見出し画像

それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第46回 鉄女寺の参拝者たち

(59)昼の栄養補給を済ませ、三たびタクシーを拾う。荊州には地下鉄が存在せず、また今回の我が旅程には「ゆとり」がない。せわしないがタクシーばかり利用する。昨日の民主街(ミンジュージエ)と賓興街(ピンシンジエ)につづき、これより城内の三義街(サンイージエ)に潜入する。例によって、あらかじめ中華地図アプリや谷歌地球(グーグルアース)をたよりに、散策に適した古い街並みを探し当てていたのである。クルマは昨日訪れた荊州博物館付近で停車。運賃は10元だった。荊州中路(ジンジョウジョンルー)に面した三義街入口には、紅い塗りの木製牌坊(はいぼう)が建つ。足元には四基の礎石。細工付きの檐(ひさし)があるところから、これは牌楼(はいろう)というべきか。小型で地味な造作ではあるけれど、こんなモニュメントの存在からも、住民たちの愛着が透けて見える裏通りである。道幅は7、8米(メートル)。路面の舗装状況が良く、どことなく清潔感がある。通行人もバイクも少なく、ただただ静かな印象。理髪店、八百屋、配送屋といった小店が並び、その後もちらほら商舗を見かけるが、少し行くと完全に住宅街の趣に変わる。聞こえてくるのは、オート三輪のクラクションのほか、食器のふれあう音や子どもの泣き声くらい。そう、こんな棟割長屋みたいな家々が建ちならぶ路地というのもまた、一人そぞろ歩きが楽しいものである。誰からも招かれちゃいないが、ついつい、おじゃまします、と覗いてみたくなる。そして、こんなロケーションで出会う前時代的な風景からは、街ナカの新施設などキラキラした部分と対照に、歴史都市が持つ懐深さとか奥深さが感じ取れる。昨日訪れた民主街と賓興街も良かったが、狭いながらもリヤカーやバイクがひっきりなしに行き交う、古い街道風の街並みだった。こちらはもう少し閉鎖的な路地である。今日も現代的ショッピングモールを訪れた直後なだけに、いま歩いている三義街には、いっそう古き良き散策ゾーンとしての面白みを感じる。この地区には、かつて歩いた江南の蘇州や揚州、そして紹興の路地裏みたいに愛くるしい雰囲気が、今なおギリギリで残っている。荊州中心部ではもう此処(ここ)だけかもしれないし、あるいはすぐにでも消滅してしまうかもしれない。間に合ってよかった。到着早々、そんなことを思う。

(60)この三義街から一本横道へ入ったところに、鉄女寺という仏教寺院がある。途次、おみやげ用のタバコを数箱買ったのだが、そのタバコ屋のお姉さんが赤ん坊を抱えながら親切に寺までの道を教えてくれた。指示どおりに行くと、燃えたぎるように紅(あか)い壁と、門前の渋い獅子像に出迎えられる。ここは唐の貞観年間に建てられた、千年の歴史を誇る古寺である。文革期には中学校の敷地となり、それが終結するとまた再建されたという数奇な沿革をたどる。さて、門外からは緑濃き境内と想像したが、ひとたび足を踏み入れると、背の高い樹木はわずか数本のみ。狭い敷地ながらくっきりとした陰影のコントラストが認められる。そして、からっと晴れた空の下では国旗・五星紅旗が悠然とたなびいていた。当寺の雰囲気にそぐわない気もするけれど、これもまあ時勢だろう。他にも、中国共産党の通知やスローガンが書かれた巨大看板が立て掛けられていたりと、参詣中も党の存在を無視できない仕掛けに仕上がっている(当寺の法会に関する案内よりも掲示サイズが大きく、そのギラつきぶりはサブリミナル効果なんてものじゃない)。さてと、そもそも鉄女寺という、英国の某元首相を連想させるような物凄い寺のネーミングであるが、その由来もまた強烈である。一説にはこうだ。今は昔、荊州に孫(そん)という鉄匠あり、農具をこさえて二女を育む。あるとき官より下命を賜る、一月以内に鋼鉄千斤献上せよ、間に合わざれば斬首に処すと。いったいなんの因果であろうか、こうして窮地に追い込まれてしまった孫の娘たちは、心をひとつにして、燃えたぎる高炉のなかへ飛び込んだ。するとアラ不思議。炉の内部から、なんと千斤(きん)の鋼(はがね)と二人の姿をした鉄の像が出てきたという。ふむふむ。もう一説は、鍛冶(かじ)の監察官であった孫という男が冤罪(えんざい)のために投獄され、そこで無実を訴える娘たちが炉に飛び込んだ、という話である。地元の『江陵県志』には後者の逸話が採られているそうだ。ともかく、この烈女伝説がいたく荊州人の心を打ち、彼女たちのために祠(ほこら)が建てられ、のちに寺に改められたのだそうだ。なるほど、鉄女殿なる建物を覗くと、伝説の姉妹と見える像がガラスケース内に仲良く並んでいる。それぞれ薄水色と桃色の着物に袖を通して。ぼくは孝女たちに一礼して「功徳箱」に硬貨を投げ入れた。

