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#3 長崎のキリシタンを辿る①〜キリスト教の到来〜

みなさんこんにちは!とうとう4月になりましたね^^

長崎は先日、桜が満開になり、もう葉桜になっております。

桜が咲く前は、「まだかな〜まだかな〜」とワクワクしながら待つのですが、桜が一旦咲き始めるとあっという間に満開になり、散っていきますね。


桜が散ってしまうとなんだか寂しい気持ちになります。はかないですね。そんな桜を見ていると、私たちの人生も終わるときには一瞬に感じるのかな〜とか思ってしまいます。(考えすぎw)

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(写真:諫早市多良見町にある有名な桜並木。長崎が誇る歌手、福山雅治さんの『桜坂』の題材になったとかならなかったとか…福山さんのおばあさんのお家の近くなので、あり得る話だとは思います^^そうだったらいいな・・・♡笑)

はい!では今日のテーマは…

『長崎のキリシタンを辿る〜キリスト教の到来〜』!!!

これは多分長すぎるので、シリーズ化になると思います!

頑張って投稿していきますので、乞うご期待!!

長崎といえば、美味しい食べ物や自然、歴史などたくさんの魅力がありますが、今回はそんな中でも長崎の歴史にとってとても大きな影響をもたらした、キリスト教について書いていきたいと思います^^

ここからは私の話なので、早く本題へ読み進めたい方はスキップしてください★

----------------------------------------------------------------------------なぜ私がキリスト教について書こうかと思ったと言いますと、『長崎』と『キリスト教』というのは私のルーツにものすごく深い関わりがあります。むしろこの2つを取ると私ではなくなってしまうのではないかというぐらい、ほぼこの2つで私は成り立っている気がします。

私は長崎で生まれ育ちました。そして、母方も父方のご先祖様も潜伏キリシタンとして激動の時代を隠れながらキリスト教を信仰するということで生き延びてきた方々です。

私は父方の祖父母とすぐ近くに住んでいたのですが、ものすごく父方のおじいちゃんっ子でした。祖父はものすごく物知りで、特に長崎の歴史やキリスト教の歴史についてよく話してくれていました。

その祖父ですが、日本のキリスト教の聖地でもある、あの有名な浦上天主堂がある浦上地区の出身です。浦上と言えば、長崎港が開港後イエズス会に寄進された地区の一つでもあり、多くの人たちがキリスト教に改宗していました。その後、キリシタン禁教令が敷かれ、浦上崩れ(江戸時代中期から明治時代初期にかけて4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件。崩れとは検挙事件のこと。)が発生。祖父の祖父たちは浦上四番崩れという一番激しい弾圧事件によって、石川まで流罪となりました。幸い、私のご先祖様が連れられていった石川の地域では大名がキリシタンに寛容な方(おそらく加賀百万石で有名な加賀藩)だったようで、激しい拷問はなかったようです。結果、長崎に無事帰ってきたときには子供が1人増えて帰ってきたそうです。他の地域に連れて行かれた方々は、激しい拷問を受け、命を落とされた方も多くいらっしゃいました。(その後、このキリシタンたちはまた「原爆」という想像を絶する大変な目に遭ってしまうのですが、そのことについてはまた別の記事でお話ししたいと思います。)

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(写真:浦上天主堂)

このような背景があり、私は将来ご先祖様たちの歩んできたことについてオペラを書きたいと考えています。そのために、長崎やキリスト教、について現在勉強をしているところです。その忘備録としてこちらに書かせていただいているのですが、こちらの記事をご覧になった方が、私が大好きな長崎について興味を持ってくださればとても嬉しいなと思い、公開させていただいております^^

出来る限り正確にわかりやすく書きますので、よろしければご覧ください♪

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では、ここからが本題です!


よく長崎の歴史では『キリシタン』という言葉が出てくるのですが、一体『キリシタン』とはなんなのでしょうか?

キリシタンとはポルトガル語(christão)で「キリスト教徒」(英語だと’Christian’クリスチャン。)を意味するします。元来はキリスト教徒全般を指しますが、実際に使われるこの語は、戦国時代以降、日本に伝来したキリスト教(カトリック)の信者・伝道者、またはその働きについて表したものです。また、貿易に関わったオランダ人はキリスト教徒でもプロテスタントであるので、「キリシタン」とは捉えられないそうです。

日本の漢字では『吉利支丹』と書かれます。江戸時代以降、弾圧に伴い侮蔑を込めて’切死丹’や’鬼理死丹’という当て字も使われるようになった。(今でも『よろしく』に『夜露死苦』などと当て字をしたりしますが、昔からあったのですね。人間って今も昔も変わらないようですね。笑)

5代将軍徳川綱吉(犬公方)治世以降は、’吉’という字をはばかって、’切支丹’という表記が一般となった。

ちなみに、現在の日本では『キリシタン』という言葉は、「キリシタン大名」や「隠れキリシタン」など日本の歴史用語として使用されており、現代日本のキリスト教徒を指す場合は「クリスチャン」を用います。

