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【気軽に書評】『フランス柔道とは何か 教育・学校・スポーツ』星野映, 中嶋哲也, 磯直樹編著, 青弓社, 2022年.


以下文中で示している頁数は電子書籍版によるもの。

フランス柔道とイギリス空手

 イギリスで空手のフィールドワークを始めたのが今年の4月だった。この本が出版されたのが6月、私がこの本の存在を知ったのは7月だ。この本のおかげで、イギリスの空手をどのように研究対象にしていけばいいのか、道しるべと言ってもいいくらいとても参考になった。
 フランス柔道とイギリス空手という、ばってんに交差しているかのように共通点が無い感じがするかもしれない。でも、この本の存在を知った時すでに私はイギリス空手のもろもろをいくらか体験し、現実の怒涛の波にのまれて溺れそうになっていた状態で、後述するように考えるヒントがたくさん詰まっているこの本が浮き輪の役目を果たしてくれたのだった。
 この本を手に取ったのはそれだけが理由ではない。
 Layton, Cliveという人が2007年に書いたThe Liverpool Red Triangle Karate Club, KUGBという本の中で、1957年にリバプールで初めて空手が紹介されたのは、イギリスへ柔道を教えに来ていた著名な柔道家であるKenshiro Abbeによってである、と書かかれてあったのだ(Layton, 2007, p.15)。その弟子のひとりとして、パリで空手の稽古をしていたプロの柔道指導者Bellという人も、イギリス空手の礎をつくった一人として登場する。ともかく「柔道」や「フランス」とのつながりについても調べなくてはいけないな、とは思っていた。『フランス柔道とは何か』にも安部氏は登場するのだが、1951年に講道館から指導者として招聘された一郎であってKenshiroではない(p.129)。兄弟かいとこかもしれない。
 そもそもの話し、イギリスよりも先にフランスにおいて空手がいかに浸透していたかについて、本書の記述「空手は、フランス柔道の第一世代の一人だったアンリ・プレによって一九五三年から指導が始められ、五四年にはプレがフランス空手同盟を設立していた」(p.185)によって初めて知ったのだった。

フランス人に柔道をさせる動力はいったいなんだろう?

 そういうことで私の場合、この本に飛びつく理由はいくらでもあったのだ。それはともかく、フランスにも柔道にも興味がない、という人もいるだろう。でも、「日本」や「日本的なもの・こと」が、いかに熱心に外国で受け入れられているのか、ということだったら少し知りたくないだろうか。いやそれならアニメとかジブリとかMANGAとかSushiとかOzuとかKittyとかBaby Metalがある、となるかもしれない。たしかに、ポップなものも含む日本のカルチャーが、海外でいかに受け入れられているのか、という研究も本もある。
 でも、時に痛い思いもしながら汗まみれで同じ動作を繰り返し身体を酷使するような稽古を何年も、たまに日本語も使いながら道着まで着て帯締めて、場合によっては「あれ?なんでこんなことやってるんだっけ?これやって何になるの?」とすら思わせかねないかもしれないことをやるようフランス人に仕向ける、その動力はいったいどういうものか、どのように駆動してきたのか、という素朴な疑問や関心もまた別にありうるだろう。
 もちろん本書に書かれているのは、「やっぱり日本すごい」という単純な話しではないし「フランスに比べて日本は遅れている」というありがちな話しでもない。「柔道には日本に特有なものと外国のものがあるという考え方に私たちは同意しない」(p.9)という言明が端的に示しているように、柔道の真正性(authensity)を探し求めたり、ましてや柔道とJudoを単純に比較するといったことを本書は目的としていない。

読みやすい学術書

 言うまでもなくこの本はれっきとした学術書だ。それぞれの専門分野を抱えた学者たちが書いている。でもこの本では、理論的な話が切り詰められている。社会学の本や論文だと、どういう理論的枠組みで分析するのか、どんな先行研究を参照して書いているのか、といったことの提示が重要とされている。それは否定しないし、本書がそれをまったく抜きにして書かれているとも思わない。しかし、そういうお作法を最小限にしつつ具体的事象の分析に徹しているから、この本を手に取った読者は「知りたいこと」「読みたいこと」にたどり着きやすい。五人の著者による10章構成の本書は、多角的な視点を提示しつつもミルフィーユのようにひとつにまとめられている。執筆者たちがもともともっている学術的バックグラウンドはもとより、フランス柔道に関する分厚く入念な調査や議論がもとになっているから読みごたえもある。

