幸運な奈々子 Episode 5 - Age 21
奈々子はまだ、自分がどれほどラッキーな人間か、気づいていない。
それは、奈々子21歳の時であった。
21歳といえば、大学卒業の年であり、
友達4人グループで、ヨーロッパに卒業旅行に行くことになった。
奈々子以外の3人は、就職も決まっていて、晴々としている。
本当に嬉しそうだ。
奈々子はといえば、
昨夜、ここは受かるだろう、受かってくれ、と思っていた三嶺商会から、
「残念ながら・・・」で始まる手紙を受け取り、
悄然としていた。
友人3人は、奈々子の就職が決まったかどうか、
知りたくてうずうずしているにも関わらず、
そのことをおくびにも出さず、ニコニコしている。
奈々子もそれに甘えて、
自分がまた落っこちたことなど、話さない。
受かっていれば、どうせすぐに知らせるはずなのだから、
奈々子が話さないということは、
就職が決まっていないのだと、友人たちも察している。
なんで私ばっかり。
と、腐ってしまいそうな奈々子だが、
楽しいことだけを考えようと、気を持ち直してチェックインを済ませる。
一緒に旅行する花子も、真澄も、千里も、
奈々子と似たような背格好、
似たような美貌、というか可愛らしさ、
似たような能力で、
特に自分より優れているとは思えない。
花子は大学の弱小レスリング部で、3年の時に部長を務め、
地味な千里は、実は帰国子女。スペイン語がペラペラらしい。
でも真澄は?
真澄と奈々子を並べられて、どっちかを選べと言われた時に、
一体どうやって、甲乙つけるのだろうか。
奈々子がずっと入りたいと憧れていた広告代理店に、
真澄が受かっていることが、
奈々子の頭から離れない。
と、このように、
人と自分を比べることこそ不幸の根源だ、
と分かっていても、ついやってしまうものだ。
それでも、気を改め、
この旅行の間は、就活のことだけは絶対に考えてはいけない、
間違っても、真澄に対して陰険な態度を取ってはいけない、
そんなことをしたら、自分が惨めすぎる、
と、健気に考えている。
ヨーロッパに卒業旅行に行けることが、
果たしてラッキーなのか、アンラッキーなのか、
わからないでいる奈々子である。
搭乗が始まり、
機内はかなり混んでいることがわかった。
でも、女の子4人、
通路に挟まれた中央の席に並んで座ることができて、ホッとした。
バッグを前の座席の下に押し込め、
ブランケットを膝に広げ、
ホッと一息ついたところで、
パイロットの制服を着たかっこいいイケメンが、
通路をこちらに歩いてくる。
真澄が目ざとく目をつけ、
話し込んでいた千里と奈々子の注意をひく。
花子が小さく「キャッ」と声をあげ、
3人の目を見回す。
と、驚いたことに、
その男性が、通路側に座っていた奈々子の前に止まった。
そして、跪くと、
「奈々子ちゃん、お願いがあるんだ」
と言った。
なんという出会い!なんという幸運!
