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俺のFIRE漂流記⑧(お仕事小説)


↑ 前話 「工程7 愛する人よ」 はこちらから

工程8 こんなんだけど、いいよな

1、Lotus Interior .LLC

 「よし、もう時間だ。出るぞ。準備万端か?」
 10時20分になり、上着を着こみながら向かいの席の夏川心介に声をかけた。心介は広げていた図面一式やらファイルやらを、慌ててリュックに押しこんでいる。
「はい! きっちり揃えて用意してます!」
「係長~、あたしはもう15分も前から待機してまーす。夏川さん、ギリギリ行動はよくないと思いまーす」
 わが社のZ世代登藤とどうつぼみが、フル装備で席の横に立ち、今か今かと待ち構えている。その恰好は、これから屋外で冬キャンプでもするのかといった念の入りようで、上下セットの防寒着に猫の手の耳当て、猫の手グローブという着こなしだ。たぶん、俺が冬の現場は骨まで冷えると言ったことへの、忠実な対策なのだろう。今初めて登藤を見た心介は、ビクッと思いきりドン引きしている。
「ピ、ピンクの迷彩……。登藤さん、ちょっと盛りすぎじゃないですか?」
「可愛いですね! すごく似合ってて!」
「……現調に行くんですよね? 係長がいいならいいんですけど。僕はどうかと思いますけど」
 心介、小出、増田それぞれの特徴が出ていて面白いな。いちいち構っていられないので、俺たち営業工事課デスク一画の先端に席を置くおやっさんへ頭を下げて、いち早くフロアから出た。外出する際の、俺の中で決めた習わしのひとつだ。ガラス扉に映った背後にちらりと目を向け、軽く驚く。なんと、心介まで俺の真似をして、おやっさんへぺこりと頭を下げている。その隣では、増田拓海が面白くなさそうな顔つきで俺を見送っていた。昨日、終業間際に、増田は口を少し尖らせて言ってきたのだ。
「係長、次は僕の番ですよね。そう、前に係長が話してくれたのを覚えてますから」
 フルリノベーションの本格的な案件を、心介にばかり係わらせていることに対しての申し立てだ。そこで、小ミーティングを開いて、各自どんな働き方がしたいのかを話し合った。
 やりたいと思うのなら、俺やおやっさんが取り組んでいる大型工事を教え込んで、いずれ任せてもいいと考えていると三人へ伝えた。いくら仕事だからといっても、決して強制はしない。小規模の部屋や家の内装・改装とは比べ物にならないくらい、必要な知識・経験、かかる手間、労力は高度なものを要求される。小さな工事を軽んじているわけではないが、工事期間中は常に気を張って目配りしていないと、完了時の仕上がりに天と地ほどの差が出るのだ。たくさんの人の手が入って、共同で造り上げる以上、当然のことだ。
 そして収穫はあった。こいつら三人は、それぞれ独自のやりがいをこの仕事に求めていたことがわかったのだ。
 心介は、時代遅れの空間が生まれ変わるという、創り出す楽しさを知ったみたいだ。小出悠也は、とにかく手仕事の作業が好きでたまらないらしい。心介とはちょっと違って、自分で段取りして総合的に空間を創り上げていくというより、コンテンツごと……たとえば、洗面所なら洗面所、トイレならトイレといった限定したものを交換したり、修繕したり、作ったりといったことが性に合っているようだ。要するに、職人系だな。
 そして増田拓海は、意外にもこいつはガテン系だったことが判明した。
ぼやきと文句と非難の覆いに隠されて見抜けなかったが、泥臭くて面倒くさいこの改装・改修という内装工事が好きらしいのだ。現場未経験でノマドランドへ転職してきた当初は、汚い・危ない・面倒くさいの三悪だらけの現場に不平不満ばかりだったが、考えが変わったのだという。今本人なりにいろいろ勉強中で、もっと大きな工事を回せるようになるのが直近の目標だそうだ。
「増田さんは隠れ係長推しなんですよ」
 心介が小ミーティング後に、俺にコソッと告げ口してきた。とてもそうは思えないのだが、一応目標の山としてくれているのなら嬉しい限りだ。
 三羽烏を大型工事も出来るように育てたいという考えに、おやっさんも賛同してくれた。
 そんなわけで、今日行う大型案件の打ち合わせには、俺が主任担当者、それを補佐する副担当者は心介ということで挑む。そのメンバーになぜ、業務課事務の登藤蕾が加わっているのか?

「わあ、さっすがぁ~。亘係長って、ほんっとやっさし~」
 登藤がピンクの迷彩柄防寒着をガサガサさせて、助手席に乗り込んできた。その後ろで、出遅れた心介があっと手を伸ばし、しょぼくれたように俯いて後部座席へのそりと落ち着く。本当に漫才見ているようだな、こいつらは。
 何が優しいのかよくわからないので黙っていると、
「こうやって車内を温めてくれているのって、キュンってしちゃう~。女性ファーストってやつですかぁ?」
「いや、係長はいつでもそういうスタンスの人っすから」
 ぼそっと後ろから心介が呟くが、登藤はフルシカトをした。
「初めて係長の助手席に乗れたぁ。あたし、ずっと乗ってみたかったんですよぉ」
「へえ、そりゃなんで? 普通のワンボックスカーだけど」
「それ、聞きますうぅ? 車じゃなくて、『係長の助手席』にっ、ていう意味ですヨ。鈍くて可愛い~」
「登藤さん、なんかちょっと浮かれすぎてませんか? 大丈夫っすか?」
 登藤が助手席側のサイドミラー越しに、後ろへ睨みを利かせたのを俺は見逃さなかったぞ。
「初めて現場に連れて行ってくれるんだから、大目に見てくださいよ。あたしの輝かしい実地訓練の第一歩なんだから。ねっ、係長!」
 ちゃんと喋れるんじゃないか。
 俺はそうだな、と相槌を打っておいた。はしゃぐ気持ちはわかる。俺も、若い頃におやっさんに初めて大きな現場に連れて行ってもらえた時は興奮した。これからどんなものが出来上がっていくんだろうと、図面を眺めながらワクワクしたものだ。あの時の昂りを登藤も心介も感じているのかと思うと、俺の中にまたひとつエネルギーの元が生まれた心地がする。ルームミラーに映る心介の顔が、俺にそう思わせてくれる。

