、柔らかい微笑みを俺に向けてきた。
「だから。そういうことだろ?」
 兄貴は俺の手元も見ている。俺の手が、再び枯れ木のようなカサカサした手に触れられていた。
 
 施設の近くの公園で、俺と兄貴は少し話をした。広めのグラウンドで、ジュニアのクラブチームっぽい野球の試合が行われていた。兄貴に待っていろと言われたので、大人しく試合の観戦をしながらボーッと待ち続けた。
 さっきの対決に全エネルギーを使い果たしたようで、何も頭に浮かんでこない。完全なからだ。こんなに長い時間、文字通り頭の中を空っぽにしたことなんて、もしかしたら赤ん坊の時以来ではないか? それほど俺の子供時代は恐怖と緊張に満ちていたから、本気でそう思った。
 やがて、親父の面会を早々に終わらせた兄貴が合流し、俺が座るベンチに腰掛けた。俺に手に提げた袋を渡してきた。カレーの、食欲をそそる匂いが鼻を刺激した。
「何も食ってないだろう? これ、おまえの好きなインドーズカレー。覚えてるよな?」
「あ、ああ。まだあったんだ、これ」
「そりゃあるさ。周りの人に聞かれたら怒られるぞ。地元のソウルフードだからな」
 兄貴は笑いながら、ペットボトルのお茶もくれた。ほんと父親どころか、俺のおかんでもあるんだよな。
 二人でまだアツアツのカレーをハフハフしながら貪り、散歩で近くの道を通る親子連れがちらりと視線を送ってきた。
「パパ―、僕もカレー食べたい」
「パパ、財布持ってないから。ママと相談な」
 風に乗って声が流れてくる。その後ろ姿を、食べながら見送る。
「にいちゃん、ごめんな」
「おまえが俺に謝ることなんて、ひとつもないぞ」
「そんなことねえよ」
 あるんだよ、と兄貴は言う。おまえには辛い思いをひとりでさせてしまったから、と。どんだけいい人なんだよ、俺の兄貴は。俺は兄貴のことはとっくに許してるのにさ。
「おまえを一番長く犠牲にさせてしまった。まだ小さかったおまえを、あんなに長く……」
 そうか、その悔いがずーっと残ってるんだな。ひょっとして、だから教師という職業を選んだのかもしれないな。一度も理由を聞いたことがないが、なんとなくそう思った。
「あのさあ……。にいちゃん、俺のことを一度捨てたと思ってるかもしれねえけど、そんなの俺を迎えに来て育ててくれたことで、全部きれいに帳消しになってるんだよ」
 兄貴のカレーを食う手が止まっている。
「今の俺がいるのは、全部にいちゃんのお陰だからな」
 ありがとう、とはちょっと恥ずかしくて言えねえな。でも、ちゃんと口に出して感謝を言えたぞ! かなりムズムズするが、この気分の爽快さはどうだ。カキーンという打撃の快音がいいタイミングで重なって、ますます気分がいい。さっきまでの呆然自失していた空白の時間を過ごした後は、やけに視界がスッキリ開けているような気がする。あの糞ジジイとの対面も、ある程度なにか意味を成したのかもしれないな。
 ふと、隣りの気配がおかしいので横を向くと、兄貴は涙を流しながら残りのカレーを食っていた。
「……泣くか、食うか、どっちかにしたら?」
 なぜ兄貴が泣く。状況的に、ホントは俺が泣くのが順当なんだがな。
「兄ちゃんは……胸がいっぱいなんだ……」
 おまえは立派になったな。そう、しきりに呟いていた。俺の子供時代は糞みたに暗黒に塗りつぶされていたが、それでも余りあるほどの恩恵も受けてきた。それは兄貴。そしてそれ以降に出会った人たち。皆、俺の宝物だ。今ではそれがよくわかる。


4、愛するひとよ

 帯広からとんぼ返りした、その日の夜。20時前に家に到着し、車から降りた途端、隣りの二世帯住宅から義姉の真美子が見計らったかのように玄関から出てきた。声を潜めて、辺りに響かないように周りを気にしている。その青い顔色を見て、俺の笑顔が引っ込んだ。
「吾郎くん、ちょっといい?」
 そのまま隣の玄関内に引き込まれる。
「凛々子に何かあったの?」
 それしか思い当たらない。でも、まさかよ。面会に行った数日前なんて、不調どころか血色もよくてピンピンしてたぜ。なのに、真美子は頷く。
「一昨日あたりから具合を悪くしてるみたいで、いったん治療を中断したんですって。今試している新薬が体に合わないらしくて……。それでね、明日予定を早めて一度再検査することになったの。今かなり苦しいみたいで、それでお母さんたちが病院へ行ってるのよね」
 真美子の抑えた声が、暗く玄関ホールへ響き渡る。
「進行状況を把握するための検査だからすぐわかるみたい。それでね、午後4時くらいに説明があるんだけど、吾郎くん立ち会えないかな?」
 凛々子の両親が医師からの説明を聞くことになっているのだが、もう七十過ぎの両親だけで引き受けさせるには心配なのだという。真美子は下の子が所属するサッカーチームの大事な判定テストがある日だから、どうしてもその時間に動けないのだそうだ。もちろん、行くに決まっている。大体、俺が断るわけがないとわかっているからこその相談だ。
「こんなことまで吾郎くんに頼っちゃって、本当に申し訳ないんだけど。でも、あたしもお母さんたちもすごく心強いのよ。本当にありがとう」
「いくらでも頼ってくれていいよ」
 本心から言っているのだが、そういえばタカアキはどうした。あいつこそ、現役婿なはずなんだけどな。俺の心を読んだのか、真美子は目に涙を浮かべて笑いながらタカアキくんもいるんだけどね、と自分で自分のダンナに突っ込みを入れていた。眞島一族での信用度は、どうやら俺の方が上らしかった。
 翌日。凛々子の両親を伴って帰宅した。俺たち3人は鋼の精神力で結束し、出迎えてくれた真美子や甥っ子たち、途中帰宅して加わった柔道やタカアキくん方とワイワイ語らいながら、晩の食卓を囲んだ。
 お義父さんもお義母さんもよく踏ん張った。後で聞いたところによると、この時の俺の目の圧が過去最高のフルパワーを発揮していたらしい。この目力に支えられたお陰で、孫たちの前で醜態を晒さずに済んだと感謝された。どうりで、ことあるごとに二人とも俺を振り返っては、その都度頷いていたわけだ。
 食事と団欒が終わり、大人だけの時間をようやく迎えてから、真美子夫婦へ検査結果を報告した。
 ステージⅣ。食い止められなかった。人生って、なんでこんなに残酷なんだろうな。
 

