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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第53回 わが武漢日記のプロローグ

(01)車内で確認した最高速度は、時速195公里(キロ)。当代のキント雲ともいうべき夢の超特急は、西方の客をのせて江漢平原をひた走った。うねうねと蛇行して流れる漢水(長江の支流)をいくたびか越える。ぼくは少し眠った。

(02)武漢は湖北省の省都である。長江と漢水の恵みに育まれた中国有数の大都市で、人口は一千百万人を超える。都市のあらましや歴史については、維基百科(ウィキペディア)または百度百科(バイドゥーバイコー)を参照していただくとしよう。夏季の高温多湿はつとに有名で、重慶・南京とともに「中国三大火炉(フオルー)」などと称される(火炉はかまど、ボイラーの意)。酷暑は旅人の敵だ。ひたすら街を徘徊するスタイルだと特にきつい。今回は9月下旬ということで恐る恐るコースに入れてみたのだが、来てみれば連日の30度超え。粗忽(そこつ)な夏の虫よろしく、ぼくは火炉の洗礼を受けた。ちなみに2016年の中国気象局の見解によると、夏の暑さが厳しい中国都市ランキング(最高・平均気温、高温日数、湿度などから算定)は、①重慶、②福州、③杭州、④南昌、⑤長沙の順である。水域面積の広い武漢(第6位)は、他都市にくらべて近年の気温上昇が緩やかなのだそうだ。たしかに地図で見ると、武漢市は湖沼が多く、水びたしな印象ではある。まあ、それを言うなら上位の重慶や福州だって水が豊かな土地であるように思えるし、杭州なぞはビチャビチャな湿地帯に造られた都市なのだが。ところで、このごろは詳しい方もおいでだろう。そもそも武漢は、漢口・漢陽・武昌の3地区から成り、それぞれ趣の異なる街区が広がっている。つまり順番に、商業・工業・歴史の街、の顔を持つとされてきた。このうち漢陽へは日程上、足を延ばすことができなかった。漢陽といえば、帰元禅寺なる名刹がある。荊州・章華寺とならぶ長江流域の仏教信仰のメッカであるが、さて機を改めて訪(おとな)うことができるだろうか。平穏な状況が戻ることを願うばかりである。さあ、武漢滞在は2泊3日。中国内陸を代表する、このメガロポリスの実況を短期日程でカバーすることは到底できないが、名所見物がてら、引きつづき歩行者目線でいまどきの都市風景を再現していく。

(03)列車は16時23分、漢口駅に到着した。20世紀初頭の開業当時、アジア最大といわれた鉄道駅である。駅舎は近年再建されたものだが、百年前の欧風設計を踏襲しており、とっても素敵な外観だ。改札を出たぼくは、蒲鉾型ドームをもつ待合室と双子の時計塔がとくに映える、その優美な駅舎を飽きるまで写真におさめた。名城・武漢をめぐる第一歩の記念として。なお、新型コロナウイルスの集団感染発生地とされる華南海鮮批発(ホワナンハイシエンピーファー、批発は卸売の意)市場は、この駅から五百米(メートル)ほどの位置にある。駅周辺には、公園あり、博物館あり、病院あり、学校あり、ホテルあり。アパートにマンション、公安局や中共中央党校もあれば、商業ビル、オフィスビルも集中する。近代武漢(とくに漢口)の顔といえば、此処(ここ)からおよそ4、5公里南東、長江沿いの旧外国租界地であるが、漢口駅近辺も比較的早期に開かれた、繁華かつ多様な顔を保つ地区といえる。やはり場所柄というべきか、各種の卸売市場も散在している。商品ジャンルは多岐にわたり、あとで地図で確認しただけでも、果物、野菜、建材、鋼材、印刷用紙、インキ、図書などの市場の存在が知れた。