 11時に、年明け2月から着工予定の現場打合せがある。今回の工事現場は市内南西部の、とある十階建て複合型貸しビルで、最上階をワンフロア丸ごと依頼主の居室にする計画だ。
 先月11月に工事を手掛け引き渡したピアノ教室のオーナーが、知り合いだという東京在住の若手資産家を紹介してくれて、得た工事だ。たなぼた的な大型案件の獲得に部長は小躍りしていた。
 これから会う依頼主は、3年前に買い付けたこのビルを、すでに少しずつ手を加え、改装している。そして時折来札する際の拠点として、今回はこのビルの最上階を住まいにすると決め、工事は設計施工一貫の会社には依頼せず、デザイン重視の分離工事を選んだ。設計事務所が提携先の工事会社をいくつか薦めてきたが、施工会社にも依頼主は拘った。請負業者決定の期限ぎりぎりまで選定を粘り、ひょんな流れでピアノ教室のオーナーからノマドランドの話を聞いたのだそうだ。その辺の事情は不明だが、絶妙なタイミングだったらしい。さっそく、ピアノ教室のオーナーを通しておやっさんへ連絡が入った。そうしてオンラインを通して初顔合わせをしたのだが、おやっさんは主任担当者には俺を推した。試されている、とすぐにわかった。信頼回復の大チャンスだ。
「どうしたんですかぁ? 係長~。さっきから、めっちゃニヤニヤしてるぅ」
 めざとく指摘されて、俺は口元を引き締めた。
「登藤さん、打ち合わせの時はその耳あてとグローブを外せよ。礼儀だからな」
「あっ、ごまかした!」
 きゃきゃっと笑って、わかってますよ~と猫の手グローブをパンッと打ち合わせる。
「なんか、係長変わりましたよね~、最近。牛込うしごめ課長とも話してたんですけど。あたしがインテリアの仕事してみたいなぁってポロっと話したら、係長に相談してみなさいってアドバイスされたんですけどぉ。正直言って、係長怖いから言いたくないなぁなんて思ってたんですよぉ」
 えっ。俺が怖い? どの辺が? ちょっと今の発言はショックだぞ。
「あっ、わかる。オレも最初そう思ってたけど、たくさん係わるようになるとそうでもなかったってやつですよね」
 俺が口を開くより先に、心介に割り込まれた。
「そうそう~。係長、ぶっきらぼうで目の圧がすごいし、斉木課長ほどではないけどあまり喋らないしぃ。でも、あたしの話にちゃんと耳を傾けてくれてぇ……。インテリアの仕事っていっても何から勉強したらいいのかさぁ、たくさんありすぎてぜーんぜんわからなくて困ってたけどぉ。インテリアのことだけを覚えるのが仕事じゃないぞ、って。あれ言われて、そっかあ! って気づいたんですよね~」
 そうか、それはよかった。でも目の圧ってなんだ。再び口を開きかけたが、まだ話の続きらしかった。
「それでさっそくこうして、現場に連れて行ってくれて感謝します!」
「お、おお」
 急にキビキビと礼を言われ、面食らった。結局、『怖い』だの『目の圧』だの、発言の真意を問い質す機会を逃してしまった。
 