「おやっさん、すみません。休みの日なのに手伝ってもらっちゃって」
 土曜日の朝、自宅前に停まった軽ワゴン車へ走り寄って声をかけた。前日の夜遅くまで働いていただろうに、こうして駆けつけてくれるとは。本当におやっさんには頭が上がらない。
「なに言ってんだ、息子が困ってるんなら親の出番だろうが」
 時折、おやっさんはこういう不意打ちをくらわしてくる。なんだよ、もう。ずっと俺を見放したような態度を取ってたくせに。
「ツンデレってやつですかね?」
 心介がコソッと俺に耳打ちしてきた。つま先立ちまでして言いたかったのか、それを。
 心介はおやっさんよりもっと早く、9時の作業開始時間の一時間半前にはすでに自宅前にいた。作業の邪魔になるから車を移動させようと、玄関から出たところ、横付けした車の中の心介とバッチリ目が合った。来てくれたのは有難いが、いくら何でも早すぎるだろ……。呆れて、家の中に招き入れ、何も食べていないというので、ついでに朝飯も食わせてやった。しかも、朝からチャーハンを二皿も平らげた。
「シラスの炒飯うまいっす。係長、料理男子なんすね!」
 おまえ、もう30代の男なんだから、人を褒める言葉をもっと勉強しろ。
 
 先月7月から、俺は家の一部の改修を始めている。主に、玄関・1階廊下・水回り・リビングを完全バリアフリー化し、家の横の裏庭へと伸びるアプローチを潰して居室を増やす計画だ。
 元々、将来バリアフリーにも対応できる間取りや造りにして建てたのだが、完全ではなかったし、いざそれが必要になった今では、考えが足りなかった問題点がたくさんあったことに気づかされた。
 健常者と身障者では水回りの位置や動線など、使い勝手が違う。身障者側の視点から見なければ気づかないことがたくさんあった。車椅子でストレスなく生活できる環境。もちろん、あの糞親父のことではない。そんなわけあるか! 凛々子のためだ。これが完成したら、凛々子はここで暮らす。そのための準備を突貫で進めているのだ。
 あの日、ステージⅣへ病状が進んだことを知らされた後、俺はすぐに決断した。完治するまでは、もう凛々子と離れては暮らさないと。あいつが嫌がろうが、決めた。ここが一番最適なんだ。隣には両親も姉もいる。柔道もいる。隣の二世帯住宅では、間取り的に介護が必要な病人が暮らすスペースがない。今までは、療養していたとはいえ、自由に動けていたからこそお互いストレスなく暮らせていたのだ。
 それがわかっていたからこそ、凛々子は3年前もしもの時のためにと、事務所の裏に平屋を建てたのかもしれない。あながち、外れてはいないだろう。がん発見の時期とちょうど重なる。
 
