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(note創作大賞ミステリー小説部門)『敵は、本能寺にあり!』 第二章『桔梗咲く道』

第十三話『城狐社鼠の正体』



 摂津せっつから全軍撤退し比叡山ひえいざんを包囲した信長は、浅井・朝倉軍が逃げ込んだ延暦寺えんりゃくじに通告――。

『此の信長に付くならば我が領の荘園しょうえん(寺社私有地)回復してやる。こちらに付けぬならせめて中立を保て。もし浅井・朝倉方に付き、これ以上彼らを囲うならば容赦無く焼き討つ』と。

 しかし、青葉がそよいでいた山が少しずつ色づき始めても返事は無く、浅井・朝倉軍が決戦に応じる事も無かった。

 其の間、摂津では三好みよし氏が野放図に走り、本願寺 顕如けんにょに煽られた一揆勢も各地で暴動。
上洛戦での恨みを晴らし観音寺城を取り返したい六角ろっかく氏までもが、京への通道を遮断しようと湖南こなんで挙兵した。

 無論、信長はうなる事など分かっていた。其れでも“奴等の首を取るまでは!”と、二ヶ月に及ぶ包囲戦――我慢比べを続けてきたのだ。
大将としての責任と、可成よしなりを想う心。
意に染まない、決断の時……。

 光秀は幕府内で囁かれる噂や、家臣 伝五でんご甲賀こうか忍から仕入れた情報を信長に伝える事で、頑なな背中を強く押す。

「比叡山包囲のため身動きが取れぬ事を知った各地の敵対勢力が、この機に乗じて一気に攻め掛かってくる模様――。可成よしなり殿の仇を討ちたいのは山々ですが、ここは一旦引くべきかと……」

 延暦寺の支援を受け籠城を決め込む浅井・朝倉側よりも、長引く不利は信長側にあるのだ。
反勢力が連なるのを問題視した信長は、泣く泣く和平の道を探り、正親町おおぎまち天皇より『講和斡旋を希望す』との勅命ちょくめいを取り付けた。

 豪雪により比叡山と自国の連絡が断たれる不安を抱えていた浅井・朝倉軍は、“渡りに船”と言わんばかり――。三好氏と本願寺も勅命とあらば素直に応じた。
ただ唯一、観音寺城奪還を果たせぬ悪条件で和睦を強いられた六角氏だけは、大名家として事実上の滅亡を招いたのであった。

 ◇

 信長は岐阜城の奥御殿に光秀を呼びつけると、改まった様子で向かい合う。
可成よしなりが守り抜いた宇佐山うさやま城を、光秀に任せたい。京と美濃みの尾張おわりを結ぶ大切な道。敵に奪われる訳にはいかぬ」

 信長からの大抜擢は、光秀が有能な近臣達の中でも頭一つ抜けた事の意――。
慎んで受けた後、人払いをしているにもかかわらず、辺りを見回し声を落とす枢要の臣……彼の念の入れように信長も気を引き締めた。

此度こたびの動乱、本願寺 顕如けんにょが裏で糸を引いておるのは確かですが、それだけではないやもと……」

「ん――、はっきり申せ」

顕如けんにょだけでは、此処まで大掛かりな事はできぬかと存じます。より広い人脈と、より大きな権力がなければ、あの日和見ひよりみの朝倉を戦地に赴かせる事は出来ませぬ。六角をはじめとする敵対勢力の動きも何もかも、連携が上手く行き過ぎではありませぬか。
私は他所に、真の黒幕が居ると考えておるのです」

「であるか――。すれば調べよ、光秀!」

 ◇

 ビュッ――! ダンッ――!! 
冷えた頬の真横を掠めた矢が、正面の壁に突き刺さる。光秀は慌てて身を屈め、左馬助さまのすけ利三としみつに守られながら屋敷の中へ逃げ込んだ。
此の所彼らは、何者かに命を狙われている――。

「光秀様の御命を狙うのは、伊賀いが(三重)者であります」
甲賀こうかから戻り、調べを進めていた伝五でんごの報告に、光秀は溜め息をく。

「やはりな。では、依頼したのは――」

 主君に仕える甲賀忍に対し、伊賀忍は依頼主と金銭で契りを結ぶ。上忍からの命令に従い様々な依頼主の元で任務に当たる下忍らから、依頼した者を探るのは然程難しくは無い――。

 ◇

「……全て、知っておった」
光秀が突き付けた事実に、義昭はずと打ち明ける。
伝五でんごらと共に集めた情報を、信長ではなくまず義昭に申し伝えた過ちに、光秀は今更になって気付くのであった――。

第十四話『金粉に塗れ雨蛙』


「知っておられたのですか! では何故なにゆえ知らぬふりを――」
激昂する光秀に、義昭は深々と頭を下げる。

「私は晴門はるかどが怖かった……。
それゆえ、止められなかった。光秀の命を粗末にする気は無かったが、相済まぬことでござったなぁ。
だがもう詮索するのはやめておけ。
彼奴あやつは幕府一の人脈を持ち、兄の臣下であった折から、兄を殺した三好とも深く通じておったそう。晴門はるかど政所執事まんどころのしつじになれたのは兄と三好の力があってこそだと。
だから……、いつも考えるのじゃ。
兄が殺された時、晴門はるかどはどちらに付いていたのだろうかと。あの時、私を助けた意図はと……。
詰まる所、幕府の財政を握り将軍の世話係も兼ねる政所執事まんどころのしつじという立場に、奴は居たかっただけなのかも知れんがの――。考えれば考える程に分からぬ。
あぁーっ、もう、嫌になるわい!!
……私は、頭の良い奴が怖い。…………。
信長も――、光秀、お前も……!」

 怯えた目をし哀訴する義昭を、光秀は蔑み……呆れ果てた。

「なんと……。怖かったなどという理由で、晴門はるかどの謀事を見て見ぬ振りされるとは。信長様への御恩をお忘れになりましたか! 義昭様が上洛し、この二条城で将軍として在る事ができますのは、どなたの御力があったからだと――。信長様は、命を落としかけられたのですぞ!」

