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幸運な奈々子 Episode 1 - Age29


#あらすじ

主人公の吉川(旧制中村)奈々子は毎日、特に痛みもなく幸せに生きている。が、自分を幸運と感じるどころか、ついてないと思うことの連続である。そんな奈々子の日常を、年齢からつづるエピソード集。Episode 1は夫婦共働きの29歳。Episode 2は12歳の時の笑える経験。Episode 3は子供ができて、仕事との両立に奮闘。Episode 4は、奈々子が生まれる前、母親の行動が幸運な奈々子につながる話。Episode 5は卒業旅行の顛末。今回はEpisode1から5で応募。時系列ではない話を読み進めると、彼女の一生が楽しめる作り。ユーモア/コメディ小説。創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

奈々子はまだ、自分がどれほどラッキーな人間か、気づいていない。

それは、奈々子29歳の時であった。

奈々子はいつもの電車に乗って会社に出勤するため、
競歩なみの早足で、いつもの道を歩いていた。

奈々子が急ぐ10メートル先には、
自転車とぶつかった女性が、
足の小指を骨折して路上にうずくまっている。
骨折させたのは、
地元で雑貨屋を営む67歳の板橋浩三である。

神様は、
板橋浩三が自転車で駅まで往復する4,472回目に人とぶつかる、
というさだめを仕込まれていた。
神様の目算では、
ぶつかる相手は、毎朝、駅に向かう浩三の自転車に、
駅から二つ手前の横断歩道で追い越されている、
吉川奈々子のはずであった。

だが、今日、この日、奈々子は出がけに、時間をロスした。

急いで朝ごはんの後片付けをして、
化粧を済ませて上着を着て、
携帯電話をバッグのポケットに放り込み、
さて靴を履いた、
というところで、
「ねえ、俺のケータイ、知らない?」
という、怒ったような泣きそうな声で、
夫の義彦が奈々子の背中に声を掛けたのだ。
「さっきダイニングテーブルで見てたじゃない」
奈々子は今にもドアを閉めて出かけようとしていた。
今すぐ出ないと、
いつも大塚駅から乗っている、7時58分発の電車を逃すことになる。
そうなると、電車を降りた後に、
駅から会社まで猛ダッシュしなければならない。

でも、今日の奈々子は、
今夜の飲み会を考えて、パンプスを履いており、
パンプスでダッシュするのは、最近の奈々子には無理だった。
高校時代にバスケットで鍛え上げた筋肉は、
最近のオフィスワークで緩みっぱなしのプルンプルンだ。

「それが、ないんだよ。俺のケータイ、鳴らしてよ」
義彦は泣きそうな、責めるような声で奈々子に頼みながら、
ダイニングテーブルの周りをぐるぐるしている。
「俺だって、すぐ出ないとまずいんだよお」
「しょうがないなあ」
奈々子はバッグのジッパーを開けて、
自分の携帯電話を取り出すと、義彦の電話を鳴らした。

2階の寝室から、義彦の携帯の呼び出し音が鳴っている。
「何言ってんだよ、2階じゃないかよ」
叫びながら義彦は階段を駆け上がる。
「あたしのせいじゃないわよ」
と、奈々子は思う。
ケータイに足が生えて、自分で階段を登ったわけじゃなし。
奈々子が最後に見たのは、
ダイニングテーブルで、義彦がいじっていたときであって、
その後、ケータイを持って2階に上がったのは、
義彦本人なのだ。
「あった!やった!」
その声を合図に、
「私、急ぐから行くよ。出るときちゃんと鍵かけてよ」
と言うと、
奈々子はバタンと大きな音を立てて、玄関を閉めた。

ドアを閉めながら、一瞬、
パンプスをスニーカーに履き替えて、パンプスは持って走ろうか、と考えた。
が、それだと、
どっちにしても靴を脱いでキッチンに行き、
パンプスを入れるレジ袋を持ってこなければならない。
夜のお出かけを考えて、バッグも小さめのグッチにしたから、
レジ袋を持って出勤しなければならない。
そんなの、なんか、みっともない気がする。
それに何より、時間のロスだ。
時計を見ると、通常より、すでに4分遅れている。
「ったくもう!」
舌打ちをしながら意を決して、
パンプスのまま駅に向かう。

なんとかいつもの電車に乗れるよう、
駅に行くまでに4分を縮めなければならない。
普段はのんびり12分かかるところを、8分に縮めてみせるのだ。
意を結した奈々子は、競歩なみの歩き方で頑張る。

