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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第35回 本場の本場の関帝廟

(25)後漢の関羽(?─220)は河東郡解県、現在なら山西省運城県の人。中華街(チャイナタウン)でおなじみ、赤ら顔と長すぎる髭(ひげ)がトレードマークの神様でもある。美髭公(びぜんこう)なんていうあだ名もある。偉大すぎる彼の経歴は、あえてここに紹介するまでもないが、蜀漢の始祖である劉備(昭烈帝、字は玄徳)の義弟であり(さらに年下の三男坊が本書冒頭で登場した張飛)、人並み外れた武勇と忠義でその名を後世に轟(とどろ)かせる、そんな三国志きっての英雄である。四川盆地の成都を拠点に漢王朝復興をめざした主君の劉備から、彼は長らくここ荊州の守備を任じられていたが、敵の策略や仲間の裏切りもあって、最後は呉軍に敗れ、処刑された。死後は講談や戯曲や通俗小説『三国志演義』によって数々の逸話が盛られ、同時に商売神としても中華圏全域で祀(まつ)られるようになった。このように虚実ないまぜの伝説に彩(いろど)られた関羽像については、維基百科(ウィキペディア)などで手っ取り早く知ることができるし、アニメやゲーム、映像化作品では映画「赤壁」(レッドクリフ)、中央電視台の大河ドラマ(1994年版と2006年版)などでもお楽しみいただける。ちなみに、先ほど「荊州の守備」と書いたけれども、これはぼくが訪れている当市のことばかりではなく、現在の湖北省および湖南省のほぼ全域にまたがる広域の州の名である(後漢当時の中国は13州に、三国時代は14州に区分されていた)。ややこしい話だが、当時この「荊州」エリアに含まれていたのが、襄陽(襄樊)・南陽・新野・江夏(武漢)・江陵(荊州)・夷陵(宜昌)・長沙といった都市である(カッコ内は現在の都市名)。昔江陵と呼ばれた現在の荊州市は、先述したように関羽が築いた居城が残り、そのため三国志ゆかり古城として特に知られている。そうそう、ひとつ谷歌(グーグル)で「関羽公園」と入力し、画像検索してみてほしい。2016年建造、高さ58米(メートル)におよぶ像の偉容に、荊州人の並々ならぬ「関羽愛」を感じていただけることと思う(ただし日本国内でも報じられたように、この像は2020年に市当局から違法建築と認定され、撤去・移設のため2021年9月に解体作業が開始された)。

(26)そんなわけで、なんたってここは財神・関羽さまのお膝元である。『荊州府志』によれば関羽の屋敷跡だという。明の洪武29年に建てられ、以後改築が重ねられたそうだ(現在の建物は1987年のもの)。本場荊州の関帝廟といったらどんなに煌(きら)びやかだろう。きっと参拝客でごった返しているに違いない。信心深い彼らは、朝に夕にもくもくと線香を炊き上げ、わいのわいのおしゃべりに明け暮れていることだろう。そのように想像していた。ぼくは18元を支払い、勇んでこれへ入場した。ところが意外や意外、その内部は非常に簡素な佇(たたず)まいで、ごくおとなしい見学者グループが少数確認できるだけであった。ぼくはちょっと拍子抜けした。商売の神さまだぜ、荊州人よ。いちばん大事な信仰対象じゃないのかい。でもこの様子だと、催事があれば活気づくという雰囲気でもないようだ。これまで、民間信仰の王道である道教の廟にもかなり足を運んだが、ここはかなり地味な部類である。よくいえば静謐(せいひつ)で、象徴的にまとめられたスピリチュアル空間なのだけど、逆にいうとボテッとした装飾性に乏しく、中国らしい何でもアリ感に欠けている。余談だが、一番思い出に残っているのは、福建省泉州市の関帝廟だ。屋根の上のカラフルな龍たち、梁(はり)の彩色画、線香や蝋燭(ろうそく)をあげる大きな香炉、人を売店や飲食店へと巧みにいざなう導線、存在感のある赤い提灯、お炊き上げの釜、地面や屋根にほどこされた段差など。これも画像検索していただけると幸いなのだが、建築や装飾の奥行きある立体造形が、伝統を重んじながら、じつにテーマパーク的で、やたら訴求力が強い。だから、参拝客が境内をめぐると、おのずと関羽信仰の世界観にどっぷり浸かることができるというわけだ。ぼくが訪れたのは1997年とずいぶん昔のことだが、最近の現地画像をネットで拾ってみても、良い意味で俗な雰囲気はまったく失われておらず、訪問者たちの高揚感が伝わってくる。ここ荊州の関帝廟とは真逆である。もしや、ご宗旨が違うのかな、と訝(いぶか)るほどに。さて、もう少し詳しく見てみよう。いま遊客たちの視線を集めているのは、中庭に建つ関羽像(これがなぜか劇画風タッチで格好いい)、そして境内の片隅に設置された、関羽を象徴する二つのお約束アイテム、つまり青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)と名馬・赤兎馬(せきとば)の像である。思うに、この聖地の見どころは、そんな各大道具・小道具のディテールである。そんな中で本殿の関羽像だけは別格というべきか、これが目の覚めるような金ピカ仕立てで、立ち上がれば3米はあろうかというデカいなりをしている。床几(しょうぎ)に掛けつつも、どっかりと腰を割った力士のような姿勢で、なかなか威圧感がある。また、とりわけ中国らしい香気を放っているのは、件(くだん)の三兄弟、劉備・関羽・張飛を祀る三義殿の前に、膝を折って伏している、お供えの牛・豚・羊の人形である。どれも全長1米半ほどと巨大なもので、造形が細かいうえ、カラフルに彩色されている。しかも、なぜか三頭とも目を開いてうらめしげに前方を見つめているのが、殿内の英雄たちの笑顔と対照的に哀感たっぷりだ。うん、生贄(いけにえ)の君たちは、なかなかいい味を出しているぞ。思わず三頭をねぎらう。それから境内の裏っ手へまわると、敷地の外は古い民家がごちゃごちゃと建て込んでおり、それは良い意味で情緒もへったくれもない、日常感たっぷりの生活風景だった。ふと見上げると、巻雲(けんうん)ただよう青空が広がっている。時間を忘れるような、広い青空だった。ぼくは、この静かなるパワースポットでゆるりと深呼吸をした。

