見出し画像

何を書きたかったんだっけ

「書きたいことを書くべきか」

「読まれやすいことを書くべきか」

どちらを取ればいいか悩む時期が、僕にも来た。noteを継続している人の多くも、この問題に直面したことがあると思う。

書くのが好きで始めたはずなのに、周りの反応を気にして自分が書きたいことよりも、ウケが良い記事を書こうとしてきている。こうなると、書くのがしんどくなってくる。

僕の場合だと大学院生ということもあって、理数系の記事は読者から良い反応をいただくことが多いんだけど、本当はそんなに理系の記事を書きたいとは思っていない。書いた後はすごい達成感があるけど、書く前は「これからしんどいな」と思ってしまう。

本当に書きたいのは、自分の心の動きなどの内面のこと。昔から一人で深く深く掘り下げて人生の意味とか、哲学的なことを考えるのが好きだった。物理学科を選んだのは、物理は森羅万象を扱う学問なので、僕の知りたかったその哲学的な問いに答えをくれると期待したからだ。あと、文系か理系か迷ったら、とりあえず理系に進んだ方がいいという周りの意見にも流された気がする。

でも大学院まで物理を勉強して分かったけど、物理は僕が興味を持っていたことと離れていた。物理はすごく理路整然としていて美しい学問だと思うけど、自分が興味を持っていた人間の内面のことを知るのには向いてなかった。もちろん量子力学など、物理学科に来ないと深く学べなかった知識を得れたのは、良かったと思う。


「書きたいことを書けばいいじゃん」と思われる方もいるかもしれない。でも自分が書きたいことを書き続けるのって、思っていたより勇気がいることだ。「理解されなかったらどうしよう」とか「誰も興味ないんじゃないか」とか、そういった不安がついてくる。

逆に読者の反応に合わせて記事を書くのは、読まれやすくて良い評価をいただける確率も高まるので、承認欲求は満たされるかもしれない。だけどそうやって読者に呼応しまくるやり方では、書き続けるのが嫌になると思う。

周りに好かれようと本来の自分とは違うキャラを演じ続けると、いつかは限界がくるのと同じように。理解されないことを恐れず、初めから素の自分を出していく方が長期的にうまくいくと思う。たとえ最初の印象は、良くなかったとしても。


そして自分が本当に書きたいと思っていることでも、突き詰めればすごいコンテンツになるのではないかと思う。最初は周りから「なんだそれ」と思われて、理解されないようなものだったとしても。

これは読者のニーズに合わせる方法とは、対極のアプローチだ。理解されないかもしれない恐怖を抱きながら、深く深く海に潜っていくような作業だ。だけどしっかりと自分と向き合い、深く深く潜って生まれた文章は自分だけでなく、多くの人にも響くものになる気がする。

というのも、僕は物事は深く突き詰めれば突き詰めるほど、普遍的なものになると思っている。物理には物性、素粒子、宇宙などいろんな分野があるがどの分野でも突き詰めていけば、同じ結果にたどり着くことがある。それと同じように一人が考えたことでも、それをかなり深化させれば、普遍的なものになると思う。

僕はそれを確かめたいので、これからは自分の内面のことを書いた記事を多くするつもりだ。このテーマなら、ずっと書き続けることができるし。やっぱり自分が無理せずに続けられるということが、何よりも重要だと思う。

あと、反骨心みたいなものもあるかもしれない。どこかで「一般人のエッセイは、読まれない」みたいな文章を読んだことがある。有名人や何かの分野のスペシャリストでなければ、エッセイは読まれないとのことだ。確かに何者でもないものが思索したことには、価値がないと思われるかもしれない。

僕はこの考えを覆したいとも思っている。自分と深く向き合って書かれた文章は多くの人にも届くことを、証明したいと思っているのかもしれない。

しかし書きたいことであっても、それを深化させて文章にするのは大変だ。すぐには理解されないと思うし、うまく言語化できなくて悩むこともたくさんあると思う。


だからこそ、継続的に書き続ける下積みを経験しないといけないのだと思う。まだまだ未熟者だけど、応援してくれる方がたくさんいると、嬉しいです!

あとそろそろ、noteを続けていく上での軸を考えないとなあ。今のところ軸として、「自分の心に潜って考えたことを、文章で届ける」にしようと思う。よし、さっそくプロフィールも変更だ。

物理や数学の記事も、気分転換でたまーに書くかもしれないです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?