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季節



ーエピローグ


俺の名前は『きせつ』という。

日本の四季は沢山の顔を見せてくれる。そんな風に会うだけで沢山の人を幸せにするような人になってほしい、と願ってつけられた名前だ。

俺は小さい時から、この名前が好きだったけど、今年はこの名前のせいで信じられないぐらい色々なことが起こるなんて、両親も俺自身も誰も想像していなかったと思う。

30歳を迎える夏。僕には自分の所在なんて分からないし、仕事ばかりの人生に疑問を持ち始めていた。

これは、ほんの少しの好奇心から始まった物語。
僕の純粋な好奇心の物語なのである。


新緑が窓の外に映える5月。
昼休憩が終わり、月末最終の金曜日、オフィス内に流れる集中の渦を遮る声が突如響いた。

「きせつー。お前さ、最近なんか、魅力無くなったよね。」

パソコンの画面から目を逸らさずにオフィスに響く声で同僚の早瀬が言う。
その声は昨日切ったばかりという切り揃えられたョートカットのボブの襟足と同じくらい鋭く俺に刺さる。

「は…?み…魅力ってなにさ」

反射的に返す俺の声は突然の呟きによる動揺でオフィスの誰にも届かないであろう。

ドラマのワンシーンのようにゆっくりとオフィスチェアをこちらに向けながら早瀬が悪魔のように笑う。

「あんたさ、最初見た時はいい男じゃん、って思ってたけど、なんか最近、全然いい男じゃない。色気が全くない。ちゃんと遊んでる?」

こいつは誰にでも、遠慮なく物を言うタイプではあるが、唐突にしては唐突すぎる物言いではないか。
というか内心、俺が遊ぶ時間が無いのも、お前がやらない仕事、あるいはお前が放置した仕事、あるいはお前ができない仕事のせいだろうに…と頭に文句がぐるぐる回るが、変わらず返す言葉も無く黙ってしまう。

「夏にさ、京都出張という名の、夏休み的研修が取れるらしいんだけどさ、あんた絶対に行ったほうがいいよ。あんた東京から離れたほうがいいよ、元々田舎者なんだし。」

「田舎者って…」

最後の一言が余計だ。俺が岡山出身な事をなんとなく引け目に感じているのを知ってのことだ。さすが”味方なら良いが敵には回したくないランキング社内堂々の一位”、相変わらず性格が悪い。

「きせつってほんとーにつまんねーやつー。」

言い放った早瀬は、勝手に一仕事終えたぜ!みたいな顔をしてどこかへ行ってしまった。

確かに。良い男とは?暗い画面に、覇気のない自分映る。
社会人になって、ある程度の経験を得た僕は、もちろん恋愛の経験もそこそこしてきたし、出世とやらもして、側から見たら充足した日々を送っていた。
心の奥底にしまった、作家になりたいという夢は程遠く、文字通り忙殺の日々。元々経験したことしか文章にできない自分にとっては今の日々はあまりにも刺激がなく、平坦な日々なのかもしれない。
目の前の日々が恐ろしいほどに忙しく、瞬きをすれば明日が来るような体感で日々が過ぎていた。

遊ぶ時間ってなんだ?
仕事をして、家に帰って、なんとなくこのまま1日が終わるのが嫌で、顔馴染みの店に顔を出す毎日。一人で飲むのもなんとなく、物足りなくなって、結局いつもの飲み友達と過ごす日々。
いいじゃん、俺はこれが好きなんだよ。誰にも文句は言わせねー。と内心では思いつつも、もう戻れない高校時代のような、自由に心も体も遊ぶ時間を思い出し、あれ、自分、本当に今ちゃんと遊んでる?
と呪いのような疑問が沸々と湧いてきた。

かといって、自分は遊ぶと言っても女遊びには全くと言っていいほど興味がなく、遊び方が分からないし…。
考えるだけ無駄な気がしてきて、自分の中の疑問にまたも向き合わず、オフィスに蔓延る集中の渦に飲み込まれ、目の前の暗い画面に向き合うことしかできなかった。

