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洗脳されてる?

帰省できなかった。

どうしてこういうことになったかというと、帰省する前日に
「明日は予定通りですか?」
という母からのLINEが来て、
「はい、そうです」
と返信したら、下記のような返信が来たことに端を発する。
最近、返信も遅いし会話もぎこちないし、親に対して反抗的だし…
どうしたの?もしかして誰かに洗脳されてるんじゃないの?

反抗的というのは、先日の「母との対決」のことを言っているのだと思う。

それにしても、洗脳という言葉には笑ってしまった。私は、母の洗脳から抜け出そうと必死にもがいているつもりなのに、それは彼女からすれば、私が別の誰かに洗脳されていると映っているのだろう。私だけでは飽き足らず、私の周りの大切な人たちまで否定し始めた。

以前までは(私が我慢すればひとまずは丸くおさまるから)と思い、できるだけ母の気持ちを逆撫でしないようグッと感情をこらえてきた。が、もうそれはやめた。私は思いの丈を言い返し、口論に発展した。最終的に今回の帰省はやめますということで話はついた。
結果的に母はいま発狂(!)しているけど、私は連休のあいだ死にたくなることはなく過ごせたし、飛行機代も浮いたからこれで良かったと思う。

一連の出来事は彼にも話しているのであるが、現在私たちの間では
「適切な距離を保って、必要最低限の行事のみしのいでいこう」
ということになっている。今はそれが最適解で、私たちの目の前にあるミッション「入籍」をつつがなく終わらせられるかが大切だと思っている。
理解などを求めていたら、100年経っても無理だろう。

私は今でも、自分が選ぶことができなかった家族(=親や兄弟)と、自分で選ぶことができる家族(=夫や夫の親族)、どちらも大切にしたいと思っている。でもそれは、向こうが私を大切に扱ってくれることが前提だ。

母はこうも言った。
あなたは子どもを産んだことがないから母親の感情がわからないのよ
と。確かに私は妊娠したこともなければ、子どもを産んだこともない。だけどそれがなんだというのだろう。もちろん、妊娠出産は命懸けの奇跡の連続だと思う。だけど、子どもを産んだから人間として成長できると保証されているわけではないし、彼女のように自と他の境界線をあいまいにすることが愛情ではない。

ここは東京

連休中、特別なことは何もしていない。ふらふらと散歩のついでに銀座へビリヤニを食べに行ったくらいだ。そこはビルの中にあるインド料理屋さんで、いつ行っても混んでいるのに必ず入れるという非常にありがたいお店。その日は真夏のように暑く、席に通され椅子に腰かけると一気に解放感がおそってきて、それでいかに自分が疲れていたかを自覚した。
まず簡単なサラダがサーブされた。甘さとすっぱさが同居しているドレッシングのかかったきゅうりを食べながら、ぼんやりと汐留のビル群を眺める。
インドには、仕事の関係で何度か行ったことがある。現地のレストランでビクビクしながら食べた生野菜(生水は厳禁なので)は不味かったけど、サラダ以外はすべてカレー味なので、仕方なく口に運んだことを思い出す。階級制度があり、治安も保証されていなかったため、東洋人の女性が一人で街を歩くことは会社から禁止されていた。自由に外に出られないことがとても息苦しかった。
あの頃、今とは全く違う髪型をしていたし、今付き合っている男とは違う男を大切にしていた。仕事も違った。親との関わり方も違った。
何もかもが違うので、ずいぶん遠くへきたもんだと思う。

あれから4年たった。

ここは日本の東京で、私は28歳で、目の前にいる男と一緒に暮らしている。夏に似た日差しの中で、そんな事実を一瞬忘れてしまいそうになる。うすぼんやりした味のきゅうりを噛みながら、目ばかり大きく肉のない男の顔を眺める。かつては他人だったはずなのに、一体どうして、運命だねえと思っていたら、最後の
「運命だねえ」
だけが口から出てしまったようで、彼が少しだけ笑う。
この人と、この人の家族を大切にし続けたいと強く思った。





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