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#ゾンビと僧 7

僧ゆえに人の生き死にが毎日のように目の前を通過していく。私の読経は実体なき空に消えていく。虚無。いったい行政はこれほど大量の生死を毎日あまさず記録しているのだから、その所業はまったく修行である。煩悩が入りこむ余地がない。他人のミスに目が行きがちな私はいくらかは取りこぼしがあるのだろうと妄想する。現代日本はわれわれ仏門でさえ法人化して行政の管理下にあるので、彼らの目の忍んで勝手に生きて死ぬことができない。仏教の教えを守る以前に法の下の民であらねばならない。なるほど現代の役所勤めは修行者だ。きっとパワハラでハードワークを要求されるのだろう。メンタルもフィジカルも両方ともに鍛えられて苦海。会社勤めの知り合いはいつも疲れている。法要先では、たまに生者か死者かどっちに向かって読経しているのかはっきりとしないときがあるのは、参列者のなかには生きながらにして死者がいるのだろうか? ニュースで目にするのはデフレだとか、経済成長率が低いだとか、初任給は先進国中ダントツの最下位だとかで、ろくな話を聞かないが、これも修行だと思えば現世に生きるとは苛酷なものだ。来世に期待するしかない。輪廻があってよかった。
 
自死した者を弔うのはつらい。出家した身にあっては仏典が私の規範であるが、仏教はたしか自死を特別扱いしていなかった。そもそも修行とは肉体を苦役によって乗り越えていこうとするもので、であるならば自死はむしろメタ的に肉体の死。つまり歓迎の色彩を帯びている。修行の延長上に肉体の死があるならば、僧としての私は衆生済度を至高とするので、自死を志した彼の人の修行を制止したくはない。そして解脱して涅槃を得ることができればこれは喜びである。しかし個人として思うのはやはり自死は避けるべきであろう。自死した者は自己のカルマを回収して満足かもしれないが、周囲の残された者たちはいったい彼の人の自死を望んではいなかった。あるいはエクストリームでMADな新興宗教者ならば、独自の教義のもとに彼の人の自死を評価したかもしれないが、しかし多くの修行者はまっとうに道半ばだ。そのような修行の過程にあって、近しい者の自死に遭遇するのは非常に辛い。
 
友人に誘われて合コンに参加した。ゾンビとか修行とか語っておいて合コンとはいい気なものだが、これも衆生の研究だと自分にいいきかせて、私はメンタルをなんとか維持して参加した。とても楽しかった。私は僧であることを隠そうとしたが、店内で帽子を被っているわけにもいかずあきらめた。で、なんの因果かこの坊主頭がウケた。異性にかようにちかく接したのは出家した後はもちろん、出家前の人生においてもはじめてだ。異性のひとりが特に私に興味をもってくれて、彼女の話を聞いていると、どうもフィットネスジムを経営していて、これから店舗数を増やしていくところだとかで非常に景気がいい。若くて経営の才能があるのはすごいなと感心していると、彼女が言うには、どん底のときもあったけど、課題を乗り越えてようやく最初の店舗をオープンしたときは嬉しくて泣いたとか言ってて素直でいいなと思った。私は僧だから、人界のまやかしは聞くだけにしておくべきだが、はたして私は修行が足りないな、といい気になっているとそのフィットネスの彼女が(名前をアキラという)、現代仏教はいったい社会にどのように貢献しているのかとストレートな問いを投げてきた。はて。現代仏教の役割か。私はゾンビについて思考を巡らすような変異種なので、衆生済度は後回しだと高をくくっていたのだが、人界に出るとそうもいかない。考えておきます、とだけ言ってアキラの問いをかわした。私は僧のはしくれだが、本来であれば説教のひとつでもうってでるべきであったのだろう。
 
俗世界とのつながり方は僧それぞれで、私も考えておいたほうがいい。ツイッターでは幾人もの僧が自発的に投稿している。出家したものだから、娑婆の日常とは縁を切ったつもりでいたが、先日の合コンでそうもいかないのだなと感じた。しかし考えてみるとゾンビは娑婆と浄土の境界に位置する存在だし、済度とは俗世の衆生を救うことなので、娑婆と完全に手を切るのはいずれの道を選んだとしても足りない。私にはもっと娑婆が必要である。なので先生にもう一度コンタクトをとってみることにした。先生も浄土と俗世の境界に生きているので、いろいろと見識があるだろうと期待してのことだが、案の定やはり先生はツイッターのアカウントをもっていて、彼なりの日常をつぶやいていた。いったいどうして二つの世界を行き来するのか、いずれかの世界にふりきった生活をしてもいいんじゃないかと先生もかつてそう思い悩んだが、結局のところ素人が生きながら解脱しても退屈で面白くないということであった。むしろ先生は俗世を生きている。行政の支援や民間のボランティアには、それなりにアンテナをはっていて、助けになりそうなものには積極的に参加している。だからあなた、衆生済度のためにはこの世界にどっぷり浸からないことにははじまりませんよ。あなたにその意思があるのなら、まずは私を救ってみてはどうですか? 先生は辛辣な批評家であった。私は私の僧としての中途半端な心構えを見透かされて、大いなる俗世に射抜かれた。そうかと思って日常を見渡すと、たしかに私のような平凡な僧にも、いろいろと不可解で難解な現代社会の壁がみえてきた。これは要するに心のありようなのだ。アキラはひとりの女性であり俗世への入り口である。そして女性は私の永遠の壁である。女性と向き合わないことには、私の衆生済度は永遠に実現しない。そこで私はアキラにラインしたのだが、異性としてのあなたには興味はないけど、ゾンビの話は面白そうだから聞いてもいいと返事がきた。なかなか難解な問答ではあったが、私はこういうときは、具現化された言葉の本来を素直に受けとめて、そこに込められた真理を見いだそうと努める。だからイエスと返事した。僧なのにイエス笑、とアキラから返事がきた。私はひとまず謝った。

つづきます

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