「だが生きておる」

「――! 可成よしなり様はお亡くなりになった!!」

「だがそのおかげでお前は城持ちになれた」

たわけ――!! 仏の御心みこころをお忘れになったか!」
とうとう忍耐も臨界に達し、珍しく無礼な口を利く。此れには義昭も本音を露わにした。

「誰のせいじゃ! 誰のせいで私がこんなにもけがれた世界に引きり出されたと。私とて、こうはなりたくなかった……。権威や悪意が渦巻く世界にいきなり放り出された私の心が、お前に分かるか!?」

「いいえ、分かりませぬ」
地を這うような声で冷たく告げ、無作法にも義昭に背を向け立ち上がった。踏み鳴らす足音は早々と義昭から遠のいてゆく。

「光秀――――!!」

 ◇

 反信長を掲げる者を利用し、信長の権力失墜を調略していた城狐社鼠じょうこしゃそは、政所執事まんどころのしつじ 晴門はるかどだった――。

 晴門はるかどの行いに目を瞑り、止めようともしなかった義昭に大きく失望した光秀は、信長に何もかもを打ち明ける。

「やはり内から正さねばならぬか……」と呟いた数日後、信長は二条城へ出向いた。

 義昭は将軍然とした態度を崩し、信長に媚びへつらう。
「此れは此れは。私から謝罪に参ろうと思おておりましたが。此度こたびの事は弁解の言葉もありませぬ。ですが信長様の事は、誠に父上様のようにお慕い申し上げております」

「兄上の間違いであろう。まぁ良い。父のように敬うのであれば、晴門はるかどを解任し、山城やましろ(京都南部)貞興さだおき政所執事まんどころのしつじに立てよ」

「ですが貞興さだおきはまだ幼い……」

わしが後見を務める。それで良かろう」
信長の有無を言わさぬ気迫に義昭はたじろぎ、静かに頭を下げた。

 うして信長が政所執事代理となり、方が付いたかのように思えた夕暮れ――。
小雨降る城の内庭から、何やらブツブツと呟く声が聞こえる。不思議に思った藤孝が覗くと、冬眠前の蛙や虫を見つけては潰し、見つけては潰し、何匹も何匹も踏み殺していく義昭の姿があった。
奇怪な光景を目の当たりにした彼は、唖然として立ち尽くす。そして逃げるように其の場を後にした……。

第十五話『天下静謐』


 ―1571年―
比叡山ひえいざんは焼き討ちに処する」
宇佐山うさやま城を訪れた信長は、琵琶湖の春の風物 稚鮎ちあゆを馳走になりながら、光秀に延暦寺えんりゃくじへの攻撃を通達――。

「寺社は特権階級にありまする。天台宗の総本山である延暦寺の貫主 “天台座主てんだいざす”が御座おわす比叡山ともなれば、何にも増して別格の存在。そんな事ができましょうか……」
畏縮する光秀に、信長はこれまで溜め込んできた思いを吐露する。

天台座主てんだいざす正親町おおぎまち天皇の異母兄弟。天皇のみことのりの保護下にある仏教を利用するとは、仏の教えに背き仏を侮辱する行為じゃ。
境内に娼婦を連れ込み酒を浴び、物欲肉欲に翻弄されるは酒池肉林の権化――。高僧を多く輩出する山だが、権威に甘んじ修行を疎かにする者もまた多い」

「比叡山は京を狙う者にとって、北国路と東国路の四辻。浅井・朝倉をかくまった山上には数多くの坊舎があり、数万の兵を擁す事も……。“悪の巣窟”と化した僧房は論なく焼き払わねばと存じますが、仏の敵となりますぞ」
光秀はある程度は同調しつつも、唸り声を漏らした。

「仏教は素晴らしい。だが僧兵どもは武力を以て朝廷に無理難題を強訴ごうそ――。仏神ぶつじんの権威をひけらかしては、武装し集団で朝廷に乗り込み金をせびる。
教徒には『来世で幸せになるために』と奉加ほうがを取り立て、それを元手に民相手に高利貸しをするのじゃ……」

「十貫文借り十日経てば、十二貫文の返済になると聞いた事がございます……」

「坊さんの格好をしながら人の道に背き、民を苦しめる悪逆の僧兵を、神や仏も憎んでおられる事だろう。
天道に適う行いこそ、仏神の御心みこころに適う!」

 のべつ幕無し力説に心傾く光秀だが、慎重に信長の身を思い遣った。
「お言葉ですが、聖なる戦いと称し、目に見えぬ武装信者で溢れる事にもなりかねませぬ」

「一揆か……。宗教と武力、宗教とまつりごとは切り離さねばならぬ。信仰心を利用し、武力を振るわせる事などあってはならんと思わぬか。
我は、織田 弾正忠だんじょうのじょう 信長――。
京の都で風紀の乱れを取り締まり、秩序あるまつりごとを監察する天皇直下“弾正台だんじょうだい”の血筋。
私腹を肥やし民を顧みぬ権力を裁き、天皇を敬う国を取り戻さねばならん。
千年の歪みに揺れる天下を、平らかに――。
その為なら、第六天魔王となりて、全ての恨み憎しみを受け入れよう」

 ◇

 残暑厳しい初秋、戦いを前にしても士気の上がり切らない家臣に、信長が声高に喝を入れ奮起させる。
「力を持たぬ女、子供でも、生き延びれば叛逆の火種! ことごとく切り捨てよ――!!
この戦を悪とするならば、天下を治める為の必要悪と思え! そもそもこの山に女、子供などおらぬはずではないか!
仏堂・僧房は一棟も残さず、一挙に焼き払え! 但し、山の麓 坂本の聖衆来迎寺しょうじゅらいこうじだけは焼くな。名将 可成よしなりの墓が建てられておる。
我々はこの比叡山を焦土とし、可成よしなりの魂を業火を以て弔おうぞ――!
可成よしなりよ、安らかに眠れ……!」

 信長と重い決断をし、真意を深く受け止めている光秀も、家臣を大いに煽る。
「抵抗する者は積極的に薙ぎ払え! 生きている敵はことごとく首を刎ねよ――! 延暦寺は是非とも撫で斬りじゃ(皆殺し)!! 比叡山は我々の手で灰燼かいじんと化す!」

 焼き討ちの後、光秀は交渉の才だけでなく、合戦においても合理的で容赦無い“冷徹な武人”であるとの印象が付いた。
梟雄きょうゆうと認められた光秀は、比叡山領と坂本二万石が与えられ、信長のめいにより京と比叡山の抑えとして坂本城を築城する。