 約束の時間15分前に現場入りし、最上階の室内で俺たちはさっそく各所を調査がてら、依頼主一行を待ち受けた。依頼主は時間きっかりに現れ、各自名刺を交換し、挨拶を交わした。今日のために東京から来札をしたのだ。
「ノマドランドの業務課経理担当の登藤蕾と申します。インテリアデザインの勉強も兼ねて、このたび当工事のアシスタントの一員として加わらせていただくことになりました。微力ながら、素敵な空間づくりの一助となるよう、誠心誠意努めますのでよろしくお願いいたします」
 名刺に両手を添え、寸分の狂いのない45度辞儀、完璧で淀みなく述べられた挨拶。そして好感度100%の可愛らしい笑顔。ピンクの迷彩柄防寒着というギャップが、更に異彩を放っている。
 なんだ、ちゃんと社会人らしく振舞えるんじゃないか。俺は、一発で登藤に心を掴まれたらしき依頼主と、大物な登藤と、鉛を飲み込んだような顔をしている心介を眺めまわして、大変満足だった。この二人、いいライバルになりそうだな。
「ところで、設計の方はこれからお見えになるんですか?」
 依頼主が一人で現れたので不思議に思っていた。設計元は『アーキエムズ』という設計事務所の森田さんであることは、先に渡されている設計図面で確認し、すぐに連絡を取って一度話をしているから承知していた。
 このアーキエムズとは今まで数回一緒に仕事をしたことがあるので、お互いのやり方をほぼ熟知しているからやり易い。いい相手に当たったと内心喜んでいたのだ。その森田さんが遅れてくるなんて珍しいな。
 依頼主は、それが……と申し訳なさそうな顔をして、とんでもないことを言ってきた。
「実は、そのことについて亘さんにご相談がありまして……。僕、設計を変えたいんですよ」
 ……は? 一瞬目が点になる。この段階で? かなり驚いたが、少し目を見張るくらいに留めておいた。後ろの心介は、ひぇ、なんておかしな声を上げかけて、登藤に足を蹴られているようだ。ナイス登藤。おまえは本当に度胸が据わっているな。状況判断も的確だ。
「何か納得がいかれていない、と?」
 そうであれば大問題だ。依頼主が不満を抱えたまま工事を進めることほど危険ないことはない。必ず、後々トラブルになる。
「あ、そういうわけではないんです。森田さんには大変よくして頂いて、工期がもうあまりない中で素晴らしいデザインも考えてくれたので感謝してます。僕の我儘なんですよ」
 依頼主の高来こうらい誠人まことが、慌てて森田さんの名誉を守った。三十代前半というまだ若い資産家はA3サイズの大きな鞄からバインダーを取り出し、折り目がつかないように丁寧に挟んでいる紙を手渡してきた。
「僕の我儘なんです。やっぱりどうしてもこういう住まいにしたくて。僕が求めるイメージをさらに広げてくれた、こういう空間を実現してほしくて。見て頂けますか?」
 図面だった。4枚あった。平面図、パース、デザインボード、インスピレーションボード。世間一般のトレンド動向を忠実に守る設計事務所というより、バリバリのデザイン会社の匂いがぷんぷんする大胆な設計。
 図面を広げる台を探して、近くのキッチンカウンターへ広げた。俺の肩越しから覗く心介や登藤が感嘆の声を上げる。日本の住宅ではあまり見ない間取りと空間づかいだ。デザインは、ファームスタイルと和調のモダニズムの融合といった感じか。適度な明暗・懐かしさ・自然との調和・暖かみのある空間……そういったものがテーマなのだろう。
「アーキエムズさんもいい設計をしてくださったんですが、僕は先にこれを見てしまっていたから……」
「でしょうね。お気持ちはわかります」
 高来誠人が味方を得たとばかりに笑顔になった。
「ああ、やっぱり亘さんはわかってくれるんですね。塚原さんが言う通りだ。亘さんは図面を通して依頼人の要望をきちんと見る人だと伺いました。問題点や改善した方がいいことを的確にアドバイスしてくれると。普通は無難になるべく早く、言われた通りに完了させたがる施工会社の方々がほとんどなのに妥協されない。リフォーム物件を結構手掛けられている塚原さんがそう薦められるので、僕は亘さんがいるノマドランドさんへお願いしようと決めたんです。僕が施工会社を探している時、アーキエムズの森田さんもノマドランドさんの名を挙げてました」
 塚原さんというのは、先月11月に完工したピアノ教室のオーナーのことだ。
「塚原さんにそんなに評価されているとは、恐縮です。なんだか別人の話を聞いているような感覚で気恥ずかしいです」
 実際、そんな大袈裟なとも思った。そんな風に思われていたのか……。
「係長、塚原さんは僕にも同じようなことを言ってましたよ」
 心介が、こいつにしては大胆に話に入ってきた。高来誠人が話しやすい人柄なのを見て、緊張がほぐれてきたのだろう。反応を返した高来誠人と、広げた図面を見てあれこれ喋っている。
「亘さん。どうでしょう……。作っていただけそうでしょうか?」
 高来誠人が不安げな色を目に浮かべて、俺を窺っている。ふむ。特段難しいところがあるわけではなさそうだが、何しろ日本ではあまり馴染みのないデザインだから、大工が戸惑うだろうな。だが、喜びそうでもある。
「腕が鳴るなあ!」と吠える末吉さんが目に浮かぶようだ。あと、このインテリア素材も厄介だが、これはあれだ……。
「はい、問題ないでしょう。手間もかかるし大変でしょうが、できます。……というか、是非ともうちでやらせてください」
 隣で心介がびっくりしている。無理もない。こんな一見したところ超難易度の高いデザインの改装を、いまだかつてわが社ではしたことがないのだから。だが、俺はまた図に乗って無謀なことをやらかそうとしているわけではない。実は経験があるんだよ。会社に内緒で、昔、凛々子の仕事の手伝いをちょくちょくしていたから。
「本当ですか! ありがとうございます!」
「貴重な経験にもなるので、声をかけてくださりこちらこそ感謝します」
 高来誠人が大層喜び、俺の手を握ってきた。
「そう言ってくださるとは思ってたんですが、断られるかもと内心汗を掻いてました。大変都合のいい話ですが、断られたらこの設計はもう諦めて、当初の予定通りアーキエムズさんで行こうと決めてました」
 率直な人だが、請負側にしてみればたまったものではないな。どう転んでもいいように天秤にかけたということで、どうりで今日森田さんが現れなかったわけだ。もちろん設計料はきちんと支払うのだろうし、施工中の監督や打ち合わせはなしに設計だけを渡して引き上げるやり方は普通にある。というか、多い。だが今回は工事中の現場管理も依頼されていたのだから、それをキャンセルになった上に、提案し、承認までされた設計が結局日の目を浴びないのだ。
 いや、いつかは高来誠人の手によって復活するかもしれないが。高来誠人にほんの少し心の機微というものがあれば、だけどな。後でおいおい森田さんにそれとなく聞いてみよう。遺恨が残ったらいやだからな。
「あのう……この設計をどうして諦めてしまわれたんですか? この会社が倒産でもしたとか?」
 心介はそこがどうも引っ掛かるらしく、高来誠人へ問いかけた。俺は聞かなくても理由がわかった。
「担当者が不慮の事情で、工事を着工しても担当できなくなってしまいましてね。本当は、この会社に工事まで一貫して行ってもらう予定だったんです。それで設計料だけ支払って、このデザイン通りに施工できる会社をひと通り探したんですけど、なかなか見つからなくて断念したんです。どこの会社も、扱ったことのない素材で、日本ではあまり馴染みのないデザインのうえに、不慣れな作業や、特殊な海外製品を仕入れるのに大変だからという理由で」
「そうだったんですか」
 えぇー、という心介の心の悲鳴が聞こえたような気がした。係長、大丈夫なんですか? と。
「えっ、でも、関連会社は紹介してもらえなかったんですか? 元々一貫工事だったのなら、そこの施工会社がそのまま入ればよかったのでは?」
 心介の率直な疑問に高来誠人が頷きながら説明した。
「そうなんです。僕もそうなると思ってたんですが、設計元が工事監理をしないのなら受けられないと断られまして。そういうものなんですか?」
「一概にそうだというわけではないのですが、元々一貫工事で話を進めていたのならやりにくいかもしれませんね。途中で設計変更が発生したとして、それをカバーできるほどオールマイティな動きが可能な施工会社ばかりではないというのが現状ですし」
 話を向けられて、擁護するわけではないが受ける側の事情を少し説明してみた。面倒くさい物件に手を出したくないから逃げられた、とは単純に思ってほしくないしな。
「それなら、なおさら亘さんには感謝です。こういうリノベーションに手慣れているという印象を受けます。頼もしいです」
「いえいえ……何でもという訳ではないので。この設計なら、ということですよ」
 それはそうだ。この工事はたしかに俺にしかできないだろうな。
 最上階のワンフロアの総床面積が1000㎡という大工事。これから、この三つの事務所が入っていた壁をぶち抜き、全ての設備や内皮を剥ぎ取った骨格から始めるのだ。無に戻り、別世界へと更新されていく。その道しるべとなる図面に改めて視線を落とした。
『Lotus Interior.LLC』 凛々子と扇谷おうぎやみつるの合同会社の記名。こんな形でお目見えするとは、この業界はほんと狭いもんだ。
まったくあいつらしいデザインだ。あいつの得意分野だもんな。

