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オープンチャット4日目記録(4/8)

オープンチャット4日目です。ちょっとお休みを挟みました。少しずつ参加者も増えつつあります。

前回は、人は「対幻想」を抱くことで、1対1の関係性を築くという話題から、人がどのように他人に幻想を抱くのか、お互いに同時に幻想を共有する(同じ認識のもとで愛する)ことは不可能なのではないかという話に至りました。

暫く田村と萩谷に議論を投げていた李理世ですが、ようやく重い腰を上げて参加します。(ふたりともごめんなさい)でも、人の議論読むのって、自分が参加しない楽しさありますよね。自分の発想外の話が広がるので…(田村と萩谷は私とは違う語彙で通じ合ってるなと思うところがあるので、二人の議論楽しいな〜と思って、完全に外野にいました)

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4日目スタート

りりせ:メンバー増えましたね!改めてご参加ありがとうございます。

りりせ:自身の考えを述べるがてら、自己紹介します。私は「ポーラは嘘をついた」という屋号でずっと演劇の脚本・演出をやっているのですが、基本的には【愛とは何か】ということを毎回結論づけていました。

物語の構造としては、社会構造的なシステムに囚われた(劇団名も”paralyzed”(麻痺)→Paula liedが語源です)人たちが、どのように実存を勝ち得るかという話をしていて、愛を見出す場合もあれば、愛を捨てる場合もあれば、そもそもその価値観を捨てるというものもありました。(毎度、恋愛話というわけではありません。広義での愛についてです)

私が初めて作った演劇は、恋に破れた主人公が、アイデンティティを失って多重人格になるというお話だったのですが、最後には、両親からの不動な愛を思い出し、代替不可能という実存を得るという結末で終わっていました。

さて、<両親からの不動な愛>というものに関してなのですが、この公演、実は結構評判が分かれてしまって、おそらく両親から愛された過去があるかないかで、反応が違っていたのではないかなと思っています。

私は完全に親に愛されていた側の人間なので、きっと簡単に、愛という言葉を発することが出来てしまうし、愛の存在を信じています。しかし、そもそもそうではないという人も結構いますよね。前提としてそのことを話せてなかったと思いまして。お二人はどう思いますか?

萩谷:「愛」の存在は僕もあると思います。それは、パートナーとの愛もそうだし、家族との愛もそうです。実感としても、第三者の話を聞いていても、そこにはやっぱり特別なにかがあると思います。

りりせ:育ってきた環境によって、その愛の存在すら認識が違ってしまうということを看過できないのではないか、ということについて話したかったのですが、それはどう思いますか?

田村:私もたしかに育ってきた環境によって、愛の存在の認識が違ってしまうことはあると思います。愛の存在の認識が違う、というより、「他人を無条件に信頼することができるか」という部分が一番問題になるんじゃないでしょうか。

「他人を無条件に信頼することができる」ひとって、「ご両親に愛されて育ったんだねえ」とか言われがちな気がします。偏見かもですが、、

りりせ:私は、自分が博愛主義でいられることを、育った環境のお陰だなと思っていて、日常で絶対的に愛せない人を目の当たりにしてないからだなと思っています。誰かを誹謗中傷しなければやってられない人に対して、愛を説いても通じませんし、だけど本人が努力しなくてはその呪縛から逃れられないし、とは言いつつ、その努力って相当なものだと思うのです。

愛の話をしようと言っておきながら、私たちが「愛」が世に確実に存在する前提で話し続けるのは、ちょっと違和感があるなと思ってしまいました。親子愛に感動する・泣けると言った映画に全く共感できない人はいる。それは別に人間に共通で備わっている感覚ではない。

萩谷:田村さんのおっしゃる「信頼」って「愛」の前提条件だと思います。だから、「信頼」はとても大切で、「何を信頼するか」ってことはやっぱり育ってきた環境に依存するかな。あと、何を「愛」と感じるかとかも。今、僕は約10の国々から集まって来た人達とシェアハウスで暮らして4年経つのですが、キリスト・イスラム教圏内で育ってる人達って日本で育ってる人達と「家族の愛」への感覚が何となく違う気がしてます。

りりせ:どう違うんですか?

萩谷:これはあくまで僕の感覚値なんですけど、『家族を愛してる』って表現をキリスト・イスラム教圏内の人達ってよく使うんですよね(もちろん、人にもよりますが)。あまり日本では口に出して「家族を愛してる」って誰かに言うの聞いた事無いなぁと。

田村:多分それはキリスト教自体が「無条件の愛」を前提にしているからではないでしょうか。神なる父はあくまでも私たちの「父」であるので、「父」は「子」である私たちを無条件に愛しているはずだ、という。そのような前提があるからこそ、家族に「愛している」と気軽に言える感覚なのでは…

例えば黒沢清監督の映画「ニンゲン合格」とか「トウキョウソナタ」とかは、そもそも家族の「絆」など存在するのか、という前提を疑うような作品だったりしますね。

萩谷:その可能性はありますね。それは、イスラム教もアラーは「愛の神」でもあるから、当てはまるかも。ちなみにこれ、英語で話している時に出てきた「love」って言葉を「愛してる」に置き換えて言ってるから、"love"と"愛してる"を同じ意味で使って良いのかっていう問題もありますが。

日本だと家族は「愛」よりも「絆」って言葉で議論されるんですかね。3.11以降、「絆」って言葉が特別な意味を持った気がします。この「絆」と「愛」って、僕は少し近いものを感じたんですが、どう思われます?

りりせ:私は「絆」って言葉の方が胡散臭さを感じるんですが、確かに「愛」も日常であまり使わない言葉かもしれません。

田村:それは私もそうかも。愛よりも絆の方が胡散臭さは感じる。でも、その胡散臭さって震災以降な気がするんですよね。震災の時にひたすら「絆」っていう言葉にフューチャーしてたからっていうのもあるのかもしれません。

萩谷:震災の時に感じた「絆」の胡散臭さって、最初のりりせさんの話に繋がる気がします。りりせさんが「育ってきた環境によって、愛の存在の認識が違ってしまう」って言っていたように、愛って人それぞれですよね。

震災の時に感じた「絆」の胡散臭さも、「絆」って感覚も人それぞれなのに、「絆」って言葉があたかも絶対的な意味を持つかのよう大量に使われたからなのかな。「愛」も絶対的な意味を持つかのように使うべき言葉ではない。

次回に続く…

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