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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第55回 税関博物館で考えたこと

(11)ホテルで背包(バックパック)を下ろしたのが、午後6時15分。周辺地理を確認してから外に出ると、あたりはもう暗くなっていた。徒歩5分で、ふたたび江漢関大楼(ジアンハングワンダーロウ)を訪れる。じつは、この歴史的建築はいま旧税関博物館となって租界時代の文物を常時展示している。口コミ評価が高く、入場無料。しかも夜20時まで開館というからありがたい(ただし2020年以降は17時閉館)。せっかく漢口に泊まるのだから、まずは租界の歴史をお勉強しましょう、ということで、薄暗い横っ手の入口から、石造りの重厚な建物へと潜入する。

(12)いや、この博物館が予想以上に良かった。現地を旅したり長期滞在している方ならよくご存じのことと思うけれど、中国の博物館や記念館というと、建物の立派さに対して展示品がショボい、がっかりさせられるというパターンが少なくない(コンセプト先行でパネル展示やお人形ばかりとか)。その点、此処(ここ)はというと、初心者にもちゃんと歴史を学習させてくれる、充実した展示内容になっている。まず、漢口の古地図をカラフルなライトで色分けし、英国・俄魯斯(ロシア)・法国(フランス)・徳国(ドイツ)・日本と各国租界区の概要をしめす。その後は往事の貿易や占領政策に関する品々、たとえば英国の大砲、紙幣や銀錠(いわゆる馬蹄銀)、道路計画地図、英文の株式譲渡契約書や領収書、横浜正金銀行漢口支店の銭箱、欧米製タバコの絵柄付き缶箱、手回し式の電話機、民国期の税務専門学校の卒業証書などを陳列している。晩清期の商港切手は単色刷でおもちゃみたいに可愛らしいが、荷を振り分けにした辮髪(べんぱつ)の男が画(えが)かれていたり、美しい楼閣や洋館の絵柄であったりと、なかなかユニークな作り込みである。次に、民国期の金錠、新聞、官報、港湾労働者の腕章、戦時下の臨時流通紙幣、蓄音機、競馬開催公告などの展示があり、国内資本の勃興による武漢の工業都市化の説明を経て、中国共産党の勝利へとつづく。旧時の税関オフィスを再現したコーナーもあり、なかなか凝った造りである。ぼくは、上海・外灘の代表的西洋建築で営業していた上海浦東発展銀行や東風飯店などを思い出しながら(どちらも1990年代後半に利用)、目の前の展示どおりに生き生きと税関職員が職務に当たっているさまを想像した。館内は団体客もいれば、家族連れも学生グループもいる。拡声器を使用したガイドも登場したりして時おり騒々しくなるが、それはそれで楽しい参観光景である。

(13)最後は現代。領導関懐(リンダオグワンホワイ)、すなわち指導者の気づかいと題して、鄧小平・江沢民・胡錦濤・習近平の四氏による武漢視察のエピソードが紹介されている(お決まりの構成である)。まあ、それはそれとして。その一角でぼくが驚いたのは、改革開放後の武漢の急速な都市化ぶりである。各年代の4枚の地図によって、「建成区(市街地)」の範囲が赤く示されていた。
 1949年   34.7平方千米
 1978年  (記載なし)
 2000年 295.7平方千米
 2014年 552.6平方千米
明治以降の東京の発展を見ているようだ。地図では、とくに1978年以降、成長が爆速化しているようすがありありと分かる。それまでの時期はどうしていたんだかという話であるが、この図を見ると武漢は、旧租界地区など初期に開かれた繁華街を残しつつ、これからも郊外環境を急拡大させるのだろうなと想像させられる(たとえば、多数の地下鉄路線や高速道路網が市民の移動をうながし、住宅の郊外化を進め、沿線に現代的な市街地を形成してきたのは、上海・深圳その他の都市でぼくらが確認してきたことである)。このように、館内展示には当然ながら中国の政治的意思が底流に読めるものの、全体としては近代武漢の成立起源が租界時代にあったことを解説する内容になっている。商工業や貿易といった経済活動に光をあてた、分かりやすい歴史描出なのだ。むしろ、ぼくが政治的に忠実な現地職員ならば、展示の過半を抗日戦争や内戦・解放、そして歴代指導者の偉業にあてたいところだが、実際はそうなっていない。誰がどこに収蔵していたのか分からぬが、昔時の舶来のお宝そのものが、ガラスケースの中から雄弁に歴史を語っていた。