 先月からすべての休みを返上して、こっそり働いていることがおやっさんにバレ、こってり絞られた。
「おまえはまた仕事でチョンボする気か!」
 血相変えて怒鳴られ、まさか『俺もやる』と言い出すとは思わなかった。おまけに、それをこっそり聞いていた心介までが加わった。断っても、おやっさんは頑として譲らなかった。心介まで。なぜ、おまえまで。
 それが今日で3回目を迎える。アプローチのカーポートや玄関廻りの段差などはすでに撤去しており、地均ぢならしして新たにこさえた土台の上に、軸組を組んだところまでは完了している。
 居室を増やすのは1階だけだ。これは先週、大工の末吉さんが出張ってきてくれて、4人で作業した成果だ。今日は屋根を葺き、外壁を取り付ける工程だ。
 季節は7月の下旬で、北海道とはいえ、近頃の夏はひと昔前とは違ってむし熱く、危険なくらい気温も上昇している。こまめに手を休め、散水栓で水を被ったり、日陰で休憩を取りながら着々と作業を進めた。
 昼時になると、義母と真美子が塩鮭入りのおにぎりと漬物、ゆで卵を差し入れてくれ、夕方作業を切り上げる頃には、奥の裏庭から肉を焼く匂いが漂う。義父母やタカアキが用意し、待機してくれている『焼肉お疲れ様でした会』がそこから始まるのだ。それがここ毎週定番の流れとなっていた。
「心介君は気持ちいいくらい、よく食べるわねえ」
「もっとたくさん食べてね。まだまだあるよ」
 心介は、凛々子両親にいたく気に入られている。俺も気に入られている方だと思っていたが、それ以上だ。息子のいないこの夫婦にとって、まるで末っ子の三男坊を持った感覚なのかもしれない。とすると、俺はさしずめ次男坊かな。
「はい、ありがとうございます! いただきます!」
 おまえも少しは遠慮をしろよ。嬉々としてさらに食べるものだから、この人たちはすっかり喜んでしまって、終わりのないループにはまり込んでしまっている。
「工事が終わっても、遊びに来てね。遠慮しなくていいのよ。そうそう、彼女だって連れてきていいのよ」
「おっ、心介くん、彼女がいるのかい」
 いや、お義父さん。いる前提で話を進めるのはちょっと。お義母さんも、今の時代、そういうプライバシーに関わる話を気軽に若者へ振るのは御法度なんすよ。案の定、心介が一瞬言葉に詰まっている。
「彼女はいないス」
 嘘つけ。俺は知っているんだ。ぴくりと横で反応した所をみると、おやっさんも勘づいている。意外にも、おやっさんはこういうことにはやたらと鋭いんだ。
「またまた~。職場とか、出会いはたくさんあるでしょ? その中で一番可愛い子とか……うふふ……ねっ」
「ちょっと、お母さん」
 真美子が母を肘で小突き、心介へ申し訳なさそうに会釈する。
「いやっ、いないっス」
 心介、図星だろうが。俺は知っているんだ。5月のおまえの誕生日当日の朝、おまえのデスクの上にサプライズボックスが乗っていたのを。アンパンマンのペロペロチョコで四面を囲み、それを箱に仕立てて、中にはハート型のラムネが満載されたお手製の菓子箱。
 前日、登藤蕾がこっそり俺に見せてくれたプレゼントだ。その気が利いて可愛らしい贈り物に俺は感心した。高来こうらいさんの現場が終わってから、登藤が俺に心介の誕生日を聞いてきたのだ。そして、何が好きなのか尋ねるので、チョコや駄菓子に目がないと教えてやった。
 その後二人がどうなったかまでは知らんが、小出こいでと違って、心介は登藤にまったく関心を持っていなかったようだけど、これで意識するようにはなっただろう。たぶん、登藤がこのメンバーに加わる日もそう遠くないだろうと予感した。
 
 改修が完了した翌週の8月盆明けに、凛々子が自宅へ帰ってきた。もちろん、俺の家にだ。俺たちと暮らすことにもっと渋ってごねるかと予想していたのだが、眉を顰めただけで拒絶はしなかった。たぶん家の改修のことやらを真美子たちから聞かされ続けていたのが大きかったのだろう。
 凛々子の体質が、抗がん剤で使う薬剤数種類に拒否反応を起こしたせいで、しばらく対症療法の治療は中断となってしまった。代わりに免疫療法を開始することになったが、対症療法ほどの即効性はなく、効果が出るのも個人差があり、時間も要するので、どれほどの治療ができるのか定かではない。だが、また抗がん剤を開始できるまでの間はこの治療に頼るしかない。何もしないよりは百倍マシだ。
 凛々子は体力がすっかり落ちてしまい、介添えなしで歩くこともままならなくなってしまっている。まずは通院で治療しがてら、自宅で体力をつけてもらうことに専念するのが凛々子の日課となった。

「あ~あ。やっぱり抜けてきちゃった。今の抗がん剤は、頭髪抜けにくいって聞いてたのにな」
 車いす用に変えたシャンプードレッサーに映る姿を見てぼやく声が、洗面所から聞こえてくる。柔道がそれを聞きつけて、リビング横の凛々子の部屋から特大のヘアバンドを持ち出し、洗面所へ走っていった。元俺の仕事部屋だ。水回りは位置を変え、玄関寄りにあった浴室と洗面所は、凛々子の部屋と地続きにした。
「ほら、だからこれつけてよ。せっかく誕生日プレゼントであげたのにさあ。絶対似合うから。なんでそんなに嫌がるの?」
「だって似合いすぎてコワいじゃん」
 ケラケラと笑い声が聞こえてくる。よかった、今日は調子がいいようだ。
 11月になり、だましだまし体調を見ながら抗がん剤治療を再開している。
平日の通院は凛々子の父や真美子が交代で同伴し、家での介添えや補助は凛々子の母と俺で分担している。今のところ、どこもうまく機能しており、問題は起きていない。
 改修で、もう一つ居室を玄関脇に造ったのは、俺の寝室にするためだった。仕事部屋を凛々子に明け渡し、凛々子の部屋からサニタリールーム(洗面所)・浴室・俺という直線ラインを設けた。この通路一本で、何かあっても迂回せずに最短距離で凛々子の元へ駆けつけられる。それに、隣り合わせの部屋にするより、いろいろ挟んだ方が本人も心安らかだろうしな。
 この間取りを、凛々子もいたく気に入ってるようだった。気分がいい夜は、部屋から庭を見渡せる眺めのいい窓辺へ車椅子を寄せて、眠るまで少し語り合うことも時折あった。