ふう、ここまででだいぶ分量ありますね(笑)キリシタンに関することは相当深そうです(笑)

続いて、長崎のキリスト教についてお話してみようと思います。

1549年8月15日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。翌1550年にはポルトガル船が平戸に赴き、領主・松浦隆信から布教を許されました。これが日本におけるキリスト教の歴史の始まりです。

その後、ザビエルが去った後も、残されていた宣教師たちによって布教活動は続けられ、その要請により約20年後の1571年、長崎港が開港しました★

(ちなみに、今年2021年は長崎港開港から450年ということで長崎では大きなイベントが開催される予定ですが、コロナの状況次第という感じでしょうか。がんばろう長崎!!)

長崎港の開港とともに、旧長崎県庁があるあたりを先端とする長い岬の台地に新しい街が誕生。

島原町(現:島原市)、平戸町(現:平戸市)、大村町(現:大村市)、横瀬浦町(現:西海市西海町横瀬郷)、外海町(現:長崎市外海町)、*分知(文知)町(現在がどの市町村になるのか不明。)の6つのまちが長崎における最初の町でした。

当時集まってきた住民の大半がキリシタン(キリスト教徒)と言われており、長崎港開港後には、岬の周辺は埋め立てられ、江戸町がつくられ、南蛮船が出入りする華やかなキリスト教文化が花開きます。

また1580年、日本初のキリシタン大名、大村純忠は周辺の敵からの攻撃をかわすため、長崎6町と茂木を日本イエズス会に寄進し、続いて1584年には、キリシタン大名であった有馬晴信が浦上を寄進しました。その後、イエズス会領となっていた長崎・茂木・浦上はその3年後の1587年豊臣秀吉の伴天連追放令により取り上げられ、直轄地となります。

しかし、秀吉は南蛮貿易は奨励しておりキリスト教の禁教は不徹底であったので、長崎の町は徳川幕府の禁教令が発布される1614年ごろまでキリシタンの街として栄えました。

長崎には日本イエズス会の本部が設置され、外国人宣教師のもと教会や病院など様々なものが建てられました。

現在でも長崎の街中にはそれらの跡が残っており、訪れることができます。

やがて長崎は、日本の『小ローマ』と呼ばれるようになります。長崎の市民全員がキリスト教徒に改宗した時期もありました。

キリスト教の力恐るべし!!(というより貿易の力かな?笑)

*「文知町」について調べてみたところ、現在長崎には文知と呼ばれる地名は残っていないようでした。当時、平戸屋文知房という唐人屋敷があったらしく、そこから「文知」という名前を取ったようです。開港よりも前に唐人屋敷が建っていたということになりますが、長崎港が開港する前にすでに中国人の方たちは長崎に来ていたようです。(そんな昔から長崎と中国の交流はやっていたなんて驚きですね!!)

【豆知識】 長崎では苗字でキリスト教徒かどうか判断できる!?

長崎(今回は長崎市)では、苗字でその方がキリスト教徒(ここではローマ・カトリック)の方なのかどうか推測することができます!!

多分、この話はあまり巷には出ていないネタだと思います。

文献などを見つけることはできなかったのですが、祖父から教えてもらったことの一つです。現在では若者の宗教離れが進んでおり、親は熱心なキリスト教徒だったが自分は教会に行っていないという方も多いので、あくまで参考程度にお読みください。

上に書いたように、長崎では浦上や茂木などがイエズス会に寄進されました。

そこには親族ごとその地域に住んでいて、キリスト教に改宗したため、苗字でキリスト教徒かどうか推測することができます。

例えば、下記の苗字の方は長崎市ではキリスト教である可能性が高いです。

山田、岩永、片岡、深堀など。

私が知っているのはこのあたりの名字だけです。

私の祖父の名字は山田でしたが、浦上にあるキリスト教の墓地にはたくさんの山田姓のお墓があります。ありすぎてどの山田さんかわからないぐらいですが、おそらくほとんど親戚なのでしょう。

これが禁教の時代にバレていたら、あっという間に親族みんな皆殺しですね。恐ろしい…^^;

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(写真:浦上の墓地から見える浦上天主堂)

以前大学の先生に『深堀』という名字の先生がいらっしゃいました。

話をしていると、やはりその先生もキリスト教徒でした。

長崎はコミュニティが狭いので、もしかするとこちらの先生のご先祖様と私のご先祖様も知り合いだったのかもしれません。

長崎は本当に不思議な街です。スルメのように噛めば噛むほど(?)味が出る街です!もう’スルメ’県でもいい気がする(笑)

今回は長くなったので、この辺で終わりたいと思います^^

次回は

長崎のキリシタンを辿る②〜キリシタンの渡欧〜(予定)

を投稿予定です^^

よろしければ次の記事もご覧ください♡

【こちらの記事を参考にさせていただきました。】



















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