多分パイロットか副パイロットと思えるこのイケメン。
私に話しかけてくるなんて。
友人3人の羨ましそうな視線を、頭の後ろに感じる。
ああ、優越感。
しかし、なぜ私の名前を知っているのだろう。
やっぱり私が可愛いからだろうか。
と、さまざまな考えが、
一瞬のうちに頭の中を駆け巡った奈々子だが、
「あ、克己さんか」
「そう、克己です。お久しぶり」
なんだ、はとこの克己である。
でも、はとこは結婚できるのだ。
がっかりしすぎてはいけない。
そういえば、母から、
克己君が航空会社に就職した、
と、数年前に聞いた気がする。
私にお願いってなんだろう。
「ここじゃまずいので、ちょっとオフィスの方に出てもらえないかな」
そういうと、克己は
「荷物は全部持ってね。コンパートメントに何かある?」
と、甲斐甲斐しく奈々子のバックパックをおろしてくれた。
そして、
「この度はどうも、すみません。
ロンドンまで、ごゆっくりお寛ぎください。
では失礼します」
と、奈々子の友人たちにも頭を下げたので、
彼女たちが色めきだったのがわかった。
「ちょっと行ってくるね」
自分だけ就職が決まらない負い目を、少しだけ取り返したような気分で、
奈々子は克己について歩き出した。
しかし、克己は機体の出口で奈々子を振り返ると、
「じゃあ、僕はこれで。本当にありがとう。
あとは、彼女に着いていってください」
と言って、コックピットへ行ってしまった。
「ええ?」
戸惑う奈々子に、制服を着た美女がにっこりと微笑み、
「お荷物おもちします。どうぞこちらへ」
と奈々子を誘導する。
結局、奈々子は機体から降ろされてしまった。
制服美女が言うには、手違いによるオーバーブッキングで、
「誠に申し訳ありませんが、中村副機長のご親族でいらっしゃる、
中村様にお席を譲っていただけることになり、大変感謝しております」
ということだ。
「ちなみに代替便でございますが、
あいにくロンドン行きは次の2便も満席でして・・・」
と、制服美女は、
声のトーンこそ申し訳ないという音色を出すが、
いうべきことをバンバン言って、話を進めていく。
「先に行かれたお連れ様と2時間違いで、
第二目的地のパリに到着する便をご用意させていただきました」
「うっそ。じゃあ、私だけ、ロンドンを見られないの?」
「申し訳ありません。でも、この短時間の滞在では、
どちらにしてもロンドンの観光は、できかねたかと思いますよ」
確かに、ちょっとでも安い航空券を探したところ、
ロンドンから入ってヨーロッパ大陸に飛ぶことになっただけで、
一番の目的地はパリとローマだ。
でも、そういうことを他人に指摘されると頭に来る。
それに、他の3人と一緒にいけないなんて、涙が出てくる。
と、思ったところで、
母親からケータイに電話が入った。
「ああ、よかった。やっと繋がった。
ほら、おじいちゃんの弟の、その孫の克己君からのお願いがあってね」
「もう、飛行機から降ろされたよ。
何を勝手な安請け合いしているのよお。
他の3人はもうロンドンに旅立つんだよお。
私だって一回座ったのに」
奈々子は泣き出しそうである。
「あらあら、悪かったわねえ。
でも、ロンドン経由でパリに行くなんて、
無駄だって言ってたじゃない。
直行便でよかったわねえ」
それはそうかもしれないが、お友達と一緒でなければ嫌だ。
何も答えない奈々子に、
母は言葉をたたみかける。
「きっと航空会社の都合に用立ててあげるんだから、
ビジネスクラスに格上げよ。
ビジネスラウンジとかにも行かせてもらえるかもしれないわよ。
よかったわねえ」
そうだろうか。
母の電話はとりあえず切って、奈々子は制服美女に向き直る。
「それでは、こちらに代わりのチケットを用意させていただきましたので、
ご確認ください」
奈々子に手渡されたチケットは、
エコノミークラスで、しかも、
出発が翌日の午前11時半、つまり、27時間先である。
「あの、せめてビジネスクラスじゃないんですか?」
「申し訳ございません。
ただいま、ヨーロッパ方面で空いているビジネスクラスは全くないんです」
「それに、27時間、どうしろっていうんですか?」
「もし、ご自宅にお帰りになるなら、
普通にチェックインしていただきますが、
中村様のお荷物は、すでにこちらでお預かりしておりますので、
このままお待ちいただいて、4時間前からチェックインが可能かと」
「はああ?どこで?空港で?」
「まだ搭乗ゲートは出ておりませんが、
係のものも中村様のことを承知しておりますので、
スムーズな手続きになると。
本当に申し訳ないので、
ミール引換券を3枚ご提供させていただきます」
「うそ!ビジネスラウンジとか使わせてもらえるんじゃないの?