「もうそろそろあの花も終わっちゃうね。昨日、霜が降りてたから」
 晩秋の夜、庭のスティックライトにほんのり照らされた一画を眺めていた凛々子が呟いた。どの花を言っているのかと、目を細めて見つめる方向を確かめる。丈の高い宿根草のことか? 金平糖みたいに小さな薄紫の花弁がこちゃこちゃっと緑の茂みに固まって咲いている。
「なんだっけ、あの花」
「ネメシアだよ。ほんっと、いくら教えても覚えないねー、きみは」
 だって花だぞ? 覚えられねーよ、普通は。俺の表情を凛々子は読む。
「花を軽んじてるな。何度もいってるけど、花もグリーンも立派なインテリアの一部だからね」
 へいへい。耳タコです。俺は今年に入ってから二級建築士の資格勉強を始めた。7月に行われた学科試験は無事通過、そして10月の実技(製図)の試験は先月終え、来月上旬の合格発表待ちだ。学科に合格してから、凛々子とおやっさん、そして扇谷充の3人にだけ、建築士の資格取得を目指していることを報告をした。3人の中で一番喜んだのは凛々子だった。
「あれほどあたしが薦めても、テコでも聞く耳もたなかったのにね」
 少し目が潤んで見えたのは気のせいだったのかな。
 
 淹れたてのドクダミ茶を凛々子へ手渡し、俺は近くの折り畳み式の簡易椅子に腰かけた。凛々子はゆったりとしたリクライニングチェアに身を横たえている。この場所だけ、いつも時がゆっくりと進んでいる。凛々子と一緒にこの空間に身を置くだけで、世間の何物にも煩わされない静寂な時を過ごせた。柔道も同様なようで、凛々子がこの部屋にいるときは、ほぼここに入り浸っている。今日も、ついさっきまでここでうたた寝をしていたから、自分のベッドで寝ろと追い出したばかりだ。
「ゴロちゃん。ここに家建てて正解だったでしょ」
 不意に、凛々子が返答に困るようなことを言ってきた。こういう状況になるのを見越して建てたみたいでよかった……と言いたいのか?
「あ、ああ……。まあ、な」
「あたしの家はジュドーの名義にしてあるからね。勝手にいじったり、貸したり、売ったりしたら駄目だよ」
「おまえ、さっきからなに変なことばかり言ってんだよ」
 凛々子はドクダミ茶を啜りながら、暗い庭へ目を向けたまま話し続ける。
「さっきあたしが言ったこと、勘違いしたでしょ」
「?」
「なんでここに建てるのをあたしが拘ったか……。わかってないでしょ」
 この時期に家を建ててから、そろそろ11年くらいになるのか。早いものだ。あの時、実家の隣りが最適だと主張され、かなりドン引きした記憶が蘇る。
「お義母さんたちの傍にいたかったんだろ?」
「違うよ」
 即、否定された。じゃあ、なんだ?
「土地代がタダだったから」
「そんなわけないじゃん」
 鼻であしらわれた。
「わからねえよ」
「ゴロちゃんが淋しがり屋だからだよ」
「はあ?」
 なに言ってんだ、こいつ。でも、ちょっとドキリとした。慎重にしまいこんだ蓋の中で。
「夫婦関係に絶対はないから、あたし保険をかけたんだ。家を建てるのなら、あたしの親の傍が最適だって。たとえいずれ別れたとしても、家があれば残るでしょ。ゴロちゃんが」
「なんで俺? その理屈おかしくねえか? 普通、残るのはおまえだろうが」
「実際、ゴロちゃんが残ったじゃん」
 当たり前のような顔をして言われ、俺は絶句した。どうしちゃったんだ? なんかおかしいぞ。もしかして、癌がリンパに乗ってとうとう脳にまで達したとか……。みるみるうちに顔から血の気が引いていく俺を見て、凛々子は苦笑した。
「まだだから、安心して」
「ま、まだって……」
 エスパーかっていうくらい、俺の心をよく読む。
「あたし、ゴロちゃんほど淋しがり屋なヤツって見たことがない。それと、ゴロちゃんほど愛が大きいヤツって見たことがない。ゴロちゃんは自分が愛する人たちといないと生きていけないんだよ。そういう危うさがある。もっと自覚しなよ」
 凛々子の大きな眼が、俺を飲み込みそうなほど大きく広がって見えた。もちろんそんなのはまやかしだ。
「ゴロちゃんには本当の家族が必要だからね。そこがあたしと大きく違うところ。あたしは一人でも平気な人間だけど、きみは違う。あたしの親なのに、お父さんもお母さんもゴロちゃんを息子みたいに愛してるみたいだし。よかったよかった」
「……だから、別れたときもこの家を俺に押し付けたのか?」
 声が喉に絡んで、ひどく喋りづらかった。
 凛々子は俺を労わるように微笑んだ。
「あたしがいなくなっても、家族がいるから大丈夫。気負わないで。全部、あたしの自己満だから」
 手が震えて、両の掌に包んでいた湯飲みの中身がジャバジャバとこぼれていく。ドクダミの濃い汁がジーンズに大きな染みを作っていった。
「あたしみたいな偏った人間を愛してくれてありがとうね」
 おい! そんな顔を俺に向けるな! なんなんだ。ほんと、この女イカレすぎている。どれだけ……どれだけ俺たちを包み込んでいやがったんだ。
もうついていけない。降参だ。俺のか弱い精神はもうズタボロだ。もう、この先こいつ以外の女は案山子にしか見えねえじゃねえか。なんてことしてくれたんだ。俺はアホみたく泣いてばかりで、声を出して喋ることを忘れさっていた。
 