 坂本城は琵琶湖に接す水城。物資の補給も可能な最強の防御力を持ち、また城下町も大津の港町として繁栄を極めた。
ただ、勝家をはじめとする譜代家臣や、秀吉ら実力ある近臣をも追い抜く大出世となり、水面みなもに落ちる一滴の墨は波紋を描き、やがて広がりを見せるのだった……。

第十六話『廉潔の異見』


 政所執事まんどころのしつじ代理として政務に関わり始めた信長は、世が揺れる程の実態を知った。
「光秀、一体これはどういう事じゃ。将軍の密書が余りにも濫発されておるが」

「義昭様はいささか依頼心が強く、常にご自身を助けて下さるのはどなたかと見定めておられます。意のままに人を利用する為なら、裏で手を回す事も、下手したてに出る事もいとわないような御方でして……」

「“天下の静謐せいひつ”を維持する役目を担う幕府の、存立にも関わる由々しき事態――。これではとても任せてはおれぬ」

 そして信長は義昭を正す為に、度々意見書を送る。
其の内容は義昭にとって余りに恥ずかしく、決まりの悪いものであった。

『朝廷へは毎年参内するよう申し上げておりましたが、最近はお忘れのよう。天皇家や公家を敬い、民を思いやる気持ちが肝要であり、残念至極。

 また、諸国大名へ密書を出し、献上を求めるのは恥ずべき事。再三申し上げておりますが、手紙を出す際は此の信長を通す約束を守って頂きたい。
更には、諸国からの献上金を宮中の御用に役立てず、内密に蓄えるのは如何なものかと。

 内幕を暴けば、寺社領の横領に限らず様々、法規通りに処置せず没収されているのだとか。
光秀が預けた幕府の徴収金まで言い掛かりをつけ差し押さえられたそうですね。
それに飽き足らず、幕府の備蓄する兵糧米すらも金銀に換え、ご自身の物にされたと知り驚き大いに失望しました。
世間では農民さえ“欲深き悪しき将軍”だと陰口を叩く始末。

 苦労して建てて差し上げた二条城から、宝物ほうもつを何処かへ移したり、織田家と仲の良い者ばかり不当な扱いをされているのは一体何故なにゆえかと。不仲が噂になれば、互いにとって得は無いというのに。

 一生懸命働く家臣に褒美を与えず、大した働きもしていない若衆を可愛がり、代官職に任命。ここまで贔屓ひいきをしていては評判も下がる一方。
上に立つ者なら自らの行動を慎むべきであり、このままでは幕臣の心が離れていくのも時間の問題かと存じます』

「小癪な……!」
奥歯をギリギリと噛み締め、顔を真っ赤にした義昭は、握り潰して丸めた書状を、届けに参じた光秀に投げ付けた。

「信長は軍事力や勢威を持つ重要な後ろ盾だが、私とは性が合わぬ! これ以上、まつりごとに関わってくれるなと申し伝えておけ!」

 投げ返された書状を拾い上げ、わざわざ義昭の面前で両手の平を使いしわを伸ばす。丁寧に折り畳んで懐にしまうと、真っ直ぐ睨むような視線で刺した。

「信長様は民こそが宝だと思おておられるだけにございます。民の生活を顧みようとしない者を断固討伐する――そんな思想を持つ者らを味方に、ここまでの勢威を持たれるようになられた。天下を平らかにと……」

「黙れ光秀! 其方そちは私が民を宝だと思おておらぬとでも言いたいのか!」

「滅相もございませぬ――」
極めて淡々と頭を下げる態度に、義昭はより一層憤怒し、今度は土産にもらった柿を手に取り、顔を目掛けて放り投げる。すると光秀はけようともせず、こめかみで衝撃を受け止めた。

「お主が開いた茶会に参加した者が言うておった! とこには信長の書が掛けられ、炉には信長から拝領した名物“八角の釜”が据えられておったと。信長に深く寵愛されておるようじゃが、どちらの味方かはっきり申せ」

「信長様は幕府の不行き届きを一身に背負い、清算されて参りました。私は信長様へ忠義を尽くす事で、幕府に貢献しておるつもりでしたが、――暫くおいとまを頂戴したく存じます」

 光秀はどちらとも明言せず、義昭に暇乞いとまごいをする。つまりは、信長を選んだに等しかった。

 腹を立てた義昭は、光秀が比叡山領の税収を横領したと触れ回る。実際、日常的に横領を行っている張本人におとしめられた光秀は、最早付き合い切れぬと悟った。
そして完全に幕府から離れ、改めて信長に恭順の意を表するのであった――。

第十七話『奸計の応酬』


 ―1573年―
 度重なる異見書に激怒した義昭は『信長討伐令』を出し、其れを皮切りに様々謀略を巡らせていく――。

 勅命講和を反故ほごにし討伐令に応じた浅井・朝倉軍と信長軍の交戦中、“最強の猛将 武田 信玄”による家康領への侵攻――“三方ヶ原の戦い(静岡浜松)”が勃発。
信長は同時多発的な戦闘を余儀なくされる。

 義昭の策略とはいえ、信玄自身の意『勅命に違反し比叡山焼き討ちを行った信長への“粛正”』も含まれているとあっては、家康へ義理を欠く訳にもいかず、浅井・朝倉とのいくさに兵を割きながらも援軍を送った。

 また、信玄と上杉 謙信けんしんとの仲を取り持つ為に奔走していた信長は、自身へ牙を剥いた信玄を“悪逆無道”だと罵り、互いの子の縁談と共に結んだ同盟を手切れとし、婚約も解消――。
ところが、武田・上杉・北条・今川までをも巻き込む騒動に発展した元凶が、彼方此方で信長の名を使い、武田に不利な同盟成立に動いた家康にあるとは、信玄からの怒りの書状を読むまで、当の信長は知らなかった……。

 ◇

 細雪ささめゆきの降る中、伝五でんごが早馬を飛ばし岐阜城にやって来る。

「先の戦いでの武田軍勝利に気を良くした将軍が、近く二条城で挙兵する模様。
未だ事を構える浅井・朝倉、阿波あわ(徳島)飛ばされた三好や、暗躍する本願寺の顕如けんにょに加え、“甲斐かい(山梨)虎” 信玄、更には西国さいこく(中国地方)毛利もうりも応じる見込み。
信長様を包囲し、権力を弱める計略であろうと、藤孝様より密告がありました」

