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『敵は、本能寺にあり!』 第三十一話『夢幻の蝶』

「実は……」と言い掛けた伝五でんごに、皆は息を呑み待った。先程から明らかに怪訝おかしい彼の様子に、誰もが気付いている。

「……帰蝶きちょう様から頼まれ、松姫まつひめ殿を武蔵国むさしのくに金照庵きんしょうあんへと(八王子)逃がしました。信忠様の側室 寿々すず様への焦りは感じるものの、いくさに於いての恨みなどは露ほども。
ただ……、その、護衛に付いておられるのは、――鳳蝶あげは様にございます」

「何!? 帰蝶様は、その事を御存知なのか……!?」
皆から責められる覚悟をも、様変わりした主君の声音が揺らす。

「それが……。帰蝶様がまだ岐阜城にお住まいの頃から、鳳蝶あげは様はよく庭師の振りをして城に忍び込んでおられたようで――。
安土城へ移られてすぐ、自ら正体を明かされたと……」

「六年も前から――!? 何故なにゆえ黙っておった!」
明らかにたかぶった様子の光秀に、伝五は怯み、平伏――。

「私が帰蝶様より聞かされたのも、つい最近のこと。先の戦の前――松姫殿を逃す折です。
信長様には伝えぬようにと口止めされておりましたが、光秀様へ伝えるなとは申されておりませぬ。しかし、報告すれば光秀様がお二人の間で苦しまれるのではと、迷い……。面目次第もございませぬ」

 ◇

 帰蝶が初めて鳳蝶あげはの気配を感じた、あの日――。
涙雨の中、愛し子の姿を探したが、一目見ることすら叶わなかった。

 紙の蝶に印されていた揚羽蝶紋は、帰蝶が鳳蝶あげはのために丹念に手彫りした物。
信長が帰蝶に初めて贈った“芹葉黄連セリバオウレン”の花が、三輪並んで描かれているのが何よりの証――。

 姿は見せずとも、言葉は交わせずとも――。腕に抱く事など叶わずとも。生きて現れてくれただけで、帰蝶には十分だった。

 折り紙の裏に『お腹いっぱい食べられていますか?』『風邪などひいてはおりませぬか?』としたため、紙風船を丁寧にこしらえる。中には珍しい南蛮菓子を余す事なく詰めて、縁側に並べた。

 次に通り掛かった時、無くなっている事が嬉しかった。
誰かが片付けたのかもしれない。鳥が持って行ったのかもしれない。それでも彼を感じない日々とは、比べものにならない程の幸せ……。

 或る夜。夜毎、夢に見た瞬間とき――。

 小さな灯りで薬学書を読み耽っていた帰蝶は、青白く輝く蝶の大群に包まれる。

「怖がらないでください……帰蝶様」

 背後で、凛と透き通る声――。
いつまでもいつまでも、耳に、脳裏に、焼き付けようと……幾重にも。

 “怖くて震えているのではありませんよ”と発した涙声は、微かな羽音にさえ吸い込まれる。
“母上と呼んではくれませぬか、鳳蝶あげは――”
今度は心で問いかけると、一斉に蝶が舞い上がり、戸の隙間という隙間に張り付いた。

「母上……」

 夢幻の蝶から解き放たれた帰蝶は、智覚の自由を取り戻し、旋風の如く振り返る――。

 謝罪、寂寞、愛念――二人を取り巻く全ての感情を、降り積もり続けた空白を。縹渺ひょうびょうとした言葉で埋められるとは思わない。

 未だ腕に残る赤子の温もりと同じ温かさが、彼女の身体へと返る。其処に乳呑み子の匂いはもう無く、信長と同じ雄々……。
逞しい胸に頬を寄せ、広い背中に腕を回す。

 互いに、ただ抱擁の強さだけで、想いは――。

 ◇

 光秀は何も言わず伝五の肩を掴み、優しく起こした。そしてしっかりと目を見つめ、受け入れたように大きく頷く。
鳳蝶あげは様がずっと、帰蝶様と繋がっておられたのなら……。考えたくもないが、――無い話ではない。鳳蝶あげは様が信長様に捨てられたと思おておっても仕方ないからな」

 伝五がすぐに許された事に納得がいかない左馬助さまのすけは、「伝五殿は鳳蝶あげは様の育ての親のようなもの。長く共に暮らした甲賀こうか忍とも友好関係を結んでおる。まさかとは思うが、共謀してはおらぬであろうの?」と、わざと噛みついた。

「隠し事をしておった私に非がありますが、共に浪人となる前から、長く付き合うてきた左馬助殿から疑われるとは……」

 またも斉藤家の御家争いでどちらについたかや、越前えちぜんでの流浪の日々の話になるのが面倒な利三としみつも負けじと突っ掛かる。
「そう言う左馬助殿も、茶を通じたまつりごとの手腕に長けておるではないか。茶の席で何か良からぬ企みがあったのでは?」

「何を言うか! そもそも利三殿が謀反の談合に参加したと言われておるのじゃぞ!」

「やめぬか! 仲違いは思う壺やも知れぬ……!」
有ろう事か光秀に仲裁させてしまい、彼らは身を縮ませた。

 思い思いに黙り込み、息が詰まるほど険悪になった空気を打破するべく、仕方なく左馬助が口火を切る。
「茶道といえば……藤孝ふじたか殿。彼は剣術・弓術・馬術など武術に優れ、和歌・蹴鞠けまり・囲碁、そして料理にまでひらけておられる。類稀なる才に恵まれとるというのに、不思議と野心は感じられませぬが、あれは真の姿でありましょうか?」

 突然投げ掛けられた際どい問いに、光秀は渋面を作り唸る。
「ん……どうであろう。心奥しんおうに干渉されるのを酷く嫌い、本心を多く語らぬゆえ、正直よく分からんというのが本音。
決して器用ではなく一度に多くをやれば力尽き、自身を責め立てる弱さはあるのう。
感情に惑わされずに厳正な判断を下す所は、怖いと言えば怖いが……」

「彼に危険因子があるとすれば、隣国でくすぶる元明殿。朝倉家から助け出されたものの、若狭わかさ(福井南部)返されず丹羽にわ殿へ。八年待ってようやく与えられたのは大飯おおい(若狭の一部)三千石のみ……彼は信長様を相当恨んでおりますぞ」
利三が眉をひそめると、先程まで言い争っていた左馬助も同意。
思わぬ加勢に調子づいた利三は、「元明殿が伯父の義昭様を頼った可能性は大いにありますな。切れ者の忠興ただおき(藤孝の嫡男)一枚噛んでおるやも……?」と、話を飛躍させる。

「流石に義父であられる光秀様をおとしめるような事は……」
伝五は光秀を気遣うが、左馬助は乗っかる。
「父や子といえ、何が起こるかは分かりませぬ……。信忠様に限っては、忠誠心の塊ですがなぁ」

 光秀は伝五に“大丈夫じゃ”というような眼差しを向け、ちまきの井草を解く。
「うむ。松姫殿の事で少し言い合いになったとは聞いたが……。先の戦では、我々信長様の本隊が武田領に入る前に勝頼を自害に追い込み、武田氏を滅亡させた信忠様の戦功を、信長様は『天下人の器』と褒め称えられた。信忠様の謀反むほんは絶対に無い」

「“絶対は、絶対にない”のではありませぬか?」と左馬助がじゃれて返すと、光秀は葛餅を頬張りながらようやく笑顔を見せた。



“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。
この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。

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