 また年が明けて、2月。凛々子が44の歳を迎えた日から数日経ったころ、あいつは家で息を引き取った。1月に入ってすぐまた入院したのだが、本人が家に帰りたがり、それ以上の抗がん剤治療も拒否をした。
 医師からの余命宣告の目安までまだだいぶ月日はあったが、もう無理だと自分の死期を早いうちから悟っていたのかもしれない。そう思えば、これまでのあいつの謎の行動すべてに納得がいった。
 あいつは業界では名の知れたデザイナーだから盛大な葬儀になるはずなのだが、本人の生前の意向で親族とごく親しい人間だけのこじんまりとした小さな葬式で済ませた。そういうところまできっちり手を回しているのは凛々子らしい。
 凛々子の両親は、真美子が危惧するほど取り乱しはしなかった。とても静かに嘆き、静かに娘を荼毘に付した。ただ、二人とも一晩で面変わりするほど、すっかり老け込んでしまった。
 帯広からは兄貴が駆けつけてくれた。受験シーズンの真っただ中で、目が回るほど忙しく、大事な時期だというのに。危険な雪道をものともせず、何時間も運転をして。
 俺のことをひどく心配していたのは胸に染みた。でも大丈夫だよ。しょぼくれてる場合じゃないんだよ。俺は父親だからな。大事な一人息子が今一大事なんだ。5日後に私立高校、そして来月3月には公立高校の受験が控えている。普通なら、とても受験どころの精神状態じゃない。凛々子には悪いが、どっぷりと悲しみに暮れている場合じゃないんだよ。
 そんな状況がさらに追い打ちとなって辛さが増すが、それは柔道だって同じだろう。葬儀が終わっても、しばらく柔道は口を利こうとしないので、かなり気を揉んだ。ところが、私立の受験前日の夜、キッチンに建つ俺へ久しぶりに話しかけてきた。
「オレ、大丈夫だから。心配しないで」
 しっかりした声音だった。俺はおう、とだけ答えて風呂場へと消えていく後姿を見送った。そして、明日の受験会場で食べる弁当の下ごしらえに専念した。
 仕事に没頭すること、柔道の世話をすること、特段好きなわけではないが料理に専念すること。この三つが、余計なことを考えずに済む、凛々子が逝ってからの俺の精神統一となった。
 
 私立・公立双方の受験を無事乗り切った柔道は、4月から晴れて高校1年生となった。
 選んだのは科学・工学系私立大学付属の高校だ。わりと上位の公立高校を蹴っての選択だったので、学校や塾の先生から随分引き留められた。本人が行きたいと望んでいるのだから、俺はつべこべと言わずに判を押した。
 凛々子よ。柔道はやっぱりおまえに似ているよ。この何を考えているのかよくわからない、頑固さ。唯我独尊的な飄々とした態度。俺は早くも振り回されっぱなしだ。
 そう、ひとつ不思議なことがあった。凛々子の愛車、オレンジのジムニーが完全に動かなくなってしまった。高校の入学式から柔道を乗せて帰ったあと、なんの前触れもなく突然に役目を終えたのだ。ずっとお世話になっているカーショップの担当者に連絡を取り、すぐに点検してもらったが、もう寿命を迎えたと言われた。よくここまで大切に手入れをされて乗ってこられましたね、と担当者は感慨深げに語っていた。俺の中で、一つの時代がこうして完全に幕を下ろした。
 