(27)なお、この関帝廟には、清の乾隆帝および同治帝の恩賜(おんし)と伝わる扁額が掛かっているという話なのだけど、中国アプリの「ビリビリ動画」で確認した1988年の映像と眼前の実物とを比べると、まったく違うものが掛かっている。いったい、いつ何がどうなったのか知らぬが、現在は額のふちに沿ってラーメン丼の如き紋様、すなわち龍餮紋(りゅうてつもん)が金色で描かれるなど、かなりデザインが変わっている。はて、有り難き「本物」はどこへ行ったのだろう。それから、殿内の関羽像は当時と同一に見えるが、それでも以前は金色でも何でもない、彩色なしの普通の銅像であった。全体としては、たいへん落ち着いた質素な印象の関廟であるが、変なところでマイナーチェンジを仕掛け、そこに金ピカ趣味がことごとく顔を出しているのである。感想は、関羽を祀る場所はもっとコテコテの中華趣味でないと雰囲気が出ないよ、ということである(日本軍による荊州占領時、関帝廟も被害を受けたという情報もあるので、勝手気ままにそんなことを書くべきではないのかも知れないが)。そういえば、周囲の賑わいある風景も、一応門前町っぽい名残はあるのだが、かといって昔ながらの商店が集中しているわけでもなく、いまは南門内外をむすぶ交通の要地としての役割が見えるだけ。もっと巣鴨や谷中っぽい、渋い雰囲気が感じられると思ったんだがなあ。17時5分、ぼくはちょっぴり消化不良な気分で関廟から退出、交通量の多い夕暮れの南門へ向かった。そういえば関廟には樹齢623年という、とんでもない太さの銀杏(いちょう)の木が立っていて、その手入れのため大がかりな竹の足場が組まれていた。関廟で最大の見ものは、この地の歴史を見つめてきた、その銀杏だったかもしれない。

  旧城 関廟 扁額新たなり
  干戈(かんか)雕像(ちょうぞう) 将の威に敵(かな)わず
  只今 惟(た)だ南門に魂(こん)のみ有り
  曾(かつ)て此処に家す 蜀漢忠義の人

  *原詩 旧苑荒台楊柳新 菱歌清唱不勝春 只今惟有西江月 曾照呉王宮裏人

『唐詩選』にも採録された、李白の有名作。英雄・関羽の魂魄(こんぱく)を思い、一礼しよう。

荊州きっての聖地・関帝廟に到着。
関羽の立像と大銀杏(右)。奥は本殿(サムネイルの金ピカ像はこの中)。
目力の強い、生贄役の牛くん、豚くん、羊くん。
英雄たちと戦場を駆けめぐった赤兎馬(左)。上の三頭とは別格の扱い。
青龍偃月刀のコーナーは当然、記念撮影スポットに。
本殿の裏の「三義殿」。左から張飛・劉備・関羽(宴会中のような笑顔)。
三義殿のさらに裏はこんな風景。下町っ子の居住地が広がる。

 蘇臺覽古 [唐]李白
舊苑荒臺 楊柳新たなり。
菱歌淸唱 春に勝へず。
只今 惟 西江の月のみ有り。
曾て照らす 吳王宮裏の人。

目加田誠『新釈漢文大系19 唐詩選』(明治書院,1964年)p.677-678

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