「義昭……恩を仇で返すか!」
沸々とはらわたが煮えくり返る信長だが、大きく息を吐き溢れくる怒りを努めて抑え、悔しそうに言葉を継ぐ。

「腐っても将軍である義昭に見限られては、大量離反も免れない。忌々しく不愉快ではあるが、挙兵したらば講和を求めよう。
信玄への報復は機を見て必ず――」

 家康への援軍の大将として送った平手の孫 汎秀ひろひでは、共に援軍として派遣された佐久間勢が早々に撤退する中、武田軍の前に散った――。
信長は目を掛けていた汎秀ひろひでの戦死に、『見殺しにするとは何たる卑怯者――!!』と佐久間を罵倒し足蹴あしげにする程、悲しみに暮れていたのだ……。

 ◇

 伝五は京へ諜報に戻る途中、光秀や傍輩の左馬助さまのすけ利三としみつに会いに坂本城へと立ち寄る。

「藤孝の身を案じておる……」
光秀は内通者として暗躍する友を心配していた。
「藤孝様は『まつりごとは時の流れを読むことが肝要だからな』と、『私は付き従う者を間違えたのやも知れぬ』とこぼされておりました」

「そんな事を……。ならば――」

 ◇

「将軍のめいを受け、大津(近江と京の境)国衆が挙兵! 将軍は二条城に籠城との事!」
大方の予想はついていた報せだが、信長は苦虫を噛み潰したような顔を見せ叫んだ。

「光秀と勝家を将に据え、大津の事態を収めよ――!」

 光秀の誘いに乗り、幕府を離れ信長の家臣となった藤孝は、勝龍寺しょうりゅうじの城主(京都長岡京)に任じられ光秀の軍に付いた。

 信長は予定通り、講和を要望。
『人質を出す』事を条件に画策するが断られ、『嫡男 信忠と共に出家する』との殊勝な申し出までも突っぱねられて、とうとう怒り心頭に発する。
「上洛できたのは誰のおかげじゃ――!
『講和に応じなければ京を焼き払うも已む無し』と忠告せよ!」

 ◇

 麗らかな春の訪れに横槍が入り動揺する京の人々は、焼き討ちの中止を求め信長に銀を献上する。信長は受け取りはせずも下京しもぎょうの町民には情けを掛け、幕府を支持する商人の住処すみか――上京かみぎょうのみに焼き討ちを決行した。

「御所を除き、一間残らず焼き払え! 此度こたびに限り、濫妨狼藉らんぼうろうぜき大いに結構!!」
二度と裏切りを許さないと決めた信長は、不断の喚声かんせい響く町を焼き払い、次々に城を落としては、ことごとく義昭を追い詰める。

 光秀の密命により、伝五は甲賀こうかの忍び衆と共に乱妨取らんぼうどりを働いた。
そして鎮火した後、『京の町を悪政に沈め、安寧秩序を乱したのは悪将軍 義昭に候』との書に銀貨を包み、気付かれぬよう素早く町人や地下人ぢげにんの懐に差し入れる。
書にはお市付の間者が使用していた あの“揚羽蝶紋”が印されていた――。

第十八話『観月の鍾愛』


 義昭に降伏を勧告するため、信長は『京の復興に』と朝廷へ黄金を贈り、正親町おおぎまち天皇勅命の講和を得る。
しかし義昭はたった三ヶ月で講和を破棄し、炎天の盛夏に槇島まきしま城で(京都宇治)再挙兵――。
残念ながら彼は、頼みの綱の信玄が春に病死した事を知らなかった……。

 一方信長は、義昭の再挙兵を見越し動いていた。
『義昭が再び挙兵した際には瀬田の辺りで(琵琶湖南端と川との境界)道を塞がれるだろう』と予想。
大軍で湖上移動する為、佐和山さわやま(湖東)過去に例を見ぬ程の巨船を建造していたのだ。
美濃みのから(岐阜)佐和山に駆け付け、船で一気に琵琶湖を渡り京入りする信長軍に、義昭の兵は度肝を抜かれる――。

「折角建ててやった城は、破却とする!!」
信長軍は二条城を占拠し、義昭が籠る槇島城も七万の軍勢で取り囲んだ。
当てにしていた信玄が病死し、武田軍がうに撤退していた事を今更知った義昭は、慌てて赦しを請うも時既に遅し――。

 敗軍の将として眼前に引き据えられた義昭に、信長は怒声を浴びせる。

「天皇が政治を執る朝廷。将軍が政務を執る幕府。共に世の中を治めるべきだと思おてきたが、腐り切った幕府など不要じゃ――!!」

 信長は義昭の命までは取らぬ代わりに、京から追放した――。 

 ◇

「義昭のたわけた討伐令に応じ、此の信長との講和を反故ほごにした浅井・朝倉を徹底的に潰す! 何度も何度も裏切りおって……! 目にものを見せてくれるわ――。
朝倉軍は早々と撤退する癖がついておる。
“雪が” “疲れが”と勝手に戦線を離脱し、前戦では在世の信玄に酷く咎められたようじゃ。
臆病者の目にはいつも、敵が大軍に見える! 此度こたびも必ずや逃げるであろう。そして逃げた所を追撃する! これは殲滅戦せんめつせんじゃ――!」

 信長は雄叫びをあげる三万の兵を率いて、義弟 長政の居城 小谷おだに城を包囲。
長政は五千の兵と籠城するも離反が続いた。
援軍要請された朝倉側も、与国からの救援拒否が相次ぎ二万を下る兵しか用意できず、戦線に立って直ぐ夜陰に紛れ密かに越前へ撤退しようとする。

 しかし、必ず逃げると踏んでいた信長軍の追討に遭い、刀禰󠄀坂とねざかで大敗……。
手勢のみを率い一乗谷いちじょうだに城へ帰還した義景にはわずか五百の兵しか残らず、残花の散り時を悟りて自刃――。