柔道の教育化と大衆化

 さてこの本の大きなテーマは「教育」である。柔道がいかに教育に組み込まれていったのか、あるいは柔道がなぜいかに教育化していったのかということは、柔道の大衆化に結びつく。
 そして本書の中では、その流れをどのようにつくっていったのかについて、たとえばフランス柔道をめぐるさまざまな組織の誕生、併存、対立、分断、合併、といった生々流転の歴史が語られる。そして、組織的な発展と継続という意味で「両輪」が必要になってくる。片方は、オリンピックでメダルをとったり世界チャンピオンになるようなエリート選手を数多く誕生させる分厚い基盤をつくり、アスリート育成機関として先鋭化させる「競技化」と「国際化」である。もう片方は、ちびっ子とその保護者をもターゲットとしてレジャーとしてすそ野を広げる「大衆化」だ。要するに「競技としてのレベル向上」と「教育的な効果の強調」の間のバランス、あるいは力関係が重要になってくるのだ。
 いずれにしても競技人口の増加が目されることになるわけだが、そのことによって増えたニーズに合わせた指導も必要になってくる。たとえば「四、五歳向けの『発育柔道』」(p.189)といったような、各年齢の身体能力に合わせた指導法の発案と工夫もそうだし、子どもに柔道を習わせている保護者向けのエクササイズ「タイソー」もそうだろう(p.17)。

柔道の「コード・モラル」と「ブランドイメージ」

 このような一般にスポーツに求められるような身体的技術的ニーズだけが柔道に対してあるわけではないし、それだけが柔道の売りではないと目されている、というところがこの本の真骨頂である。それだけだったらべつにサッカーでもやってればいい話しだ。柔道をめぐっては、礼節などを含む道徳的あるいは倫理的価値づけもまた、親が子どもに柔道をとおして施したい教育内容に含まれるし、あるいは競技人口獲得のための「教育的効果の喧伝」のためにもまた重用されることになる。
 そこでフランス柔道においては、新渡戸稲造の『武士道』をルーツとしつつも「現代的な西洋社会に適合させ」「若者や子どもが理解できるように単純化させた」、「礼儀」「勇気」「友情」「誠」「名誉」「謙虚」「尊敬」「自制」の八つからなるコード・モラルが1985年に打ち出されることになる(p.192)。このことをして本書は「『柔道=教育的なスポーツ』としてのブランドイメージ」(p.193)と述べる。そしてこの時期を境にして、さまざまなブランディング戦略がとられていくことになるのだ。
 このようなブランドイメージの確立に、「日本」を象徴するもろもろが貢献していることも否めないだろう。「なんかJaponな感じがする」あるいはもはや「なんか知らんけど東洋的だ」くらいのふんわりとした知識やイメージも柔道のブランディングを支えているのではないだろうか。(私の知るイギリス空手の事例で言えば、各道場・クラブのロゴマークや道着に日の丸のデザインがあしらわれていたり、イギリス空手の礎を築いたとされる日本人の肖像が道場や試合会場に掲示される、といったような「日本」ルーツを確認させるモノが、空手界の随所に埋め込まれている。しかしここで私が言いたかったのは、そんなことよりももっともっと「ふんわりとした知識やイメージ」がいかにブランドを支えているかということなのだが、ここでは割愛する。)

スポーツであってスポーツでない要素

 ところがこれは「フランスだから」ということでもないのだ。日本においてもまた、2008年に中学校の体育の授業で柔道を含む武道が必修化された際に「よりどころを古来の修養主義的性格に求め」「伝統性を主張するための予定調和の産物だった」(p.218)という。
 フランスにおいても日本においてもいずれにしても、幼児から中学生を含む子どもたちの参与をうながす仕組みに、柔道のもつスポーツであってスポーツでない要素が活用されたのだ。さらに言うなら、スポーツには無い要素を柔道に対して過剰に読み込むことで、柔道教育が成立しているのだ。
 とはいえ「スポーツと(学校)教育の結び付きが弱いフランスで『教育的なスポーツ』という柔道のイメージは、日本以上にインパクトが大き」かったかもしれないが、日本において例えば礼節を説いたとしても「スポーツマンシップとさして変わらなかったのではないだろうか」とも指摘されている(p.274)。
 以上のように教育を切り口として柔道を議論する本書では、先述したように四、五歳くらいから中学生くらいを指導対象とする柔道界の説明が中心となっている。経営的な意味でも競技人口という意味でも、まさにその年齢層がボリュームとなってフランス柔道を支えているといっていい。そしてその人たちがタイソーを含む柔道界に組み込まれていく動機として、先述したコード・モラルによる「ブランドイメージ」が大いに作用しているということのようだ。

