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俺のFIRE漂流記⑥(お仕事小説)


工程6 地力

1、プロとはなにか

 ほぼ一睡もしていない状態で朝を迎えた。柔道は何事もなかったような顔で登校していき、俺も身支度を整えていつものように会社へと出勤する。
今日は選曲をする気に慣れず、珍しいことだがオーディオを止めた。そして電話が鳴る。おやっさんからだった。
「吾郎、会社に寄らずに先にピアノ教室の現場に来てくれ」
 何も珍しいことはない。俺は二つ返事で車の行き先を変えた。始業時間は9時だが、現場が動いている期間は朝が早い。寝ていないせいもあって、この日は更に早く、7時30分前に現場へ到着した。
 
 白の軽ワゴン車が先にビルのエントランス前に停まっている。もう来ている。隣に駐車して、俺は急いで教室へと向かった。2日経って、ほぼ壁が出来上がっている。工事は順調だ。怖いくらいに。一度ヘマをしかけたが。
 剥き出しの茶色い壁を見回しながら、フロアの奥へと進み、おや? と違和感を感じて足を止めた。なんでここに壁があるんだ? 
 この場所は小休憩場所にもなるたまり場として空間を設けるはずだ。あっと叫び、俺は平面図を貼りだしている奥の別室に向かった。駆け込むと、そこにはすでにおやっさんがいた。壁に貼っている図面から身を離し、ゆっくりと俺を振り返った。
「お、俺、俺……やらかしてしまいました」
 顔が青ざめていくのがわかる。一気に血の気が音を立てて引いていく、第二弾の幕開けだった。
「図面を……差し替えて、いや、配ってもいなかった」
 オーナーが勝手に変更した図面を差し替え、再度書き直してもらった正しい最終図面をメールでもらったところまでは記憶がある。遅くとも、昨日の朝までには差し替えておかなければならなかったのだ。
 一昨日、柔道の行方を捜して奔走している最中、作業者であるビルトイン工房に直接会って説明することも、現場に出向くことも難しくなったので、電話で説明してデータを送ろうと考えたのだ。だが、そこまでだ。それすらも俺はやっていなかった。肝心なことを後回しにして、やったつもり・・・・・・できれいさっぱり忘れ去っちまっていた。