でも、こういうことが一番ストレスになるのだ。
どんなに早く歩いても、
体が十分前に進んでいかない、この感じ。
世界から遅れていくような気分にさせられる、この焦り感。
たかが駅に行くだけなのに。
でも、
なんとしてでも7時58分発に乗らなければならない。


と、思ったところで、歩道にしゃがみ込んでいる女性が見えた。
彼女を避けるのに、
競歩のスピードを落として、迂回しなければならなかった。
しかも、彼女を避け終わったところに、
歩道の通行を遮断するかのように、自転車を横向きに置いて、
年配の男性が、呆然とした顔で立っている。
自転車を女性にぶつけてしまった、板橋浩三である。
「じゃまだなあ」と舌打ちしたいが、
顔には出さない奈々子。
これを避けるのにも、競歩のスピードは出せず、
自転車の後ろ部分と、歩道の端の商店の壁との間を、
横向きに体をずらして、通り抜けなければならなかった。
しかも反対側から来る人波が、同じことをしようとして、
自転車と商店の壁の隙間に集中してくる。
なんとかそこを通り抜けた後も、
滞留していく人並みを、避けて歩かなければならなかった。

「全くもう!なんなのよ!ちゃんと準備してたのに」
心の中で、奈々子は毒づいた。

そんなこんなで、奈々子は7時58分発の電車を、
惜しいところで逃してしまった。
「あああ」
走り去る電車の後ろ姿を見送りながら、
奈々子は、
「あたしって、なんて運が悪いんだろ」
と、思わず口に出していた。
義彦がケータイを探すために、奈々子を呼び止めなければ、
歩道にしゃがみ込んで、右足の小指を骨折していたのは自分だったのだ、
などということを、奈々子が知る由もない。
神のみぞ知る、である。

次の電車に乗った奈々子は、
降車駅から会社までパンプスで走り、
ギリギリでタイムカードを押して、やっと一息ついた。
「奈々子さん、遅いっすね。ギリギリっすよ」
後輩の北原勇気がヘラヘラと声を掛けていく。
なんと的確に、人の気持ちを逆撫でして見せるのか、北原勇気よ。
ギリギリに出社したことを、
奈々子自身が知らないとでも思っているのだろうか。
だったら、超おめでたいやつだ。
でも、今は完全無視。
ともかく、
本当にあったまにきたのは、義彦だ。
「義彦のやつめ。いつか離婚してやる。」
と、いきり立つ気持ちを抑え、
なんとか間に合ったので、息を宥めて自席についた。
机の下に置いてある社内ばきのサンダルに、ゴソゴソと足だけで履き替える。
ギリギリセーフ。

午前中は順調に過ぎた。
予定していた書類は全部、目を通して処理したし、
この分なら、残っている書類も、余裕でランチ前に終わらせることができる。

と、奈々子が平常心を取り戻したところで、
「ちょっと、吉川さん」
と、パフィと密かにあだ名されている、河豚田部長から呼ばれた。
「これ、他の部署から回ってきたんだけどねえ~」
パフィが語尾を伸ばしたら、要注意だ、
と、奈々子の中の経験値が教える。
「誰が処理したんだか、上下を揃えないでホチキスしちゃってる資料なんだよね。
全部で30セットあるんだけど、
これ、全部バラして、上下を揃えてホチキスし直しておいて。
それで、1時半からの会議に間に合うように、
7階の第三会議室に持って行っておいてくーださい」
「はあ」
奈々子はそれだけ答えた。

何が「くーださい」だ。
それはつまり、ランチの前にやっておけよということで、
この会社ではランチは12時から13時の、
かっきり1時間しか取らせてもらえず、
はじめるのが十分遅くても、終わりを十分遅くしたりできない、
ということを知った上で、
この時間にこのくだらない仕事を押し付けてきたわけで、
でも大事な仕事で、嫌がらせじゃないんですよね、
と、心の中で、自らを納得させようと、念を押した。

私ってなんて、アンラッキー。
仕方ない。
今日は新しくできたスープバーに
同僚の女性4人でいくはずだったが、行けそうにない。
急いで、
「パフィに刺された。ごめん。スープバーに行けない」と、
二列離れた席に座る森山明子の机に、ポストイットを貼り付けた。
作業室に向かう奈々子が抱える資料の上に、
済まなそうな猫の顔が描かれている、ポストイットがぽんと張られた。
その猫の吹き出しには、
「お察ししやす」と書き込まれている。
一瞬足を止めた奈々子だが、
明子と奈々子は何も言葉を発さず、表情だけで
「パフィってどうしようもない」
「がんばんなね」
という会話を交わして、すれ違った。