 完全勝利を収めた信長軍が、小谷城へ引き返し総攻撃を開始すると、長政は降伏を勧める使者として遣って来た秀吉に、妻 お市と娘達を預け自害した。

 ◇

「佐久間、何故なにゆえ遅れた! 必ず逃げるゆえ追撃しろというわしの言葉を疑ったか――!!」
信長は先陣の佐久間に朝倉軍の追撃を厳命していたが、彼は信長本陣よりも遅れを取る大失態を犯した。
勝家・丹羽にわ・秀吉ら諸将が陳謝する中、佐久間だけは席を蹴って立ち上がり、涙を流して弁明した。
「お言葉ですが、我々のように優秀な家臣は他におりますまい!」

「おのれ、外道が――!!」
火に油を注いだ事は言うまでもなく、激昂した信長は愚臣を殴打。慌てて勝家らが引き離したが、佐久間への怒りが収まる事は無かった。

 ◇

 小谷城での戦いに於いて大功を上げた秀吉は、浅井の旧領を拝領し新たな城を築く。
完成した城で信長と其の近臣が集まり宴を開いた。

「信長様より頂いた湖北の地を“長浜”とし、築いた城を“長浜城”と名付けたいと思おておるのですが」
信長の“長”の字をお受けしたいと願い出る秀吉のあざとさに、皆苦笑いを浮かべる。

「琵琶湖のほとりは信長の浜――“長浜”か。流石と言うべきか、……お前らしい。良いではないか、“長”の字を使え。
秀吉、お主には才がある。与えられた目標を達成するという事に於いて遺憾無く発揮する能力、天性の指揮官の資質にも恵まれておる。己に確固たる自信があるのも良い事だ。
だが、才ある者は自惚れ、鍛錬を怠る――。
どうか慢心する事なく、“絶対は、絶対にない”のだと覚えておけ」

 ◇

 宴の後、岐阜城へ帰る信長に随伴した光秀は、立ち寄った関ケ原の寺で、輝く月を愛でながら二人きりの酒を酌み交わした。

「芒に月、菊に盃ですな……」と、和らいだ表情で酌をする光秀に、信長の心の糸もほどけていく。

「南蛮の文化にも精通しておるのか。汲めども尽きぬ知恵の泉じゃな。
のう光秀、……わしは千年の歪みに揺れる天下を平らかに――と思おて走って来た。
弟を殺し、義理の弟も殺し。悪が住まう山を、町を、焼き払い――。
将軍を追放、裏切る大名家は滅亡に。平手や可成よしなりを失い、鳳蝶あげはを犠牲にし……。
わしのやって来た事は、間違まちごうておったかの。
幾つの屍を越えようとも、行く道の先には山となるむくろが立ちはだかるのじゃ。
いつになれば、泰平の世を迎えられるのかと、麒麟の尻尾すらも拝めずに、ただ、人を斬っておる……」

 夜空を見上げる信長の瞳から、一雫の光が流れ落ちる。
第六天魔王となるには余りに優しすぎる――と、光秀の心は痛んだ。『まだ道の途中ですよ』との応えが頭に浮かんだが、溢れ来る想いを乗せるには悲しくなるほど空々しい言の葉。

 刹那の後先、光秀の深い腕の中に、閑麗なる信長がいた……。

第十九話『千歳をも色香に籠めて』


 信玄の死により家督を相続した武田 勝頼を、“長篠の戦い”で討ち果たした信長は、将軍 義昭のめいで動いた討伐軍の一掃を遂げた。
正親町おおぎまち天皇は、義昭が招いた混乱を見事収めた信長に官位を与えようとするが、信長は畏れ多くも辞退。

 其の代わりにと、東大寺の正倉院しょうそういんに収蔵されている天下一の香木“蘭奢待らんじゃたい”を所望し、天皇から截香せっこう勅許ちょっきょを得る。

『正倉院に押し入り無理矢理蘭奢待らんじゃたいを切り取ったとの汚名を着せられぬように』という光秀の配慮により、東大寺の向かいの山城 多聞山たもんやま(奈良)僧侶が運び入れ、仏師により截香せっこう
其の木片を二つに割り、片方を贈り物として献上してきた信長の心遣いに、天皇はいたく感動された。

 貴重な香木の切り取りを許された事実は、朝廷が信長を認めたという証――。
信長が朝廷の経済的な後ろ盾となり、天皇の権威が天下静謐を進める信長の後押しをするという“共存共栄関係”が構築され、信長勢力の更なる拡大が見込まれた。

 ◇

 可成よしなりの命日、聖衆来迎寺しょうじゅらいこうじの墓で蘭奢待らんじゃたいを焚いた信長は、すぐ側にそびえる光秀の居城 坂本城に寄る。
そして奥の間で二人、密談を始めた。

「大量の鉄砲・弾薬の調達、大儀であった。お陰で宣教師に聞いた異国の戦術で勝利できたいくさじゃが、対する武田にかつてのような士気は無く、信玄の息子の求心力の無さを肌で感じた」と顔を曇らせる。

「信玄公は死に際に自身の死を“三年は秘匿に”と申されたそうです。虎ありてこその武田の権威だとお気付きになられていたのでありましょう。先代が異才であればある程に、跡取りは見劣りし批判に晒されます」

「うむ。そこでわしも万が一を考えてな。わしの死後も家臣が後継こうけいを敬い服侍ふくじしてくれるよう、己の影響力がある内に、信忠に家督を継承し岐阜城を譲り渡そうと思う」
信長の決断に光秀は露ほどの驚きもなかった。

「誠に失礼ながら、信長様の威光にあやかり御当主としての威厳を築いてゆかれる事は、素晴らしきお考えに存じます。古参の家臣ほど信長様への崇拝から、信忠様にとりわけ厳しい目を向けておりますゆえ」という光秀の切言を、信長は分かっていたような頷きで応答。

「信忠は義理堅く勤勉であるが、真面目過ぎる人柄は面白味に欠ける。だが素直な良い子に育った。帰蝶が手塩に掛けてくれたお陰じゃ。
……光秀は何も聞かぬが、何故なにゆえ鳳蝶あげはを迎えに行かぬのかと思おておったであろう」

