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わたしが不登校を受け入れる過程は、死の受容プロセスと同じだった

今日、同じ不登校の子どもを持つ親であり
不登校支援をしておられる方と話していたら
“死の受容プロセス”ということばが浮かんできた。
 

死の受容プロセスとは、アメリカの精神科医 エリザベス・キューブラー=ロスが自身の著書【死ぬ瞬間】の中で提唱したもの。
死にゆくひとの心理過程は5段階あり、必ずしもこの通りではないけれど
否認(死を認めない)→怒り(死ななければならないことへの怒り)→取引(延命のための取り引き)→抑うつ(死ななければならないことへの諦め)→受容(自分の人生の終わりを静かに見つめられることができるようになり、こころに平穏が訪れる)
という流れをたどると提唱している。
 

急に、本当に突然
“わたしは子どもが不登校になったことで死の受容プロセスをたどったんだな”と、自分の中で腑に落ちた。
 

わたしの中で死の受容プロセスをたどって死んだものは
いのちではなく
アルプスの少女ハイジに出てくる、子どもを厳しく躾けるロッテンマイヤーさんみたいなわたしだった。
 

世の中(や自分)の価値観を正しさの基準として子どもをきびしく躾けること・できるようにさせること 
 

それが正しいことだと信じて疑わないわたしは
そうすることで将来幸せになるんだと信じて疑わないわたしは
子どもたちにとても厳しく接してきた。
 

子どものこころを置き去りにして
子どもの好き・嫌い 快・不快を受け取らず
子どもの気持ちを聴こうともしないで
子どもの感情を無視して
指示・命令の子育て
 

でもそれは、
自分のこころを置き去りにして
自分の好き・嫌い 快・不快も受け取らないどころか自分がどう感じているのかもわからず
自分の気持ちを聴こうともせず
自分の感情を無視しながら
自分に対して“親なんだから〜しなきゃだめ”“母親として〜するべき”と指示・命令してきた
自分自身に対してしていたものでもあったんだと、
しばらく経って気付いた。
自分の気持ちを無視して、寄り添うことなく否定して、拒絶して、自分を責め裁いて生きてきたことに気付いた。
ここに気付けたことは、とてもとても大きな宝物として今もわたしの中にある。
 

子どもが不登校になって
“いやいや、学校行けるでしょ”と不登校を認めず(否認)
“なんで学校行けないの!”と、不登校に対して、学校に適応できない子どもに対して怒っていたし(怒り)
“どうすれば学校に行けるようになるんだろう。そのためにはなんでもする!”と願って(取り引き)
“何をやってもだめ。。学校に行かない。。”と、学校に行かせることを少しずつ諦め(抑うつ)
この辛くて苦しくて長い産道を通り抜けて、
“不登校でも全然いいじゃん”(受容)
と、こころから思える今ここにいる。
 

 

今までの自分(今までの概念・価値観=世界)が死ぬ
 

それほどわたしにとって本当に不登校という現実・学校に行かない子どもたちを受容できるまでは
ものすごく葛藤し
辛くて苦しかった旅路だった。
 

 

#不登校
#不登校の親
#不登校支援
#不登校は不幸じゃない

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