 打ち合わせは二時間みっちり行い、依頼主が帰った後は現地調査を開始した。実はすでに俺とおやっさんで下調べ済み(おやっさんはあくまで監督官)なのだが、それは秘密だ。一から手取り足取り教えていくが、自発的に気づいて動いてもらうのが最も重要なのだ。
「今回はこのビルの管理会社は挟まないんですよね。ということは、ここの入居先の全リストをもらわないといけないですね。近隣のパーキング情報も調べないと。ここのビル自体の図面一式はもう頂いているんスか?」
「ああ、もう俺のフォルダに入れてある。タブレットで今見れるぞ」
 よしよし。Z登藤効果だな。いつもどこか眠そうな心介が、キレッキレの動きだ。喋る速度も増している。
「これから北工ビルドとヒノマル設備、大工の末吉さんも来るからな。それまでに採寸進めるぞ」
「すごぉーい、係長。もう手配済みなんですかあ~? 手際が良すぎるぅ~!」
「せっかくなら一片にまとめて現調は済ませた方がいいだろう? 情報は新鮮で早ければ早いに越したことはないから。何か問題が起きたとしても、先にわかっていればその分早く対処できる。工事を進めるとっかかりが一番重要なんだ。ここを疎かにすると、後で泣きを見る」
「はぁ~い。最初が肝心……っと。係長はほんっと抜かりないですよねぇ~、全てが!」
 ミスパーフェクトのキミには負けるけどね。
「今日の現調依頼したのは、全部心介だけどな。俺が言うまでもなく」
「えっ」
 ノートにメモる手を止めてまで、Z登藤は驚く。そこは堪えてやってくれないか?
「クリスマスまでには見積書を提出しなければならないんで。それも、遅くても、なんで!」
 恰幅よく膨らんだ腹と胸をこれでもかと反らせて、心介は鼻息荒くアピールした。さあ、さっさと続きを始めるか。軽い小競り合いが勃発したのを放っておいて、俺は現場用カメラを構える。心介がそれを見て慌てて後を追ってきた。
「あのう、係長。本当にこの工事受けちゃって大丈夫なんすか? だって、今までうちでこんなすごい内装とスケールの工事やったことないっすよね」
「あのオーナーさん、お金に糸目はつけないと言ってましたけどね~」
 二人の心配はわかる。おやっさんも我聞部長もさすがに渋るだろう、この工事。
「言ったろう。大丈夫だ」
「斉木課長や部長が許可してくれますかね?」
「うんと言わせて見せるさ。……この工事はな、俺だからできるんだよ。経験もないのにできるなんて言わないさ」
 えっと心介は目を丸くし、登藤はきゃーと嬉しそうに悲鳴を上げた。
「あたしも、こぉんなデザインできるようになりたいなぁ~。どんな人が描いたんだろう……あっ、ここに名前書いてる。ちっちゃいけど……liliko sanejima だって」
 CGパースとは別の、スケッチプレゼンボードの片隅に署名された小さな文字。
「そう、登藤。おまえらのいい経験になるぞ。よかったな、いい工事に当たって」
 やっと心介は安心したのか、美味しそうなほっぺに笑顔が浮かぶ。といっても、怒号と涙の数か月がやってくるのは今は教えないでおこう。