佳境の金曜を終え、遅く起きた土曜昼下り、目黒川沿いを散歩する。
昨日までは桜が綺麗だね!と道ゆく人が言っていた気がするのに、気づけば、もう春は終わって、5月になっていた。五月病とはよく言ったもので、やっぱり俺は少しばかりの失速感を感じている。
散歩を終え、家に帰り乾燥機から洗濯物を取り出し畳む日常。少し違うことでもやってみるか、とルーにこだわった無水カレーを作ってみるものの、1人で食すカレーに味の変化はいささかなく、日が暮れる頃には、顔馴染みの店に顔を出してしまった。

マスターがいつもより、ご機嫌だ。機嫌の見分け方は頼んでもいない料理を出してくれるかどうか。虚無な目をした俺と裏腹に目の前のカウンターが美味しそうなつまみで埋められていく。

「マスター何かいいことでもあったんですか?」
「やだー、きせつー、聞いちゃう?聞いちゃうの?」

聞くしかないだろう、だって他に客もいないし、顔に聞いてくれって書いてある。

「まぁ、聞かれなくてもいうけど〜。マッチングアプリで彼氏ができました☆」

性別不詳なこのマスターは彼氏ができたのか、変わらず面白い人だな、というかいつそんな時間があるんだよ、このお店ほぼ24時間営業じゃん、と思いながら

「へ〜、おめでとうございます〜。」

気のない声で返してしまった。
気のない返答が気に入らなかったのか、マスターにすかさず槍玉に上げられる。
「ちょっとさ、あんたもうすぐ30歳なのに、何か恋愛とか浮ついた話もしないで、こんな所で飲んでてさ、どうすんのよ?結婚とか子供とか、同級生はもうそういうのやってるでしょ?」
耳が痛い。
確かに最近飲む仲間は、まだ独身の奴らばかりで、何となく、地元の安定した友達とは毛色が違う奴らだ。
何となく、結婚とかどう考えてる?みたいな話が出ても、笑い話ではぐらかして、見ないようにしてきた問題だ。

「あんた携帯貸しなさい!」

仕事のできるマスターはよく来る俺の手元なんてお見通し、手際よくロックを解除したようだ。これだからいい店というのは侮れない。

「はい、マッチングアプリ入れました。頑張ってくださ〜い」

手元に戻ってきたチタン製のスマホは誇らしげにピンク色のアプリで俺の顔を照らしていた。

「これね、すごいのよ。近くにいる人とか、年齢とか、自分の趣味に合う人を探すことができてね〜。性的嗜好とかもマッチする人も探せるのよ!すごくない???ちょっとー、全然興味無いじゃない!右にスワイプしたら好きな人、左にしたらそんなに好きじゃない、ってこと。簡単でしょ〜。ほらやってみなさいな。はい、上手〜!」

きっと会ったら写真と違うんだろう、と思うような笑顔の女性がスワイプすればするほど出てくる、すごい時代だ、と思ってしまう俺はもうおじさんなのか。

「あんたさ、別に結婚とか恋愛とか、どうでもいいと私も思ってるわよ。でもね、とにかく悔いのないように生きなさい。私なんてね〜…」

あ、スイッチ入っちゃった。マスターの過去の悔いトロフィー受賞者達の話が始まる。今日はきっと帰れないな、仕事は明日徹夜しよう。と目の前で楽しそうなマスターを見る心地よさに身を委ねて、手元の冷え切ったお湯割りを流し込んだ。


最初は無視していたアプリだったが、電車の中で隣に座る男性や女性が意外と同じアプリを開いているのが目に入り、俺もなんだか背中を押されるように気付いたら開いてしまっていた。
せっかくやるのであれば、何かしら意味のあるものにしたい、そう思ってしまうのも俺の出身大学のせいなのか。

