妊娠と中絶の追憶と,慰め

2020/6/6,一生忘れない。

私の生年月日の2000/2/6を並び替えたような数字だ。


後にも先にもあんなに愛した人は居ない。きっと再び彼の姿を目にしたら私はまた恋に落ちるだろう。だから敢えて会わない。貴方といる私はあまりにも愚かな女になってしまうから。貴方が嫌いで憎い,それでもまだ愛している自分が悔しい。私の完全敗北だ。

貴方の望みなら何でも叶えたかった。貴方の夢に私を添えて欲しかった。18歳のときに貴方に出会えたことは私の暗い人生の中で眩しい奇跡だった。私の人生で一番美しい時間を捧げるから,ずっと側に置いて欲しかった。貴方はとても不器用で愛情表現が苦手な人。私の愛がどれだけ空回りしようが報われなかろうが,貴方の理不尽な要求に応えていたことにも十分満足していた。貴方がどれだけ自分自身の都合を優先させても,私は貴方が優先順位の頂点だった。一緒に過ごせる時間はあまりに貴重で,本当に大切だった。一瞬一秒,全ての時間の貴方が愛おしかった。暗い底に沈む私に生きる希望をくれた貴方には感謝してもしてもしきれない。そして絶対に私ほど貴方を想い,尽くせる人は居ない。


でももう二度と私は戻らない。

一緒に過ごした長い時間を思い出す。

同棲状態なら尚更の問題のことだった。性行為は嫌いだったが,彼の有り余る性欲の受け皿になることを甘んじて受け入れる他なかった。気が進まないとき何度も嫌とハッキリ口にして拒否しても,彼の強い力の前ではどんな抵抗も無意味だった。性教育の完全敗北であり,性的同意の概念は通用しなかった。悲しいことに私の抵抗は抵抗といつもみなされることなく,体の力比べでは女は男に勝てない。気付けば私の体は使われている。最中はいつも虚無感に浸り続け,早く満足して終わってくれと強く思うばかりだった。1日のうち何度も何度も彼は飽きることなく,毎日続いた。彼は稀で優秀な種馬だったけれど,私にその相手は荷が重すぎた。

重い生理痛と生理日の管理のために低容量ピルは連続的に服用していたが,春休みで生活習慣の乱れとともに服用ペースも乱れ,効果は発揮されなかった。気づけば予定されていた来るはずの生理は来なかった。不安が日に日に大きくなっていった。

恐る恐るドラッグストアで妊娠検査薬を買い,こっそり試した。結果は早くて確実で,疑う余地はなかった。陽性。そんな気はしていたが覚悟はできていなかった。鼓動が速くなった。20歳,大学生,独身,妊娠。現実から逃げるために死にたいと思ったが同時に生きたいとも思えた。自分の分身に,自分の渇望していた愛を注いでみせたかった。現在進行形で一番大切な人のDNAが増幅されていく生命の神秘が私の体内で起こっていると思うと尊かった。けれど私たちは学生で,彼が無責任にもこの結果を望まないことは容易に想像がついたことだった。

未来が全く想像できなくて泣いた。そして落ち着いた頃に彼に打ち明けた。彼は泣いたかもしれない。でもずっと私よりは落ち着いていた。

結局,産むか堕ろすか,その2択しか選択肢はないことは自明だった。彼は厳しい両親を恐れるあまり,私に堕ろせとしか言わなかった。自分でも驚いたが私はすでに自分の体に宿る生命を守ろうとしていて,泣き続けながら『産みたい』と主張したけれど,結局は堕ろすことが現状における最適解であることは理性で分かっていた。大学を辞めてどこか知らない街に逃げて一人で産み育てる,そんな夢を抱いていた。堕ろせとしか言えない彼と共に生きることはもうこの時既に有り得なかった。彼は文字通り,他に言葉は無かった。私は自分が与えられなかった愛情を子供に注ぐことで自分の人生を肯定し,幸せになりたかった。でも私以外の人間にこの生命は祝福されない。ましてや父親にさえ歓迎されない。現実問題,私は大学を中退して幼子を抱えて知らない街で誰の援助も受けられないままどうやって生きていくのだろう。私の夢は絵空事でしかない。

そして彼は私が家族に相談することも,友達に相談することも禁じた。もちろん彼が自分自身の両親に打ち明けることはなかった。一人で抱えるにはあまりにも重い秘密だったが,これを口にすることは禁じられた。私は縁を切られる覚悟で,人生で一番怒られても良い覚悟で自分の家族に打ち明けたかった。可能性が少しでもあるなら,助けて欲しい気持ちだった。でも絶対に駄目だと言われるとできなかった。彼は絶対的な存在だった。