5、俺の人生よ、こんにちは

「吾郎くん、もし急ぐんならここはもう大丈夫よ。お父さんたちと柔道はあたしたちの車に乗ってもらうから」
 市の近郊にある霊園で一周忌法要を終えて、俺はロビーで電話をしていた。真美子が俺の姿を見つけるなり、駆け寄ってくる。別に走らんでも……。
「そんなに急いでる訳じゃあないけど、でもいいのか? 頼んでも」
「いいの、いいの。お父さんたちってば、吾郎くんに甘えすぎてるから。もう今日は解放されちゃって」
「全然、苦になってないけどね」
 真美子はずっと俺に気を遣ってくれている。口に出しては言わないが、ことあるごとに俺をかばい、常に労わってくれる。凛々子に何か頼まれたのだろうか? 今となってはわからないな。逆に、この妹想いの義姉を俺も出来る限りフォローしている。ずっとお調子者だと思っていたが、心根の優しい、とても愛情深い人だと今は理解している。実の姉なのではないかと、最近錯覚を覚えるほどだ。真美子と肩を並べて歩きながら、とめどなく浮かんでくることを語り合った。
「お父さんたちって、吾郎くんを息子みたいに可愛がるでしょ? あれはね、凛々子と吾郎くんがよく似ているからだと思うのよ」
 俺に甘えているという流れから続いている話題だ。は? と思わず眉間に皺が寄ってしまった。
「……俺が? 凛々子と?」
 まさか。どこをどう見てそう思うんだ。真美子は時々トンチンカンなことを言うんだよな。
「あ、嫌そうな顔をした。凛々子が怒るわよ。まず、肉食系なところと、圧が強いところ、ヤンキーじゃないのにヤンキーっぽいところと……」
 それは似てるとかじゃなくて、共通点というんじゃないのか? あと、俺はヤンキーじゃないのに、っぽいじゃなくて、ヤンキーだったんだよ。
ずっと隣で列挙していくのを聞き流して、ぼんやり思い返した。
「あいつは俺には謎だったよ。考えてることも、やっていることもすべてが謎。謎だらけの女」
 最後まで、理解不能なひどい女だ。独り言のように思わず呟き、自分の発言にはっと我に返る。真美子になにを言ってるんだ。ちょっと顔が赤くなりかけた。真美子はちょっとびっくりしているようだが、口元が少し笑っている。
「あたしにはわかりやすかったけどね~。ひねくれてるけど」
 ふふっと声に出して笑い、俺を意地悪そうな目で見上げてきた。
「あの子、あたしが吾郎くんに送り迎えしてもらったり、二人きりで一緒にいたり、あたしが先に仕入れた吾郎くん情報を伝えたりすると、きまって不機嫌になってたのよねぇ」
「え?」
 足を止めて覗きこんだが、そっぽを向かれた。
「今、それを言う?」
 真美子は少しずつ、じりじりと俺から離れはじめた。
「そう、今言っちゃうのよ。だって、あたしやきもち焼いてたし! なんで凛々子ばっかりっ、てね」
「ちょ、ちょっ……なに言ってんだ、真美ちゃん」
 焦って思わず辺りを見回してしまった。ヤバいぞ、なんだこの空気は。
タカアキくんはいないだろうな。
「タカアキくんも同じだから。吾郎くんにヤキモチ焼いている」
 真美ちゃーん、おめーは一体なに言い出すんだよ。変な修羅場に俺を巻き込まないでくれ。恐れおののく俺を、真美子はさらに追い詰めてくる。
「大体、凛々子が初めて家に吾郎くんを連れてきたとき、あたしだって吾郎くんをひと目で気に入ったんだよねえ。高校生の時だから覚えてないだろうけど、凛々子と取り合ったこともあったのよ」
 それはいつで、どこの場面のことなのかまったく身に覚えがない。
「あー、スッキリした。ずっと言いたかったことをしまっておくのって、体に悪いのよね。ま、そゆこと。あたしほどじゃないけど、凛々子も結構悪い女だったってこと。自分の愛情を出し惜しみするんだから。凛々子は吾郎くんのこと、死ぬほど愛してたみたいよ」
 十分に俺と距離を取ってからそう言い残して、逃げるように行ってしまった。俺は真美子を随分と見誤っていたようだ。さすが、凛々子の姉だ。血は争えない。しかも意地が悪い。最後の最後に、あんな手向けるような言葉を投げつけるなんて。

 
 また本州の梅雨時のような天候から始まって、暑い夏がやってきた。
新しく工事が始まる現場の打ち合わせの帰り道に、Lotus Interiorの事務所へ寄った。扇谷充と事前に約束をしていた訪問だ。手土産には、ちょっとした・・・・・・ものを持参した。
「用意しておいた契約書です。こっちが凛々子さんと交わした時の前の契約書……見ますか?」
 テーブルに綺麗に並べられた契約書を手に取った。ついにここまで・・・・・・・来ちまったのだが、一向にピンと来ない。去年の今頃は、こんな展開になるなんて想像もしてなかったからな。
「決心してくれて、僕もやっとひと息つけます。凛々子さんからは、自分の後を引き継ぐのは亘さんしかいないけど、本人が拒絶した場合は経営権を全部譲ると言われたので」
「……決断が遅くなってすみません」
 なんだか、俺の行き先を凛々子に先回りされているようで癪だが、言われなくても俺はある時分から凛々子の仕事を引き継いでいこうと決めていた。この扇谷と二人で。この男となら、俺がこの先思い描く仕事をやっていけそうな気がした。
「今更こんなことを聞くのもなんですけど……よく決断されましたよね」 
 目を通していた契約書から、視線を向かいに座る扇谷へと転じた。
「しないと思いました?」
「……半々の確率かな、と。僕だったら、かなり怖い選択ですから。だって、共同経営は気心知れた間柄でさえ難しいですからね」
「まあ、たくさんのリスクと、それ以上のうまくやっていくためのバランス取りが必要でしょう」
 扇谷も頷いている。それだけではない面倒臭さが毎日発生するだろうな。
「だけど、それを上回るんだよな。ここで、これから俺がしたいと思う働き方ができるという期待が」
 声に出して言ってしまったが、扇谷は普通に頷いている。
「僕も同じですよ。怖いけど……亘さんと仕事をしていきたい。損得に拘らず、正直に自分の欲求に従ったのは、亘さんで二人目です」
 一人目は……いわずもがな、凛々子だろうな。少ししんみりした空気に浸りかけて、俺は契約書の角を揃えるためにデスクへとんとんと打ち付けた。冊子化してあるので必要のない動作であることに気づき、ちょっと照れる。
「あー、もう何回同じ話をしてるのかねぇ、俺たちは。もうやめよう、充ちゃん。儀式化してしまってるぜ」
「男は儀式好きなんですよ。吾郎さんだって、乗ってきてたじゃないですか」
 お互い笑いながら、実印とペンを用意して契約書にサインをしていった。双方に署名し、取り交わすまでには結構時間がかかる。
「締結しましたね」
「しました。よろしくお願いします」
 頭を下げ合い、握手をする。そう。あのクリスマス以来、俺たちは何度も何度も、仕事の仕方、あり方、やりたいこと、目指す方向、譲れないこと、どれも大事でたくさんのことを納得いくまで話し合った。
 時には衝突もし、口論もした。喧嘩もした。それをしながら、この一年半お互いの仕事ぶりを実践で確かめ、そして一緒にやっていけると確認し合ったのだ。まさに幸せなエンゲージってやつだ。まあ、この先もこれを繰り返していくんだろうけど、たぶん案外うまく行くんじゃないのかな。
 なぜそう思のか? それは仕事の基本的なスタイルがほぼ同じだからだろうな。いいものを妥協せず作りたい。それが施主の希望に沿っていれば尚最高。それを追及し続ける。エンドレスだ。
「さ、ということで。始めようか」
 ドン、と打ち合わせテーブルに一升瓶を置いた。終業間近の時刻に待ち合わせをしたのはこのためだ。
「いいんですか? 明日も仕事ですよ?」
 そう言いながら、扇谷だっていそいそとグラスを用意してるだろ。
「そう、だから一本だけにしておいたよ」
「はぁ~……。腹八分目みたいで、かえって辛い」
「充ちゃんは、ちょっと控えた方がいいぞ。マジで」
「アルコールは脳を委縮させますからね。……って、思い出させないでください。酒がまずくなる」
 18時を回ったので、契約締結を祝い、乾杯をした。10月がきたら、俺は正式にこのLotus Interiorデザイン事務所に移籍し、経営者の一人となる。こんな日が来るとは、一、二年前の俺からは想像すらできなかったことだ。人生ってほんと不思議だな。

