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読書が捗らない時

なんとなくページをめくるペースが普段より遅い気がする。内容はさして難解ではなく、単調過ぎることもない。しかし、読んでいる途中で無駄な思考を巡らせていたり、スマホが気になったりしてしまう。読んだはずの文章をもう一度目で追うも、内容を処理するのに時間がかかったりする。あぁ、捗らないなって。こんなとき私は色々なアプローチをし、無理やり読了を試みる。拙い方法論ではあるが、どこかのだれかの役に立てればなと思い、シェアすることにした。


外で読む

カフェや喫茶店に出向いて、読む
私にとって一番効果が期待できる手法で、これで集中できなかったら、半分あきらめるつもりでいる。

読書において外的な要因の影響は大きく、環境を変えてしまえば人間は結構集中できる。やはり絶え間なく話し声や雑音が発生しているが、それらは私を邪魔することなく、むしろ一種の心地良さとまで思える。対して家での読書は常に無音の状態だが、静寂の中に聞く雑音(十中八九耳鳴り)は外で聞く雑音よりよっぽど煩わしい。

ただ外で読む際は、一度の読書に逐一出費が発生することを忘れてはならない。もちろん読書の頻度や経済的状況で人様々に異なるが、私は読書の度にコーヒー1、2杯の金額を支払うほどの余裕はないので『カラマーゾフの兄弟』くらい難しい本に限りカフェに一緒することを許している。


レビューをみる

肯定的な感想を眺めると、読破欲をお手軽にかきたてることができるのでおすすめする。ネタバレ込みのレビューは言語道断だが。

手にある本の情報を知らないまま読むのは、面白さを手探りで探すことであって、時たまそれが難しい作品もある。難解だが名著と呼ばれる作品と戦っている際に無意識に感じている人も少なくないだろう。思うに、他者が見出したその本の面白さに則ってする読書も案外悪いものではない、ということは読書好きの隠れた共通認識ではないだろうか。

ただ、あなたが読了を強く目指している際は、辛口なコメントから目を背けることを勧める。

そのコメントはあなたの「この本って実は面白くないんじゃない?」という思考を加速させるから。


映画やドラマを観る

いったん本を閉じ、映像のコンテンツを視聴する。

最初に言っておくが、これは読書そのものの楽しさを再確認することが目的なので、途中で観るのをやめても構わない。

読書は羅列された文字の情報を自分で処理する必要がある。脳内で情景を浮かべ、誰が話しているのか、どこにいるのか、何がおこっているのかを文字からのみで想像しなければならない。これは結構体力を消耗することで、楽しみたいけど疲れたくないから今日はやめておく、のような娯楽としては珍しい側面もある。

映像コンテンツはというと、文字からイメージをかきたてる必要がないので受動的に楽むことができる。数多の伏線が張り巡らされていたり、登場人物がやけに多かったりなどそこそこ疲れる映画やドラマもある。が、それでも付随する疲労は娯楽としての範疇にとどまるものがほとんどだ。

本の中には、読み終わった際に、42.195kmを走破した後のような、少しの間動けなくなる感覚を伴うものもある。それは達成感と呼ばれることもあるが、疲労でもあることを私は知っている。

私は、読書の最大の長所を「余白」だと思っている。本の中では、語られた場所や時間、登場人物の名前は確かなもので、逆にそれ以外の事柄は自分で決めることができる(例外もあるが)。ヒロインを気になっているあの子の顔に設定できるし、救われないキャラをいけ好かないあいつの顔にすることもできる。自分務める主人公と気になっているあの子が務めるヒロインが恋に落ちる映画なんて、ほとんどの人がほとんどの場合観ることができない。

私はそういった「余白」の楽しみを忘れないために、たまに映像媒体の作品を覗きに行ってみることにしている。


あきらめる

もちろん、上記を全て試しても一向に読み進めることができない本もある。私はそんなとき、潔くあきらめしまう。ただの趣味だから、楽しむことが最優先であって、性に合わない本は無理して読む必要などない。

作者へのリスペクトが足りなくみえるが、実は途中であきらめた本はそこそこだった本たちに比べて圧倒的に記憶に残る。なので、その記憶を免罪符としている。

これも読書好きの隠れた共通認識なのかもしれない。

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