せめてそのくらいは・・・」
「誠に申し訳ございません。
ビジネスラウンジはどちらにいたしましても、
深夜最終便が出た後から翌朝7時まで閉まってしまいますので、
ご利用になれるベンチをご紹介させていただきます」
「へええ?なんで?」
「申し訳ございません」
制服美女は何をいっても、申し訳ございません、と頭を下げるだけである。
その姿には、交渉の余地を与えない鉄壁さがある。
ミールチケットを5枚に増やしてもらったのが、
せめてもの戦利品だ。
ブランケットをもらってベンチに陣取ると、
やることもないので、母親に電話する。
「ごめんね。
奈々子が家を出た後で、おばあちゃんから電話があって、
奈々子のチケットを譲ってもらえないかって、言われたのよ」
「27時間、空港だよ!私ってなんて運が悪いの!」
「まあ、そう怒らないで。
就職も決まってないのに、
ヨーロッパ旅行に行けるだけでも運がいいじゃない」
家族というのは的確に痛いところをついてくるから、
余計、頭に来る。
飛行機の中で読むわけもないけど、
一応、ホリデーを気取って持ってきた、小説の単行本を読み、
ミールチケットのサンドイッチとおにぎりセットを食べて、
半べそをかきながら過ごした。
就職も決まらず、
一度座った飛行機の座席から降ろされ、
友人たちと一緒に旅行できない私って、本当に本当に、
可哀想で不運な女。
奈々子の自己憐憫は、留まることがなかった。
ところで、
奈々子の預かり知らぬことだが、
神様は、奈々子たちのグループが、
ヒースロー空港に到着できない、
という定めを仕込んでおかれたのだった。
順調に出発した3人も、
なんと、ヒースロー空港のストライキで、
ロンドン上空を45分ほど旋回させられた挙句、
スコットランドのグラスゴー空港に降りることになった。
奈々子がそれを知るのは、パリに到着してからだ。
当の奈々子は順調にパリへ到着。
当てにしていた帰国子女の千里の援助は受けられなかったものの、
なんとかカタコトの英語とフランス語でタクシーに乗り、
みんなで決めた三つ星ホテルにチェックインした。
まだ友人達は到着していない。
勇気を出して、
一人でホテルのそばのカフェへいき、
遅めのクロワッサンでブレックファスト。
気分いい。
気分はパリ~。
なんか、かっこいい男の人もたくさん周りを歩いている。
女の人もきれい。
ほけほけと眺めていると、
ウェイターが、
カプチーノアートでハートマークを描いたカプチーノを持ってきてくれた。
この一瞬で、
27時間成田空港滞在の悪夢も、報われた気がする奈々子であった。
やっぱり母親の言うことに従って、正解だな、
とは思わない奈々子である。
娘にあんな酷い思いをさせる親には、
「罰としてお土産なしだ!」と固い決意をし直す、
恩知らずな奈々子である。
順調にパリに到着した奈々子と対照的に、
友人三人は、スコットランドのグラスゴー空港に到着した後、
夜遅い便で、やっとロンドンのガトウィック空港に到着。
タクシーで予約したホテルに着いた時には深夜を回り、
「来ないと思った」と言われて、
部屋はキャンセルされている始末。
三人は疲れた体を引きずって、
翌日の午後便に乗るため、ガトウィック空港に引き返したのであった。
だが、ヒースロー空港ストライキの余波は、
ガトウィックにも影響し、
フライトは遅れに遅れて、3人は合計36時間も、
ガトウィック空港で過ごすことになった。
まだガラケーが主流の2000年代半ば、
パリで一人の奈々子は心細くなったが、
母から
「真澄ちゃんのお母さんから電話があってねえ、
明日にはパリに着くって。
どうぞ、自由に楽しんでいてください、だって。
きちんと連絡して、気がきくわね、真澄ちゃんは」
と、連絡があった。
「直行便で行けて、あなただけ得したわねって、
真澄ちゃんのお母さんに言われたわよ」
と、母は恩着せがましい。
卒業旅行というのは、
どれだけ友達と過ごして騒げるか、にかかっていて、