「俺も昨日、夕方に気がついた。部長の現場を片付けた後に寄ってみたんだ。ビルトインの奴らは、予定変更して昨日どころか前倒しで一昨日の午後から入ってたんだよ。せっかくの好意がどうだ。ちっともありがたくねえだろうが、おまえ。運の悪いことに、かなりいらない壁が作られちまった」
 淡々と話すおやっさんの顔を見ることができない。俺は顔をまともに上げられず、目は床のあちこちを彷徨ってばかりだった。
「おまえがビルトイン工房の連中へ届けて説明すると末吉さんへ言ったんだ。末吉さんからは自分が連れてきた応援だから、本来なら自分が説明すべきだったと逆に謝られたよ。任せきりにしてしまって自分も悪いと。そして、そういう俺はなお悪い。その後のことを、一切合切おまえを信用して任せきりにしてしまったからな」
 おやっさんは最後は苦虫を潰したような顔でそう言った。末吉さんはそういう堅気な人だ。おやっさんと同類で、自分が請け負う仕事には全責任とプライドを持つプロの気概を持つ人なんだ。俺はそんな彼らからの信頼を踏みにじり、泥を塗ったのだ。
「ビルトインの奴らはもうすぐここに到着する。到着次第、あの壁を壊して一画を造り直しだ。明日からの防音床の作業は日延べをしておいた。訂正した正しい図面も、夕べ俺がおまえのPCに届いていた図面を印刷してすでに関係者全員へ転送してある。これも差し替え済みだ」
 背後の壁を顎でしゃくって指し示された。俺は震えそうになるのを握りこぶしを作って堪えた。余計な損失を出してしまった。工事の遅れと材料費・人工代の増加。出るはずもなかった阿呆のようなミスのせいで。
「昨日、一昨日のことは仕方がねえ。仕事とはいえ、家族をしょっている以上、子供は絶対守ってやらなきゃならん。子供を優先するのは当然のことだ。だが、それ以前の……ここ最近のおまえの仕事ぶりは俺は到底納得いかねえ。吾郎、おまえこの仕事が好きなんじゃなかったのか?」
 動転したままの気が、おやっさんのひと言で引き戻された。見慣れたはずのいかつい顔はこれまで見たこともないほど、近寄りがたく厳しい表情をしていた。
「やる気がねえんなら手を引け。おまえがくれた現場だとはいえ、うわの空で適当に仕事をやる奴とは一緒に働く気はねえ。俺はこの仕事が好きだと思っている奴と手を組んで、いい仕事をしていきたい。今のおまえとじゃあ、それはできねえ」
 見捨てられたのか? そんな。おやっさんに俺は見捨てられたのか? 
「すみませんでした…! 俺はどうかしてたんです! みんなに……おやっさんにこんなに迷惑をかけてすみませんでした!!」
 無我夢中で俺は頭を下げた。このまま仕事から外されるなんて絶対に嫌だった。
「仕事が好きじゃないなんて、そんなことあるわけないじゃないすか! 俺は勘違いしてたんです! 思い上がっていたんです! 片手間で出来るくらい、俺はもう施工に関してはプロなんだって。その思い上がりが立て続けにミスを呼んじまった! やる気がないわけじゃない。絶対に絶対に違う! 俺を見捨てないでください! お願いします!!」
 微動だにせずに俺を見下ろすおやっさんの様子が異様で、俺はおやっさんへ取り縋って謝った。見栄も外聞もかなぐり捨てて謝った。おやっさんに見放されるのが恐ろしかった。
「身を入れてこれまで以上に打ち込むから! だからいらないなんで言わないでくれ!」
 ほとんど悲鳴になった俺の声が辺り一帯に響き渡っている。そろそろ職人たちが来る頃だろうか。だがそんなことに構っている場合ではなかった。
しつこく取り縋って、少し気のふれた俺を、おやっさんは力を入れて押し戻し、こう言った。
「とにかく今日はもういい。そんな状態でまともな仕事はできねえ。部長にはまだ家庭の事情で取り込み中だと言っておくから、今日はこのまま家に帰れ。しゃんとしてから、明日また会社に来い」
 現場に来いとおやっさんは言わなかった。俺を見下ろすおやっさんの目が、どこか寂しそうだった。 


2、もしやの逢引き?

 あてどもなく運転をして、どこを通ったのかあまり記憶が無い。気がついたら、市の南部にある凛々子の事務所近くにいた。
 
 当たり前のように繋がっていると思っていた絆をおやっさんに断ち切られたような気がして、群衆の中を彷徨う迷子の気分を味わった。この後悔と懺悔の気持ちは、夕べモニターの前で味わった打撃の比ではない。あんなもの、いうなればたかが金だ。投資で儲けた金を失っただけだ。金を稼ぐことを軽んじているわけではないが、また失敗を糧に稼げばいいだけの事だ。
だが、失ってしまったおやっさんからの信頼は取り戻せない。
 
 おやっさんに導かれて始めた仕事。おやっさんが誇りを抱き、俺も心底好きだと初めて思えた仕事。その仕事を通して俺はおやっさんと繋がり、まっとうな人間として再生できた。この建物のリフォームという仕事で一生食っていこうと胸を張って言えるようになったのだ。それを俺は目先の金儲けのために台無しにしようとしている。
 そう、金儲けだ。そもそも俺にはビジョンなんてものがなかった。投資で資産を作って俺は何をしたかったんだ? こんな支離滅裂な精神状態で、俺は今、そこにやっと思い至ったような気がする。
 世間の風潮がいうように、老後のため、子供の進学のため、ただ漠然と思い描いただけだ。何のために資産を作りたいのか、明確な目的もないまま手を染めて、投資が波に乗って資産が膨らんでいくのをゲームのように面白がっていた。 

 俺はあのブックカフェの昌子さんたちの話の何を聞いていたんだろうか。恥ずかしくて、あの人たちと顔を合わせられない。俺がやっていたことはただのギャンブルだ。親父と同類だったんだ。
 