こんな仕事、出鱈目をやった本人が直すべきなのに。
全く、いちいち上下が逆なだけではなく、
裏表が間違っているページもある。
一冊56ページ。
それを全てチェックして、
30セットの上下表裏をそろえた頃には、12時15分になっていた。

今からスープバーに行こうか。
でも、往復で10分かかる場所にある。
帰ってきて5分は化粧直しと歯ブラシだ。
30分では楽しめないか。
いや、スープバーに行って、オープニング記念の20%オフを享受したい。
書類はここに置いておいて、1時にランチから戻った後で、
7階に持っていけばいいんじゃないだろうか。
それなら行けるかも。でも、やばいか。
「あああ」
奈々子がジレンマに意志を決めかねて、苦悶の声を上げた時、
パフィがドアを開けて作業室を覗いた。
「吉川さん、どう?
ちゃちゃっとランチしてくるけど、ランチから戻ったら、すぐチェックするから、7階の方へ揃えておいてくーださい」
そういうと、
とっとと自分だけランチに出かけた。

パフィのクソバカやろう!
スープバーに走っていって森山明子たちに合流し、
ランチの後で、7階に持って行こう、
という、奈々子の目論見は崩れた。

ため息をつきながら、奈々子は7階の会議室に資料を持っていった。
そのまま一階のコンビニに行って、
毎度お馴染みのサンドイッチを買って、自席で食べた。
自分だけスープバーに行けないなんて、
なんて運が悪いんだろう。
サンドイッチを食べながら、奈々子は自己憐憫の情に駆られた。

しかし、神様がこの日、
スープバーの手前100メートルのところにあるマンホールを
開けておいたのを、奈々子は知らない。

作業員が昼食のために作業を中断したのが12時14分。
その時、すぐに周りを囲う柵が手に入らず、
トラックまで取りに行っている間、マンホールは開いていた。

神様の予定したさだめでは、
もし奈々子が朝の通勤途中で、足の小指を骨折しないなら、
このマンホールに落ちるのは、
他の女子社員を全力疾走で追いかけてくる、奈々子のはずであった。
12時15分に仕事を終わらせて、
12時18分に、マンホールにはまるはずであった。

パフィのおかげでスープバーを完全に諦めた奈々子は、
マンホールに落ちることもなかった。

だが、奈々子は自分がどれだけ幸運だったか、知る由もない。

ちなみに、12時19分には
作業員がマンホールの周囲に柵を張り巡らせに戻ってきていた。
そして、
この日、マンホールに人が落ちる事故は起きないで済んだ。
作業員たちも、奈々子が落ちるという人身事故に発達せず、
どんなに幸運だったことか。

全てはパフィのおかげなのだ。
が、作業員もそんなことを知る由もない。

誰にも感謝されないパフィであった。

奈々子は六本木の飲み会に参加して、夜10時半に帰宅した。
「おかえり。あれ、パンプス履いて行ったんじゃないのか」
ドアを開けて迎えた義彦がいう。
「誰かさんのおかげですごい靴づれになったの。治るのに一週間はかかる」
そうぶつぶつ言いながら、
室内ばき用として、普段は会社に置いてあるサンダルを
玄関で脱いだ。
これ以外、とても履くことができないほど、
踵の水脹れが大きくなっているのに気付いたのは、
会社帰りにパンプスに履き替えようとした時だった。
そうっと差し込んだ右足の水脹れは、途端に弾けてしまい、
ズルむけてうっすらと血が滲んでいた。

しかし、小指を骨折することに比べれば、
全く幸運だったというほかない。
ここは義彦に感謝すべきなのだ。
だが、奈々子は、パンプスを諦めて、社内ばきのまま、
おしゃれな六本木に出かけたという思いに囚われている。
「誰のせいだと思ってるのよ、アンポンタン!」
義彦の背中にそっと毒づいた奈々子は、
恩知らずである。

こうして、奈々子は、
自分のアンラッキーな1日を呪いながら眠りについた。
足の小指を骨折することもなく、
マンホールにも落ちなかった奈々子は、
誰よりもラッキーな1日を過ごした、
とはつゆ知らず。

今日も奈々子は特に痛みもなく、五体満足で生きている。だが、自分がどれだけの幸運に恵まれて生きてきたのか、気づいていない。

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