どこを観光するかなんて重要じゃないのに。
母親はわかってないなあ、と、奈々子はため息をつく。
しかし、諦めも肝心だ。
観光とショッピングを楽しんむことにした奈々子。
両親へのお土産も、ルーブル美術館で一応買った。
その軍資金はおばあちゃんからもらったお小遣いだ。
翌日やっと、パリのホテルに到着した3人は、
「ロンドンなんて、ガトウィック空港を見ただけ」と文句ブーブーだ。
でも、四人揃えば楽しい。
パリでショッピングの時間こそなかったが、
ベルサイユ宮殿を見て、ローマへ移動した。
帰国便の中で、四人が一番盛り上がった話題は、
スリを撃退した花子の武勇伝であった。
ホテル代の割り勘を清算しようと、
パリの地下鉄の中で、不用心にお金を見せ合っている
東洋人女性四人組の背後に、スリが何気なく立っていた。
だが、
神様は四人の女性が、無事に帰れるさだめにしてくれていた。
スリは、
いつもならしない、
つまづき、というミスをしてよろけ、
花子の背中とお尻に手をついてしまった。
途端に花子のラリアットを食らい、床に投げ出された。
同時に、スリの体から、
今スったばかりの千里と奈々子の財布が落ちた。
二人は駆け寄って、それぞれの財布を握りしめた。
スリは急いで起き上がると走り去っていった。
普段、
あまり自分の幸運を噛み締めて、
他人にお礼を言うことのない奈々子だが、
この時ばかりは、花子の手を握り、涙を流してお礼を言った。
日本に帰って一ヶ月ぐらいした時に、
はとこの克己から電話があり、
銀座のホテルにあるレストランに連れて行ってくれることになった。
ホテルのロビーにあるバーで待ち合わせ。
マティーニのグラス越しに見る克己は、やっぱり、いい男である。
父の奈津男と、血のつながりがあるとは思えない。
成田での27時間や、
友人のガトウィック36時間、
そして、花子のラリアットと、話は弾む。
酔いかけた奈々子の頭の中で、
この機を逃してはならない、という囁きが聞こえる。
レストランには両親も来るはずだ。
そこでは、もう、言うことはできない。言うなら今だ。
菜々子は意を決して、
マティーニグラスをカウンターに置くと、
克己の目を見つめた。
いざ、告白するぞ、
という時に、
先に口を開いたのは克己だった。
「タツヤ!」
え?タツヤ?
タツヤと言いながら、克己は立ち上がった。
すると、
タタタタッと5歳ぐらいの男の子が駆け寄ってきて、
「パパあ」と克己の長い足に抱きついた。
ディナーには親族の面々が揃っていた。
克己から「俺の嫁さん」と、元スッチーだった妻を紹介された。
挨拶をしながら、
告白しないで済んだのは、
間一髪、超ラッキーだった、と、
胸を撫で下ろす奈々子であった。
奈々子が、自分をラッキーだと考えた、
数少ない瞬間だ。
親族ディナーは中華料理だった。
本当にラッキーだったのは、
このディナーの最中に、父の奈津男が、
克己の父であり、従兄弟でもある慶三に、
奈々子の就職の世話を頼んでくれたことだった。
数週間後、慶三おじさんのコネで、菜々子は就職が決まることになるのである。
豪華な只めしを食った上に、
エリート親戚にあやかって就職まで決まった奈々子。
なんという幸運か。
発端は、
オーバーブッキングをしてしまった航空会社社員の誰かだが、
奈々子がそのことに感謝をすることは、決してなかった。
むしろとんでもない航空会社として、
ダブルブッキングの一件を友人に触れ回った。
既婚とわかってしまえば、
イケメンパイロットのはとこが勤めている会社であることなど、
どうでも良かった。
いつもながら恩知らずな奈々子である。
◯
今日も奈々子は特に痛みもなく、五体満足で生きている。だが、自分がどれだけの幸運に恵まれて生きているのか、気づいていない。
よろしければサポートお願いします。それを励みに頑張ります。I would appreciate your support a lot.