「いえ、その様な事は……」

「初めは弟 信勝と斉藤を抑え、尾張おわり(愛知西部)美濃みの(岐阜)平定すれば、迎えに行こうと思おておった。だが弟を討ち、今川を倒し、斉藤を滅ぼしても……、穏やかになるどころか敵は増える一方。
泰平の世の為と助けた義昭に裏切られ、その所為せいで義弟の謀反に遭い殺し、妹を悲しませ、それでもまだ敵ばかりじゃ。
うして時機を逃し続け、気付けば早二十年……。腕の中にすっぽりと収まっていた赤子も、家督を継ぐ歳――。
鳳蝶あげはと信忠に、わしと信勝のような思いはさせとうない。家臣が割れる事も、どちらかがどちらかを殺める事も考えとうないが、うならんとも言い切れぬ。人の心は分からぬものじゃ……。それでもわしは信忠に不幸あれば、厚い顔して鳳蝶あげはを迎えに行くんじゃろうの……」

 自責思考の深くに降りた信長の胸臆を、光秀は潜り込み迎えに行く。
「家督を外れ他家の養子や僧となっておっても、跡継ぎが早逝すれば突如呼び戻され当主を任されるのは武家ならば当然の事。良心の呵責に苛まれるような事にござりませぬ。継承が上手く行かねば御家は転覆致すのですから」

 心情よりも正しさを優先する信長は、冷厳だと捉えられ理解されない事の方が多い。理解されない孤独を受け入れるのは容易い信長でも、自分の中の正しさが揺らぐ時は脆弱になるのだと光秀は感じた――。

第二十話『存命の罪責』


「何とも魔性の香り。これが蘭奢待らんじゃたいですか……」
信長が持参した香を焚くと、光秀はかぐわしい香りに身を委ね、心の奥深くで智覚。

「魂が抜けるようでいて、血がたぎり本能に立ち返るような……、掴めない香りじゃ」と満足気な信長は、自身の腕を枕にししとねに寝転がる。

「百年前、時の将軍 足利 義政が切り取って以来、幾人いくたりもの足利将軍が閲覧を希望しても叶わなかったと聞きます。この様な貴重な物を、有難き幸せにございます」

 信長は美しく頭を下げる光秀の膝に頭を預け、両手で彼の頬を優しく包み込んだ。

蠱惑こわくの香りに恍惚とする光秀の顔を、ただ見てみたかったのじゃ……」

 お市と顔を合わせ辛い信長は、光秀と甘蜜の月夜を重ね、岐阜城への帰りを遅らせる――。

 ◇

 お市は岐阜城に引き取られてすぐ産気づき、可愛い姫児を出産。
自身と三人の娘は、信長の庇護のもとに置かれたが、長政と前妻との間に生まれた嫡男 万福丸は、裏切りの見せしめとしてはりつけにされたのち、串刺の刑に処された。

 物の分かる歳であった長子 万福丸は、いつか復讐を企てる可能性があり、逃れた浅井の家来や敵対勢力の反乱の芽を摘む為にも、敢えて元服前の幼子に対し残虐な手段が講じられたのだ。

 岐阜城の庭では、久方振りに姫君の笑い声が響く――。
帰蝶きちょうは、家康の嫡男 信康のもとに嫁いだ徳姫を思い出し、息災を祈った。
高価なしゃぼん玉で惜しげも無く遊ぶ娘達のかたわら、沈んだ様子で冬苺の花を見つめるお市を気遣い、帰蝶は彼女の背に手を当てる。

「帰蝶様……。冬苺の花を見つけると、長政様は喜んで私を呼ぶのです」

「そうでしたか……」

「夫は人を愛する気持ちが強い分、愛されたい気持ちもことに強い人で……。期待された以上の努力を重ねようと足掻く程、信長兄上を慕っておりました。
繊細で傷つきやすく、人の賞賛や批判に右往左往する所があり、幼い頃より父への畏怖の念が拭えずに――。父からの評価を気にする余り自己保身に走り、革新的な兄上と共に挑み切る事ができず、あの様な……。
父に説得されたからと兄上を裏切った夫を、私は赦せなかった。兄上を助けたい一心で、間者に浅井離反の書状を預けたのです。
しかしそれから数年、私は兄上と夫との溝を埋める事ができず――。
長政様を死に至らしめ、私だけ生き残ってしまいました……」

「あの可愛いやや様を(赤ちゃん)身籠ったまま道連れになどできますまい。あの子の為にも助かって良かったのです。貴女の姫君達の為に、辛くとも生きてゆかねばなりませんよ。生きている事に罪の意識を持たずとも良いではありませんか。貴女を助けたいと願ったのは長政様です」

 しかしお市は帰蝶の言葉に涙をこらえながら、何度も何度も首を振る。

「長政様は私の裏切りを知りません――。もし知っていたら、助けたでしょうか。もし私があの時書状を送らなければ、長政様は死なずに済んだやも知れません」とお市が言い終わらぬ内に、帰蝶が言葉を返す。

すれば信長様は死んだやも――。
私とて、腹の中の罪を探せば切がありません。悪いのはいくさだと、思うより仕方ないのです。いくさの無い世を連れて来るのは信長様だと信じればこそ、罪を忘れた振りをして生きられるのですから」

「帰蝶様……」
お市は帰蝶の胸に撓垂しなだれ掛かり、幼女らに悟られぬよう静かに泣き続ける。
少し離れた場所で木々の手入れをしていた庭師が忽然と消えたのを、産まれたばかりの赤子だけが見ていた――。

第二十一話『忠誠の陽の蜂、月に舞う蝶』



 岐阜城を離れ、琵琶湖の東畔に新しく築いた安土あづち城へ発つ日――。

 家督を継ぎ岐阜城主となった信忠へ、信長は大切にしてきた愛刀 “星切ほしきり太刀たち”を贈る。
秘蔵の名刀は金銀を散りばめた太刀ごしらえが輝き、凛々しい信忠に良く映えた。

「なんとまぁ立派なお姿――。母の誇りにございます」
養母となり信忠を育て上げた帰蝶きちょうの瞳に、精悍な愛息が滲む。
帰蝶は美濃みの尾張おわりの統治を任された信忠の側近に、自身の弟 利治としはるを付けた。いとし子を託し、父 道三どうさんの代より繋がる想い出深い城を、信長と共に去るのだ。