「きせつー。お前さ、最近なんか、魅力無くなったよね。」

早瀬の言葉が頭をよぎる。
俺の魅力…。俺の魅力を活かしてアプリをやるのであれば…。
俺は検索欄を開いた。

俺が打ち込んだのは夏という文字だった。
理由は分からないが、この自分の所在の無さを埋めるために俺は自分の名前に入っている季節の人に会いたくなった。そう、俺は自分の中の季節を探すことにした。
端的すぎて、伝わらない、が…本当にいうのも憚られるくだらない事なのだ、俺は春子、夏子、秋子、冬子を探す。
この現代に春子、夏子、秋子、冬子が存在するのも信じがたかったし、何もかも明確ではないけど、仕事以外に何か、30歳になる前に、自分の中に、特別な記憶を植え付けたかっただけなんだ。
俺はマスターが入れたマッチングアプリで、俺は季節の名前のついた人を探し、その季節にその人と関係を持つ、という行為を始める。
文字に起こすと、本当にくだらないですが、僕はこの1年間で最大4人の人と関係を持ちます。
一人称が僕になってしまうあたりに、俺の動揺を感じてくれるだろうか。
とにかく、くだらない事がやってみたかった。



結果
春子、夏子、秋子、冬子は現代の日本に意外と存在した。
目的は季節の名前がつく人と関係を持つこと、の為、今回ステータス等というどうでも良い名目には目もくれず、目的達成の為に、一番早く会える人から会うことにした。






「あんたさ、自分の経験したことしか作品にできないなんて、そんなんで作家って言えるの?」

暑い。
湿気と熱気が入り混じる、京都駅前のマクドナルドで、すらっとした腕を組みながら、夏子が言う。

「僕だって、そう生きたいわけじゃないから、ここに来てるんです。」

暑さのせいで、少し苛立った口調で僕は言った。
そう、俺は夏を体験しにきた。
ドイツ人が散歩をする事に目的を持たないように、僕は今、夏を体験する。

夏子

「それで何?あんたさ、自分の為だけに私の貴重なこの夏を捧げろって言ってんの?」

「はい、その通りです、本当にすみません…」

いつも隠れている気弱な僕が謝っている。
メッセージのやり取りから感じ取っていたけど、夏子はとにかく気が強い。
切長の目に黒い長髪、スタイルも良くて、自分と歩いていると、兄妹なのでは無いかと錯覚するような絶妙な距離感だ。ちなみに今日が初対面。

「暑すぎるし、待たせたんだから、アイスコーヒーぐらい奢りなさいよ、本当。」

本当にその通り、新幹線のこだまとかのぞみとか、ネーミングがややこしいせいで、僕は各駅停車の新幹線で来てしまったから、到着は3時間ぐらい遅れた。
申し訳なさと、ほんの少しの緊張から俺はマクドナルドへ吸い込まれるようにアイスコーヒを買いに向かった。
その時、グイッと腕を引っ張られた。

「あんた、もしかして私がマクドのコーヒーで満足すると思ってるの?私が飲みたいのは氷までコーヒーでできた、店主が丁寧にハンドドリップで入れた、キンキンに冷えたアイスコーヒーなの。分かる?」

分からない。
なぜ、目の前にキンキンに冷えたアイスコーヒーがあるのに、この灼熱の京都をキンキンに冷えたアイスコーヒーを求めて彷徨うのか分からない。

「この土地を知らない奴が気安くマクドに入ろうとするな、アホ」

そう言って、颯爽と夏子はタクシーを止めた。
するりと絡められた(というより強引に捕まれた)腕は、少しばかり汗ばんでいて、俺は、あぁ今は夏なんだなと思いながらタクシーに乗り込んだ。


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どうやったら人は恋に落ちるのだろう。そんなことをタクシーの中で考える。
あまりにも無防備に投げ出された足はお世辞にもセクシーとは言えない。近くで見る夏子の顔はキラキラしていて、鼻から額まで汗が霧吹きのように覆っている。
訂正しよう。
どうやったら人は恋に落ちるのだろう、ではなく、どうやったら僕は夏子と恋に落ちるのだろう、であり、言うなれば、恋に落ちることはできない気がした、の方が正確かもしれない。

京都は歩くものだ!と自負し、あまりの日差しに辟易としている人々を横目に、まっすぐな道をタクシーは突き進む。こんな外れに喫茶店があるのかと、左手に鴨川を見ながらぼんやりと思っていた。