(14)この大楼(ビル)の二階には、中庭みたいな屋外テラスがある。ぼくは椅子に座って、建物中央の時計塔をしばし見上げた。漆黒(しっこく)の空に、白や黄色の光に照らされた塔が、くっきり浮かび上がる。1924年落成だそうだ。熟年の裕福そうな中国人夫婦が一組、塔を指さしたり、一眼レフを向けたりしている。彼らは武漢っ子だろうか、それとも外地の者か。ごく静かで、また落ち着いた物腰である。ふと思う。二十一世紀のイケイケの武漢市民は、一体どんな心持ちで、地元の激動の歴史を振りかえるのだろうかと。いま見てきたように、武漢の都市的発展と交通網の拡充・高速化は、彼ら市民の経験値を確実にアップさせ、価値観の多様化をもたらした。そしていま、その多様化こそが武漢の成長の原動力になっている。ぼくに言わせれば、これに政治文化がシンクロしていないというだけで、彼ら自身はぼくらの何倍も、気が遠くなるほど多種多様である。しかも、強権的であるはずの政治が都市を急速に発展させ、結果的に後戻りできない人民生活の多様化をもたらした、というややこしい側面もある。またそうかと思えば、年々着実に豊かになり、自信を深めてきた市民が、ネット空間の言説を都合よく取り込むことによって、或る者は外国贔屓(びいき)になり、また或る者は排他的思考に傾くというように、物事はさほど単純ではない(この点は日本人も同様だろう)。さて、話はこの博物館の展示についてである。ぼくが、おやっと思ったのは、のちに改革開放へ舵(かじ)を切った「好判断」やその後の為政者の「功績」は別として、そもそも武漢が有していた商工業的アドバンテージこそ漢口の租界時代に形成された遺産であると、この博物館の展示が如実に示していることなのだ。かつて列強に踏み荒らされはしたが、民族資本が頑張って武漢を盛り上げ、最後は中国共産党が人民の窮地を救ったというのが全体のトーンではあるのだが、それは各展示の表題にすぎない。逆に、当館のめずらしく充実した物的資料がそのものが、その歴史語りから政治色を薄めている、というのが個人的な印象である。ぼくも入館するまでは、もっと列強憎しのトーンが強いものだと思っていた(そりゃだって日本も含まれてるし)。ところが、(小さな声で言わせてもらうが)当館では、日本のこともさほど悪く書かれていない。あくまで、中国が貧しくて弱い時代に、強気で外交してきた奴ら、その一味に加わるメンバーという位置づけである(そうした展示をぼくは終始すました顔で参観した)。この博物館の見学を終えてから、先述のテラスで品の良い夫婦を見かけたぼくは、同じくすまし顔であった彼らの心理が、ふと気になったのである。かようにリアルな近代史の痕跡が残る都市で、人は如何(いか)なる地理・歴史観を育むのかと。これを推し量るのはむずかしい。シロウトの街歩きや簡単なインタビューで答えの出せる問題ではないだろうし、実際は限りないパターンが考えられるだろう。やはり、他国を圧倒する経済力・軍事力が必要だと再認識する者があってもおかしくないし、北京・上海何するものぞ、武漢こそ「中華」だと地元愛を強くする人もいることだろう。もちろん、中国共産党の旅行団ならば、何はともあれ指導者の威光を称えるに違いない。いや、物心両面で豊かになった武漢っ子たちは、個人の生活や価値観を起点に、もっと冷静に歴史を俯瞰しているのかもしれない。ぼくらが例えば、横浜の開港資料館でペリー来航や開港地の発展をぼんやりと追体験するように。おそらく国や出身地にこだわらず、自分と家族のために利をもとめて行動すべきだと考える人も多いはずだ。そうしてみると各々、自分の生きざまに沿う歴史観がある、と考える方が自然なのかもしれない。広い国土で時と場所を移しながら、生身の中国人に向けて勝手にそんな想像をはたらかせてみるのも、旅先ならではの楽しみである。いわば、旅先で変化の傾きを見つめ(微分)、現場ならではのドキドキ感ワクワク感を覚えながら、ふと自分の旅の記憶や当地の歴史に思いを致し、各情報・感覚を統合して再理解を試みる(積分)のだ。さらに書籍や写真やお他人様の土産話・口コミなんかを組み合わせれば、旅の楽しみ方はまさに無限。さて、退館したぼくは、この特殊な歴史の街をあと二日間散策できることに、改めて興奮をおぼえた。どうしてもっと早く、この都市に来なかったのだろうとさえ思った。正面広場にまわってみると、そこは夕涼みの男女や風船を売る者たちでたいへんな賑わいだった。背後の高層ビルも、建設中のもの以外はもれなく電飾が煌(きら)めき、まさに中国の夜、夢の夜を演出していた。当の旧税関博物館の塔の上には、中国国旗である五星紅旗が威風堂々とはためいていたけれど。

税関オフィスの様子を再現したコーナー。
左上=団体客、右上=租界地図、左下=清末銀錠&民国紙幣、右下=商港切手。
左上=チェス、右上=清末天秤ばかり、左下=民国金錠、右下=1911年鳥瞰図。
左は1902年「漢口日報」と1905年「湖北官報」。右は電話機とシルクハット。
秘書課の執務室再現。窓からは沿江大道の夜景…租界時代を想像してみる。
指導者の武漢視察(毛沢東は長江大橋建設時)。右上は漢陽より漢口方面の景色。
一目瞭然…市街地の拡張を示す展示。中央に走るのが長江。
博物館裏側にある2階テラス。時計の上に五星紅旗がはためく。

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