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「器用貧乏」で「飽きっぽい」に自信を持っていい(「器用貧乏」連載③)

こんにちは。Light the Unightのじみーです。

「器用貧乏」と「飽きっぽい」に関する、僕なりの考えをお伝えする連載の第三回です。

前回は、「器用貧乏」も、「飽きっぽい」も、本当は、ひとつの「得意」、ひとつの「好き」でしかない。ということを書きました。

でも、「器用貧乏」で「飽きっぽい」とされる人が、実は、あるひとつのことが「得意」で、あるひとつのことが「好き」な人なのだとしても、その「得意」や「好き」が役に立たないなら、意味がないんじゃないか。何かを極められないなら、呼び方を変えることは、言葉遊びでしかないのではないか。薔薇が薔薇という名前でなくとも芳しい香りを放つのと同じように、だめなものはなんと呼ぼうとだめなのだから。

そんな疑問が湧くかもしれません。

これに対する、じみーの考えは、Yesであり、Noでもある、というものです。

いろいろ議論しても、結局具体的、実際的な違いがないのであれば、その議論には意味がないのは、その通りです。

でも、「器用貧乏」で「飽きっぽい」とされる人が、実はあるひとつのことが「得意」で、あるひとつのことが「好き」な人なのかもしれないと認識することは、重要なことだと思います。その人が、何をどうやって極めればいいのか、というところにつながるからです。

……では、「器用貧乏」で「飽きっぽい」人は、何を、どうやって極めれば良いのでしょうか。

今日は、このことについて、もう少し詳しく書いていきます。

自分が自分であることに、嘘はつかない。自分の「好き」と「得意」に自信を持つ。

この連載の第一回で、僕が昔、「器用貧乏」で「飽きっぽい」自分にコンプレックスを抱いていたことをお話ししました。ある友達との会話で、もしかしたら、自分は、ひとつのことがずっと好きだったのかもしれない、と考えるようになったということも。

そう考えるようになって、それまで抱えていた、「自分はなにも極められない」「自分はひとつのことを好きでいられない」というコンプレックスは徐々に薄まっていきました。

でも、代わりに、もう少し前向きだけど、同じようにモヤモヤと纏わりついてくる不安が出てきました。

考えてみれば、すぐにわかることなのです。

僕の「小説を書く」ということに対するちょっとした「好き」も、「何かを演じる」ということに対するなんとなくの「好き」も、語学に対する中途半端な「好き」も、コーヒーに対するそれなりの「好き」も、実は、あるひとつの抽象的な何かに対する「好き」という点では一貫しているのだとしても、その抽象的な「好き」をいくら突き詰めたところで、僕は小説家にはなれないし、役者にも、言語学者にも、バリスタにもなれない。

なぜなら、小説を書くことを極めるほど、小説を書くこと自体が好きなわけではないから。

だけれども、世の中の仕事とか生き方とかいうものは、基本的に「小説家」とか、「役者」とか、「言語学者」とか、「バリスタ」とか、というように、とても具体的なものに思えます。

(もちろん、日本の社会人の大きな割合を占める「サラリーマン」というのは、少し違うんだけど、「将来の夢」として「サラリーマン!」と言う人は、たぶん、あまりいなくて、多くの人は、「銀行員」とか、「商社マン」とか、「セールスマン」とか、「コンサル」とかの、もっと具体的なものを挙げると思います。)

だから、僕が抱えていたのは、

僕の「好き」や「得意」は、いったい何に使えるというのだろう。僕は、将来、何になれば良いのだろう。

という不安。

そんなある日、僕は一冊の本と出会って、ガーン、と頭を殴られたみたいに感じました。

ラーメンズの小林賢太郎さんの『僕がコントや演劇のために考えていること』という本です。

この本の中で、小林賢太郎さんは、彼の哲学のようなもの、考え方や生き方、仕事や作品との向き合い方なんかを書いているのですが、その一番最後に、彼は、こう書いていたのです。

 物心ついたときから、絵を描くことが好きで、不思議なことが好きで、笑っている人が好きでした。好きなことを仕事にしたいけど、面白くて美しくて不思議な職業なんてありません。だから「小林賢太郎」と言う職業をつくるしかなかったのです。(小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』)

ああ、これだ、と思いました。

僕は、「器用貧乏」や「飽きっぽい」という「枠」を取り払ったつもりでいました。でも、また別の、社会と思考の「枠」に嵌っていたんです。

自分の「好き」や「得意」をどんな仕事に使えるか考えるんじゃなくて、自分の「好き」や「得意」を突き詰めたらどうなるのかを考えればいいんです。自分の「好き」や「得意」とピッタリ重なる何かがないのなら、自分でそれをつくってしまえば良いのです。

もちろん、そうすれば誰しもが小林賢太郎さんのように上手くいく、ということではありません。

ここで大切なのは、

「私の好き、は使えない、私の得意は意味がない」、なんてことはない。

ということ。

僕の「好き」を使えていないのは僕なのです。僕の「得意」に意味を持たせることができていないのは僕なのです。

でも、それって、すごくもったいない。

だって、僕は僕でしかなくて、僕の「好き」も、僕の「得意」も、願っても変えられるものではないから。

だって、僕の「好き」や僕の「得意」が世の中の「枠」に当てはまらないのなら、それはきっと、僕が僕として生きるためのチャンスだから。

だから、今の僕には、あるルールがあります。

自分が自分であることに、嘘はつかない。自分の「好き」と「得意」に自信を持つ。


もし、この連載をここまで読んで、「だけど、私は、私の『好き』と『得意』がなんなのか、よくわからない」と思ってくれたのなら、僕の記事は大成功です。それは、たぶん、今までよりも前向きで、未来につながる疑問だから。

僕も、正直、自分の「好き」と「得意」がなんなのか、わかっていません。毎日悩み続けています。だから、ここから先は、僕自身結論が出ていることではありません。でも、次回は、僕が、自分の「好き」と「得意」を見つけるために考えていることを書いてみようと思います。

じみー

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