 9月。退職日当日。俺はおやっさんの現場にいる。丸鋸を使って合板を切り、床を作っているところだ。おやっさんは合板を乗せるための下地を黙々と組んでいる。
 さっきまで、大工の末吉さん集団がいて一緒に作業をしていたが、タイムリミットで次の現場へと引き上げていってしまった。仕方がない。あと1時間もすれば心介と増田拓海が応援に来るだろうから、それまでの辛抱だ。
 それに、おやっさんと最後の日に二人だけになれるのは嬉しかった。
夕べは、末吉さん大工集団とクロス職人や床屋の面々が俺の送別会をしてくれた。物凄い盛り上がりようで、俺の送別会を口実に憂さを晴らしたかったのかな? と思うほどの荒くれようだった。一緒に招かれていたうちの三羽烏はドン引きしていたな。平成生まれだから無理もないが。
 末吉さんを筆頭に、たくさんの職人さんに惜しまれ、そして泣かれた。……でも、ちょっと待ってくれ。俺、退職するとはいっても、引退するわけじゃないんだよね。足洗うわけでもないんだよね。場所を変えるだけだから、またすぐ顔を合わせることになるんですけど! 
 ずるいが、そういう計算もあって早くから末吉さん方をLotus Interiorへ繋いでおいたのだ。おやっさんは俺の企みに気づいたみたいだが、黙って目を瞑ってくれた。
「ポーズだろ。そういうの好きなんだ、オヤジたちは」
 むっつりと酒を飲みながら、おやっさんは昭和のオヤジたちの生態を解説した。

「吾郎、飲み過ぎを言い訳に手元狂わせんなよ」
 俺の丸鋸の音が少し止んだのを聞きつけて、おやっさんの指摘が飛んできた。ぎくりとして、慌てて集中を戻す。ちょっと今、注意力散漫だったな。だが、ものの数分も経たないうちに、おやっさんからストップがかかった。
「ちょっと休憩入れるか」
「心介たちが来るまで、やっちゃいませんか?」
「いや……実はちょっと腰が痛い」
 それはいかん。おやっさんは去年ぎっくり腰をやってしまっている。あの時は俺が自宅までおんぶをして連れ帰ったのだ。心介もいた。そういえばあいつ、いつでもどこでも俺とおやっさんにくっついているよな。
 おやっさんが座りやすい場所をささっと整えて座ってもらい、工事現場のビル一階エントランスへ降りて、缶コーヒーも買ってきた。もう二十年続けてきた俺の習慣。キンキンに冷えたコーヒーを飲みながら、俺とおやっさんは向かい合う。黙っていると、今日で本当にこれが最後だという事実を自覚し、急に胸が詰まってきた。おやっさんと二人で一緒に仕事をすることは、もうこの先二度とない。
「吾郎。今までよく頑張ったな。俺の元で、音を上げず、二十ニ年間よく頑張った。俺は心底感心している」
 この最後の日に言われてしまった! この春、会社を辞めて別の場所で新たに仕事をする旨を報告した時だって、こんな改まって言わなかったのに。 
 まずい。俺耐えられねえ。これから心介たちが来るっていうのに……。
「おまえはひねくれていたけど、存外素直で、教えたことはどんどん吸収していったな。俺はおまえにモノを教えるのが楽しかったよ。俺の期待に次々と応えていくおまえを見てて嬉しかった。こんな育て甲斐のある息子はねえな」
 狼狽しだした俺に構わず、おやっさんの語りは止まらなくなってきた。
「俺はおまえに、俺のすべてを教え込んだつもりだ。若けえおまえは、この先も、もっともっと俺以上のことを覚えて駆け上がっていくんだろうな。
おまえなら絶対できるから頑張れよ。ずっと見てるからな」
「は、はい……」
「おまえにはくだらないことで迷惑をかけた。俺のおまえに対する唯一の気がかりであり、汚点だ。あの時は本当に申し訳なかった」
 そう言って、俺に向かって頭を下げる。二年前の借金のことを言っているのだ。あの金は、百万円という大金はたった一年足らずで全額返してくれた。その金を作るのに、おやっさんがどれだけの苦労をしたのか、俺は胸が痛んだ。
「やめてください、もうそのことはいいんです。あの選択がいいとは今でも思ってませんけど、おやっさんの立場も今となってはわかり——」
「わからなくていいんだよ、そんなもの」
 ズバリと言葉を遮られた。おやっさんは両ひざに置いた拳を握りしめていた。
「おまえが正しい。働くことはそいつの生き方だ。おまえはまっとうな生き方をしている。それでいい! だが、俺にはできない。だから、俺はここに残り、ここで俺の生き方をして終わるつもりだ」
 春に退職を相談した時、おやっさんへ一緒にやりませんかと誘った。俺がおやっさんを誘うだなんてずいぶんおこがましい行為だ。だが、俺はおやっさんと離れて仕事をする姿が自分でも想像がつかなかった。そんな俺に、おやっさんは『おまえはおまえの道へ行け』としか言わず、断られた。「乳離れしろ」とも言われた。
「おまえに乳離れしろだなんて言ったが、俺の方ができてなかったみたいだな」
 おやっさんの顔がわずかにくしゃりと歪む。
「俺を慕ってくれてありがとうな。吾郎」
 もうだめだ。仕事中だってえのに……。涙腺崩壊で、おやっさんの顔がよく見えねえ。二の腕で何度眼を拭いても、どんどん出てきやがる。心介たちにこんな姿は見せられねえ。
 後日、心介が俺に告白してきた。この時、心介と増田はすでに現場へ到着しており、解放した入口近くで、入るにも入れず立ち往生していたとのこと。「どのタイミングで登場すべきか、増田さんとアイコンタクト交わしてました、あはははは」と能天気に笑われた。