 母子ははこの別れに胸を熱くした信長は、“初花はつはな”の銘を持つ肩衝茶入かたつきちゃいれを差し出す。

「“初花”の釉色ゆうしょくは、天下に先駆け一番に咲く名花を彷彿とさせ、茶入の肩が張る形状からは力強さを感じる。この茶入に適う男になれ。
人の一生はわずか五十年――。
浄土に比ぶれば夢幻のように短く儚きもの。俗世に生を受けたなら、全身全霊で生きよ! 理想を掲げ、信念をもって生きねば、死人と同じ。必死に生きてこそ、生涯は光を放つのじゃ」

「――」
どんぐりが実る円椎つぶらじいの木の下で、秀麗な庭師が誰にも届かぬ声を漏らし、幸福な親子の姿に羨望の眼差しを向けた――。

 ◇

 信長は朝廷より権大納言ごんだいなごん右近衛大将うこんえのだいしょうに任じられ、天下人である事を認められる。
是により、安土城を御所とし安土幕府を草創――。

 しかし、西国さいこく(中国地方)毛利もうり氏の元へ逃れた義昭が、備後びんご(広島東部)ともの港に築いた城でとも幕府を開き、征夷大将軍せいいたいしょうぐんを貫いた。
其の為信長は、令外官りょうげのかんである(新設の官職)鎮狄将軍ちんてきしょうぐんとならざるを得なかった。

『此の可成よしなり、信長様が天下人となられる日まで尽力する所存――』
可成よしなりの墓の前で天を仰ぐ信長の耳に、あの日の言の葉が舞い降りる。

可成よしなり……! わしは天下人となったぞ」

『信長様が天下人となられ、信忠様が御当主に――。誠に喜ばしく存じ奉り候!』と空が笑った気がして、信長も笑みを返し、そして……大いに泣いた。

 ◇

 墓参りを終え坂本城に呼ばれた信長は、憂悶のかげりを見せる光秀に身構える。

「毛利が義昭様の意向により、信長様に敵対を表明した事で、西国さいこくの大名や瀬戸内の海賊衆まで義昭を支持。
それに影響された織田家配下 黒井城主“丹波たんばの赤鬼”直正なおまさを筆頭に 、属国 丹波の(兵庫北東・京都中部)国衆くにしゅうが相次ぎ離反。
直正は隣国・但馬たじま(兵庫北部)まで武威を振るい、武田や毛利とも密に連絡を取り合っております。
毛利を攻め落とす為にも、京と西国に隣接する丹波の平定は肝要かと」

「であるか――」
信長は新たな争いの火種に一呼吸置き告げる。
すれば丹波を攻めねばならぬな、光秀――!」

 ◇

 ―1575年―
 本願寺 顕如けんにょによる度重なる一向一揆の鎮圧に奔走し、見送られてきた丹波たんばへの出陣だったが、紅葉が錦のように色鮮やかな秋、光秀はようやく準備に取り掛かる。

 近臣の伝五でんご左馬助さまのすけ利三としみつが坂本城に集まり、策が練られた。

「丹波には大きな大名はおらんが、小さな豪族が乱立し連合を組んでおる。しかも山が多く大軍が動かしにくい地形ですぞ」
冷静沈着で状況把握に優れている利三としみつが厳しい表情を見せる。

「まずは“丹波の赤鬼”直正の黒井城を攻めてはどうじゃろう」と左馬助さまのすけが提案。
彼は旺盛な好奇心で挑戦に積極的なのは良いが、興味を持つと試さずにはいられない気性が災いする事も多い。
其れを知る伝五でんごの胸は騒いだが、調和を重んじる余り口をつぐんだ。

 ◇

 ―1576年―
 雪化粧した猪ノ口山周辺に十余の陣を築き、光秀軍は城山を包囲。
「黒井城の兵糧は春まで持たぬであろう」と左馬助さまのすけが笑顔を見せた直後、背後から荒々しい地鳴りが響く。
「馬……?」

「敵襲――!!」
楽観していた陣中は、蜂の巣をつついたような騒擾そうじょうに見舞われる。
信長の朱印状により城攻めに加わっていた丹波篠山たんばささやま 八上やかみ城の城主 波多野はたのの軍勢が突如謀反を起こしたのだ。

「全軍撤退!!」
光秀軍は坂本城への退却を余儀なくされた――。

第二十二話『孫子の兵法』


「クソッ――! 何故なにゆえ波多野は寝返った!」
敗走し坂本城へ入った利三としみつは、歯を軋ませ籠手こてを投げ捨てる。

「今、調べさせておるが、波多野は信長様の朱印状に偽りの返事をしたのやも知れぬ。元より直正と結託し、丹波の奥深くに敵を誘い込み一気に殲滅せんめつする――“赤鬼の策”に乗っておったとしたら……」
心の機微に聡く、観察を重ねる伝五でんごは恐ろしい推論を立て、そして後になり其れが的中していたと分かった。

 ◇

 一方、とも幕府を開いた義昭の一翼を担う事となり強気に出た本願寺 顕如けんにょは、信徒に動員令を出し挙兵した。
本願寺を見張らせていた摂津せっつの家臣 (兵庫南部・大阪北中部)荒木から報せを受けた信長は、直ちに光秀と藤孝を送り込み包囲を命じる。

 しかし、紀伊きいの惣国(和歌山)雑賀さいかの鉄砲傭兵衆が、数千丁の武器で包囲軍を銃撃。次々と大将格が討死・逃亡し、陣形は完全に崩壊した――。

 光秀らは堀の整備もされていない貧弱な天王寺砦に逃げ込み、本願寺勢の攻撃を古畳や死んだ牛馬を盾にし凌ぎながら、信長に援軍を依頼する。

 突然の援軍要請に三千の兵しか揃える事ができなかった信長だが、怯む家臣に「光秀を見殺しにする気か――!!」と檄を飛ばし出陣した。

 ◇

 指揮を取る信長自身が、先手の足軽に混じり突撃――。
鉄砲で防戦する一万五千の本願寺勢を果敢に攻める。そして何とか壊滅的な天王寺砦に入城し、光秀らと合流を果たした。

「光秀、よくぞ耐えた」
信長は鎧が硬い音を響かせる程、ガッチリと抱き寄せる。すると光秀は足がぬるりと滑る感覚に、視線を下げた。

「信長様――! 御御足おみあしが……!」
信長の赤にまみれた足が視界に飛び込んで来る。
突入の際、信長は足に被弾し傷を負っていたのだ。
「大事ない」と言う信長を光秀は制し、尚も止めどなく血が溢れ出る傷口を押さえ、直ぐに手当を始めた。