「ここを右で!」

外の景色には目もくれず、窓にぐったりともたれかかっていた夏子が唐突に大きな声を出すものだから、俺もタクシーの運転手も

「はい?!」

と、無意識に返事をしてしまった。彼女の声にはそういう有無を言わさせぬ力がある。(気がする)
公衆トイレなのか駅なのかわからない質素な駅を通り過ぎ、細々とした店舗が道路沿いに現れる。
観光客向けなのか、はたまた地元民向けなのか、誰に刺さるのかわからない『高級蜂蜜、採れたて』の日焼けたのぼりが、暑さにくたびれた向日葵と揺れている。

「ここを右で!いえ、すぐ下ろしてください!」

またもや決して音量は大きくないのにツーと耳の奥に届く声で、夏子が言った。
道路脇の小さな川からトトトトト…と水が流れる音がして耳が涼しい。
タクシーの降り際に僕は紳士らしく電子マネーで支払おうとスマホを持ち上げたが、すかさず夏子が「お釣り入りませんから、ご苦労様です。」とタクシーの運転手に可愛らしいポチ袋に入ったお金を渡していた。

スマートさの暴力である。
今回の夏は背伸びした方が負けだ、と僕は静かに悟った。

やけに”はらい”に癖のある漢字で予約名簿に夏子が名前を書いている。俺たちを除いて待っているのは1組。せっかちそうな夏子の隣で少しだけ、安堵のため息を吐く。

「女性の前でため息をつくと、嫌われると思う。」
夏子は大文字焼きの焼き跡を遠目に見ながら、ポツリと言った。
不思議とその声は耳に刺さる声では無かった。俺は言い返すでもなく初めて聞く水っぽい声を少しの間、頭の中で反芻していた。

店の名前は「葉山」
少しドイツ風な重みのある外観なのに、店の内側はお香の匂いと、鰹節のような匂いで満たされていて、入った瞬間に緊張がほぐれる不思議な店だ。
スマート貴女の夏子は「いつものを二つ」と注文している。

葉山といえば、幼少期によく親に連れて行かれたあの葉山を思い出す。一番近い海といえば、江ノ島や七里ヶ浜だったのに、俺の夏、海といえば、脳裏に色濃く残る葉山の澄んだ海だった。
葉山の海の近く、平屋の土産屋で買う網は、実家の近くで売っているような魚取りの網ではなく、漁師の息吹を感じるような、網目が荒く頑丈な網で、子供ながらにそれを手にすると少しばかり自分が強くなった気がしたものだ。
砂利が多い砂場のせいか、細かく揺れる海は光が乱反射してまさに煌めく、という言葉がぴったりだったように思う。ふと、人生で初めてちゃんとヤドカリを見た時のことを思い出した。

「ヤドカリって見たことある?」
「ヤドカリ?人間の?」
「いやいや、海に住んでいるヤドカリ」
「人間のヤドカリなら沢山見たことはあるけれど、海のヤドカリは水族館でしか見たことがないわね。」
「待って、人間のヤドカリってなに?笑」
「え?ヤドカリって宿を借りる、って意味でしょう?そういう人間なら沢山見たわ。」
「どこで?」
「家で。」
「いえ?家ってこと?君の家はそういう家なの?」
「そうよ、沢山の人が来る家。でも宿ではないから、ヤドカリではないかもしれないわね。言うなれば…なんだろう、良い言い換えが見つからないわね、ヤドカリ笑」
ヤドカリの発音を偉く気に入ったようで、夏子は「ヤドカリ…ヤドカリねぇ」とぶつぶつ言っていた。

「お待たせしました。」

夏らしい生地の着物を纏った初老の女性が、テーブルの上にアイスコーヒーを二つ置く。
心細そうに、溶けてしまいそうな氷を浮かべたアイスコーヒーは、僕の心を映しているようで、今にも助けて欲しそうだ。喉が渇いていたのもあって、夏子のことも気にせず、ひとまず口をつける。
その瞬間、夏子は大きな口の口角が目につくほどに満面の笑みを浮かべた。


「めんつゆです。」

口の中のめんつゆを吹き出し、大きく咽せる涙目の俺。この佇まいで蕎麦屋かよ…。
腹を抱えて笑う夏子の声は大きく弾けて、高い天井にぶら下がる燈を揺らす。
窓の外の蝉も負けじと、一際大きな声で鳴いていた。

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