2、真正エリート・扇谷充

 無事、各工事担当の業者との打ち合わせと第一段階の調整も済み、三人でだいぶ遅い昼食をとろうという事になった。もちろん、俺のおごりだ。
 一階の共有フロアに降り、エントランスへ向かう途中、テナントのひとつのフィットネスクラブから人が出てきた。何気なく相手を見やり、お互い「あ」と声が漏れる。今まさに問題の渦中にあるデザイン会社Lotus Interiorの経営者の片割れ、扇谷おうぎやみつるであった。
「ご無沙汰してます」
 俺を見て、一瞬固まったな。思うところ大アリといったところか。俺も同じだから心理状態が手に取るようにわかるぞ。
「亘さん……お久しぶりです」
 数秒たっぷりと見つめ合い、俺は心介たちを先に車で待っているよう促した。奴らの姿がエントランスから消えていなくなるのを見届けて、俺は話を続けた。
「偶然ですね。お仕事でいらしたんですか?」
 彼と仕事先でばったり出くわすのはこれが初めてだ。凛々子とだって一度もない。それがよりにもよって、この現場で初バッティングとは。因縁めいているな……何だか。
「やっぱり引き受けられたんですね、高来さんのリノベーション」
「ご存じだったんですか」
 おいおい、そりゃないだろう。どういうことだよ、なんでお宅が動かないの? 俺の反応を敏感に察知したのか、扇谷は少し困ったような素振りを見せた。
「施工を受けてくれる可能性のある工事会社として、ノマドランドさんの名をお伝えしたんですよ。あえて、僕らからの紹介という方法を取りませんでした」
 詫びるように頭を少し下げてきたので、俺は慌てて言い添えた。
「事情は分かりますので、気にしないでください。……なるほど、それで全部合点がいきました」
 オーナー同士の繋がりで得た情報とはいえ、なぜうちにいきなり依頼をしてきたのか。このデザイン会社の推しがあったから、あわよくば特Sプランでいけるかもしれないという一縷の望みを持ったんだな。でなかったら、市内にうじゃうじゃいる工事会社から、わざわざ知名度も規模もちっさいウチを拾い上げることもないだろう。
「本来なら僕が凛々子さんの代打として工事に入るべきだったんですが、スケジュール的にどうしてもそれが難しくて……。言い訳ですが、高来さんにはとても申し訳ないことをしました。当然今回の設計料は辞退したんですが、いつか必ず工事をしてもらうつもりなのでと仰ってくれたんです。ですから、僕らからも心から感謝します」
 今度は丁寧に頭を下げてきた。僕らってなんだ。しょーもないところにいちいちカチンときておいて、心とは裏腹な言葉が口から飛び出してくる。
おまけに尻もむず痒い。
「とんでもない、お礼を言われるほどのことではないですよ。こんなオイシイ工事を譲ってもらえて、かえってわが社としても有難いです」
「そういって頂けて、すこしばかり肩の荷が降りました。工事中に何かありましたら、いつでもお問い合わせください。微力ながら、最大限協力させていただきますので」
「それは有難い。その際はよろしくお願いいたします」
 ニコニコと俺たちはフルマックスの笑顔を交わし合った。ええかっこしい、というやつだ。俺と同じで、こいつも中々本心を見せない種類の人間だ。こうみえて、扇谷とはもう十年以上の付き合いなのにな。スーパーゼネコン勤務の後、凛々子と同じく単身アメリカに渡って向こうの建築デザインを学んできたという綺羅星のような経歴をもつ。
 このオシャレ男はいついかなる時もスマートな振る舞いを崩さないが、俺と対峙した時だけ、ほんの少し感情を揺らすのだ。
 なんでわかるのかって? それは俺も同じだからさ。一人の女を挟んだ、男の繊細で慎重な心理合戦ってやつだよ。張り付いた笑顔のずーっと深い表層下では、哀れな小競り合いを繰り広げているのだ。こいつは俺と同じだ。間違いない。
「扇谷さん、大分お疲れのように見えますが、大丈夫ですか?」
 長く伸ばした前髪で見え隠れする目元を見て、俺は激務なのだろうと推測した。色の濃い隈がくっきりと出来てしまっている。
「え、ええ、まあ。……いや、かなり煮詰まってます」
 意外にも、扇谷は素直に白状してきた。今日はやけに素直だな。
「亘さんにまで格好つけても仕方がないですね」
 言いながら前髪を掻き上げる様はかっこいいな、ちくしょうが。
「手が足りてないんでしょう? まあ、あいつがいないのなら当然そうなんでしょうね。お察しします」
「……凛々子さんを言い訳にしたくはないんですが、事実そうです。二人体制に固執してやってきた弊害が今回ってきてるといったところです。せっかく仕事を依頼されても、施工が間に合わなくて、もう何件も見送ってしまいました。今更ながら、僕以上の量を高いレベルとスピードでこなしていたんだと、彼女のタフさには頭が下がります」
 凛々子は、治療後の回復が思ったより遅く、先月の退院からまだ仕事に完全復帰できていない。それでも体力がモノを言うこの業界の仕事に手を出そうとするので、扇谷は凛々子に勤務完全禁止命令を出したそうだ。
 凛々子はというと、現在実家で療養している。24時間、両親と姉の監視付きで。そうでもしないと、あの仕事マシーンの女は四六時中、自ら仕事を生み出して働こうとするからだった。もう、病的なほどだ。そんな女とタッグを組み、共同経営をしようと決心したこの男も相当なものだが。
「ここのフィットネスクラブの改装、来週から始まるんですよ。凛々子さんが手がけた設計で。彼女がいつ復帰しても大丈夫なように、万全の状態で保ち続けるつもりです。さっきはつい泣き言をいってしまいましたが」
 扇谷はそう苦笑したが、どんなに大きな隈を作ろうが、その目は確固たる自信に満ち溢れていた。
 やっぱりかっこいいな、こいつは。認めてやるよ。去り行く姿勢のよい後姿を、俺は珍しく羨ましいとは思わず見送った。