(61)本殿では、紐約(ニューヨーク)・洋基隊(ヤンキース)のTシャツを着た男が、膝立ちの姿勢で祈りを捧(ささ)げていた。正確にいうと、黄色い布をかぶせた座布団状の台に膝を当てて、しゃがんでいる格好に近い。法事の最中だろうか。殿内中央では僧侶が3、4人、椅子に座って木魚を叩いたり鐘を鳴らしたり経を誦(よ)んだりしており、その正面には件(くだん)の男ともう二人の男性、そして左右の暗がりには親族らしき老人や若い女性の姿が数名見えた。本殿の奥には三体の仏像が並んでいる。すべて金ピカで何をモチーフにしているのか分からぬが、花や冠にも見える頭上の派手な装飾が独特である。ぼくは、日差しの強い屋外からこの様子を覗いていた。ずいずいと本殿に入っていける雰囲気でもない。いつまでもつづくお経を聴きながら(これが途中からハイテンポになった)、境内をめぐることにした。外の木陰では、彼らの子供であろうおチビさんたちが行儀よく石造りの椅子に座り、スマホをいじっている。卓子(テーブル)の上には、大人たちのカバンや買い物袋、そして飲みかけの農夫山泉(ノンフーシャンチュエン=ミネラルウォーターの有名ブランド)のペットボトルが数本。境内はうだるような暑さだ。ぼくも携行する清涼飲料をぐいっと飲む。その時、突然アイフォンの定番の着信音が鳴り出した。よくできた子供がそっと来電を伝えに行くと、本殿から母親がバタバタと出てきて、喂(ウェイ)と電話に出る。さすがに用件を聞いてすぐに切り、またいそいそと殿内へ戻っていった。一家の祈りはまだ続いていた。木魚が早打ちされている。コツコツコツコツ。ヤンキースTシャツの彼はおそらく、一家の長男坊だろう。おなじみのNとYを組み合わせた背中いっぱいの群青のマークが、いま仏殿の紅い壁と三体の仏像をバックに、読み上げられる経のなかで妙に神々しく見えた。鉄女寺の壁の色と木漏れ日はどちらも強烈に暑苦しかったが、時おり樹々(きぎ)が風にそよぎ、サワワッと音を立てていた。みんなに幸いあれ。ぼくは灼熱の屋外から拝んだ。阿弥陀佛(オーミートゥオフォー)。

三義街入り口の牌楼。小ぶりながら装飾細やかで存在感たっぷり。
対面の家屋にまで枝葉を垂れる樹木と、石畳風のきれいな舗道。
三義街を右に折れて鉄女寺巷。寺の紅い壁がつづく。
本殿で祈る人たち。結局中に立ち入ることはできず。
日が容赦なく照りつける。中央のポールには中国国旗がひるがえる(画像外)。
社会主義の標語を示す掲示。仏教行事を紹介する看板もあるのだが...

この記事が参加している募集

#地理がすき

703件

#この街がすき

44,017件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?