 話はしなくてもいいから、顔を見たいと思った。デザイン事務所の前まで行ってみると、凛々子の車はない。代わりに白の高級RV車と赤い軽自動車が停まっていた。赤の軽は見覚えがある。凛々子の姉真美子が乗っているものと同じだ。仲のいい姉妹だから遊びに来ていたとしてもなんら不思議ではない。だが、凛々子の愛車のジムニーがないのに首を傾げた。本人がいないのに職場兼自宅へ寄るだろうか? 
 そのまま素通りしようとしたが、少し気になったので俺も寄ってみることにした。車から降りた矢先に、事務所の裏手へと通じる通路から男が現れた。中肉中背の女性的な顔立ちをしたオシャレ男子、扇谷おうぎやみつる。こいつが凛々子の大学時代の後輩で、今の事務所を合同で立ち上げた人物だった。俺の姿を見るなり、一瞬顔を顰めた。
 おい、俺は見逃さなかったぞ。あからさまに嫌そうな顔をしやがって。
こいつ、後ろ暗いことをしているのか? 柔道の邪推は当たっているのかもしれない……。

「亘さん……。どうも、お久しぶりです」
 いかにも驚いた顔をして笑みを浮かべているが、もう遅い。俺は情緒不安定も手伝って、どうもうまく笑顔を作れなかった。
「やあ、どうも。近くまできたものだから、ちょっと寄ってみただけですから」
 ポーズとしてそう言って、わざとらしく駐車場所へ視線を送った。
「そうですか。残念ながら、凛々子さんはまた地方へ行ってしまってしばらく戻って来ません。お聞きになってないですか?」
「いや、昨日は慌ただしく帰って行ったから、詳しくは。いないんなら別にいいんです」
 会釈をしてそのまま立ち去ろうとする俺を、扇谷はなぜか引き留めてきた。
「……あの、柔道君無事見つかってよかったですね。凛々子さんから聞いて、僕も安心しました」
 凛々子凛々子と、こいつ馴れ馴れしくないか? 腹を立てるのはお門違いなのだが、さっきから身内感漂う話し方にどうも過敏になってしまう。が、それを決して気取られてはならない。俺は精一杯筋肉を動かして笑顔を作った。
「ありがとうございます。扇谷さんにも仕事で何か迷惑がかかったのなら申し訳ないですね」
「いえ、全然。困っている時はお互い様なので。そのための共同経営でもありますし、慣れてもきましたので——」
「? 慣れて?」
 どういう意味だと訝しみ、扇谷が何か言いたそうに口を開きかけた。扇谷の背後から人が現れて、きゃっと叫び声が上がった。扇谷の後方で、凛々子の姉真美子が口に手を当てて驚いている。そしてここでも、俺はその『しまった』という表情を見逃さなかった。二人とも同じ反応をするのはとういうわけだ?

「吾郎くん、どうしてここに……」
 そんなに驚くことだろうか。まあ、元夫が別れた妻の周辺をウロウロするのは、世間一般ではあまりいい印象は持たれないかもしれないが。
「近くまで来たからちょっと寄ってみただけだよ。真美ちゃんこそ、凛々子がいないのにどうしたの?」
「ちょ、ちょっと頼まれごとをしたから来ただけ」
 ソワソワして、俺の顔をろくに見ようとしない。見ると、急いでいるのか普段おめかしする人が着の身着のままといった身なりで、肩に大きなバッグをしょい、小型のスーツケースを引いている。少し異様だ。まさか義姉さんまで家出をしてきたのだろうか? 
 俺の不審そうな視線に気づいて、真美子は顔を背け続ける。泣いた後のように見えるのは気のせいだろうか。裏手から出てきたという事は、凛々子の家の方からだ。その少し前に扇谷も同じところから出てきた。まさか、まさかこの二人ひょっとして……。俺の頭の中が下衆な妄想に、またたくまに支配されていく。
「じゃ、じゃあ急ぐから。またね、吾郎くん」
 そのまま逃げるように真美子は軽自動車に乗りこんだ。俺も続いて引き上げる。逢引の場を俺に抑えられたにしては神妙な顔一つせず、何か言いたそうな顔で扇谷は最後まで俺をじっと見つめていた。
 
 それで? そう、俺は真美子の後をつけた。あまりにも挙動不審だ。何かよくないことをしているか、巻き込まれているか。一応身内だから心配もする。らしくないといえば、昨日の凛々子も様子がおかしかった。
 皆、何か俺に隠している? そう閃くと、さっきの扇谷の態度も真美子の様子もすべてしっくりくる。
 この不安はなんだ? 嫌な感じがする。もうこれ以上は勘弁してほしい。いくらなんでも、もうこれ以上なにもないよな? 

