僕を整理する

10月15日(静謐の中で狂気になる。土曜日)

苦労というものを知らずに生きてきた。私はぬるま湯で茹で上がったマヌケなタコです。
芯のある男になりたかった、タフな男になりたかった、誠実な男になりたかった、思想を実生活で活かせる男に、本物の審美眼を持った男になりたかった。
「道の人」バラモンに近づきたかった。

父は昔悲惨なほどに貧乏だったそうだ。私の祖父、つまり父の父は賭博に溺れ、借金とまだ学生だった父と、祖母を残し病死したと聞く。
生活は困窮を極めていた。保険証すらも持っていなかった。祖母に当時の話を聞いた時後悔のこもった表情で泣いていたのがいつまでも忘れられない。

父は生活においてどれ程悔しい思いをさせられてきただろうか。
父の母は立派だったが知恵を持たなかった。不良だった父は誰にも頼る事ができなかったはずだ。

私は小学生の時に父を見てたびたび不思議に思った。いつも朝5時半に家を出て帰ってくるのは夜11時頃だった。そのように過酷な仕事に追われ続ける生活がなぜできるのか理解できなかった。何が楽しいのだろう、そんな人生私は嫌だと感じていた。

今までの父の人生は楽しいものだっただろうか。責任を背負い過去の生活に起因する復讐心にも近い反骨心を持ちただひたすらに猛烈に仕事をこなした。それは私の勝手な想像にでしかないが、父の目の奥の力強さの中には、いつも怒りの感情があったように見えた。

父には堅い意志があるのだ。昔のような思いは二度としたくなかっただろうし自分の子にもそのような思いをさせないという決意をして生きてきたのだろう。お陰で私は楽しく学生時代を過ごせた。父の人生の目標は一体何なのだろうか。もしそれが子を立派に育て上げるということであればそれは達成されただろうか。

いや、達成されているとは言えない。私は父の苦労に見合うだけのものを返していない。私にはやらなければならない事がいくつもある。この身は私一人の問題ではないのだ。老いた父を私は支えなければならない。もちろん母も、弟も恋人もだ。金が必要だ。皆が笑顔でい続けられるだけの金を稼ぐのにどれだけの労力が必要だろうか。

私は金を稼ぐのが嫌いだ。和気あいあいとした社会の輪には馴染めない。哲学の事を考えながら一人で必要な分だけ稼いでのらくらやっていきたいと思っていた。背負えないものは背負わないでおこうと思っていた、だから反出生主義の勉強などに傾倒したのだ。でも事実私はもう既にいくつものものを背負っている。

考えと生活に折り合いをつけないと生きていかれない。頭痛を抱えるようになったのは哲学のせいだが、正しいのは社会よりも哲学のほうだ。だから私はある程度間違い続けながら正しくあらねばならない、そうでなければならない。

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