産婦人科を受診し,医者に中絶の意志を伝えることはなかなか重かった。淡々とした先生だったことが救いに感じられたとはいえ,自分の口から『中絶します』なんてやはり簡単に出る台詞ではない。それはエコーにこうしてはっきり映る小さな生命を摘み取る選択だ。彼は中絶同意書に名前を書くことすら親バレを恐れて嫌がった。この病院は人に見られることを恐れて一番遠い産婦人科にしろと言われて決めた病院だった。彼は中絶費用のうち6割を出すと言い,私が数ヶ月前に成人していたことに安堵していた。

妊娠初期,私の体はホルモンによって急激に変化していった。私は人体の神秘を初めて体験していた。しかし現実は,あまりに重い悪阻に耐えながら週5フルコマの大学の授業の受講とその後に続くバイトと全ての家事を消化しなければならなかった。生活に支障をきたすほどのとてつもない眠気と悪心,加えて頭痛と腹痛も同時にあり,悪化する一方で常に満身創痍だった。なす術はなかった。彼は見かねたのか料理だけは免除したものの,それ以外の家事は変わらず全て私の義務のままだった。間もなくして彼が試験期間に突入すると私は彼が勉強に集中できるよう,日々悪化する悪阻に耐えながら勉強とバイトと家事を卒なくこなした上,彼が質の良い睡眠を取れるようベッドを彼一人に明け渡して私は硬く冷たい床の上で寝る日々が続いた。ホルモンバランスが暴れて情緒も大きく乱れ,中絶の日が迫ることに泣き叫ぶことは酷く忌み嫌われた。皮肉にも私はずっと孤独だった。

ママへ。一度,ママが来てくれて妹と私と彼のみんなで出掛けたことがあったけど覚えてますか。あの時,私たちは4人じゃなくて本当は5人だった。ママへ。私もママになりたかった。ママはこうして私たちを生んだんだと少し分かった気がする。それと酷い悪阻の対処を聞きたかった。私がママのお腹にいた時はどうだったのか話を聞きたかった。

予定通り6/6の朝,片道4kmの道のりを歩いて病院へ向かった。道中,貴方に会いたかった,いつか会おうねとこれまで一緒にいた小さな命にお別れをした。子宮口を広げる処置は目の前が真っ暗になる程痛かった。手術台に上らされると思いもよらず急に涙が溢れ出してしまった。けれど全身麻酔をかけられると一瞬で意識は遠のき,その間に中絶手術は行われた。目が覚めると悪阻は完全に消え去っていた。先ほどまで私の中に存在していた小さな生命はもう居なくなったのだとすぐに実感した。麻酔でまだ頭が冴え切らないまま復路を徒歩で帰り,静かに過ごしてその晩も床で寝た。当然のように彼は試験前で,私は息を潜めて空気と同化しなければならなかった。せめて何か言葉をかけてくれるとか,抱きしめて欲しかったけどそれは許されなかったようだった。相変わらず床は硬くて冷たかった。

1週間後,私は自分の試験のために彼の部屋を荷物を抱えて出た。彼と離れたくなくてぼろぼろ泣きながら彼のもとを離れた。まだ中絶の後遺症で出血が夥しい時期だった。自分の家に戻ってようやく事実を自分の中で消化し始め,めいっぱい泣いた。苦しんでいることを彼にlineで伝えると彼は面倒くさそうに対応した。彼の中では無かったことになっているようで,私は話題にしてはいけないらしい。彼はのうのうと平気な顔をして大学生を謳歌しているようだった。一方で私だけが何度も思い出しては隠れるように咽び泣いているなんて。泣き腫らした挙句の果て,私の目は覚め切った。彼によってしばらく寛解していた鬱と摂食障害はぶり返し,中絶によるPTSDも漏れなくついてきた。何も治らないまま,今も孤独に静かに戦っている。


私はもう元に戻らない。摘み取った命に申し訳ないからもう一生子供は作らない。もう二度と男に自分の心をあげたりしない。それが私にできるせめてものの償いと餞だ。


人工妊娠中絶は,若い私の人生の選択肢を広げた。これは事実である。私は自分の人生を自分のために生きなければならない。


今でも貴方は私をまだ好きだと言うけれど。ならば,ねえ,どうしていつまでも目を背けるの。信じたいけどもう信じたくない,私はもうこれ以上傷付きたくない。貴方のためにこの数年間どれほど泣いたか,きっと貴方は知らないし知ろうとも思わないだろう。貴方の自慢の成績が私の涙に濡れていたことを,乾いたのを濡れていなかったことにしないで欲しい。なのに私は不本意にも貴方の姿を見るときっとまた好きになる。だから,会いたくないという私の精一杯の意志を尊重して欲しい。せめて。これ以上私が壊れないように。


あの愛に溢れていた貴方の部屋に,私の涙の痕はまだ残っているのだろうか。



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