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#ゾンビと僧 6

僧の日記
 
都合よく検体があるわけでもなく日々の勤めをこなす。退屈だ。私は坊主でいていいのか悩む。説教の本来は感情を理性でオーガナイズすることだが、衆生はそのような理知的な言葉を好まない。経験の言葉を聞きたがっているようだが私は若い。説得力に欠ける。結局のところ坊主は見た目が肝心なのだろう。年寄りは存在がすなわち涅槃である。住職は80を超えてまだ生きている。坊主の務めも健気にこなしている。尊い。根っからの僧である。日中戦争がはじまった年の生まれだそうだから生を受けた時点ですでに修行だ。苛酷である。戦争を経験した世代には頭が上がらない。
 
私も修行を生きたいと仏門に入った当時はそう願った。今はちがう。気持ちはゾンビに向いている。僧とゾンビの組み合わせはミスマッチで、やりよう次第では個人的な趣味嗜好の拡大で大変よろしいのだが、そもそも私は新米の僧なので、まずはしっかりと本業に向き合うべきだろう。それもこれも私には修行が足りない。修行はいい。生きながらにして俗界から浮揚することができる。精神の浄化だ。私も浮揚して仏門に邁進したい。しかしゾンビ沼にはまってしまった私は坊主の心得や修行の手順を忘れてしまった。誰か教えてくれないか。住職はだめだ。ボケている。晩飯を食った直後に飯はまだかときいてくる。頭と胃袋の連携がうまく機能していない。
  
現代の修行者で想起するのはホームレスである。彼らは苛酷な日常を知恵と工夫で生き抜いている。本来であれば私は出家した身として仏門から教えを乞うべきだが、あてがない。住職を介したネットワークがあるにはあるが、それだと変な質問がしにくい。あとで関係者界隈に知られておかしな噂をたてられるのは困るし寺にも迷惑がかかる。なので仏門関係ではない人に教えを乞うべきだと考えた。最近だと行政の取り締まりが強いのか以前はみかけた公園のブルーテントが減った。ならば河川敷か。あのあたりにはちらほらとブルーテントやダンボールが人の生活を醸しているので、おそらくそこにいけば会えるのだろう。
 
河川敷にさっそく行ってきた。上からあたりをつけて降りてみたが、背の高い草が密生していて視界がふさがれた。ブルーテントが散在しているおおよその場所は上から確認してきたが、巧妙に行方がわからない。水の音をたよりに足を進めると川岸に出て、そこは砂地で何人かが車座になって酒を飲んだ跡があった。私は気をとりなして、この地の住人を探しに草の迷路に戻ってみると、目が慣れてきたのか、うっすらと下草を踏み固めたような跡があって、その跡を進むと一軒のダンボールハウスを見つけた。で、外から声をかけてみたが反応がない。ガサゴソと音がするので中になんらかの存在を感じるのはたしかだが、私の呼びかけに応じる様子がない。と、いうようなことを他にも何軒かダンボールハウスを見つけて繰り返したのだが結局誰にも会えないので、川岸の砂地に戻ってしばらく途方にくれた。
陽が沈みかけた頃だった。「どうかしましたか?」と、後ろから声をかけてくれた人があって、私はここにきた理由を説明すると、彼は頷きながら神妙な面持ちで私の話に耳を傾けてくれた。すると彼もなぜか身の上話をはじめた。彼は自分の会社が倒産したのを機にこの生活をはじめたらしい。すべてを捨ててここに来たと言った。自由で束縛がないこの生活を気に入っている。彼とはうまがあうなと思った。で、緊張がとけたのだろう、私は唐突にゾンビの話を持ち出してしまった。つまりゾンビをつくりたいと言った。彼はすかさずそれは罪ですよと言った。罪か。世の罪業は善悪の理性と同居しうる。それから彼は本を読んだらいいと言った。あなたには言葉が必要だ、言葉の力でそのような雑念は成仏させればいい、と少々難解なことを言うので、私は彼のことを先生と呼ぶことにした。
 
数日後、私は本を読まないで、寺にあまっている死体はないかと探していた。なんたる不真面目かと私は自分にあきれたが、もう手遅れかもしれない。
 
先生からラインがきて、知り合いの何人かが協力してもいいようなことを言っているらしい。なんのことかと問うとゾンビのことで、彼らの協力とはつまり死んでもいいということで、河原で野垂れ死ぬよりも坊さんの手にかかって死ぬほうがいいということだ。なんとも信心深くて立派なものだ。しかし彼らの年齢をきいてみると、そろって年寄りでそれだとゾンビじゃなくてミイラだと返事した。ゾンビには体力が必要である。土中から這い出るのにはまずなによりも体力が必要で、そのあともいろいろとしんどいことがあるだろう。年寄りには無理だと思い断った。
 
 
つづきます

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