 其の後ろで、家老らが口々に弱音を漏らす。
「本願寺勢は退却せぬな……」
「この兵力差なら勝てると踏んどるのであろう」
しかし信長はそんな空気に反して強く言い放った。
「よし! 再度攻撃を仕掛けるぞ――!!」

 響動どよめく砦の中、荒木が切り出す。
「信長様、お気を確かに。多勢に無勢ですぞ」
そんな荒木の進言に信長は首を振りながら、壊れた卓の上に立った。

「奴等はわしらが籠城し、攻撃して来ぬと思おておる。今こうして敵が近くに集まるのは天の与えた好機じゃ! 勝敗はいくさの前に決するという。心してかかれ!」

 信長の宣言通り、不意の突撃により見事本願寺勢を撃破――。
負傷した足を気にも留めず追撃する信長の姿に皆奮起し、更に三万近くの敵を討ち取り完全勝利を引き寄せた。

 うして安堵した直後、光秀が砂地にくずおれる。
彼の身体は重い病に蝕まれていた――。

 ◇

 真っ直ぐにそびえる天守が、灰色に曇る空へも届く安土城――。

 紫陽花あじさいの葉の上で、雨滴うてきがぱらぱらと心地良い音を奏で始めた庭園から、帰蝶は忙しなく奥御殿へ戻った。
着物の雨粒を払いながら、ふと、霧雨きりさめ霞影かえいの向こうに何かを感じる……。

 声を上げ助けを呼ぼうと、息を吸った刹那――、蝶の形をした紙吹雪に取り囲まれ、其の羽音により智覚が狂った。
叫ぶ声が音を失ったのか、音のない世界にいざなわれたのか――。
答えに辿り着けぬまま、“寸秒夢”のように蝶は跡形もなく消え、再び音のある世界へ戻る。
手の中に残るのは一枚の蝶……。

鳳蝶あげは――!」
帰蝶は揚羽蝶紋が印された紙の蝶を握りしめ、縁側から降りしきる雨の中へ裸足のまま飛び出した……。

第二十三話『消せぬ因縁』



 妻 煕子ひろこの献身的な看護により、光秀は一命を取り留めた。
しかし、末枯うらがれた木の葉舞う杪秋びょうしゅう――、今度は 煕子ひろこが病に倒れ、流浪時代から力強く支えてくれた愛妻は、天に召された……。

 悲しみに暮れる間も無く、年明けには丹波攻めを再開。藤孝と其の息子 忠興ただおきの協力もあり、丹波亀山城を落とし拠点とする。

 時を同じくして、秀吉も播磨はりま(兵庫南西)但馬たじま(兵庫北部)平定に尽力。姫路ひめじ城を拠点とし、西国さいこく攻めの足掛かりは着々と作られていった。

 ◇

 次の攻城戦を前に、安土城へ戦況の報告に訪れた光秀と秀吉は、信長から思わぬ作戦を命じられる。

「本願寺の兵力と物資の補給拠点である、紀伊きいの惣国(和歌山)雑賀さいかの寝返りを図れば、本願寺勢の根も枯れる。光秀と秀吉には得意の調略で雑賀さいかの切り崩しを任せたい」

 義昭と毛利氏が陣取る西国を攻め討とうと画策するも、義昭のめいを受けた本願寺 顕如けんにょの邪魔が繰り返され思うように進まない。
信長は光秀と秀吉の“調略の力”を認め、説得と誘惑の妙技が光る『寝返り交渉』の成功を信じていた。

 安土城から帰る道すがら、秀吉は馬の速度を緩め、ぽつりこぼす。
「裏切りを嫌う信長様が、表立って調略戦を掲げるとはな……」

「武将ならば当然の戦術。城主や土豪が寝返れば、味方の兵を削る事なく敵方の兵士も手に入る。いくさで荒れれば、勝利し手に入れた領地の立て直しからせねばならんのじゃぞ」

「そうじゃが信長様は変に潔癖な所があるからの。寝返った者を信じられんじゃろ。それなのに此度こたびは、随分と追い込まれておられるんか思おてのう」

 ◇

 光秀と秀吉の調略は、信長の思惑以上の成果をあげた。雑賀さいか衆の半分以上が、信長に寝返ったのだ。
二人の報告を聞いた信長は大層褒め称え、立ち所に出陣を求める。
「千載一遇の好機じゃ。山手と浜手の二手に陣を分けようと思う。山手を秀吉に任せたい」

「御意のままに」

「浜手には当主信忠を据え、その弟 信雄も伊勢から駆け付ける。まだ若い二人じゃが、光秀と藤孝で支えてやってくれぬか」

「心得て候」

 ◇

 経緯を聞いた利三としみつは、苦い顔を隠さなかった。
「丹波はどうなるのです! こちらも勢いに乗っていた所、光秀様と伝五が調略に駆り出され、次は出陣ですか!?」

 彼は人にも自分にも厳しく、元より口調や表情に柔和さはない。だが溜まりに溜まった鬱憤がとうとう爆発してしまったのだろうと、光秀は彼の心に寄り添うように自説を述べる。

「丹波攻略の為、手強い土豪相手に死力を尽くしてくれている家臣らには、旗印が転々とし進む方向に迷いを抱かせた事……誠に申し訳なく思う。
しかし、我々が丹波を平定するのは何の為か――。
悪政により世を乱した悪将軍は追放されたにもかかわらず、未だ西国にてとも幕府なるものを開き、密書を濫発しておる! その所為せいで天下は静謐に程遠い。
義昭を断たねばならんのだ! その義昭に擦り寄る毛利も本願寺も、力を貸す雑賀さいか衆もじゃ!
義昭は周囲を利用し、おとしめ、見下す……! 我儘で調子に乗りやすく、人の物を欲しがっては癇癪を起こすのじゃから、理性の欠片も無い! 甘え上手で尽くされて世を渡る――歪んだ野心の持ち主。何が何でも上洛を諦めることはないじゃろう! 私には責任がある。
義昭を、祭り上げた責任が――!」


第三章『天翔ける魔王』へ続く……

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