 予感は的中しそうだ。
20分ほど市街を走って、真美子の車が大きな病院へ入っていった。そこは市内で3本指に入る複合型総合病院で、特にがん治療では最先端の医療技術を導入しており、全国でも名が知れている。
 俺の顧客であるオーナーさんが以前入院しており、その際に何度か見舞いに行ったことがあるのでよく知っていた。
 
 駐車場はいくつかの区画に分かれており、侵入口から一番近い所へ駐車して、病院のエントランスへ先回りをした。院内への入り口はここ一つしかないから、待っていれば必ずやってくる。俺は、ホール隅にある自動支払機の前で順番待ちをしている列に混じり、待ち伏せた。
 ほどなくして、真美子が大きな荷物を抱えてせかせかと急ぎ足で駆けこんできた。その姿を確認し、そっと後を追った。
 
 大きなエレベーターに他の利用者と一緒に雪崩れ込む。お陰で気づかれずに済み、五階の病棟で降りた。
 真美子は迷いなくどんどん突き進み、ちょうど病棟の中央にあるホールに面した病室のひとつへ入っていった。四人部屋のうち、二人だけ入室しているようだ。入口の電磁パネルに部屋割りが記されている。そのパネルへ近寄り、表示されている名前を確認した。

【眞島凛々子】

 黒地に白い文字でくっきりとその名が浮かび上がっていた。


3、発覚

 吹き抜けになっている一階ホールで待ち続けていると、真美子の姿がようやく病棟エレベーターホールの方角から現れた。俯き加減で歩いているので、突然前を遮るように立ち塞がれて真美子は怪訝そうに顔を上げた。
「きゃっ」とまた小さく悲鳴を上げる。俺を見て狼狽する真美子を、なるべく人が空いていそうな隅の座席へ連れて行き、そこで腰を落ち着けた。

「ご、吾郎くん、これはあの、あのね……。えっと、吾郎くんも誰かのお見舞いかな?」
 その誤魔化しはかなり無理があるだろう。行きよりもっと膨らんだバッグを抱えて、隙あらば逃げようといった素振りだ。隣に住んでるんだから、逃げたってすぐ捕まるのにな。
「真美ちゃん。凛々子はどこが悪くて入院してるんだ?」
 凛々子の名を出した途端、ソワソワが納まった。
「え……? 病室行ったの?」
「さっき入口で名前を確認して、でもそれだけだ」
 真美子の目が見開かれ、俺を非難するように睨んできた。後をつけられたとようやく気づいたのだろう。でも、それについてはとやかく言ってこなかった。真美子は大きく肩で息を継いで、長く息を吐きだした。
「もうこれ以上黙っていられないから言っちゃうね。ガン……なんだよね、凛々子。ここでずっと治療を受けてるの」
「…………なんのガン? 乳がんとか?」
 声が詰まるが、何とか絞り出せた。
昨日今日最大の、これは難所だ。子供のように真美子はかぶりを振った。
「病名が難しくて……体幹癌というのか、ちょうど内臓の裏に隠れた辺りの背骨と腰の辺りに病巣があったんだって」
 だって、て。なんで過去形なんだ?
「もしかして、もう取っちゃったのか?」
「うん。2年前のちょうど今頃に手術したの。あたしが保証人になった——」
 勢いよく立ち上がった俺に見下ろされ、真美子は少し怯えるような目をおずおずと向けてくる。俺はすぐにまた隣へ座り直し、冷静になろうととにかく堪えた。
「ガンが見つかったのはもっと前らしいの。なのにあの子誰にも、あたしたちにも言わないで一人で治療受けてて。ステージIの段階でいよいよ病巣の切除なんてことになって、やっとあたしを頼ってきたのよ。『おねえちゃん、保証人になってくれないかな』って。冗談じゃないわよねー、まったく。いきなり言うなっつーの。そんな大変なこと」
 真美子が目元を拭いながら文句を言った。
「手術はうまくいったのよ、当時。でもさ、再発するというじゃない、ガンは。実際、担当の先生からはその可能性もあるので定期的な検診と治療をと言われてて、それで、それで今年の春に見つかっちゃったのよ。ほ、骨に小さいのが——」
 その後は言葉が続かず、真美子は両手で顔を覆い膝の上に被さってしまった。
 
