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幸運な奈々子 Episode 4 - Age -12


奈々子はまだ、自分がどれほどラッキーな人間か、気づいていない。

それは、奈々子が生まれる12年前のことであった。

奈々子の母、留美子は、当時、18歳の恋する乙女であった。

某都内有名女子校に通い、てっきり付属の短大に進学すると、両親は思っていた。
しかし、留美子は、突然、美大に行きたいとゴネ出した。
当然ながら現役入学は逃して浪人生となった。

そんな留美子のために、
神様は、
もうすぐ失恋する、というさだめを用意した。

そのせいと思われるが、
留美子は、一浪していた間に、
バングラデシュ人と知り合い、恋をした。
恋をしないと失恋できないので、
妥当なことである。

最初から、
浪人生の本分である、勉強はそっちのけであった。
しかし、そのそっちのけに、拍車がかかった。

「恋に落ちた」と言えないのは、
つまりまあ、
相手も留美子と同じ熱量を持って、
留美子を恋していたかどうか定かではないためだ。
が、そんなことは一生わからないので、
ここでは、恋に落ちた、としておいてもよい。

予備校の帰りに、
勉強に集中できない頭のまま、
ほけほけと街並みを見回しながら歩いていた留美子は、
近所の観光スポットでもある聖堂の前の階段に、座っている若者を検知した。
贅肉のつかない細身マッチョの体の上に、
繊細な顔立ちを備えていた。
その若者が、顔を上げた時、
漫画の世界から抜け出してきたみたいな、
大きなアーモンド型の翡翠色の瞳と、
目が合ってしまったのだ。

その双眸の持ち主は、
ダッカ大学から留学してきていた、ナディムであった。

本場の西洋建築に比べたら貧相な、
都会の片隅の教会の石段が、
ナディムのせいで、鮮やかな中近東色に輝いていた。
さわさわと吹く初夏の風は、
エーゲ海からの風になった。
中近東もエーゲ海も、地理的に不正確なのは、
どうでもいい瑣末なことであった。

留美子は瞬時にして、
両手の指を使って構図を切り取った。
今この瞬間を、デッサンしたい、
という衝動に駆られたのだった。

最初は留美子が、ナディムのストーカー状態であった。
ナディムの留学先は、留美子の予備校から近かったので、
その辺をうろうろして、偶然を装って近づいた。

ナディムは当時、24歳。
政府からの留学生で、大人であった。色んな意味で。
日本の浪人生には想像もつかないような、
内戦などを経験してきていた。
政治的に揉まれ、
不安定な国を生き抜くために、
手にした幸運を最大限に使おうと、
日本で必死に勉強している若者であった。

もっとも、
お気楽なお育ちからくるわきの甘さがあるとはいえ、
留美子は可愛い女性であった。
切れ長の目に、日本人には珍しい鷲鼻が、顔の陰影をつけ、
そこに、天然パーマの茶色い髪がくるくるとしていた。
留美子自身も、
少女漫画から出てきたみたいな容貌を自覚していて、
メルヘンチックな洋服を好んで着ていた。

二人で一緒にいると、人目を引くカップルではあった。

二人は毎日のように会うようになり、
ナディムが流暢な英語とカタコトの日本語で話すのを、
留美子は都合よく解釈して、夢に浸っていた。

だが、知り合って三ヶ月ほどした頃から、
ナディムは暗い表情をするようになった。

そして、ある日、
「僕は、バングラデシュに帰らなければならない。
とっても辛いけれど、両親を助けなければならない」
と言い出した。

「私も行きます」
後先考えず、留美子は即答した。

どうせ、親は反対するだろうと思ったので、
出発当日まで、バングラデシュ行きは隠しておいた。

しかし、1970年代半ばの当時、
簡単に海外旅行ができるものではなく、
バングラデシュとなれば、尚更だった。

そこで一計を案じ、
ビザ取得のためにボランティア団体に所属した。
隠れ蓑にしたつもりのボランティア団体だったが、
ビザ取得をお知らせする電話をわざわざ家にかけてきて、
それを母親の梅子が受けてしまった。
当時は各自が携帯電話を持っている現代とは違って、
家族で一台の設置電話を使うのが当たり前だった。
留美子は、
電話が鳴ったら自分が出るように気をつけていたつもりだったが、
予備校に行っている日中にかかってきてしまったのだ。
運が悪い。