私の関心との関連性メモ

 本書を読んで私の関心にひきつけて考えたことを、簡単なメモとして以下書いておく。
 いずれにしても、さまざまな意味で「日本のモノ」だという理解の浸透と強調はイギリス空手にも共通している点については少し先述した。これに関連して、「黒帯」のもつ格上を示す象徴的機能は一般的に広く知られていると言っていいだろう。(5歳くらいの子どもを初めて空手の稽古に連れてきた母親が「それでどれくらいで黒帯になれるんですか?」と指導者に聞いたりする。ちなみにその時聞かれた指導者は「人によって違うし黒帯になってからもまだまだ昇段試験があるのです」と応えていた。)
 ちびっ子の競技人口が経営を支えているという点も共通しているし、それはつまり親が子どもに習わせたがるということであり、やはり「礼節」を教え学ぶ場である、という理解が共有され浸透しているということだろう。
 「段位が単にその人の強さを示すものではないという認識」の共有も共通している。本書では「競技力が高くなかったとしても、技術が優れていれば昇段することができる」(p.61)ことをその理由として挙げていたが、このことも教育的効果の話しと関わってくる。帯の色は稽古を重ねた年月を「ある程度」表示するモノであり、それだけモラルもまた身につけていると想定されるからだ。帯の色はもちろんここで、白や緑や紫や黒のことを意味しているのだけれどそれだけではない。黒は黒でも長年同じ帯を締めていると、だんだん擦り切れて白っぽくなってきたりする。つまり、帯の状態によってもまた格の違いが示される、ということもある。

違いについてのメモ

 違いについてもメモしておこう。
 まずあげられるのが、統一的な組織とそれによる管理の有無、という点だ。空手の場合、全国的なレベルでひとつのきれいなピラミッドにはなっていないどころか、小さいピラミッドが乱立しているという感じだ。空手をめぐる組織は柔道よりもはるかに生々流転の分断と分断と分断の歴史を繰り返している。だから、それぞれのピラミッドの頂上で「世界チャンピオン」が誕生することになる。断る必要もないだろうが、どっちがいいとか悪いとかという話しではまったくない。
 ということはつまり、それぞれのピラミッド内において指導者資格、選手養成、試合形式、練習内容、昇段試験などといった細かい組織運営に直接的な違いが出てくる。この意味で「フランスの武道に関する段位は行政命令によって規定されてい」(p.55)るというのは興味深かった。そして以上のことは「正統な組織」がいかに成立するのか、そしていかにその外部をつくり出すのかという関心につながっていく。できるかどうかはわからないが空手界の総体をつかもうとするならその外部の考察も必要かもしれない。
 以上はとにもかくにも、オリンピック競技としての定着と歴史の有無の圧倒的な違いが関係している。フランス柔道に限らず、柔道界においてオリンピックというのは最大最終の到達点になるのだろう。(私の周りの空手家たち数人の話をここでしてもしょうがないが、日本人もイギリス人もあまり2020東京オリンピック空手についてそれほど興味をもっていなかった、というのが記憶として残っている。)
 最後に。本書の中でもFFJDAによるテレビコマーシャルやポスター、コミックを使ったメディア戦略について言及があった(p.193)。後に政治家になったYawaraちゃんのこともあるし、古いところでは柔道一直線もあるのだが、メディア化という意味でもブルース・リーにまでもたどれる空手の方がポップカルチャーとの親和性が高いのではないだろうか、と考えたりもした。いやそれは今のところ私のあいまいな印象レベルの話しだし、将来的な話しとしてもこの点について柔道と空手を比較することに意味があるとは思っていない。しかし、本書によってブランディングという知見を得たことにより、映画やゲームやそれこそアニメ、Japan Festivalの出し物としての空手、絵本、音楽といったポップカルチャーとの親和性について考えてみたりもした。

動力についてのさらなる考察

 とはいえ、「あれ?なんでこんなことやってるんだっけ?これやって何になるの?」とすら思わせかねないかもしれないことをやるようイギリス人に仕向ける、その動力についてそんな「ふんわりとした知識やイメージ」だけで説明できるとはさらさら思っていない。
 もっと身体的な実感、確実になにかが身についているという感覚についても、黒帯になってもずっと続ける人びとのこともふくめて考えなくてはいけない。
 このことについては、またあらためて書くことになるだろう。

 この本を読むことで、読者はさらに「フランス」や「日本」「子ども」「教育」「学校」「武道」「体育」「スポーツ」「柔道」「オリンピック」について考えるだろう。
 この本のあとがきに「本書の特徴は、これまであまり紹介されてこなかったフランス柔道の歴史的・社会的な背景の詳細な検討だろう」(p.280)とある。それにプラスして本書の特徴は、フランス柔道をとっかかりにして、読み手がもつ問題関心に火をつける点にありそうだ。



写真:John Rylands Library(2022年7月4日)【気軽に書評】の第一弾ということで好きな図書館の写真をカバーに選んだ。

 


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