 現代建築技術の粋を極めて造り上げたであろう、近未来型デザインのロビーホール。この無機質な不動の美の中で、ごく普通の俺たち一般人がこうして悲喜こもごも蠢いている。
 自動支払機の前でまごついている爺さんも、くたびれた顔でじっと順番待ちをしている目の前のオヤジ、杖を突いた婆さんの手を引いて歩く疲れた顔のオバサン。赤ん坊を抱っこし、更に幼児の手を引く焦った母親。皆、余裕がない。
 この非の打ち所のない建築美と、逃れられない日常にあがく人間の生々しさ。全然融合していないし、対比が残酷なほどすげえ。こともあろうに、こんな状況で俺はそんなことをぼんやり考えていた。
 優雅にピアノ曲が流れている。現代音楽だろう。ジョージ・ウインストンのピアノ曲なら、結婚前に凛々子とよく聞いていたな。あの一世を風靡した《あこがれ》


「……吾郎くん」 
 呼ばれて、傍らで泣いている真美子を見た。膝の上から上体を起こし、俺を心配そうに見つめている。
「大丈夫?」
 ショック状態で放心していると思ったのだろう。俺があまりにも何も喋らないから。
「ああ。それで今その再発の治療中ということ?」
「……そう。先週の木曜日に入院したのよ。十日間の抗がん剤治療の第二回目で……。でも、昨日勝手に病院からまる一日抜け出したから二週間に伸びちゃったみたい」
 それですべての合点がいった。昨日の凛々子のおかしな様子。ここ最近の受ける印象や行動の違和感。俺は自分のあまりの鈍さを呪いたくなった。
真美子は落ち着きを取り戻したらしく、すらすらと俺により詳しく説明をしだした。
「今、ステージⅡなのよね。再発したとはいっても、まだガン巣内と近くの骨の転移でとどまっているんだって。今の対症療法を3回まで続けてみて、そこで効果がみられないようなら、レーザー光線治療を検討するようよ。
凛々子の話だと、最新の治療法だから成功事例がまだ少ないけど期待できるだろうって」
「その治療法は聞いたことがあるよ。アメリカでは主流になってきているけど、日本はまだ症例が少ないうえに治療費が高額だって」
「そうみたいね。凛々子は、お金は大丈夫だって言ってたから、その辺はあまり心配ないんだろうけど。だったら、先にその治療をすればいいのにって言ったら、治療にも順番があるらしいのよ」
 ステージⅡ……。5年生存率が70%くらいだったっけ。もちろん、癌の種類や病巣によって変わってくるだろうけど。
 
 以前、この病院で治療していた俺の顧客の杉沢さんは、ステージⅢの肺癌だった。入院時点で3年の余命宣告を受け、宣告通り3年で亡くなった。67歳で若くはないとはいえ、肺がんは周辺組織への転移が早く、せっかくの優れた治療技術の効果が追いつかないほど、あっという間にリンパへ侵入され、全身に広がったのだ。
 杉沢さんとは、奥さんも交えて懇意にしてもらっていたので、亡くなる直前まで見舞いに行き、本人と奥さんを励まし続けた。コロナが襲来する直前の年末のころの話だ。あの頃は、まだその最新治療は出たか出てないか、という段階だったはずだ。