ナディムが帰国することで、
留美子が失恋するさだめで終わり、
だと思っていた神様は、
思いがけなく留美子がビザまで取得したので、ちょっと気分を害された。
しかし、放っておくことにした。
数奇な運命を生きることになる人間が増えても、
神様にとって、別に痛くも痒くもない。

ともかく、
留美子のバングラデシュ行き計画は両親にバレてしまった。

当然、両親はいきりたち、
留美子を止めようと、必死に説得し、画策した。
「一緒に行くって、どういうこと?プロポーズされたの?」
母の梅子は痛いところをついてくる。

留美子はプロポーズされたつもりだけれど、
一緒に行こうと言ったのは留美子だったし、
明確なところはわからない。
もしかしたらナディムは結婚しているか、
または婚約者がいるのかもしれない、
という考えが、いつも頭を掠める。
怖くて聞けないでいる留美子であった。

それなのに、そこに、ずいっと切り込んでくるなんて、
母親って嫌な生き物だなあ、
と、留美子は恨めしく感じる。
イスラム教徒だから
一夫多妻制で関係ないのかもしれないけど。
その辺の詰めはあまかったのかなあ、と、一瞬、冷静になる。

が、しかしここは面倒臭いから、
「そうよ。それに、ナディムのおうちは政府の高官で、
ラーメンとかいうのよ。結婚したら玉の輿よ」と、叫びまくる。
嫌なことは考えない。
自分の叫び声で、心配も吹っ飛ぶ。
「ラーメン?味噌ラーメンか塩ラーメンか。ラーメン屋の息子か!」
顔を真っ赤にした父の冨造が、食ってかかる。
「ともかく、行くって言ったら行くの。
すごいお金出して、航空券も買ったの!」
ヒステリーを起こして、留美子は、威嚇に対抗する。
母の梅子は泣きながら、そんな留美子を抱き抱え、
父の冨造は、全ての靴を隠してしまった。
「どうだ、裸足で行くつもりか」
と、冨造は留美子の前に、仁王立ちした。

しかし、詰めが甘いのはこの一家の特徴である。

梅子を振り解き、
二階へ駆け上がった留美子は、
高校の上履きスニーカーを押し入れから取り出して、
それを履くと、二階のベランダから庭へ飛び降り、
土足のまま縁側から入って玄関へ行った。
そこで、ぽかんと口を開けている両親から、
自分のスーツケースをひったくって、走り出したのだった。

いったい、普段はほけほけしているくせに、
どこにそんな力と決断力があったのか。
上履きスニーカーにかかれている「3−2菅野」という文字も気にならないほど、
留美子の心はぶっ飛んでいた。

タクシーを停め、
羽田空港行きモノレールに乗るため、浜松町へ。
その間も、テレビドラマの恋人同士の逃避行が頭に浮かび、
そのBGMが頭の中で流れ続けて、
留美子に尋常ならざる力を与えていた。

空港で、ナディムと落ち合った留美子は、
固く手を握り合い、目を見つめ合った。
ナディムのアーモンド型の翡翠色の瞳。
陽の光に当たると、その奥深いグリーンに透明感が加わって、
留美子にはとても抵抗できない。

ああ、この目力ビームを浴びる陶酔感。
このために全てを失ってもいい。
もう、後戻りはできない。
こうやって、私は花嫁になるのだ。

という留美子の夢想は、チェックインカウンターで、儚くも崩れた。

「ない、ない、ないないないない!」
パスポートがないのだ。

留美子の搭乗手続きを行うグランドホステスが、
憐れむような視線を送ってくる。
そして、はっきりと
「パスポート及びビザがない方は、ご搭乗できないんです」
と告げた。
二学期と三学期の予備校の授業料を着服し、
子供のころからもらったお年玉を貯めた預金を、
全て投入して買った高額な航空券が、
一瞬にしてぱあとなった。

パスポートを忘れて、
バングラデシュ人の恋人についていけなかった留美子。
せめて、
美しいお別れシーンを演出できれば良かったのだが、
実際は、茫然自失で、
搭乗口に向かうナディムに、ゆるく手を振っただけだった。