3、昨日の敵は今日のミカタ

  帰社後、打ち合わせの状況報告をおやっさんへ上げた。蓋を開けてみると、工事計画が激変していたこと、リスクと問題点、そして得られる利点を包み隠さずすべて説明し、その間おやっさんは広げた図面に目を通しながら黙って耳を傾けていた。おやっさんは反対しなかった。図面に記載された社名と、プレゼン用のスケッチに署名された名前を見て、じっと考え込み、ひとことだけ俺に質問をした。「できるんだな?」、と。
それだけで俺とおやっさんの間ではすべて会話完了だ。できるから引き受けた。それだけだ。そしておやっさんは、俺を信頼してくれている。再び。
 凛々子が闘病生活を送っていることは、密かにおやっさんに打ち明けている。俺がやむを得ない事情で休みを取ったり、現場を一時的に離れたりすることが今後度々発生する可能性があるため、正直に伝えた。
 俺がこの仕事を受注する理由が、まったく私情を絡めていないといえば噓になる。個人的な情、施工を通じて得られる物理的・潜在的・世間的な利益、計算、身内への贔屓、色々なものがどれも同じくらいの比重で混ざり合っている。おやっさんは、たぶんそれを見透かしているのだろう。俺が感情論だけでこの仕事を引き受けたわけではないのだと知っている。
 そして数日後、工事契約を交わしても問題のない相手かどうかの信用調査など、上層部での一連の稟議が無事通過した。見積書も完成し、工事価格の詳細な検討後、高来さんと正式な工事契約を締結した。

「ふうん、充くんがそんなことをねえ……」
 夜、さっそく昼間の出来事を報告する俺の話に、お茶を飲みながら凛々子は嬉しそうに耳を傾けてくれた。今日は気分がよさそうだな。よかった。お義母さんが並べてくれた、たくさんのおかずを口に頬張りながら、俺は肝心な点を確認した。
「で、おまえの資料を借りるぞ。すぐにでも材料発注しないと工期に間に合わないしな。年末年始を跨ぐからなおさら急がなきゃならないし。わからない所があったら色々聞くから協力してくれよ」
「もちろん。あたしの現場だもの。当然だよ」
「といっても、あくまでも相談役程度な。これは自分で乗り切ってみたい工事だから。俺の力で」
 話す傍ら、お義母さんに空の茶碗を差し出し、白飯をよそってもらった。
「心介君や登藤ちゃんもいるでしょ。橋蔵さんも。忘れないでね」
 即座にツッコミが飛んできた。おっしゃるとおりで。また天狗になって一人で突っ走る所だった。あぶねえ……。
「年が明けて、体調が戻ってきたら少しずつでも仕事再開するよ。それまで迷惑かけるけど」
 ぱつんと言葉を切って、凛々子は俺をじっと見つめた。
「ありがとう」
 あたしの現場を生かしてくれて。たぶん、こう言いたいのだろう。後には続かなかったが、俺にはその葛藤と喜びが入り混じった表情を見てそう思った。

 で、今日はクリスマスだ。工事下準備や諸々の段取りで怒涛の数日を過ごし、年末のプチ繁忙期とはいえ、今日くらいは早く仕事を切り上げようということで全員定時で会社を追い出された。
 聖夜の力って素晴らしいな。この大義名分を掲げるだけで、普段どんな不可能なことでも皆即座に納得し、素直に従うのだから。まあ、自主的に嬉々として受け入れるのだけど。だが、なんと。ここにその聖夜の恩恵を受けてないヤツがいる。腕時計を見ると、22時15分。Lotus Interiorの事務所に明かりが点いている。あいつまだ働いているのか。根詰めすぎだろ。
 外から室内を覗きこみ、デスクの前でどっしりとパソコン操作に没入している扇谷充の姿を見とめた。
 二日連続で、眞島一族、柔道と俺でクリスマスを祝い、ディナー後の団欒をそっと抜け出てきた。凛々子の家へ、まだ回収しきれていない資料やデータを取りに来たのだ。
 すぐ取って帰るつもりだった。家は事務所の裏手にあるので、事務所の様子は丸わかりだ。そのまま車に乗り込み、粉をはたいたようにまだ薄っすらとアスファルトへ降り注いだ程度の雪道を発進する。
 だが、今宵はクリスマス。どんな奇跡や怪異が起きようとも、ちっとも不思議ではない、そんな魔法に満ちた特別な日なのだ。