「こんなこと言ったらなんだけど……吾郎くんにバレて、あたし正直ほっとしてる」
 真美子の声がまた震えだした。顔を見ると、また溢れだした目元を拭っている。
「お父さんもお母さんもまだ知らないのよ。凛々子の頼みで、まだ言わないでくれって。本人は完治してからこういうことがあったんだよねー的なノリで報告したいんだろうけど」
 もしくは、余計な心配をかけたくない。ただその思いだけなのか。
「でも、あたしもこんなに長く黙っているの、ちょっと辛くて。孝明たかあきクンにも話してないから」
 真美子にしてはえらい。あの真面目で頓珍漢なダンナ・タカアキにも話さずに二年間耐え忍び、凛々子を一人で支えてきたのか。俺は思わず頭を撫でてしまった。くしゃっと丸顔が歪む。
「もう、話さなきゃならないだろう。ここまできたなら」
 凛々子は嫌がるだろうが。
うんうんと真美子は声もなく頷いている。
勝手な女だ。こんなに自分勝手な女がいるものか。いくら肉親とはいえ、姉を頼りすぎだろ。なのに家族を頼らなすぎだし、独断も過ぎるし、秘密主義にもほどがある。とっちめてやる。面と向かって、あいつに説教してやるんだ。
「ごめんね……。吾郎くん、ごめんね…………」
 謝る真美子の頭を、俺は黙って撫で続けた。横の通路を通る老夫婦が痛ましそうな視線を向けて通り過ぎていった。その勘違い、当たらずとも遠からず、だ。
 別れ際、正確な退院日がわかったら教えてほしいと頼んでおいた。両親に話すのは退院してからの方がいいだろうというのが、俺たち共通の意見でまとまった。
 そして重要な問題が残っている。柔道にどう言おうか。俺と違って、あいつはまともに育った。途中離婚したとはいえ、どちらの親からも愛情を注がれてきたと俺は信じたい。凛々子ゆずりの勝気な目をしたあいつの顔を思い浮かべると、どうしようもなく心が沈んでいった。


4、期待してるんだぞ

 翌日。おやっさんには出入り禁止を言い渡されたが、俺は朝一でピアノ教室の現場に向かった。
 大工仕事に従事している職人たちの作業開始時間は早い。平日8時には現場入りしているのが常だ。8時前に到着すると、案の定、今日からまた入る大工頭の末吉さんがすでに現場入りしており、使う木材の整理と点検をしていた。俺は一人で段取りをしている末吉さんへ頭を下げ、一連の不祥事で迷惑をかけたことを謝った。
 末吉さんはおやっさんと同じく仕事に関してはとても厳しい人だ。相手が顧客だろうが、取引先相手だろうが分け隔てなく、間違っていると認めたことについては妥協も容認もしないポリシーを持っていた。なのに、末吉さんは俺をなじらなかった。
「俺はな、吾郎ちゃんを信じているからな。あのハシのオヤジが何言ったかしらねえけど」
 大きな口元をにやりと歪めて笑いかけられた。口を開きかけた俺を制して、「ほら、もう早く行きな。見つかるぞ」と現場から追い払われた。気にしながら帰ろうとする俺に、独り言のように末吉さんの声が追ってきた。
ハシのヤツ、おまえへの期待がでっかいんだ。俺もな」
 泣きそうになって、歯を食いしばった。いちいち、めそめそしている場合じゃない。俺はこれから何もかも一からやり直さなければならないのだ。
そう、俺にはやらなければならないことがたくさんある。まずは、清算というけじめのひとつだ。
 