ちなみに、パスポートは留美子の勉強机の上に、鎮座していた。

全ての靴を隠すなどという労力を使わずに、
パスポートだけ隠せばよかったのに。
冨造も海外旅行に不慣れで、そこには思いが及ばなかった。
ご苦労様である。

神様は、
「留美子は失恋するというさだめ」が、
実現したことにほっとなさったが、
少々時間がかかったことに、憮然としておられた。

ともかく、ナディムと留美子の恋が成就しなかったおかげで、
奈々子は、
政治経済的にかなり安定した1980年代半ばの日本、
という国に生まれた。
戦争を知らないどころか、
実際に戦争を体験した人たちと一世代以上離れて、
戦争の怖さを実感することもなく暮らした。
欲しいものに囲まれ、
何を買うかよりも、何を買わないでおくかに腐心することの多い、
かなり恵まれた環境に育った。
物に溢れ、ちょっと努力すれば、それを買うお金をためられる毎日。
これがラッキーでなくてなんであろう。

しかし、
無い物ねだりな母娘は、そんなふうには考えない。

先日、テレビを見ていた母の留美子が
「あら、バングラデシュってすごいのね」
と、言い出した。

その番組では、
バングラデシュのレストランを紹介するレポーターが、
最近の経済レポートで、
ゴールドマンサックスが、BRICSに続く、
新興国11カ国「Next11」に、
バングラデシュを位置付けた、と、言っていた。
Next11になると、食べ物が美味しくなるのかどうかは、不明であった。
経済レポと食レボが混ざっているような、
適当な番組であった。

しかし、テレビの前で、母娘二人は、ため息をつく。

「奈々子、お母さんの悲恋物語、知ってるでしょ。
おじいちゃんとおばあちゃんが、
あんなわからんちんでなければ、
今頃は、バングラデシュ高官の妻として、
権力のある優雅な暮らしができていたかもよ」
と言う留美子は、自分がパスポートを忘れたことなど、
もちろん当に忘れている。
ただ、身勝手で都合の良い、
悲恋物語のヒロインになった空想に浸る。
小さい頃から、留美子の勝手な話を聞かされて、
それを都合よく信じている奈々子も、
母と一緒に残念そうなため息をつく。

両親や祖父母を、わからんちんと呼ぶ、恩知らずな母娘である。

もし母の留美子がバングラデシュに行っていたら、
ダッカ空港到着直後に、
ナディムと共に、逮捕され、投獄されていたはずである。

ナディムの父は、
クーデターで負けた側の官僚となってしまっていた。
そして、1975年には処刑される運命であった。
何しろ、前政権の高官の一族だったのだから。
例え処刑されなくとも、
非常に辛い数十年を経験したはずである。

バングラデシュは、1971年に、
東パキスタンからバングラデシュとして独立したものの、
その後も度重なるクーデターに続き、
軍事政権が支配するなど、
近年の経済成長が悪くなかった一方で、
政治的安定はなかなか進まなかった。

しかし、留美子の頭は、
例え、死ぬ運命だったとしても、
国境を超えて愛し合う若い二人が、
悲しい死を迎えるロマンチックな悲恋物語、
という考えにどっぷり浸かっている。
果たして、
万一民間の日本人が巻き込まれて死んでいたら、
国際的な政治問題に発展しかねなかったことを、
この二人のソフトな頭の持ち主たちは、
思い至ることがない。
だいたい、そうなっていたら、
奈々子はこの世に生を受けていないのに、
そこにも思い至らない。

梅子と冨造は、感謝されてもされすぎることのない、
常識を持った親だったのに、
煙たがられている。

しかも、奈々子に至っては、
「あああ、私もバングラデシュのベンガル人とハーフだったら、
すごい美人になってたかもね。
そして、芸能界の売れっ子だったかも。」
と、自分がこの世に生を受けなかったかもしれない可能性は考えもせず、
つくづく自分のアンラッキーを呪うのである。

もしバングラデシュに行っていたら、
留美子は奈々子を産む間もなく、
20歳前に異国の地で死んでいる、というさだめが、
神様によって設定されていたのだから、
奈々子がハーフの美人になる選択肢など、無いというのに。

他所の国の大変な歴史などは無視して、
とかく都合の良い空想の糧にしてしまう、
なんともおめでたくてお幸せな、お二人様であった。


今日も奈々子は特に痛みもなく、五体満足で生きている。だが、自分がどれだけの幸運に恵まれて生きてきたのか、気づいていない。


よろしければサポートお願いします。それを励みに頑張ります。I would appreciate your support a lot.