 俺はコンビニに寄り、酒と珍味を買い込み、事務所へと舞い戻った。彼女がいないんだな。可哀相な奴め。まあ、それは冗談だが。
 奴のデスク側にある腰窓へ近寄り、窓ガラスをコツコツと叩いた。ガラス越しに、ずり落ちそうな眼鏡を掛け直しながらギョッと驚く顔が見える。俺は顔を近づけ、ついでに酒瓶とつまみの袋を掲げてみせた。しばらくその恰好でお互い見つめあう。やがて、奴はやっと息を吹き返したかのようにノロノロと腰を上げ、玄関で俺を出迎えてくれた。
「亘さん……。一体どうしたんですか。こんな時間に、突然……」
 ドアを開けるなり尋ねてきて、扇谷充はハッと顔を強張らせた。
「もしかして、凛々子さんに何かあったんですか?!」
「違う、違う。驚かせてしまって申し訳ない」
 扇谷充はわかりやすいほど安堵したようだ。そして次は怪訝な顔つきで俺を見る。
「ちょっと俺と憂さ晴らししませんか」
 怪訝ではあるが、意外そうに目を見張ったのを俺は見逃さなかった。
「仕事が忙しいのはわかりますが、今夜は聖なる夜ですよ。ほんの少し、仕事を忘れませんか?」
 にやりと笑いかけると、俺につられたのかそれまで一文字に引き結ばれていた口元が緩んだようだ。扇谷はドアを大きく開いて中へと招き入れてくれた。
「……いいですね。どうぞ、ミスター・サンタクロース」
 気障なヤローだな。アメリカの俳優のようなことをいいやがる。俺には逆立ちしても出てこないセリフだ。だが、今宵の俺はどうかしているな。自分でも信じられない行動をしている。
 作業兼打ち合わせテーブルに、俺たちは差し入れを並べ始めた。ワイン、生ビール、日本酒、ウィスキーの中から、扇谷は数種類の日本酒の中のひと瓶を手に取った。
「いいですねえ。僕、日本酒大好きなんですよ」
「へえ、ワインかウィスキー派だと思っていましたよ」
「よく言われます。でも、どちらも苦手で。……あ、もしかして、僕のためにワインとウィスキーを選んでくれたんですか?」
「まあ、そうなんですけど、気にしないでください」
 話しながら、扇谷が手に取った日本酒をもらい受け、ミニキッチンから運んできたグラスにだばだばと酒を注いだ。
「この銘柄、大雪の地酒ですね。ネットで評判を知って、一度飲んでみたかった奴です。よく手に入りましたね」
「そこのコンビニで日本酒の地酒フェアをやってたんですよ。俺も日本酒派です」
 よほど酒好きなのか、ついさっきまでの警戒心を幾分解いて、扇谷は興味津々に酒瓶を眺め回している。飲み会の支度を終えて、俺たちは乾杯をした。
「何に乾杯すべきかな」
「メリークリスマス……っていうのも、何だか違和感ありますね」
 同感だな。押しかけた俺が言うのもなんだが、この組み合わせで聖夜を祝うのは奇妙すぎる。
「そうだな……。初めての酌み交わしを祝って、はどうですか? 単純に」
「単純に。いいですね、それでいきましょう」
 なみなみと注いだグラスを掲げて、俺たちは乾杯した。
「初めての酌み交わしを祝って」
「メリークリスマス」
「やっぱり言うんですね、それ」
 一気に酒を飲み干した扇谷に揶揄された。また二つのグラスに酒を注ぎこむ。
「まさか事務所に泊まりこんでいるわけじゃないですよね?」
デスク廻りの図面や資料の山と、ゴミ箱にてんこ盛になったデリバリーの空箱を見てそう思った。
「ちゃんと着替えには帰ってますよ。でも、ほぼいますね。ここずっと。ここにバスルームも作ればよかったと後悔しています」
 扇谷はこんなの日常ですよといいながら、一本目の四合瓶を早々に空にした。
「うまいなあ、これ。果実系じゃないのにマスカットのようなスカッとした味がする。なのに、しっかり辛口だ」
 もしかして、こいつ酒豪か? ちょっとピッチが速すぎないか?
「扇谷さん。そんなに工事が間に合っていないんなら、手伝いましょうか?」
「……本気で言っているんですか? それ」
「安請け合いで言えることじゃないですよ」
 扇谷は驚いているようだ。少し酔っているようで、露骨に胡乱な目つきで俺を見つめてきた。
「それは願ったり叶ったりで、非常に助かります。でも、それは凛々子さんのためだからですよね? 彼女から頼まれたとか?」
 やっぱり普通はそう思うよな。
「それも少しはあります。あいつから頼まれたわけではありませんけどね。扇谷さん、凛々子と二人三脚でバランスとってやってきた中、今この会社は片翼をもがれた状態だ。本物の翼とまではいかなくても、ハリボテ程度の役目くらいならなんとかフォローできるかもしれないですよ」
 俺のハリボテ発言に扇谷は軽く笑い、更に突っ込んでくる。
「凛々子さんが少しなら、それ以外の理由はなんですか? 僕に同情して、なんて言いませんよね?」
「まあ、メリットは感じてます。一つは、デザイン系の工事や設計に慣れること。二つ、本物の建築士から建築を本格的に教わること。三つ……全部言ったな」
 俺も少し酔いが回ってきたな。グラス四杯目だ。アハハハと扇谷は笑い声を立てた。普段すかしたヤツがだいぶテンション上げてきたぞ。
「なんですか、それ。凛々子さんからだって、今まで学んできたでしょ。散々アルバイトして」
 やっぱり、知ってたんだな。コイツ。
「いや、梃子代わりの動きでしか関わっていなかったし、工事の側面でしかまだ学んでいない。俺はあんたから勉強したいんだよね」
「すごい仕事熱心な人ですね」
 また手酌で、しかも三本目の地酒をグラスに注ぎだした。もう十杯は軽く越えてるだろ。
「建築士の免許を取ろうと思ってるんだ。それと、あともうひとつ」
「へえ…………」
