化物を信じている

 生きている。そして、生きているということは、すなわち化け物を信じているということでは、ないだろうか。

 僕は、生きている。

 生きていることは、信じているということだ。

 僕が生きていることを、生き続けていくことを、僕が信じているということだ

『サラバ!(下)』西加奈子 p.270

「自分なんて」が自分の生きる通底理論で、「気にかけて欲しい、なんておこがましい」と思ってしまうのはとてもとても当たり前のこと。

自分が他人の時間と労力を使うことを自分にあまり許せない。そんな人間じゃない。俺みたいな瑣末な有象無象に他者の人生に関わる権利などないのだ。


「卑屈だなあ」と他人事のようにも眺められるのに、いざ人と関わるとなると、「自分みたいな虫ケラが」とか平気で思い浮かぶんだから不思議なもんだ。

自己評価が低くて、他者との関わりが億劫で、あんまり相手に共感できない。三拍子揃って「社会不適合」ではある。

とはいえ、ひとつ決めていることもあって、それは「自分の存在をこの世界の条件とする」こと。どんだけ自分のことを「虫ケラ」だと思おうが、「自分なんていない方がいい」という結論を避け続けること。

結局、自分の存在意義なんて、どんな命題を立ててみたところでその真偽は、本当に確実な形では確かめられない。見ようによって、「生きている意味はある」し、見ようによって「生きている意味はない」

としたら、現状を妥協して肯定するほうが、労力が少ない。自分がこの世に存在してしまっていて、なおかつ社会と関わってしまっていること。これを肯定する。自分が生きていることを条件としてこの世界で生きていく。

最後までありがとうございました。ゆるく生きていきましょう。