見出し画像

モーニンググローリー(仮) 第3部



日本・東京 1年後

第26話

 新たにひとつ歳を取った俺たちが冬の東京にいた。
 東京の冬は思っていたよりも底冷えする。長く外に立っていれば心の芯から凍てついて、いつかは身体ごと倒れそうな気がした。
 相変わらず俺は英会話教室とパソコン教室の講師の二足の草鞋を履き続けていた。ヨリコとの関係も続いている。彼女のつてを頼りに、生き別れになった俺の母親と再会を果たしてからまもなく、俺は心を病んだ。週一で通院し、処方された薬でなんとか心の均衡を保っている。容貌のせいなのか、東京で暮らしているとこっちの人たちによく言われるが、カタカナでよく書かれる「クスリ」の方ではない。そっちは日本ではなかなか手に入らない。雑多な人間が押し寄せる渋谷なら、十年くらい前なら売人が「獲物」を探してたむろしていたそうだ。都知事が変わって迷惑禁止条例を改正し、改革に力を入れたせいか、見るからにそれっぽい奴らがうろつく姿は消えた。イギリスにいた頃、場末の小汚いバーで毎晩のようにぶっ飛んでいた俺の目から見ても、街が健全な方向へ歩き出したことは間違いなさそうだ。臭いで分かる。
 クスリ売りの連中が消えた代わりに、新たなランドマークが登場した。谷底を流れる暗渠化された渋谷川が六十数年振りに姿を現し、俺たちの目前を流れている。俺は日本に来るまでよく知らなかったが、有名な唱歌『春の小川』のモデルとなった川らしい。教えてくれた人がその一節を口ずさんでくれると、古ぼけた俺の記憶が蘇ってきた。狂う前の俺の母親がそのフレーズを歌っていたのを思い出し、胸がギュッとした。霧雨で煙るロンドンと、窓からそれを見やる俺の母親の寂しい後ろ姿が『春の小川』にオーバーラップした。
 呼吸が荒くなり、慌てて俺は薬に手を伸ばしてそれを摘んだ。水で乱暴に流し込む。頭がぐるぐるする。全身から嫌な汗が吹き出る。俺が容量、用法を守らないことを叱責する医者の言葉を、やおら掻き消した。
 知るもんか。こっちは命がかかってる。
 川は渋谷駅すぐの場所を悠々と横たわり、両サイドにはガラスとコンクリートで施工された商業施設が立ち並んでいる。それは渋谷区と大手民間企業が協力したまちづくりの一環だった。一九六四年の東京オリンピックに合わせ、急場しのぎのインフラ整備で川に蓋をされ、東京を代表する繁華街へと変貌を遂げた、渋谷。数多の人間と巨大ビル群の下で眠りについていた、かつての「春の小川」は、まるで王子様のキスで目を覚ました御伽話のお姫様みたいに復活した。
 なんだかよく分からないけど、俺はこの場所が好きだった。

第27話

 その日も俺は、仕事のない時間を見つけては遊歩道を繋ぐ橋の欄干に手をかけ、飽きるまでドブ臭い匂いを嗅ぎながら蘇った渋谷川を眺めた。粉雪が飛び散る冬の日も例外ではなかった。それが最近の日課になりつつあった。

「先生、何してるんですか」
 後ろから声をかける人間がいた。振り返ると、ドバイの支店に行ったはずの某広告代理店勤務の高橋さんがにっこりと笑いながら立っていた。意外なゲストの登場に、思わず叫びそうになった。
「ご無沙汰しております」
 消えてしまうんじゃないかと思うくらい、ますます目を細めて高橋さんは笑った。心なしか、顔色が少しだけ日に焼けている気がした。
「いやぁ、日本が恋しくなって、帰ってきましたよ。やっぱりこっちのラーメンは最高だ」
 俺の左手そばに陣取りながら、さも感慨深げにため息をつく。
「こっちの方もね」
 右手の小指を立てて俺の顔前に突き出すと、彼はニッと笑った。かつては少なからず苦手だった軽薄な雰囲気が、今は懐かしい。
「ああ、もうできたんだ」
 高橋さんは目前に流れる渋谷川を愛おしそうな表情で眺めた。その様子を俺は意外に感じつつも観察することにした。彼もこんな表情をするのか。
「ここの再開発に関するPR事業をね、以前の部署で担当したことがあったんですよ。クライアントに何度もヒアリングして。壁泉とかなんとか、専門用語が多くてよく分からなくて、もう隙あらば広報の人を捕まえては聞いて聞きまくって。難しかったなぁ」
 独り言のように呟くと、高橋さんは参ったとばかりに頭をポリポリ掻いた。
「壁泉って?」
 聞き慣れない日本語の意味を訊ねた。
「あそこ」
 高橋さんがずんぐりした指で差した方向を見る。言われて初めて気が付いたのだが、川の両岸から水が放出されているのがわかった。
「以前、渋谷川には下水道代わりと言わんばかりに汚水を垂れ流していたんです。暗渠を取っ払う時に、そのままでは衛生面でまずいから特殊な技術で浄水して、ああして放流してるんです。それを壁泉と言うんですね」
 ここぞとばかりに知識を披露した後、彼は鼻から息を勢いよく吹き出し「どうだ」とドヤ顔をお見舞いした。俺は素直に彼のレクチャーを凄いと思い、おお、と感嘆した。
「あれからずいぶん時間が経ったけど、本当に復活したんだなぁ」
 高橋さんが欄干にもたれかかる。再び感慨深そうに眺める。
「先生、『春の小川』って知ってます? ここがモデルになった唱歌」
「知ってます。日本の知り合いが教えてくれました」
 腹の中心部が少しだけ、ひくっとなるのを感じた。
「そうでしたか。僕は子供の頃、あの歌に出てくる小川が東京の、しかも渋谷にあるってことが、どうしても信じられなかったんです。だって、見えないでしょ。あまりに陽気な歌詞のイメージと違いすぎる」
 一呼吸置いて、高橋さんは続ける。
「僕が覚えているのは、東急東横線の旧ホームから覗く、渋谷川の姿だけなんです。心細げで、頼りなくて、誰にも見向きもされない」
 風がざぁっと吹いて、粉雪が顔にぶつかる。
「だけど僕らがあの歌を歌う時、少しだけ、かつてのあるべき姿だった渋谷川に想いを馳せるんです。きっと、そのために誰かがこの歌を作ったんだ、と僕は思います」
 渋谷川は粉雪を飲み込みながら、俺たちの下をさらさら流れ続ける。
「どんなモノも、覚えていてくれる人がいる限り、この世から完全に消えることはない。僕はそう思います」
 高橋さんの言葉を聞きながら、窓のそばで歌う母親の姿を思い出した。
 俺はコートのポケットからタバコを取り出して口に咥えた。すぐにここは禁煙だったと思い出し、それをくしゃっと丸めてポケットに突っ込んだ。

この記事が参加している募集

取材費や本を作成する資金として有り難く活用させていただきます。サポートいただけたら、きっとますますの創作の励みになります。どうぞよろしくお願い致します。