 今考えだしている俺の人生設計。頭の中で色々組み立てていた思考を、いい機会だから言葉で吐き出してみた。なぜか扇谷充相手になってしまっているが、こうしてみると話を聞いてくれる相手としては最適な相手だな。言葉にすると、混雑してバラバラだった思考の破片がまとまってくる。だんだん人生設計が鮮明になってくるのは面白いな。
「四十二歳からのスタートですか……」
 俺が酔いに任せて話すたわごとを、扇谷は相槌を打ちながらじっくり聞いてくれるので、俺はすっかり気分がよくなっていつも以上に饒舌になった。案外、いい奴じゃないか? こいつ。
「かなり盛りだくさんな挑戦ですよね。亘さんのスキルなら今の時点で充分やっていけるのに。普通はそこで満足するのが、ほとんどの人の選択ですよ」
 そうだろうな。俺もついこの間までそう思っていた。
「とまあ、カッコつけてベラベラしゃべっちまったけど、肝心要の理由はやっぱり凛々子だよ。扇谷さんよ、繋ぎが必要だろう? 一人でやるには限界がある。あいつが戻ってくるまで、俺が多少なりとも繋ぎになるよ。少しは役に立つと思うけどね」
 いかん。もう口調を保っていられないほどかなり酔いが回ってるな。でもまあいいや。なんてったって、クリスマスだから。
 扇谷は穴が空くほど俺の顔を凝視している。グラスを持ったままで、微動だにしない。俺とは正反対の、特徴的なタレ目の目元が赤く染まっている。もしかして聞こえていなかったのか? しょうがない。もう一度聞かせてやるか、俺の決め台詞を。
「俺が繋ぎ——」
「……ったく、そういうとこなんですかね。僕が負けるの」
 もろ被った! 今なんて言ったんだ? それになんだか雰囲気が変わったぞ?
「ほんとに癪に障るなぁ……。いっつもカッコいいことばかりして! ここぞというときに、ひょっと出てくるんですよね、あなたはぁ!」
 ……なんだか、いよいよ様子が怪しいぞ。スカした扇谷スタイルが崩れ出した。そして手に持ったグラスを一気飲みして、またドボドボと注ぐ。
「お、おい。ちょっとペース落とした方がいいんじゃねえ?」
「酒くらい好きに飲ませてくださいよぉ!」
 奪い取られまいと、酒瓶を胸元に引き寄せて扇谷は叫んだ。それ、六本目だよな? 俺も飲んでるとはいえ、こいつやばいな。そろそろ取り上げるか?
「ああ、うまい。ここずっと飲んでる場合じゃなかったから我慢してたけど、半端ないくらいうまい」
 テーブルにはまだ四合瓶が二本ある。そっと自分の方に引き寄せておこうと手を伸ばしたら、目の色を変えてがばりと両手で手繰り寄せやがった。酒でここまで変わる奴だったとは……。これはモテないな。かなりのハイレベルなイケメンなのに、なぜ彼女がいないのか理由がわかったような気がする。落差が凄すぎる。
「亘さんはずるいんですよ。そう、ずるいの、あなたはぁ! いつもニヒルな距離取っておいて、絶妙なタイミングで助っ人してくる……」
 そんな風に見えていたのか、傍から見て。でもニヒルな距離ってなんだ。
「元ダンナっていう立場をうま~く活用して。所詮、僕なんて他人だから? なんの権利もないから? 踏み込みたくても踏み込めないし、僕の入る余地なんて、どこにもありゃしない」
 ついに言ったな、コイツ。やっぱり凛々子に惚れていたか。まあ、当然だろうな。コイツが凛々子の後を追うように、凛々子と同じ足跡を残して今に至るのだから。憧れているのだろうと、ゼネコン勤務時代から推測していた。
「かっこいいなあー……、ちくしょうー」
 もしかしてやけ酒なのか? それにしては、へらへら笑いながら俺を見つめている。俺は凛々子がコイツと出来ているのかと疑い、正直かなり内心穏やかではなかった。嫉妬ってやつだ。だが今は凪いだ気持ちでコイツを眺めていられる。あ、ちょっと大口すぎたか? 凛々子の心がどこにあるか、あのキーホルダーの一件でなんとなく察することができたように思えるのだ。そう思いたい。……幻想っていうこともあるが。とにかくそう思いたい。
だから、今はコイツにいちいち粉動されることもないほど、俺は一段高い境涯にいる。要するに、優越感を覚えているというわけだ。ハハハ、ざまあみろ。
「あぁー、見下してる顔で見てるー……しかも眼圧すごー」
 もろ、顔に出てたか。俺のコイツへの毒が。しかも、俺の人相を言うか。
「壊れすぎだぞ、扇谷さん。ま、その方が俺は好きだけどね」
「僕は嫌いだー。ほんと、嫌いー。かっこよすぎて嫌いー」
 へらへら笑いながら、俺のグラスへ注いでくる。
「でもー、ずっと仕事したいと思ってたー。僕だって、ずっと一緒にー」
 そうだったんか。酔いに任せた本音なのかな? 
「じゃあ、やろう。あ、もちろん手伝いとはいっても、うちの会社へちゃんと発注してな」
「はいはいー、しっかりしてるねー」
 泥酔化しつつある扇谷充。外は深々と大粒の雪が降りだしている。もう零時になる頃だろう。LINEで扇谷と飲んでる一報を柔道と凛々子へ送っておいた。差し入れ持参で訪れた時点で帰るつもりはなかったからな。しかし、コイツとクリスマスの締めを過ごすことになるとは。日々、何が起きるか本当にわからねえな。
「メリークリスマス」
 俺は零時になる前に、もう一度声に出してみた。扇谷は嬉しそうに笑い、「メリークリスマス」と返して寄越してきた。
 そうして俺たちは朝方まで夜通し飲み続け、愚痴やお互いの悪口や、苦労話、そしてこれからの展望をちょこっとだけ語り尽くした。


~次作、「工程9 新世界、きたれり 最終章」 へつづく


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