 そして10月。俺の新しい人生がスタートした。扇谷と綿密に計画を練り上げてきたうえ、それまで実際に請負で仕事もしていたので、何の問題もなくLotusは機能していった。
 やがて初の従業員が誕生する。翌年の8月に夏川心介が入社。同年12月には登藤蕾が加わった。二人だけの狭い世界で仕事をする時代は終わりを告げた。
「弟子は師匠のもとにいなきゃならんのですよ」
「弟子は独り立ちするもんだろ?」
 相変わらずわけのわからないこというな、心介は。
「オレ、まだ修行中の身なんで。まだ弟子の身の分際なんで。師匠を越えてないんで」
「吾郎さん、慕われてますねえ。ていうか、面白いね、きみ」
 面白がったらつけあがるからやめてくれ、充ちゃん。
「師匠を越えたらその先考えます」
 ほら、つけあがった。
「言うねー、おまえ。楽しみにしてるぜ」


 

6、全工程終了、そしてまたスタート

 不定期one day交流会に向かう道中、道端でばったり杵柄きねづかよしおみに会った。路面電車から降りてきたひょろっと背の高い姿はすぐに目につく。相変わらず雰囲気あるな~と感心しながら声をかけた。今日は柔道はいなく、俺一人の参加だ。一緒に肩を並べて歩き、話ながらKINEブックカフェへ向かう。初めてだな。杵柄嘉臣と二人だけで会話をするのは。
「中央図書館に行って資料探しをしてたんですよ。次の本の参考資料が必要で」
 どこに行っていたのかと質問すると、丁寧に答えてくれた。杵柄嘉臣は本屋を経営するほかに、作家としての顔も持っている。加えて資産家でもある。
「投資関係の本ですか?」
 杵柄が出した本はすべて熟読しているので、期待してしまった。
「いえ、植物の本です」
「植物?」
「亘さんもびっくりされましたね。そんなに意外ですか?」
「え、ええ、そりゃあまあ……」
 書くことの題材は、そりゃあ書く人間がいればいるほど、及びもつかないくらい無限にあるんだろうけどさ。なぜ、植物なのだろうか。
「僕は中学に上がるまで祖父母に育てられていて、下水道も完備していない田舎で暮らしていました。これでも結構な野生児だったんですよ」
「意外な経歴の持ち主ですね」
 根っからの都会育ちだと思っていた。
「かなり自給自足をしていたんですよ。それが祖父の信条で。祖母もまた、そういう生活を楽しめる人だった。自然を愛する人たちで、学者には持ちえない、土地に根付いた知識をたくさん持っている智恵の人たちでした。そんな祖父母から教わった諸々のことを本に残したいと思いまして」
 そう穏やかに語る口調に、わかりにくいが控えめに宿る情熱を感じ取った。いい横顔をしている。俺が女だったら惚れるな。
「杵柄さんはmy way を地で行く人ですね」
 率直な俺の感想を、杵柄嘉臣は誉め言葉として受け取ってくれたようだ。にこっと笑いかけ、俺に返して寄越した。
「それは亘さんもでしょう? 道を見つけられましたか?」
 俺は目を見張り、そしてその質問に答えるのが楽しいと感じた。
「いやあ、どうでしょう。まだ道なかばなんで。でも、方向は間違ってないと思います」
「そんなものですよ。僕もまだまだ道なかばです。でも楽しいでしょう?」
「ええ、とっても」
 俺と杵柄嘉臣の距離が近づき、肩が触れ合うように石畳を歩いていく。
ここにきて、ようやく杵柄と通じ合うものができたようだ。
人生って、本当に予測がつかなくて、面白いな。

                              完



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