(04)駅からホテルまではタクシーを利用する。漢口駅から最寄りの江漢路までは、地下鉄2号線で一本。本当はこれに乗りたいところだが、一刻も早く背中の荷を下ろして街を徘徊したいので、できるだけラクをする。滞在中、いずれ地下鉄にはお世話になるだろう。ちなみに、この地下鉄は正式には武漢軌道交通と呼ばれ、全国6番目に開通した。もちろん中西部では最初である(2019年当時、9路線が営業中だった)。結局、乗り込んだタクシーの空調の効きは期待ほどではなかったが、いったんクルマが走り出すと、荊州とは比べものにならない都会的な眺めに、ぼくは思わずほっとした。そこらの道路や建物の質感は、東京や上海やソウルに見劣りしない。街路の清潔感や運転マナーにも、荊州には悪いが「文明」を感じた。余談だが、中国では礼儀正しさや洗練さを表すのにも、この文明という語をよく用いる。曰(いわ)く、文明用語で接客しましょう、列に並ばないのは非文明的です、私たち空港職員は文明の使者です、などと。ともかく、荊州と武漢の二都市は、完全に別の発展段階にプロットされる間柄であるということが直ちに実感できた。まるで、高速鉄道で204公里を走行するあいだに時空の歪(ゆが)みでも潜(ひそ)んでいたのかと錯覚するくらい、強烈な「文明的」断絶を感じた。そもそも漢宜線開通の2012年以前、荊州には鉄道貨物の駅しかなかった。旅行客は実質上、長距離バスか客船でしか、他都市と行き来できなかったのである。つまり、旅客鉄道開業の時期に関していうと、武漢と荊州ではじつに百年の開きがある。誰が見たって、この差はとてつもなく大きい。たぶん、ぼくは武漢の旅で、その厳然たるギャップをしかと見るだろう。だが一方、それを思うと荊州のイケイケな追い上げもまた、目を見張るものがあった。たとえば、二日間の滞在で目にしたショッピングモールとか、長江大橋とか、荊州城以北の大開発など。あたかも、中国が先進国にキャッチアップしようとするのと同じように、荊州のような後発組も今世紀のインフラ投資の後押しを受けて、国内の発展競争に挑んでいるわけである。そして考えようによっては、その名もなきキーパーソンこそ、高速鉄道の旅客のみなさんであったりするのかもしれない(そう思って車内を見渡すと、周囲の乗客たちがいずれも才気あふれる英俊の群れにも見えてくる)。小さな町を飛び出して、武漢で学び、武漢で働き、武漢で稼ぐ。あるいは、当地でビジネスパートナーと出会ったり、商売のアイデアを得たりして、それを故郷に持ち帰って事業をスタートさせるとか。考えれば考えるほど、可能性は無限である。移動手段の進歩や拡充、そして都市間のネットワーク化によってもたらされる利益は計り知れない。しかも武漢は、中国でも有数の四通八達の地。ひとたび武漢と繋(つな)がれば、その先には上海・蘇州・南京・杭州があるし、北は北京・天津、南は広州・深圳・香港へと通ずる。いわずもがな、海外との距離もおのずと縮まるわけだ。はたまた、西の成都や重慶の料理人が荊州にやってきて、チャンスを見いだし、其処(そこ)に最先端の四川料理を流行らせる可能性だってある。いや、すでにそれが現実となっているのかもしれない。

(05)閑話休題。前段をこのように書いたのは、当時湖北省を訪れていた自分に現地の実況を語らせていると、つい2020年以降の視点がそこに交錯して、都市間の連接と人の移動がもたらす「禍福」を考えてしまうからである。福を呼び込むはずの素晴らしい繋がりは、イコール、禍を拡散させるおっかない繋がりでもあった。思うに、人は福を語れば禍を忘れ、禍を語れば福を忘れる。ぼくらの社会が深刻な禍に犯された今だからこそ、あえて他方の福に光を当てることによって、この表裏一体の抜き差しならない関係が今後もぼくたちの前に横たわることを、ぼくは(武漢を通過した旅人として)記しておきたいと思うのである。とはいえ、いまは冷静に事態を見守るしかないし、このままディテールをおろそかに、力んで何かを論じていくことは避けたい。話を先に進めよう。

(06)途中、長江の支流、漢水に架かる晴川橋の下路式アーチが目に入り、その鮮やかな赤に目が釘付けになる。そこは長江と漢水の合流地点から、およそ五百米の距離。昨日は荊州市内で長江と出会い、数時間前には高速鉄道の窓から漢水を見つめた。広い大地でこんなに早く、二筋の流れと再び相まみえるのも、なんだか不思議な感じがする。ただ冷静に考えてみれば、歴史的には荊州から武漢まで長江を下ってやってくるほうが断然主流であったわけで、だから水運によって開けた都市間を陸路で急行しても、また水と落ち合うように出来ているのは自明のことである。けれどもそこは、隙のない理屈よりも無邪気な情感を優先採択しがちな旅人の心情。異なる経路をたどりながら、思いがけず親しい人と再会したように心は弾んだ。

(上)移動位置を確認しながら漢水を待ちかまえる。(下)実りゆく江漢平原。
広大な再開発エリアを通過して漢口駅へ入構(よくある風景)。
鉄道駅は市内に分散、本駅も特大サイズではない。左上は馬龍・劉詩雯らの広告。
コロナ報道で繰り返し中継された漢口駅(荘厳な出発フロアは撮影できず)。
車中から見えた晴川橋。漢水と長江の合流地点もすぐそこ。

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