 二日ぶりに出勤し、真っ先に部長へピアノ教室工事における不始末を報告した。恐らくおやっさんはまだ何も報告していないだろうと思っていたが、予想通りだった。夕べ、自宅で算出した損失額と内訳を顛末書として書面化したものを提出し、詳細を説明した。
 俺の報告を聞いている間、部長は書面より俺の顔ばかり呆気にとられたような表情で凝視していた。最後の方でようやく顛末書に目を通し、首を振りながらこう言った。
「ミスターパーフェクトの亘君がミスをするとはねえ……。しかもこんな大きな失敗。スケールがでかい」
 損失額合計82万円。解体、再度の材料調達、更に壁と床造作の工期ずれ込みを合わせての内容だ。それでも、おやっさんがかなり各方面へ掛け合って協力してもらったという。この結果、利益率は驚愕の一桁台に落ちてしまった。
「社長に報告しなければならんけども、額が額だけに亘君もちょっと心構えしておいた方がいいかもしれないよ」
 春先の工事費用未払い事件のことを言っているのだろう。あの一件で、俺たちノマドランドへ対する社長からの信用は地の底へ落ち、部長とおやっさんの夏のボーナスは全カットされたのだ。
「クビにはならんけど、ボーナスは危ないかもね。俺の方から何とか口添えはするけど……」
 でもなあ、と部長は応接室のソファへ沈み込んだ。あんなことが起きてまだ熱が冷めやらぬうちに、再び大損害だ。部長の心境としては、社長室が虎かライオンの巣穴のように思えるのだろう。
「部長にまで、こんな余計な心労と迷惑をかけてしまってすみませんでした」
「……仕方がない、とは決して言えない新米がしでかすようなミスだけど、引きずらないようにね。亘君は真面目だから、いつまでも気にしすぎて他の仕事に悪影響が出ないかが俺は心配している。大丈夫だよね? 気持ちを立て直して、しっかりやれよ。君はうちの大黒柱なんだから」
 俺は再び詫びて頭を下げたが、思わず部長の顔を見入ってしまった。これまでの部長の言動を考えれば、かなり細かくミスを追及され、逃げ余地を与えないほど糾弾してくるだろうと覚悟をしていた。反応が、予想とはまるで違う。俺はもしかしたら随分と部長を色眼鏡で見ていたのかもしれない。
 そうと気づくと、自分では公平に見ているつもりの視野は、ほとんど単なる思い込みばかりなのかもしれない。
 独断と偏見。自分はそんな狭量な人間ではないと思っている時点で、俺はかなり傲慢だな。
 
 フロアに戻って、うちの三羽烏たちを改めて見渡す。増田拓海、小出こいで悠也、そして夏川心介。こいつらの面倒を上司として見てきたつもりだったが、それ自体が勘違いも甚だしいのかもしれない。
 上司というならば、俺はこいつらの能力や特性を伸ばそうとか、見出そうとか、考えたことがあっただろうか。一度もないな。上っ面の言動でしか、評価していなかった。こいつらだって個性があって、ここまでに至る成長やドラマがあるのにな。内面に関心も向けなかったな。
 
 俺があまりにも長いこと、デスクの横に突っ立って眺めているので、三羽烏たちは心配そうな顔つきで俺をチラチラと見てきた。
「係長……具合がよくないなら、今日オレ同行しますから何でも言ってください」
 心介が立ち上がって俺に近寄り、気遣ってきた。
「今週いっぱい休んだ方がよくないっすか? 俺、他の業者方にはそう連絡してあるから心配ないっすよ。俺たち三人で係長への問い合わせ分担して対処してるんで。わからないことは全部斉木課長へ聞いているから問題ないっす。……今のところぎりぎり……」
 小出がボソボソとはにかむように言ってくる。何を照れているんだか。
その隣りへ、コピー機から吐き出された書類を手に大急ぎで戻ってきた増田拓海が、顎を突き出しながら発言した。
「係長は働きすぎなんですよ、そんなに呆然とするくらい。僕、係長宛てに来ていたヒノマル設備さんからの見積り、代わりにまとめておきましたからね。外壁工事の段取りも僕なりに何とかまとめられたんで。意識がクリアになったらチェックお願いします。でも無理はしないでください」
 まったくコイツらしい発言だ。要するに、『係長の代わりに僕頑張りました。だから安心して、無理しないでください』ということだ。いつもの手を焼く三羽烏が、今日は少し違って見える。俺は笑ってしまった。俺の笑顔を見て、三人とも固まっている。失礼にも程があるが、世にも不思議なものを見たという顔つきで凍り付いているのだ。不審に思ってわざわざ席を立って覗きに来た登藤蕾まで、同じ有様となっていた。
 
 それから数日、俺はいつもの仕事に没頭し、打ち込んだ。余計なことは考えず、ただひたすら自分のやるべきこと、つまりリフォームに関わることだけに集中した。俺は何をしたいのか。何がしたかったのか。シンプルに考えようと思った。一から勉強もし直す必要もある。本当はまだまだ学ぶべきものがたくさんあるのに、手付かずだったものを始めなければならない。
 そして、俺の人生と同じくらい大切なものを真摯に考え、学ぶ。それは凛々子のことっだった。


~次作 「工程7 愛する人よ」 へつづく


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